『マッドメン』完走

ちょろちょろと一年くらいかけてドラマ『マッドメン』をついに完走。数々の賞に輝き批評家筋の評判も大変いいドラマであるが、確かに面白かった。




「マッドメン」とは「マディソン街(Madison Avenue)」の「広告屋(adman)」を掛け合わせた言葉であるが、「狂人」や「向こう見ず」といった意味もかけられているのだろう。準大手広告代理店スターリング・クーパー社の花形コピーライターにしてある暗い秘密を抱えるドン・ドレイパーを中心に、1960年代のアメリカと広告業界とを描いていく。なお「ドレイパー」という名字はモデルとなった50年代に活躍したDraper Danielsというコピーライターからとったそうだが、「ドン」という名前の方は『失われた週末』の主人公のドンと関係あるのだろうか。両者ともに作中での年齢がほぼ同じであるし、アルコールの問題を抱えているという共通点がある。

なんといっても時代設定が絶妙だ。大恐慌の記憶があり、第二次世界大戦や朝鮮戦争に出征した世代が働き盛りであるが(ドンも朝鮮戦争に行き、そこで……)、若い世代にとっては豊かなアメリカは自明のものであり、ベトナム戦争もまだ遠い。シーズン1はケネディ対ニクソンの大統領選挙が背景となるのだが、まさにこれはアメリカの、そして広告業界の変化を予告する選挙であった。ケネディの勝利を決定付けたのはテレビ討論だったとされるように、イメージこそが政治をも動かすことが改めて見せつけられ、その主役は活字や写真やラジオからテレビへと移っていく。


シーズン2だったか、ドレイパー一家がピクニックに行くのだが、ドンは子どもたちの目の前で、まるで見えないところに投げてしまえば消えてしまうかのように空缶を投げ捨てる。妻のベティはレジャーシートからゴミを払い落とすと、そのままゴミを放置して車に乗り込む。おそらくこの当時はゴミをこうして「処理」することが誰にとっても当たり前だったのだろう。
わずか50年ほど前と映るか、50年も昔の話と映るかはともかく、こうした当時の「常識」を見せられて現在の視聴者はぎょっとさせられることになる。

登場人物は男も女も(妊婦までも)、時と場所を選ばずに(映画館だろうがどこであれ)とにかくめったやたらとタバコを吸いまくる。仕事中にも酒(蒸留酒)をぐいっとやるが、こそこそ隠れ飲むのではなく当然のたしなみとしてであり、個室には酒が常備されている。女性たちは男性の従属的な仕事しかまかせてもらえず、男性社員は公然と女性社員を値踏みし、彼女たちを性の対象としてしか見ていないことを隠しもせず、仕事中に露骨にくどくばかりか、実際に行為に及ぶことまである。

そういえば、仕事から家に帰るとドンはまず一杯やるのであるが、その後手も洗わずにそのまま食卓につく。これはバーで酒を飲んでもカネを払うシーンが滅多にないのと同じように演出上の都合によるものなのか、それともこの頃は外出先から帰宅しても手も洗わずに食事をするのが普通だったのだろうか。当時は毎日風呂に入っているといえばかえって変わり者扱いされただろうし、手なんて目に見えて汚れでもしていない限り洗うものではなかったのかもしれない。アメリカにおける手洗いの歴史については何も知らないが、「手洗いの社会史」なんて研究も探せばどこかにあるのだろう。


1950年代、それは「古き良きアメリカ」の時代であった。60年代後半に55年の話題に出ると、ドンは「あの頃はいい時代だった」と言う。もちろんこれはあくまで括弧つきで、ドンを含めて都市部の白人男性にとっては、ということだ。男性は我が物顔で女性をモノ扱いし、シーズン前半で登場する黒人はほとんどがエレベーターボーイや家政婦であり、彼/彼女は白人に対し礼儀正しく従順である。すでに南部では公民権運動とそれへの弾圧が激化していたが、ニューヨークの広告屋にとっては知ったことではない。

地位と名声と高収入を得たドンと元モデルで金髪美人のベティは人もうらやむ理想の夫婦のように映っているが、実はベティの精神には暗い影が差している、といったあたりは『レボリューショナリー・ロード』を想起させる。ある種の人々にとっては豊かさと自由を享受できる素晴らしき時代と映る50年代は、別の人々にとっては抑圧と欺瞞の時代でもあった。

60年代はある人々にとっては自由とを求め解放のために闘った「政治の季節」であったが、50年代のアメリカを享受した人々にとっては素晴らしき時代が崩壊していくかのように思えただろう。この時代は急速にアメリカ社会を変えていくが、また全てがひっくり返ったのでもない。


『マッドメン』をまとめて見ると、なんといっても目を引くのがファッションの変化である。とりわけ若者の服装や髪型は、わずか数年でまるで別の国に来たかのように激変するし、中高年にしてもこの変化に引きずられていく。

前半ではマリファナは個人的なパーティーなどでまわされる程度だが、後半にいくと職場で公然と吸う者もでてくる(もちろん皆がそうだったわけではなく、広告業界ならではというとろこでもあろうが)。ゲイの男性社員は、自分のセクシャリティが露見すれば破滅だと思っており擬装結婚までしていたが、堂々とカムアウトする人が現れ衝撃を受ける。同時にゲイというセクシャリティは男性異性愛者のほとんどにとっては依然として忌むべきもの、あるいは嘲笑う「ネタ」であり、偏見そのものは一向に変化してはいない。前半では女性たちは常に男性の性的な視線にさらされ、時には暴力的扱いを受け、職場ではそれを受け流すのも仕事のうちであるかのようだが、後半ではこれに立ち上がることになる。しかし世の中はまだそれを受け止めるだけの変化は起こっておらず、旧態依然とした制度慣行考え方が残存されたままでもある。

ケネディ暗殺は共和党支持者にとってすらとてつもなくショッキングな出来事であり、マリリン・モンローの死はむしろ女性たちのほうが堪えたという描写もある。このように時代史、文化史として秀逸で、時代考証も一部で懐疑的な声もあるようだが(実際には黒人のコピーライターもすでにいたようである)、基本的には優れたものだとしていいだろう。こういうのを気合を入れて作りあげる時のアメリカのドラマや映画というのは本当にすごい。もちろんその分制作費は嵩むわけで、そういった事情もあることはわかっているが、日本の映像作品でファッション、音楽、映画、文学などの文化史を巧みに扱う映像作品が作られることが皆無とまではいわないが、あまりないのは残念なことである。


『マッドメン』を見始めてまず印象深いのが、ドンを演じるジョン・ハムの「大人感」だろう。シーズン1開始時にまだ36歳で、今の僕とほぼ同じなのであるが、にわかには信じがたいほどだ。現在の30代から40代のほとんどの人が、良きにつけ悪しきにつけ、「子どもの頃に思っていた3、40代と違う!」と感じているだろうが、これは精神年齢はもとより外見上でもそうだろう。東アジアだけでなく北米をはじめ世界各地のこの世代を見ると、50年前とは明らかに顔立ちからして違う気がしてくる。ドンが「大人」に感じるのは服装や髪型、物腰といった面もあるだろうが、では他の出演者が現在から見れば年齢不相応なほどの「大人感」をかもし出しているかといえば、そうは見えない。ジョン・ハムはすさまじく髯が濃いのであるが、こういった面も含めてやはり彼の個性によるものだろうし、彼なくしてはこのドラマの成功はなかったとしてもいいだろう。現在の30代で中折れ帽が渋く似合う人などそうはいない。もっともその分、若き日のドンを描いた場面では少々無理が生じているようにも見えてしまうのだが。後半になって雰囲気に年齢が追いついてきた感じになる。


こんなお茶目なことがでいる人でもあります。この曲が登場したエピソードを見た後、数週間に渡って耳にこびりついて離れなかった。可愛そうなサル……



若っ!




僕は経済小説というものをまるで読まないのでどういったものなのかよくわかっていないのだが、『マッドメン』はこういったジャンルのファンにとってもまた大いに楽しめるだろう。実在の企業名が飛び交い、広告代理店が顧客にふりまわされるどころか、クズとしか言いようのない要求まで呑まされることすらある(ジャガーのクソっぷり!)。このあたりは似たような話はあったにしても、特定企業と結びつく実話というわけではないだろうし、実話でないからこそ企業側も受け入れているのだろうが、日本でよくやる「毎朝新聞」みたいな架空の企業名でやられるより迫真性が増している。まあアメリカでも地上波であればさすがに無理だっただろうが。

