『アメリカ語ものがたり』

ビル・ブライソン著 『アメリカ語ものがたり』




言葉というのものが歴史や社会と切り離されて存在することは有りえない。「アメリカ語」の歴史を扱う本書も当然ながらアメリカ史でありアメリカ社会史、文化史という面も持つことになる。「ピルグリム・ファーザーズ」から始まり原著刊行時の現在である1990年代前半まで、硬軟取り合わせたブライソンの英語、アメリカ語にまつわる博覧強記が披露されるとともに、抱腹絶倒奇想天外、珍妙な、あるいは意外なエピソードの数々も楽しめる。


ピルグリム・ファーザーズはアメリカ合衆国にとって最重要といっていい神話の一つである。でメイフラワー号での上陸のイメージを決定付けたのは、「壮挙に遅れること二世紀、五〇〇〇キロ近くも離れた国に住む(おおげさに吹聴するにしてもやはり)想像力にやや乏しい詩人によって書かれたものである」。

ウェールズ人のフェリシア・ドロシア・ヘマンズは「一度もアメリカに行ったこともなければ、この国についてほとんど何も知らなかったらしい」。1826年にヘマンズが食料品店で買い物をすると、包装紙に2年前の新聞が使われていた。そこにあった「プリマスで開かれた建国の父たちの記念集会を報じる小さな記事」を目にとめ、『(ニューイングランドへの)ピルグリム・ファーザーズの上陸』という「韻のふみかたに難のある」、洗練されているとは言いがたい詩が書かれた。プリマスは詩にあるように「最初に大地を踏みしめた土地」ではなく四番目でったし、すぐ近くに穏やかな入り江があるにも関わらず「プリマスの岩」に上陸したなどということも有りえないが、「今日までアメリカ人はメイフラワー号の上陸と聞けばこの詩をもとに心に描いたイメージを想い起こす」。
まさに神話は神話なのである。

ピルグリム・ファーザーズが現実的な生活能力に事欠く人々であったことは有名だろう。先住民たちが親切にも食料を分け与えてくれて、農耕や狩猟を教えてくれていなければ、すぐに全滅していたことは確実だ。ではこの時、両者はどうやってコミュニケーションをとったのだろうか。答えは英語である。というのも、1620年の「「新大陸」は、もうそんなに新しくもなかったのである」。

「初期の探検家たちはときにインディアンをヨーロッパに連れて帰ることがあった」。1605年にはスカントという先住民が、自らの意思によるものかは不明だがイギリスに渡った。スカントは様々な職を転々としながら9年間イギリスで過ごし、1613年にジョン・スミスの航海に通訳として加わり新大陸に戻る。スミスはスカントを解放し自由の身としたが、彼は故郷の仲間と再会したのもつかのま別のイギリス人に捕らえられ、マラガで奴隷として売られてしまう。苦難の末1619年に探検隊に加わり故郷に戻るが、この間におそらくはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘のために、スカントの部族の仲間は全滅していた。このような悲惨な目に合わされたにも関わらず、スカントは「ピルグリム・ファーザースと寝起きを共にするようになり、翌年に熱病を患い慌しく息を引き取るまで、忠実な教師、通訳、大使、そして友人の役柄を一手に演じきった」。
こうして「新世界での英語の未来は磐石のものとなった」のであるが、ご存知の通り、ピルグリム・ファーザーズの末裔たちは先住民に対し、まさに恩を仇で返す仕打ちをすることになるのであった。


アメリカ史に残る言葉といえば、独立宣言や合衆国憲法と並んでリンカーンのゲティスバーグ演説もそうであろう。もちろんこれらについても詳述されている。

リンカーンは「文章のスタイルこそ洗練された見事なもの」であったが、「ひとたび口を開けば」、「よう(Howdy)」、「あすこ(out yonder)」、「ゆっくりしてけや(stay a spell)」といった「開拓地の無骨な響きが残っていた」。

「この日中心となる演説を行ったのはリンカンではなく、雄弁家で鳴らしたエドワード・エヴェレット――当然ながら東部人である」。エヴェレットは古今の文学作品の引用をはじめたっぷりと装飾をほどこした演説を実に2時間に渡って繰り広げた。これに対しリンカーンは、「甲高い声」で、「原稿と首っぴきでほとんどわき目もふらずに」、かの有名な演説を二分とほんの少々で終えた。「数人の目撃者の証言するところでは、公式カメラマンがまだカメラの準備をしているうちに、大統領は着席してしまった」。リンカーンは「しくじった、しくじった。ほかになんとも言いようがない」とエヴェレットに愚痴り、シカゴ・タイムズには酷評され、リンカーンに好意的であった新聞ですらこの演説にほとんど関心を払わなかった。「アメリカ人の演説としておそらく最も偉大なものとみなされるようになるのは、かなり後のことである」。

言葉からもリンカーンの変化に注目できる。就任演説ではthe UNIONを20回使ったが、「統一された国家を意味するnationは一度も口にしなかった」。「南北戦争以前にはひとびとはアメリカ合州国のことをthe UNIONと呼びならわしていた。この語には各州の連携は自発的なものだという言外の意味がある」。しかしゲティスバーグの演説の時期になると、nationを五回使っているのに対しunionは一度も使われなかった。


このように固い歴史も扱われているが、笑える逸話もいたくさんあり、中でも抱腹絶倒なのが地名に関する章だろう。アメリカ人はこの「新大陸」で、地名、そして州や町や村などに大量の名前をつける必要に迫られた。

大虐殺を扱った『ガートルード・オブ・ワイオミング』という抒情詩が絶大な人気を博すと、各地にワイオミングという地名が誕生することになる。ワイオミング州もその一つだが、「言語学的にはこの地域とこれといった縁はない」。「もっとばかばかしい」のがアイダホ州で、19世紀に「下院議員を務めていたお歴々の耳には、いかにも響きのよいインディアンのことばのように聞こえた」ことから、「ぜんぜん意味がない」にも関わらずこう名づけられた。

ダラスという都市の名は「ポルク大統領のもとで地味に副大統領を務めた後、深い池に落とされた石ころのように歴史から姿を消した」ジョージ・ミフリン・ダラスにちなんだものだ。このように後になって振り返ると、なぜこの人の名にちなんだのかと首をかしげたくなるような地名がたくさんある。クリーブランドは「今では知るひともいないコネティカット州の弁護士モーゼス・クリーブランドの名をとったもので、このひとは町のある土地の所有者だったけれども、せっかく自分の名がついた町ができたというのに面倒がって生前一度もここを訪ねていない。デンヴァーはカンザス準州の知事の名をもらった。こうしたひとびとは別に大都会の名になるほど立派な人物と崇められていたわけではなくて、名前がついたあとで町や村が大きくなったのである」。

また「町名を考えるのが役場や大きな組織ではなく、住民の自由に任されると、もっと溌剌として面白みのある名前のつくことが多いようだ」。
こうして「Murder's Gulch(殺し屋渓谷)」や「Dead Mule(死んだラバ)」、さらには「Two Tits(双オッパイ)」、「Shit-House Mountain(糞小屋山)」などなどこの手の地名が大量にあったが、「後にいつのまにか別の名前に変えられていることが珍しくないけれども、その理由はいちいちここで詳らかにしなくてもいいですね」。

テキサス州の「Good Night」や「Humble(謙虚)」、「Oatmeal(オートミール)」のように謎めいているように見えるが実際は単に人名にちなんでいるだけということもある。アイダホ州の「Riddle(なぞなぞ)」も人名由来なのだそうだ。

また20世紀に入ると「Xray(x線)」、「Radio(ラジオ)」、「Gasoline(ガソリン)」といった名前を付ける(あるいは改名する)というブームが訪れたが、「幸いなことにとぎれとぎれで、大流行する兆しはない」。
カンザス州の「Bee Pee(蜂のしょんべん)」は「物笑いの種になる心配のない名前に変えることにした」のだが、「選んだ名前はシボレー(Chevrolet)です」。
「町が名前を変えるなんて珍しいと思うひともあるかもしれないが、これが意外によくある」。ペンシルヴァニア州スクラントンは実に八回も改名をしているが、最初の名前は「Skunk's Misery(スカンクの受難)」だった。中にはアリゾナ州にあった「Swastika(鉤十字)」を「Brilliant(素晴らしい)」に変えたという例もある。まあこれでは変えるのは当然にしても、新たな名前がそれですか、という気もしてしまう。

