『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』その1

山際康之著 『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』





「巨人軍、タイガースなど七球団が加盟した日本職業野球連盟は、昭和一一年二月に旗揚げした。それは、まさに若手将校による二・二六事件の二〇日ほど前のことであった。この事件を起点に日本は軍国主義の道をひた走ることになるが、その後の職業野球の運命を暗示しているように見えた」。

「はじめに」にこうあるように、「職業野球」の誕生から昭和十九年の「休止」までの歴史は、戦争を抜きに語ることはできない。


昭和九年に行われた日米野球では、両チームの力の差は歴然としていた。そんな中、当時十七歳の沢村栄治が、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁する全米チーム相手に圧巻のピッチングを見せた。沢村のピッチング以外にも注目を集めたものがあった。日米野球を主宰した読売新聞の発行部数は大きく伸び、七十万部を越え東京市では朝日や東京日日新聞を抜いて一位となった。名古屋での興行権を譲り受けた新愛知新聞や、甲子園球場を持ちやはり興行権を得た阪神電鉄なども、その集客力を目の当たりにしていた。こうして職業野球は、順風満帆とは程遠い見切り発車的なものとなったが、なんとかスタートにこぎつけた。


昭和十二年七月十八日、防御率〇.八一、二十四勝という成績で最高殊勲選手に選ばれ表彰された沢村栄治の表情にはどこか影があるように見えた。数日後に徴兵検査が待っていたのだった。すでに中国と交戦中であり、合格はそのまま戦場行きと考えられ、死を覚悟しなければならなかった。この日行われたは「国防費献納東西対抗職業野球戦」だった。「連盟の理事、審判、そして選手全員が左腕に日の丸をつけ、「所沢航空隊の○○さん」といった普段では聞かれない場内アナウンスが流れ、異様な雰囲気を漂わせていた」。チケットは売り切れ、朝の9時には入場お断りの貼り紙が出された。日頃資金繰りに苦労していた理事たちは、試合後に集まった献金の多さを見て驚くことになる。この一ヵ月後の八月に、発足時から名古屋軍に所属していた後藤正が、職業野球選手として初めて戦死することになる。

沢村の徴兵検査はもちろん甲種合格であった。これが心理的に影響したのか、秋季リーグ戦では「沢村は人が変わったように不振であった」。「死の恐怖に怯えながら必死に投法の修正を行っ」ていた沢村について、ある選手はこの頃から「えらい足をあげて投げるピッチングを始めた」ことに気付いた。
秋季リーグ戦終了後、同じく入営の決まった捕手の内堀保と、もう会えないだろうと覚悟しつつも、「もう一度バッテリーを組もう」と約束して別れた。

日本軍といえば古参兵による新兵いじめの伝統で悪名高い。営門で記者に囲まれて入営してきた沢村などその格好のえじきとなってもおかしくなかっただろう。救いは「野球を通して上下関係のある集団組織での行動に慣れていたこと」だったのかもしれない。沢村は「初年兵の時は辛かったものの、「二年兵になってからは軍隊生活が楽しい」と思うようになり、「今の自分の生活こそ、私にとっては一番華々しい、そして一番印象深いもの」」であり、「出征してから野球のことはまるで忘れてしまった」とまでしている。もちろん戦時下の回想でありどこまで本音であったのかはわからないが、沢村は軍隊に順応しようとしたし、「そうした順応こそ、若者たちの意識を根本から破壊し、兵士に作り替えてしまうことを意味していた」。

軍にとっても知名度の高い沢村は利用価値の高い存在だった。沢村の手榴弾投げの様子は新聞が派手に書きたててくれる。職業野球の選手は手本として狩り出された。ウォーミングアップなしで投げれば肩を痛めることは当然だが、上官の命令には反射的に従うようになっている。「上官の命令を何もためらわず行動できるようになったのは、もはや兵士になった証拠である」。