『マッドメン』の肝となる設定が、スターリング・クーパー社が準大手広告代理店だというころだ。世間的には大企業であり、とりわけ経営幹部は経済的成功を享受しているのだが、マッキャン・エリクソン社(これも実在の企業が実名で登場する)のような業界最大手からすれば、スターリング・クーパー社など人にたかる蚊のようなものだろう(目障りでうるさいが、血眼になって潰しにいくほどではないとはいえ、下手を打つと危険な存在ともなりかねない)。スターリング・クーパー社は同業の最大手の攻勢をかわしつつ、独自性を残しながら生き残りを図っていく道を模索する。権謀術数、陰謀渦巻き、裏切りや打算によって味方が敵になり敵が味方になる。買収や合併が繰り返され、生き馬の目を抜く個人、企業の生存競争が繰り広げられる。

またドロドロの恋愛劇は「昼ドラ」的でもある。『マッドメン』は映画と比してどうというより、やはり優れたドラマとすべきであり、こういった形式は「ドラマ」として視聴者を引きつけるのにうってつけだろう。
一方で経済小説的抗争劇や「昼ドラ」的恋愛劇は型にはまりがちなものであるし、実際『マッドメン』も中盤以降は同じパターンを繰り返しながらインフレを重ねていくという、アメリカのドラマにありがちな悪いパターンに片足を突っこんだという感じもなきにしもあらずで、マンネリ化する前にこのあたりで切り上げたのは正解だろう。

視聴者がこの作品の主要登場人物に100パーセント感情移入することは難しいように作られている。主人公であるドンにしても、良い面を見ればいいのであるが駄目なところは度し難い。このように単純な勧善懲悪的な、あるいは成り上がり的ストーリーとは一線を画しているが、しかしまたドンを完全に悪魔化させたり、全く理解不能な人物にまで突き放してはおらず、またわかりやすい敵役や痛快に思える展開も用意されている。このあたりはブラックジョークやオフビート感あるジョークも含め、近い時期に製作された『ブレイキング・バッド』とも通じるだろう。ありきたりの展開ではもう視聴者を引き付けることはできないし、かといって完全に視聴者をドン引きさせてしまえば、それはそれで瞬間的な関心を掻き立てたとしてもシリーズを積み重ねていくことはできない。このあたりの匙加減というのが、現在のアメリカのドラマにとっては勝負の分かれ目になっているのかもしれない。


それにしても、2016年末になって『マッドメン』を見ると、少々複雑な気分にもなってくる。すでに書いたように、60年代というのは括弧つきの「古き良きアメリカ」が崩壊していく過程でもあるのだが、トランプ支持者にとっては50年代というのは括弧抜きで、そのまま古き良きアメリカと映っているのかもしれない。60年代後半から保守派・右派は60年代的理想主義を目の敵としており(これはアメリカに限らず、西ヨーロッパなどでもそうだ)、50年代への郷愁を煽り、これがニクソン政権やレーガン政権の誕生につながったようにかなりの成功を収めてきた。しかしさすがに時代は変わり、あの頃を「古き良き」などと語るレトリックはもう通じなくなっている……かに思えたところに、かつての白人男性中心社会を取り戻したいという層が吹き上がったのがトランプ現象の一面でもある。

僕なんかはドンを含めて(彼はまだマシなほうであるが)、こんな連中と仕事をすることになんて耐えられないと感じるし、男の僕からしてそうなのだから女性からするとなおさらのことだろう。しかしあのような職場環境を見て、あの頃は良かったと懐かしんだり、ああいった世の中が羨ましい、あの時代に生まれたかった、なんて感じた人がかなりいたのかもしれないし、そういった人は容易にトランプ支持に絡めとられていったことだろう。

『マッドメン』の影響で蒸留酒の売上げが伸びたなんて話もあるし、ドンの大胆不敵な行動や驚異的なプレゼン能力、そして苦みばしった顔でタバコをふかしながらバーで飲む姿を、「格好良い大人」として「ああなりたい」と思ってしまう感情が湧かないことはないが(どれも僕には欠けているものばかりだ)、それでもあの「格好良さ」を支える社会がいったい何の犠牲の上に成り立っているのかを考えると、「あの頃は良かった」などと言う気にはとてもなれない。『マッドメン』を見ると広告業界になんて絶対に関わりあいたくないと思うのだが、『ウォール街』を見てゲッコーにあこがれて金融業会を目指す人がいるように、「俺もあの世界の中にいたい」なんて涎をたらしながら目を輝かせてしまう人もいるのだろうなんて考えると、ちょっと憂鬱にもなってくる。

