『プラハの墓地』

ウンベルト・エーコ著 『プラハの墓地』




1897年3月のフランス、モベール広場から始まる。カメラ・アイの舐めまわすような描写が続き、読者は古道具屋へと案内される。「高級骨董品売買」を謳っているものの、「一見すると面白そうだが、よく見れば、かなり安値に値切ってもまともな買い物にならないものばかりだ」。視点はさらに店の上階の住居へと向かう。部屋着をまとった老人の肩越しに覗き込むと、彼は今にも何か書き出そうとしている。<語り手>は<読者>に、「私たちはこれからそれを読んでいくことになる」と語りかける。

この老人、シモーネ・シモニーニの綴る日記によって、19世紀半ばから後半にかけてヨーロッパで巻き起こった陰謀の数々が辿られることになり、そしてそれは20世紀、いや人類史上最大級の惨劇へとつながっていくこととなる。

幼少期から祖父によって反ユダヤ主義を叩き込まれたシモニーニであるが、彼の悪罵の対象となるのはユダヤ人に限らない。スペイン人、クロアチア人、ジプシー、ドイツ人、フランス人、果ては自らがそうであるイタリア人にも我慢がならないと言う。人種や民族に限らず、イエズス会やフリーメーソンも彼の罵詈雑言の相手であり、シモニーニが唯一安心して夢中になれるのは美食だけだ。文書偽造を生業とするこの世を拗ねた老人、何も信じず悪態の限りを尽くすこの男ほど、『シオン賢者の議定書』の作者にふさわしい人物はいないだろう。日記は分裂をしながら、シモニーニの生い立ちからイタリア、フランスで繰り広げられる陰謀の数々、そしてついに「史上最悪の偽書」が生み出されるまでが描かれる。

<語り手>が読者に呼びかけたり、けばけばしい物語展開は19世紀小説の形式の模倣であり、陰謀論というテーマと合わせて、これはエーコが得意中の得意とするものである。エーコはまたユーモアの人でもあるが、本作は他の作品と比べると暗さという点で際立っているかもしれない。巻末の「博学ぶった無用な説明」でエーコ(<語り手>や括弧付きの「作者」としてではなく、やはりエーコとすべきだろう)はシモニーニを除く主要登場人物は全て実在であるとしており、この中にはシモーネの祖父カピタン・シモニーニも含まれているとする。さらにシモニーニにしても、「異なる何人かの人間が現実に行ったことをまとめている以上、コラージュの産物としてではあるが、ある意味で存在したと言える。むしろ、実際には、今でも私たちのあいだに存在している」とまで書いている。通常であればこれらは小説の一部として、その効果を高めるためのレトリックの一種だとすべきだが、本作においてはエーコの生の声であろう。


シモニーニはデュマの『モンテクリスト伯』を検討する。「よく考えればデュマは何ひとつ新しく考えていなかった。バリュエル神父が明かしたと祖父が言っていたことに、物語の形式を与えたにすぎない。こうして私は、陰謀の暴露話を売りつけるためには、まったく独自のものを渡すのではなく、すでに相手が知っていることを、そしてとりわけ別の経路でより簡単に知っていそうなことだけを渡すべきだと考えるようになった。人々はすでに知っていることだけを信じる、これこそが<陰謀の普遍的形式>の素晴らしい点なのだ」(p.99)。

シモニーニが偽書を作成する際に参考にするのはウージェーヌ・シューの『民衆の秘密』をはじめとする小説であり、その内容は、他ならぬ『シオン賢者の議定書』がそうであるように、荒唐無稽なものとなっていく。しかし「 人々はすでに知っていることだけを信じる」。言葉を変えれば、自らの偏見に添うものであれば、それがどれほど馬鹿げたものであろうとも、人々は信じてしまうということでもある。

『シオン賢者の議定書』が偽書であることは繰り返し指摘されてきたが、そのありえない内容にも関わらず、これを真に受ける人は多数いた。これらの人々は『シオン賢者の議定書』に説得されたからというよりは、もともとの偏見に合致するものであるから受け入れたのであろう。こうなってしまうと、どれだけ論理を尽くそうと、証拠を見せようとも、「ユダヤ人とはそういうものだ」で片付けられてしまうだけとなってしまう。さすがに現在では『シオン賢者の議定書』を本気で信じているのは極めて例外的な存在であろうが、では『シオン賢者の議定書』を信じてしまう心性は過去のものとなったのであろうか。