そして中国に送られた「沢村が目にした戦場の光景は壮絶なものだった」。親しい戦友三人が戦死した。「戦わなければ、自らの命がなくなる」。戦闘が始まるとまず沢村のところに手榴弾が運ばれ、「敵前三〇メートルくらいのところまで行ってヂャンヂャン投げ」た。そして「白兵戦になって四十人ばかりみんなで突殺した」、「軽機の射手になって思う存分射ちまくって痛快」だったと振り返ることになる。あのはみかみ屋の青年の面影はもうそこにはないようだが、「その晩は夢見てヘンな気持ちだった」としているように、そうでも思わないことには正気が保てなかったとすべきなのかもしれない。沢村は「漢口攻略の大別山中での戦闘で、左の手のひらを撃たれた」。「投手としての右腕でなかったのが救いであるが、もはや沢村にとっては、野球のことよりむしろ生きていることの方が喜びであった」。

入営の日に除隊後は職業野球に復帰するのかと新聞記者に訊かれると「もちろんです」と答えた沢村であったが、「野球も家のことも、なにもすっかり忘れて兵隊になりきっていた」。それでも、除隊後は「とりあえず、上京して巨人軍に顔を出すことにした」。

復帰したはいいが、二年間のブランクは大きかった。無安打無得点を達成したこともあったが、全盛期には程遠く、かつての姿を知るスタンドからは「そのザマは何だ!」という野次まで浴びるようにまでなってしまう。

沢村の戦争はこれで終わったのではない。昭和十六年、ヨーロッパ戦線は拡大し、日本はアメリカとの緊張を高めていた。東条内閣が成立した十月、「多摩川の河川敷で練習をしていた際に、兵士たちを乗せた軍の列車がそばを通ったが、彼はそれを見て、「こんどは俺の番だ!」と呟いた。まさしく本当にそうなってしまったのだった」。

「わしゃ、運が強いから敵のタマには当たらん」、そう新婚五ヶ月の妻に言い残し、沢村はフィリピンへと送られた。

「ミンダナオ島に上陸すると、現地にいた日本人小学生に持っていた菓子をすべて差し出すなど心やさしく接した。しかし、戦火が激しくなるとそうした心の余裕はなくなり、目も血走っていく」。
マニラではホテルの厨房で日本人が惨殺されるのを目撃し、日本人女性への強姦が多発していると知ると、「再び鬼と化した」。「犯人を見つけるやいなや、「金網を丸めた棒切れで叩きのめした」」と、後に後輩の青田昇に語った。

再び生還したが、野球選手としての輝きは完全に失われていた。巨人軍の主将となったが、投手としてはまったく振るわず、代打として起用されても結果は残せなかった。彼の名が告げられると、「沢村か、駄目だァ」という声がスタンドから聞こえた。

昭和十八年七月六日の阪神戦、沢村は三週間ぶりにマウンドに立った。一回二死から四連続四球で失点すると、ニ、三回も四球を連発して五失点で降板した。かつての面影はなく、「力強く投げおろした投法は横手投げになり、足もあげなくなっていた。ほとんど腕だけで投げており、制球も定まらない」。
この日を終えて沢村の成績は0勝三敗、防御率一〇.六四。これが沢村最後の登板だった。

同年十月二十四日の阪神戦、二対二で迎えた延長十回表一死一、二塁で沢村は代打で起用された。初球を打つと打球は力なく上り、サードファールフライでアウト。これが職業野球での沢村最後のプレーであり、「三塁圏外区域の無為」で、「引ケ」と宣告された。

秋季リーグ戦が終了すると、沢村は妻の実家が所有していた大阪の自宅に戻り、「日本野球連盟関西勤労報国隊」の一員として関西の選手たちと川西航空機で働き始める。よく対戦した影浦将や坪内道典も一緒で、休憩時間に煙草を吸いながら話をするのが息抜きだった。しかしある日、坪内がまだ兵役に就いていないことを知ると表情を一変させた。沢村は「坪さんが兵隊に征かんうち、オレ絶対に行かへんで」と言った。「二度も召集されている自分に対して、いまだに兵隊に行っていない者がいることが信じられなかったのだ」。