かくいう僕も中盤以降の新しいオフィスはなんだか落ちつかなくて、前のほうが良かったのになあなんて思えてしまったりもするし(オフィスが変わってからの方がむしろ長いのだが、オープニングで名残を見せられるせいもあるのだろう)、時代が変わるというのはまさにそういったことが日々突きつけられることでもある。そうなるとつい過去を美化してしまいたくもなるのだが、そういった誘惑に屈するとろくなことにはならないのである。


……で、ここからはファイナル・シーズンのエンディングを含め全体のネタバレ全開で書くので、未見の方はご注意を。




ドンは大きな仕事がしたいと、巨大な成功を渇望しているが、それはまたマッキャン・エリクソン社のような最大手に移籍して達成するのでなく、自分の力で成し遂げたいと思っている。スターリング・クーパー社とドンはこの点で利害を一致させており、マッキャンなど大手の圧力をかわしながら生き残りを図っていく。注目すべきは、ドンは業界で知らない人がいないくらいその才能を認められているのに、独立しようとはしないことかもしれない。彼には自分が経営や営業に向いていないということがわかっているが、ドンの名声を使えば能力と野心のある人間を集めることも可能なはずだし、そうしていれば会社は小さいながらも思い通りにやることができたはずである。結局はクーパーと、とりわけロジャーの庇護なくしてはやっていく自信がないのだろうし、また責任を負いたくない、常に逃げ道を用意しておきたいという気持ちも強いのだろう。会社と契約を結ぶことに対してあれほど拒否感を表し逡巡するのは、ドンが言うように自分が選ぶ方の立場でいたいからというよりは、逃げ道をふさがれ縛り付けられることへの不安がそうさせているかのようだ。

なんやかんやあって、結局はマッキャンによる友好的買収という形で決着を見る(またこれはロジャーがドンを守るために仕組んだことでもある)。「祝杯をあげたまえ」とマッキャン側はスタ-リング・クーパー社(もうそうではないのだが、面倒くさいので便宜上そうしておく)側の勝利なのだと言うが、彼らの狙いはシボレー獲得のチームであり、なかんずくドンの才能であった。それ以外のスターリング・クーパー出身者の多くはマッキャンで苦労を重ねることになる。一方長年狙っていたドンを獲得したことにマッキャン側は大喜びで、ドンも当初はそれに満足げであったが、実際に仕事を始めようとすると巨大企業の組織化され画一化された体質では自分の思うようにはやれないとわかり、断りもなく姿を消す。

これは例によって例のパターンで、何度目だよ!というところであるのだが(周囲にはとまどうよりも「またか」という反応も多い)、今回は違うことが起こる。アメリカ各地を放浪しながらドンは子どもたちと連絡を取っていたが、別れた妻のベティが末期の肺癌であることを知らされる。ドンは子どもたちを引き取りたいと申し出るが、ベティは自分の弟夫婦にまかせようとする。子どもたちに必要なのは母親代わりと「普通」の生活であり、ドンのもとではそれは得られないと言う。

トラブルに巻き込まれながら旅を続け、ドンはカリフォルニアの「姪」のもとを訪れると、彼女にヒッピー的、コミューン的なセラピーへと連れていかれる。ドンには心に傷を抱えた「姪」を救うことはできず、またドン自身も癒されることなくボロボロになり、かつての部下でマッキャンに移籍したペギーに別れを伝えていなかったからと電話する。ペギーはドンを心配し、あなたには帰る場所がある、マッキャンはまた受け入れる、コカ・コーラのCMをやりたくないかと励ますが、ドンは自分はもう駄目なのだと崩れ落ちる。

ベティと子どもたち、スターリング・クーパー出身者のそれぞれの新たな出発の姿が描かれる。そしてセラピーに残り瞑想を行うドンの顔がアップになると、彼は不敵な笑みを浮かべ、コカ・コーラのコマーシャルが流れて物語は終わる。





このCMは実際にあった有名なものであり、現実にもマッキャン・エリクソン社が製作を担当している。多様な解釈を許すオープンエンディングといえばそうだが、おそらくはほとんどの人が、ドンがここでコカ・コーラのCMのインスピレーションを得て、マッキャンに戻りこれを製作したと考えるだろうし、そうであれば非常にシニカルな終わり方のように映る。