ある人物はこう語る。

「私はユダヤ人を殲滅するつもりはありません。ユダヤ人は私にとって一番の同盟者だと言ってもいいくらいです。私が気にしているのはロシアの大衆感情で、民衆が皇帝に不満を向けないように願っています(というか私が仕えている人たちは、そう願っています)。彼ら民衆は敵を必要としています。昔の貴族がやったように、モンゴル人やタタール人を敵に仕立てるのは無駄です。敵として認識され、恐れられる敵は、家のなかか、あるいは戸口にいなければなりません。だからユダヤ人なのです。神の御恵みで彼らが我々に与えられたのですから、利用しましょう。恐るべき、そして憎むべきユダヤ人がいつでもどこかにいることを私は祈っています。民衆に希望を与えるために敵が必要なのです。愛国主義は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のないひとほどたいてい旗印を身にまとい、混血児はきまって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々に残された最後のよりどころが国民意識なのです。そして国民のひとりであるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。市民の情熱として憎しみを育てる必要があります。敵は民衆の友人です。自分が貧しい理由を説明するために、いつも憎む相手がいなければなりません。憎しみが本当の根源的な熱情で、愛のほうこそ異様な状態なのです。それだからキリストは殺されました。自然に逆らって語ったからです。誰かを生涯愛し続けることはできません。そんな不可能なことを期待するから、不倫や母親殺し、友人の裏切りが生まれるのですよ……ところが、誰かを生涯にわたって憎むことはできるのです。その誰かがいつもそこにいて、我々の心を燃えたたせてくれるかぎりは。憎しみは心を熱くしてくれるものです」(pp.402-403)。

ヨーロッパ、アメリカ合衆国、東アジア、その他多くの地域の現在の政治・社会状況を考えると、「民衆に希望を与えるために敵が必要なのです」、「国民のひとりであるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます」、「 憎しみは心を熱くしてくれるものです」というのは、プロパガンダの手法としてこれらが過去のものだとはとても言うことができなくなる。

ここで注意すべきは、「自分が貧しい理由を説明するために、いつも憎む相手がいなければなりません」と語るこの人物がいったい誰のために働いているのかということだ。「民衆が皇帝に不満を向けないように」するために、「市民の情熱として憎しみを育てる必要があ」るという。そして「敵として認識され、恐れられる敵は、家のなかか、あるいは戸口にいなければな」らないのだと。
「愛国主義は卑怯者の最後の隠れ家」とはサミュエル・ジョンソンのあまりに有名な言葉であるが、まさに自らの権力を守るために、あるいは権力を得るために陰謀論を利用しようとする者は愛国主義をわめき散らすのである。


エーコの陰謀論への深い造詣は、彼がこれを「楽しんで」いるという理由もあるだろう。しかしエーコはそれに耽溺することの危うさも認識している。エーコのネタ帳を覗き見られるかのような楽しさを味わえる『異世界の書』には、陰謀論を弄ぶことへの警告も含まれているかのようだ。シモニーニはあらゆる人々に罵詈雑言の限りを尽くす、信じるものなど何もないかのような人物であるが、彼はまた反ユダヤ主義を幼少期から叩き込まれた人物でもあった。「ネタ」だからと笑って陰謀論を「消費」していた人が、気がつけばただの陰謀論者になっていたというのもよく見られる現象である。何よりもそうして「消費」される過程で多くの人の目に触れられることで、潜在的な偏見を刺激し、「確信」を深めるのに加担することにもなる。そしてそれを利用しようと、「愛国主義者」が手ぐすねを引いていることを、肝に銘じておかねばならない。エーコが最後に地の声で語りかけるのはこのためだろう。


粗野で下劣、政策的にも行き当たりばったりで支離滅裂なはずのベルルスコーニは長らくイタリアで権力を保持した。2010年にエーコにこの小説を書かせたのはイタリアのこの政治状況の影響もあったことは想像に難くない。そしてエーコ亡き今、この状況はイタリアに留まらず、世界中に拡散していっている。この流れにどうやって抗していくのかは様々な立場から意見があるだろうが、本作を含むエーコの晩年の仕事は、このために長年積み重ねた己の知識を捧げようとしたものだとしてもいいだろう。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR