映画『ノルウェイの森』

別に義務感を感じる義理もないんですが、まあやっぱり見に行かねばまずいのかなあってなわけで見てまいりました。

まず始めに断っておくと、僕にとって村上春樹というのは特別な作家である。好きとか嫌いとかいう次元ではなく、僕の血肉になているような存在だ。
小説『ノルウェイの森』は、僕は春樹のベストとは考えていないが、同時に春樹にとってはある種特別な作品であったと考えている。そこらへんについては前に読み返した感想を書いたのでそちらを。→『ノルウェイの森』再訪その1その2その3

そんなわけで、幾度も読み返してる小説の映画なもので映画単体を公平に評することはできないし、するつもりもありませんのであしからず。

なおネタバレは一切気にしませんので未読、未見の方はご注意を。

映画『ノルウェイの森』は、結論から言えば「やらかして」しまっている。
見る前になるべくハードルを下げて、期待しないようにして行ったのだけれど、正直もう少しはマシなものかと思っていたのですが。

一般論としてあまりに有名な原作を持った映画というのは始めから無茶な戦いを強いられているといっていいだろう。原作の読者を気にしすぎれば映画の観客を置き去りにしてしまい、その逆にでてしまうケースも散見される。

長編小説を映画化した場合のありがちな悪いパターンは、原作を読んでいる人には端折りすぎに映り、未読の観客にはわけのわからないストーリーになってしまうものだ。
残念ながらこの作品も例外ではない。
もちろん全てを忠実に描こうというのは時間的に無理な話だ。そこで制作陣は決断を迫られる。原作に忠誠を誓うか、原作ファンからの悪罵を恐れずに「独自の解釈」を行うか。
本作は一見原作に忠実のように思われる。僕も途中まではこんなもんかな、という感じであったが、中盤以降おいおいの連発であった。
原作ファンとしては「そこカットするかい!」というポイントがいくつもあった。例えば直子がする井戸の話、ミドリの家で遭遇する火事、ミドリの父親とのキュウリのエピソードなど。一方原作を読んでない人には、全てがあまりに唐突であるだけでなく、カットしたために辻褄が合わなくなっているところがある。例えばミドリの父親ってウルグアイに行っちゃったはずがなんで病気で死にかけてんの、など。
その割には映画では必然性のない「突撃隊」を登場させるなどいったいどこ向いてんだか、という感じであった。

原作は一人称なうえ手紙が重要な役割を果たすためにナレーション処理は仕方ないと思うが、どうせナレーション入れるのならもう少し丁寧に入れるべきだだったのではないか。
とにかく全体として中途半端になってしまっている。

一番疑問を感じたのは脚本である。
監督・脚本トラン・アン・ユンとなっているのだが、おそらくはもとの脚本はフランス語で書いてそれを日本語にしたのだろう。
その翻訳者は原作のセリフをそのまま使ってんだからいいだろう、ということなのかもしれないが、当然ながら紙に書かれたものとしては口語的であっても実際に役者が実写でセリフにするとあまりに不自然であり、そういう部分が多すぎた。オリジナルの場面でも同様に原作を模しただけの妙な日本語になってしまっている。

さらに監督が日本語がわからないのだから、そこらへんのチェックというのはいったいどうなっていたのかというのも気になった。
基本的には抑揚を抑えた平板なセリフまわしで、それはそれでいいのだけど、しかし時折妙な抑揚が入ることがあった。意図的なものかは不明だけれど、もし監督がこれが自然な日本語だと思ってOKを出したのだとしていたらかなりの悲劇であろう。
僕は映画には詳しくないので、監督が母語以外で撮るケース(これ自体は珍しいことではない)で周りがどうサポートするものなのかわからないが、この作品に関しては完全に失敗しているといっていいだろう。

ついでに付け加えると、音楽はどこかでちょろっとでもいいので、やっぱりいしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」を使わなくちゃ駄目でしょ。もちろん日本でしか通じないし、音楽担当のレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが知るわけもないんだけど、時代考証にあそこまでこだわるのならこれも入れておくべきだと誰か進言すべきだった。まあしたけど断られたのかもしれないけど。