最終回の一つ前のエピソードで終わらせることもできただろうし、ここで終わらせていればハッピーエンドとはいかなくともバディ・ホリーのEverydayが切なく流れる、きれいに収まる形になったはずだったが、やはりこのドラマらしく一捻りきかせたものにしてきた。




勝手に予想したのは、かつてドンはリゾートホテルのPRの仕事で入水自殺を連想させるようなポスターを作りボツにされたことがあったが、これが伏線になっていて、これをなぞるような形で、旅を続けているうちにふらりと海に向かい、一泳ぎしているだけとも身を投げたともどちらとも受け取れるという結末だが、見事に外れ。またあえてハッピーエンドにするならば、ロジャーとドンがいつものようにバーで飲んでいるが、二人が会ったのは実は数年ぶりのことで、会話が途切れたところでロジャーが広告業界に戻りたいなら何とかすると言うと、ドンはこれを断り、ディック・ホイットマンと名前の入った中古車か毛皮販売業の名刺(どちらもロジャーによって雇われる前にドンがやっていた仕事)を差し出して立ち去り、子どもたちを迎えにいくなんてのも考えたが、やはりそうはならなかった。


映画を見ているときはあまりそうは思わないのだが、シーズンを重ねたドラマだとついあの人には幸せになってほしい、どうかもう不幸が襲ってきませんように、なんて気分になってくる。『マッドメン』では幸福な再出発を迎える人もいるかと思えば、そうとは思いにくい中で結末を迎える人もいるが、ではドンの場合はどうだったのだろう。

ドンは終盤において、不安定でエキセントリックな言動が経営に脅威となるとして解雇寸前にまで追い込まれる。ドンがマッキャンに再び迎え入れられコカ・コーラのCMを担当したのだとすると、結局は彼のようなエゴイスティックな天才を金儲けの材料として使いこなすことができるのは、マッキャンのような巨大資本を持つ大企業のみであるということが示唆されているかのようだ。さらには、60年代理想主義に基づく多文化主義を称揚するようなイメージを使ったこのコカ・コーラのCMは、反体制、反資本主義、反消費主義であったはずのヒッピーに代表される60年代理想主義が、70年代以降はアップルをはじめとする大企業のイメージ戦略に回収されていくようになるのをシニカルに予告するようでもある。ちょうどシーズン1でのケネディ対ニクソンの大統領選挙が60年代を予告したものであったように。

イメージがもたらす差異の力を利用する後期資本主義社会はカウンターカルチャーですら呑み込んでいくし、コピーライターの仕事とはイメージの力を用いて人々を必要もないはずの消費へと駆り立てることである。

ドン・ドレイパーの正体はドン・ドレイパーではなく、ディック・ホイットマンであった。上に書いた「姪」とはディックの姪ではなく本物のドンの妻の姪である。ディックは悲惨な生い立ちと陰鬱な環境から逃れたくて朝鮮戦争に志願し、そこで身元取り違いを誘発させ、死亡したドンと入れ替わって新たな人生を踏み出していた。このため彼は常に自分の本当の身元が露見するのではないかと恐れ(また彼に気付いて訪ねてきた弟をすげなく追い返し、自殺に追い込んだことを後悔し続ける)、アイデンティティー・クライシスに陥り、女性やアルコールに救いを求め、状況をより悪化させていく。
僕が妄想したように名刺に「ディック・ホイットマン」と記せたとしたら、彼が繰り返し言う、「過去は捨てられる」、「前に進めば楽になる」のだという逃避をやめ、現実と自分自身を受け入れたということになるのだが、やはりドンはそうすることはできなかった。


複数のシーズンにまたがって断片的に、バラバラに語られるディックの物語を時系列順に直して再編集したものがあげられている。




このような設定はおそらくは『グレート・ギャツビー』をふまえたものでもあるだろう。貧しい生い立ちのジェイムズ・ギャッツはギャングと組んで(おそらくは)密造酒の売買によって富を築き、ジェイ・ギャツビーという新たなペルソナをまとって別人になり、かつて恋こがれたものの夢破れた憧れの女性と念願叶って結ばれそうになるが、現実に復讐される。ギャッツ/ギャツビーの場合は密造酒であった富の源泉が、ドンの場合イメージであり広告であるというのは時代の変化を象徴している。しかもドンの場合、ギャツビーと違い、彼が本当に何を望んでいるのかは、自分でもよくわかっていないのだろう。身元の露見を恐れるならば人前に出る仕事などすべきでないのに、彼ははっきりそうとは言わないが、やはりちやほやされるのを望んでいる。それは他人に自分が一角の人間であることを認めてもらいたい、認めさせたいということであろうが、では具体的にはどういった形になれば彼は満足するのであろうか。

