『外国語を学ぶための 言語学の考え方』

黒田龍之助著 『外国語を学ぶための 言語学の考え方』




著者の本を読んでいる人なら勘違いすることはないと思うが、本書は言語学的な知見から効果的な外国語学習法を教授するといった類のハウツー本ではない。その代わりに、言葉というものに興味のある人なら肩がこらずに楽しめる言語学エッセイといった趣になっている。

とはいえ著者流のアドバイスもある。著者は留学しなければ言葉は身につけられないという発想に否定的であるが、それでも留学したいというのなら高校時代にすることを勧めている。

「教え子たちの中で留学の効果が感じられるのは、卒業が遅れるにもかかわらず高校時代に果敢に現地体験を果たした者たちに限られる。大学では留年に振り回されずに、じっくりと腰を据えて勉強ができる。大学生が海外で学びたければ、一、二か月の語学研修で充分である。いちばんいけないのが仕事を辞めて留学することで、わたしはくり返し諌めているが、残念ながら聞いてもらえない」。

このあたりは言語学者としてというよりも語学教師の経験論という感じだろうが、まあ確かにという気もしなくはない。


さらにはこんなところも。

「古典語嫌いだったことはことに有名」であるチャーチルのの『わが半生』にはこんなエピソードがある。

「七歳で学校に上がったとき、教師は最初にラテン語の第一変化名詞の表を渡して三十分で暗記するように求めた。ワケの分からぬまま暗誦はできたものの、それが何のことだかチャーチルにはさっぱり理解できない。いったいどうしてmensa「テーブル」に呼格形があるのか」。

「でも何で『テーブルよ』なんていうのでしょう?」と、どうしてもわからないから、なおしつこくきいた。
「『テーブルよ』というのはテーブルに祈り、テーブルに呼びかけるときに使う」 これでも私がわからないらしいのを見て、先生は「テーブルに話しするとき、使うのさ」と言われる。
「そんなばかなこと」私は衷心、びっくりして口をすべらした。
「生意気言うと罰しますぞ。ほんとうに厳罰に処しますよ」というのが先生の最後の回答であった。


なぜテーブルに呼びかけあければならないのかというチャーチル少年の疑問はもっともであるし、先生のとにかく覚えるべきことはごちゃごちゃ言わずに覚えろという回答もどうかと思うが、しかしテーブルに呼びかけることのできる呼格形のあるラテン語というのも悪くはないようにも思える。

ともかく、チャーチルのラテン語嫌いはこれで決定的となり、名門パブリック・スクールの入試では「答案用紙に名前と番号しかかけないほどだった」という。もっともそれでも合格してはいるのだが。

しかしチャーチルはこのおかげで、英語を徹底的に鍛えられることになった。「普通の英文なら、その基本構造を骨の髄まで徹底的に覚えた」そうだ。ではそれをいかにして学んだのか。

「かなり長い文章をとって、それを黒、赤、青、緑のインキでいろいろの構成分子に分ける。主語、動詞、目的語、関係節、条件節、接続節、離接説など! みなそれぞれの色彩をもち、それぞれ括弧に包まれる。それはまるで、一つの練習問題のようで、毎日のようにおこなわれた」。

これって今や悪名高きとしていいであろう品詞解剖そのものではないですか。複数の色を使い分けて括弧で区分するなんてところも予備校の英語の教え方っぽい。訳読、品詞解剖といった教え方はすっかり悪者扱いされているが、これが役に立つということはノーベル文学賞受賞者のチャーチルが証明しているのですよ! とまで言っていいのかはわからないが、英語の読み書きの技術ということではちゃんとした教え方をされればかなり役に立つことは確かだろう。


このエピソードが紹介されている第五章は「大切なのは過去」と題され、ロビン・ウィリアムズ主演の『いまを生きる』を教え子から勧められて見たというところからはじめられる。著者は「文学や詩の大切さを説くところには共感」しつつも、自分は「伝統を重んじる常識派を自認している」ので、キーティング先生に似ているとされる一部の声には「あまり納得できない」としている。

『いまを生きる』は若い頃に見たら、「自分の学校にもあんな先生がいてくれたらなあ」と思う人が多いだろう。しかしある程度年をとってから見返すと、確かにキーティングの情熱は素晴らしいが、彼の教え方はともかくその内容はほんとうに肯定すべきものなのだろうかと、疑問が湧くことになるかもしれない。ロビン・ウィリアムスの訃報を聞いて見返したときに、僕はこのように思えてしまった。

キーティングは文字通りに型にはまった文学の教え方を否定するのであるが、若い時というのは確かに「型」に拒否感を示し、「文学ってこんなものなの? ほんとうはもっと自由で楽しいものなんじゃないの?」となりがちなのであるが、年をとってみると逆に、「若い頃にきちんとした『型』を身につけておけばなあ。教養のある人はそのあたりの基礎体力が違うんだよなあ」という後悔にかられることともなる。外国語を学ぶ際の文法と同じことで、教え方が悪く退屈で無意味に思えるのと、学ぶ必要がない無意味なことを因習によって無理やり叩き込まれることとは区別しなければならない。

キーティング先生が創意工夫をこらして授業を進めるのはいいのだが、「型」というのを否定的にとらえるのではなく、「型」を身につけたからこそかえって自由な表現が生まれたり、優れた読み解き方ができるようにだってなるのだといったあたりに導いてくれれば、それこそ理想の先生であったろうに。

チャーチル少年には無意味なように思えたかもしれないが、「ラテン語を身につけておけば英語をさらに奥深くまで理解できるようになるんじゃないかな」と伝えてあげたいし、何よりも20年前の自分に「古典語をやれるのなんて今だけだ、汝この機会を無駄にするなかれ」と言ってあげたかった。チャーチルのせいで、「古典語は嫌ってもいいという免罪符が与えられた」のかもしれないとなると、ノーベル文学賞も罪作りなことをしたものよ、とも思えてくる。


ノーベル文学賞といえばこんなものもある。著者は昭和三十年発行の雑誌を読んでいたら、「新語辞典」なる流行語を解説する記事に「ツケマン」なる言葉を発見する。「ツケマン、放火犯人、つまり火をつける人の意もあるが、この場合、女のあとをつける男である」とし、記事はある文学作品を例に出す。

「川端康成の近作「みづうみ」に典型的なツケマンが描かれている。主人公桃井銀平がそれで(……)何しろ、女学校の教師をしながら、生徒の後をつけたり、行きずりの人のオメカケや、十五歳の美少女のあとをつけたり、ともかく全篇これ、見事なるツケマンの記録に終始している」

今となっては「ツケマンなんて聞いたこともないし、調べてもどこにも載っていない」言葉なのであるが、当時「一時的に流行ったのか。それとも取り上げてみたものの定着しなかったのか、それすら分からない」もので、言葉というのは新しいものを追いかければそれでいいというのではないことを表している。

いい年になっても「間違いなくストーカーのことである」人物を主人公にした小説を書く川端康成は……さすがであるとしておこうか。


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佐藤太郎(仮)

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