時代考証ついでにもう一言。この時代を描いたものといえば、この予算規模で若松孝二監督に『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』を撮らしてあげたかった。若松がそれを受けたかはわからないけど。

そもそもこの脚本って小説をちゃんと読めていたの?という気になってしまうのですよね。
『ノルウェイの森』とはいくつかの観点から読めるものだが、東京と阿美寮とは生者の世界と冥界との関係になっている。ワタナベは死者(キズキ)にとらわれたままの直子を救いに行くのだけれど、それが叶わないという構造になっていると僕は思っている。これは多くの神話にあるように冥府下り譚であるのだ。結局ワタナベは生者の世界にも戻りきれず、かといって冥界に向かうのでもない。
また人物は何人かパラレルになっていて、一番わかりやすいのが直子とミドリである。この二人が陰と陽の関係にあるのはすぐにわかるだろう。
そしてワタナベと永沢さん。永沢はワタナベの負の部分を拡大したような人間である。ワタナベは微妙な、ある種のシンパシーを抱きながらも彼を嫌悪する。実際永沢はそれを見抜いているセリフがあるのだが、映画ではそこのところが落とされているのでただの嫌な奴になってしまっている。
ここらへんの関係というものをバッサリやってしまっているので全てがあまりに唐突で必然性がないように見えてしまう。
この小説とは、前に感想で書いたように「奇妙」な話なのである。
ストーリーの表面だけをなぞると、親友が自殺してその親友の恋人と恋におちるのだけど彼女は精神を病んでしまい、結局彼女も自殺してしまう。その間に主人公は個性的な女の子と出会い惹かれて、最後に自殺した女の子の患者仲間の年上の女性と寝る、となる。
ケータイ小説も真っ青の展開だが、なぜこの作品が「奇妙」に書かれたのかとか、そこらへんについて詳しくは前に書いたものを参照して下さい。
とにかく、映画の脚本ではまさに表面だけなぞったものとなってしまっている。


こうやって書き続けるとキリがなくなってしまうので、重複する点が多くなるが、ここからは人物に注目していきたい。
全体に評価は辛いので各俳優のファンの皆様には前もってお詫びもうしあげておきます。
まあ役者というよりは脚本と演出が主ですが。

まず松山ケンイチ演じるワタナベ。これは十分許容範囲であった。ネットなんかではワタナベ役は若いころの西島秀俊という声を見たが、僕もそれに同意する。まあ現在の若手俳優の中では松山ケンイチがベターだったのではいかと思う。全体の描写もそれほど違和感はなかった。

菊地凜子演じる直子。まず菊地ではないでしょ、と思ったんだけどじゃあ具体的には誰というのは思いつかない。僕にとっては直子は頭の中でもあまり視覚化できない存在となっている。ただ菊地の直子にはやはり違和感が。菊地の問題というより演出として、一番のキーである「うまくしゃべられない」というとこをきちんと描けていないように思えた。直子が直面したのはコミュニケーションがうまくとれないことで、それは究極のコミュニケーションであるセックスをキズキとすることが出来ずにワタナベとしてしまったことに表れている。あとあまり取り乱すとこを直接描くと、普通に精神を病んでしまっただけとなって象徴的意味合いが薄れてしまうんだけどな。