また付けられそうで付けられなかった名前というのもある。「アイダホは下院議員のあいだで不思議なくらい、神秘的とも呼べる人気を博して」おり、「ことば自体にはなんの意味もない」にも関わらず、1890年にアイダホ州として名づけられるまでに41年もの期間に何度も新たな州の名前の候補になっていた。アイダホが消えると今度はGadsoniaが浮上した。これは1853年にアメリカがメキシコからニューメキシコとアリゾナの一部を買収した際に交渉、締結にあたったジェイムズ・ガズディンにちなむもので、アリゾナ州はガゾニア州であったかもしれない。ニューメキシコが州となる際にはハミルトン、リンカンなども候補にあがったが、その中にアコマ(Acoma)という名も提案されていた。「アコマはこれといった意味はなく、ただアルファベット順に州名を並べるときに一番になりたかったにすぎない」。


町名でさえくるくる変わることがあるのだから、言葉の意味も変わっていくことになる。英語自体が複数の言語が組み合わさって形成されていったものであるが、「アメリカ語」となるとその傾向はさらに強まる。オランダ語でソースの一種を指すdoopは、1807年に元の意味を保ったまま綴りだけdopeになった。1851年には「知的な鋭敏さに欠ける人」、1870年代には「潤滑油の一種」、1889年には「麻薬全般」、1900年には「競走馬の走りっぷりを加減する薬」、1910年には「内部情報」と意味がつぎつぎに変化して使われていき、1896年にはdope friend(麻薬常習者)、1933年にはdope addict(麻薬中毒者)としても使用されている。

その他にも数限りない言語から借用し、独自の意味に変化していった言葉も多いが、ある時期まで「黒人のもたらしたことばでアメリカ英語となったものの数はとるに足らない」と主張する人が、学者の中にも多数いた。アクロバティックな論法まで用いて黒人由来の言葉であることを否定したが、「重要なのは、とにかく語源は黒人自身ではなく、どこかよそにあるとすることだった」。

このように、アメリカの歴史をたどることは差別の歴史をたどることでもある。
「過去二〇〇年というもの、何世代ものアメリカ人たちは、各地の港にぞくぞくと到着する貪欲な外国人の大群によって、故国が今にも社会的混乱に陥り、やがては破滅すると思いこんできた」。
19世紀になるかならぬかというころに、「トマス・ジェファソンはすでに移民を規制すべきだという声に、「荒野に暮らす野蛮人たちでさえこの地にたどりついたわたしたちの祖先を篤くもてなしてくれたというのに、窮状を逃れてきた不幸な逃避者たちにすげなくしてよいものだろうか」とかすかに悲哀を漂わせて応えている」。助けてくれた先住民を「野蛮人」呼ばわりしているように、こう憂いたジェファソンも、「底無しに放蕩」な移民によって合衆国が「ばらばらで支離滅裂な烏合の衆」になってしまうのではないかと恐れた。こうして人種や民族についての蔑称もまた数多く生まれることになる。

1890年代には「ヨーロッパのなかでも貧しい地域からの移民の流れに弾みがつき、まるで洪水のように押し寄せてくると、人種差別意識は相手かまわず激しさをまし、しかも社会の各層に広く浸透する」。
人種差別団体や移民抑制を訴える団体が乱立し、「無制限に移民を受け入れれば、国民性の希薄化や頽廃につながると「科学的」な論拠をもとに主張した」、マディソン・グラントの『偉大な人種の衰亡』がベストセラーになった。

「「無知蒙昧なDagoやPole、HumやSlavひとり残さず」、そしてアメリカに押し寄せる「ヨーロッパの屑のような罪人たち」すべてに選挙権を与えることに反対した全米保護協会のウィリアム・J・H・トレイナーの発言は、アメリカに蔓延する気分を代弁したものだった。こうした心情は大衆に限らず、かなり社会的な地位のある人の共感も呼んだ。移民抑制連盟にはハーヴァード大学、スタンフォード大学、ジョージア工科大学、シカゴ大学の学長、そして財務系の名門ウォートン校の校長が名を連ねている」。

20世紀に入っても、「今世紀アメリカに誕生した大統領としてはもっとも聡明だったとする説も多いウッドロウ・ウィルソン」も著書で公然とハンガリーやポーランドからの移民を中傷し、中国人は「市民としてではなく労働力としてなら、より望ましい」と書いている。ブライソンは触れていないが、ウィルソンはKKK礼賛映画でもある『国民の創生』を称賛したことでも悪名高い。これはウィルソンが当時においてとりわけ差別的であったというよりも、「もっとも聡明」とまでされる大統領であっても、これほど差別にどっぷりつかり、そのことに疑問すら覚えなかったとすべきだろう。