ベティはモデル出身であり、次に結婚するメーガンは女優である。ジョーンが意地悪っぽく言うように、ドンが妻にしたがるのは人目を引くような派手な美人だ。彼は経済的には十分に成功しながら、さらに上を目指している。それは優れた広告を生み出すということなのだろうか、あるいはさらなるカネを手にしたいということなのだろうか、それとも美女を抱いて世間に向けてひけらかしたいということなのだろうか。ドンは飽くなき野心と破滅衝動との間を極端に揺れ動く。彼が幾度もふらっと姿を消してしまうのは、不安に押し潰されたり、自分が状況をコントロールできなくなることに腹を立てたりするということでもあるが、また望んでいたはずのものを手にしそうになった時に、それが本当に自分が望んでいたものではないという現実を突きつけられるのを恐れているからでもあろう。彼には本当に手にしたいものなど何もないのかもしれない。ここは自分の居場所ではない、自分にはもっとふさわしい場所があるはずだと思いながら、ここから逃れたいと望むことはできても、行きたい場所など現実にはなく、それを具体的に思い描くことすらできず、その結果自らを苦しめ、人をも傷つけていく。

逆にいえば、他人が作りあげた商品を自分が欲しいかどうかなど関係なしに人々に消費欲を喚起させることを狙うコピーライターは、ドンにとって天職なのかもしれない。彼がペルソナをまとってそれに満足しているうちは天才的能力を発揮するが、自分に正直になったり、現実を突きつけられたり、不安にかられると、顧客や消費者を(束の間の見せかけであろうとも)いい気分にさせるのが仕事であるコピーライターとしては致命的なミスを犯してしまうのである。


『マッドメン』は一つのメッセージに回収できるドラマではなく、いくつもの視点が用意されている。
マリリン・モンローのようなスタイルを持つ赤毛の美人のジョーンは優秀な秘書であり、また経営幹部の愛人であり、そしてコピーライターをはじめ数多くの男たちと浮名を流している。彼女は当初は自分の置かれた環境に強い違和感は覚えてはいないようだが、次第に能力に見合った評価をされないことにフラストレーションを感じるようになる。さらには地位と経済的成功を得る代わりに尊厳を傷つけられることまでしなければならなくなる。マッキャンに移籍すると経営陣の中では最も軽んじられ、女が上司などやってられないという男性社員に仕事を妨害されるが、助けを求めた相手からは性の対象としてしか見られず、この事態を解決しようと上層部に掛け合うと逆に脅迫され、退社に追い込まれる。現在ならば法廷闘争に持ち込まれるべきことであるが、当時としては泣き寝入りするより他なかった。それでも彼女は結婚という幸福を選ぶのではなく、自ら起業することを決意する。

当初ドンの秘書に配属されるペギーはその能力が認められクリエイティブ部門に移り、男性からのやっかみや嫌がらせにもめげずに、コピーライターとして自らの道を切り開いていく。

ペギー参上!




ついに保守的な広告業界でも黒人女性が秘書として雇用されるようになる。採用されたドーンは白人の機嫌を損ねたらすぐに仕事を失うかもしれないとびくびくしながら過ごしていたが、理不尽な扱いについに堂々と抗議する。

こう書くと男性中心社会を告発するフェミニズム的ドラマのように思えてしまうが、そうとばかりは言い切れない。
ドンの二番目(というか三番目というか)の妻となるメーガンは、彼のおかげで秘書からクリエイティブ部門へと移るが、それでも満足できずにやはり夢である女優になりたいと言い出す。ドンのコネをきっかけに成功に踏み出せたようだが、ドンとともにカリフォルニアへ移る計画が頓挫するなど二人の関係はうまくいかなくなる。結局二人は離婚することになるのだが、メーガンは完全に被害者面である。ドンの独占欲と自己中心主義に苦しめられたとはいえ、夫のカネで贅沢三昧のどんちゃん騒ぎを繰り広げたうえに仕事を得るために友人まで裏切ってドンの影響力を利用したのだから、「被害者面してんじゃねーよ、なんでこんな女に引っかかったんだよ、ドン」なんて気についなってしまうのだが、メーガンの最後など悪意を持って描かれているとしてもいいほどで、上昇志向が強く女を武器に男を利用しながら、うまくいかないとこれまた女を武器にして一方的な被害者と自分を位置づけて男を非難するというのは、「嫌な女」のステレオタイプとしてのミソジニー的キャラクター設計でもある。