さて、水原希子演じるミドリである。まず僕はこの小説の登場人物の中ではミドリが一番のお気に入りなのでより辛くなってしまう。評価は分かれるかもしれないが、僕はこりゃないわなと思ってしまった。
まず演出なのか知らんがなんで半笑いばっかりなのやら。直子とは逆に、むっとしたり怒ったり笑ったりとんでもない嘘をつたりというところを表情豊かに描くべきではなかったか。
ミドリというのは少女と少年と大人の女との三角形の上に危うく立っている存在だ。
最初の登場で髪が短いのは少年性の隠喩となっているし(映画ではもっと髪を短くすべきだった。あれじゃ単にショートカットなだけでしょ。『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグくらいにまでしなきゃ)、性を意識していないかのようにおおっぴらにエロ話をしてしまうのは少女性を、そして彼女が味わった辛酸は大人の女のそれでもある。またセックスはコミュニケーションでもあることから、エロ話はコミュニケーションへの渇望でもある。そこらの「あやうい魅力」というのが希薄だったかな。
彼女がワタナベに興味を持つのは授業で呼ばれてもあえて返事をしないところだが、そこもカットされてるんでなぜミドリがワタナベに惹かれるのかが全く説明されていない。また繰り返しになるが父親の病室でのキュウリのシーンもワタナベの「魅力」の実践例だが、そこもカットされているため、全体として彼女がなんでワタナベに惹かれてるんだかわけわのわからない人物になってしまっている。エロ話も一回だけそっとするだけで、これじゃほんとにただエロ話をしたいだけのようだ(海賊の妄想をカットするとは!)。エロ話は淡々とするんじゃなく、むしろ大袈裟に、大声でしなくっちゃかえってただの変態女だよ。原作を読んでない人には「ポルノ映画云々」もなんのことやらであろう。

霧島れいか演じるレイコさん。この映画で一番だめなのがレイコさん。これはおそらく皆同意してくれるだろう。ほんとにわけのわからない存在にしてしまっている。仮に原作を読まずに映画を見たら、僕はレイコさんというのは実在しないワタナベの見た幽霊なのではないかと思ったかもしれない。
レイコさんは直子にとってももちろんだがワタナベにとっても特別な存在である。彼女が過去を告白するのはそのことを端的に表している。あの長い話を入れるのが無理であっても何かしら心が触れ合うシーンを入れないことには。映画じゃただの患者仲間である。
またレイコさんのちょっととぼけたユーモアというのもほとんど描かれない。これじゃ魅力なんて感じろってほうが無理な話だ。
なによりもこりゃあかんわ!と思ったのが直子の「お葬式」をワタネベの借家でやるとこがカットされているところ。だいたいなんでワタナベはアパートに住んでるんだよ、一軒家を間借りしなきゃ。すき焼き食わないでどうするんだい。そしてマッチを擦りながら歌を唄わないと。
このレイコさんじゃ突然ワタナベを訪ねて彼とセックスだけやりに来たことになってしまう。直子を弔い、再出発への不安と希望が交差しているはずなのに、う~む。ついでにこの女優さんの演技力もう~むで。

玉山鉄二演じる永沢さん。これはすでに書いたけど、ワタナベのペルソナでもあることがほのめかされもせず。さらに悪魔的な部分というのもあまり描かれず。ただのいけすかないやりちん野郎になってしまっていた。せめてフィッツジェラルドについて語るとこなんかを入れてほしかった。原作ファンに目配せするんならこういうとこでしょ。

あとはついでとなってしまうが、こうなってしまったら思い切ってハツミさんは出さないという選択肢もあったのではないか。あれじゃただ嫉妬深いわりに男と離れられない人にしか見えない。これもやっぱり唐突に見えてしまうだろう。

んでもって、カットしまくってる割には「突撃隊」は出てくるのだけど、これも原作読んでない人にはお口ポカーンでしょう。カットすんならするし、出すんならある程度描かないと。
結局映画『ノルウェイの森』の失敗は「突撃隊」の扱いに象徴されているような。
原作に依存してる割には大事な部分を落としてしまってるんだよなあ。
はっきりいっちゃうとやっぱりフジテレビが作った映画だわな、という感じ。

ちなみに『風の歌を聴け』を映画化した大森一樹は「春樹本人は気に入ってくれた」というようなことをいってたように記憶してるが、中学の後輩に気を使ったとは思わなかったのか。これも結構すさまじいかったぞ。
この作品以降、春樹は自作の映画化の多くを拒んでいたわけだが今後はどうなるやら。
『トニー滝谷』はまずまずだったんだけど。

ふう、と。結局こんなに長く書いてしまったか。できるだけ短くまとめようと思って書き出したんだけど。まあこれも『ノルウェイの森』のなせる技なのでありませう。




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佐藤太郎(仮)

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