アメリカ下院ではディリンガム委員会という諮問委員会が設置される。1880年代までの主に北ヨーロッパからの移民は勤勉で上品でおまけにプロテスタントであるのでよかったが、それ以降に増えたヨーロッパ南部からの移民に対しては「教育がなく粗野で大半がやる気のない」非プロテスタントであり、「ドイツ系やスカンディナヴィア系の移民たちは農園を手にい入れ、生産力に富む構成員としてアメリカ社会の一翼を担っているのに対して、移民の第二波は施しを受けるばかりで、産業のもたらすせっかくの利益を帳消しにする働きしかしていないと報告書はきめつける」。
「その論拠として委員会はニューヨークで逮捕された容疑者の七七パーセント、なんらかの福祉援助を受けている者の八六パーセントは外国生まれであると指摘する。そして貧困層は圧倒的多数どころか、まず例外なく移民の出だという」。

これに対しブライソンはこう反論する。
「じつはあらゆる事実が逆の方向を指しているのである。アメリカが強大な産業国家になれたのは、特別な技能はないけれども順応力のある労働者が、低賃金でいくらでも利用できたからだった。半世紀以上にもわたってアメリカの産業界は外国生まれの労働者たちをあきれるほどの低賃金でこき使い、賃上げや労働条件の改善を求めようとすれば有無を言わさずに首にしてしまい、必要に応じてもっと従順な移民にとりかえるなどして好きなだけ絞りとっておきながら、今になって貧しいとか世の中から除け者にされているといって非難するのだ。悪の道に走ったり、公的な援助を求めたのは大量にやってきた移民のなかのほんの一握りにすぎず、ほとんどは誠実でよく働き、進んで法のさだめに従おうとするひとたちであるという事実にはそっぽを向いてしまったのである」。

20年以上前に出た本で100年ほど前のことを語っているのだが、まるで現在のアメリカをめぐる議論のようにも思えてしまう。

この後、「無分別という酸素を吹き付けられて燃え上がる炎のように、アメリカは移民ばかりではなく、反体制的な言動に見境なく過敏に反応する時代に突入する」。1918年に施行された騒乱条例では「政府の財政支出や、YMCAさえ批判することが違法化され」、市民の自由は今や地に堕ち、警察は騒乱の恐れのある者を日課のように逮捕するのはもちろん、刑務所に面会にきたひとまでかたはしから拘留した」。
このthe Sedition Actの施行から100年後の2018年に、似たようなことが起こるなど有りえないとは言い切れない状況になってしまった。

19世紀に「アメリカ党(American Party)」という、「政党であると同時に秘密結社」でもある党があった。「政党の意図を説明するように求められたときに、党員は「何も知りません(I know nothing)」と答えるように指示されていた」ため、「無知党(Know-Nothings)」と呼ばれた。「いったい何をするつもりなのかと問われて返事をしないのでは、とても広範な支持は得られそうもないと思うでしょうが、さにあらず、無知党は反移民、反アイルランド系、反カトリック系意識にこりかたまった狂信的なグループから圧倒的な支持を受けて、できたての共和党を一時乗っ取り、アメリカ政界に定着しそうな勢いを示したこともある」。

このように「トランプ現象」というのは「新しい」どころかむしろ昔からしばしば起こっている、極めてアメリカ的事象であるとすることもできるのかもしれない。アメリカは変わったし、変わらなかった。すくなくともここ数十年は、それをほのめかすようなことはあっても(例えばレーガンにおける「福祉の女王」など)、アメリカ社会は直接に差別発言をする政治家を大統領候補にすることさえ認めなかった。アメリカ社会の変化とすべきか、変化できなかったとすべきかはどれだけのスパンで見るかであるが、少なくとも先の大統領選では、少なからぬ州で、差別煽動を行うような人物を公職に就けることは許されないという意志を社会が失ってしまったとすることはできるだろう。


日本語でも「対立がエスカレートする」のように使われるescalateであるが、上昇なども意味するこの動詞をもとに新たな発明に対してescalatorと名づけられたのかといえばさにあらず、まず先にエスカレーターが発明され、それが動詞化し多様な意味を持つようになったのだという。このような雑学を拾いあげるだけでも歴史を学ぶことは楽しい。またアメリカに限らず政治や社会について考えるうえで、あまりに月並みであるが、歴史を学ぶことは欠かすことができない。このような二つの側面を持つ本書はアメリカについて考えるうえでも、アメリカ(語)を楽しむうえでも、うってつけだろう。



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佐藤太郎(仮)

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