涎をたらすなよ、ハリー……




このように60年代という時代についても両義的で、その理想主義や社会を変えていこうという動きを全否定しているわけではない一方で、揶揄的な描写も多々ある。もちろんこれは製作陣の政治観を表したものと言いたいのではなく、富裕層が群がる広告業界(基本的には共和党支持者の集まりであり、マイノリティーの苦境になどなんの関心もない)を描く以上こうなるのは当然といえばそうであり、むしろこのようなシニカルともいえる物語をどう受け止めるのか、視聴者側の視点のありかが問われるとしてもいいのかもしれない。数年前(つまりテレビのオンエアー時)ならきゃっきゃと笑いながら見ることができたであろう描写でも、今となってはう~むと考え込んでしまったりすることにもなる。


ロジャーのキャラなんて初登場時と終盤ではかなり変わったように思えるし(ただの嫌な奴という感じからしょうもない女好きだが憎めないという感じに変化していく)、基本的には悪役でありつつもそのへたれっぷりも会わせてどこか愛嬌のあるピートにしても、話の展開によってご都合主義的にドンとの距離感が変わりまくったりする(カリフォルニアでドンと再会したときに、握手しようと手を差し出したドンにハグをするピートは可愛くもある)。これは『マッドメン』に限らず、あのシーズンのあの出来事を忘れたのかよといった感じにキャラや人間関係が変化していくというのは長く続くドラマではやむを得ないだろう。

また重要な役割を担いそうな雰囲気で登場しながらたいして活躍しなかったキャラクターや、伏線を張っているかのような意味深なエピソードがどこにもつながらなかったりするのもそうだろう。
序盤でそれなりに大きな役割を担い、黒人の恋人ができて南部で公民権運動に参加するなどしたコピーライターのポールは、世代間対立として使えそうであるがあっさりと退場し、その後ヒッピー的な軽薄な東洋趣味を揶揄するようなエピソードで顔を出すだけ。ケンは小説家という一面はあまり生かされず(『ギャツビー』の作者フィッツジェラルドも作家となる前に一時広告業界にいたことから、そのあたりを絡めてくるかと思ったが、たいした話にはつながらなかった)、しかし退場したかと思えば復活し、それでいてキャラは最後まで定まらなかったようでもある。ダックは消えそうで消えず便利屋として居残り、やはり消えたかに思えて何度も復活するフレディだが、ドンやペギーへの貢献度を考えると彼についてちらっとでも何かあってほしかった。中盤以降コミックリリーフを担う秘書のメレディスはいつ退場してもおかしくない立場であったが、むしろ出番が増えていくというのは彼女のすっとぼけたキャラが使えると判断されたのだろう。


サプライズ!




ポールの代わりに現れたかのような、反体制的であり天才的センスを持つがエキセントリックなユダヤ系のコピーライターのギンズバーグは、その生い立ちの謎や変わり者の養父といったあたりは前フリになっていそうで、存在感をあまり発揮できないまま退場する。経歴詐称がピートにつかまれるという点ではドンを彷彿とさせ、ジョーンに接近し、セクシャリティやその過去についてもあれこれありそうなベンソンもフェードアウトして終わり。このあたりはレッドヘリング(注意をそらすための偽の手がかり)というよりも、何らかの意図を持って仕込んでいたことが不発に終わったのかもしれない。ドラマが継続していればそれが描かれたのか、製作側で膨らますことができなかったのか、あるいは視聴者などの反応によってストーリーを変えていったのかはわからない。このあたりは役者が降板を希望することもあるし、撮影スケジュールの関係やギャラなど制作費の問題も絡んでいるので一概には言えないし、熱心なファンならあれこれ裏話を知ってるのだろうが、さすがにそこまでは調べていない。

とはいえ(少々酔っていてその勢いとはいえ)こんなダラダラ書くつもりはなかったのにこうなってしまい、それでもまだあのキャラクターやらこのキャラクターやらまだまだあれこれ言いたいこともあったりするので、『マッドメン』にはやはりかなりハマってしまったのだろう。




プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

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