坪内は徴兵検査の直前の試合で鎖骨を骨折し、そのせいか「甲種合格ではなく第二乙種合格となり、兵役せずに補充兵扱いとなった。それ以来、不思議なことに召集されることがなかった。休憩が終わると、三人はいつものように笑顔で職場に戻っていった」。
ここで沢村が坪内を愛国心が欠けていると吊るし上げるのではなく、「坪さんが兵隊に征かんうち、オレ絶対に行かへんで」と憤るところに、彼の本音があったのかもしれない。

昭和十九年になると球団は次々と解散していき、また選手も離れていった。巨人軍は他球団に在籍した選手は採らない方針であったが背に腹はかえられず、解散した球団の選手を採用することにした。「こうした動きにひとり取り残されたのが関西にいた沢村である」。

昭和十九年二月に、沢村は信頼していた鈴木惣太郎のもとに興奮した面持ちで表れると、「巨人軍から、なんの通知もないさかい出てきたのや」「ほしたら、もうきみはいらんというのや」とまくしたてた。そして産業軍と阪急からさそいがあるとまで言った。阪急の監督を務めていたのは、かつて巨人の監督を務めたこともあり沢村も慕っていた三宅大輔だった。鈴木は「巨人軍の沢村で終わるべきだ」と説得したが、沢村は巨人の仕打ちが許せない、他球団で見返したいと言い張ったものの、落ち着きを取り戻したが、その様子にはまだ迷いがあるようだった。沢村は関西に戻ると、再び工場で働き始めた。

職業野球は昭和十九年の総当たり戦の開催になんとかこぎつけたが、どの球団の名簿にも沢村の名はなかった。後楽園球場の二階席は高射砲を構え、さらには兵隊が外野のフェンス沿いに野菜畑をつくりはじめていた。球場の職員が芋やきゅうりなどのささやかな菜園をつくっていたが、それを見逃さなかった兵隊がグラウンド内にまで広げたのだった。外野に飛んだ打球が野菜畑にまぎれ込んで三塁打になってしまうという、「笑えない珍事」も起こった。

入場券の印刷もままならず、春季は「日の丸を赤色にあしらった二色の絵柄」であったが、夏季は「黒一色の文字だけ」となった。
産業軍監督の三宅は、「そんな粗末な券を持ってひっそり観戦していた沢村」の姿を見つけた。「なにをしている」と声をかけると、「毎日、工場で働いています。機械がゴウゴウと鳴り、真赤にもえた鉄が頭の上をとおり、野球よりよっぽど面白いですよ」と沢村は答えた。「危ないじゃないか」と三宅が言うと、沢村は「黙って下を向いた」。

西鉄から巨人に来ていた近藤貞雄と柴田崎雄が、野球を見に来ていた合宿所の娘と一緒に帰宅しようとすると、「いまどき、女づれとはなんだ」と憲兵から顔がはれるほど殴られた。「須田博」と改名させられていたスタルヒンが突然姿を消した。日本国籍を持っていなことからスパイ容疑がかけられ、以前「水道橋から後楽園球場へ向かう途中にかかる橋で、「船を見たら銃殺するゾ」と脅されたことがあった」。スタルヒンはそれ以来、「橋を渡る際には、眼をつむるようにしていた」が、監視の目はますます厳しくなり、ついに「外国人の強制疎開先に指定されていた軽井沢」に送られたのだった。

もう限界であった。最後の大会として「日本野球総進軍優勝野球大会」が開催され、 どの球団も九人集めることすらままならない中、それでも九日間で三万人以上の入場者があった。昭和十九年十一月、職業野球は休止を宣言した。

南海沿線の自宅近くの南海の車輌工場で働いていた沢村は、昼休みになると南海の選手と一緒に練習をしていた。工場を訪れた鈴木はこの沢村の姿が目に焼きついて離れず、後年「沢村は巨人軍で終始したということになっているけれも、一度南海にいった」、「最後に応召にいく前に南海へいった」、「巨人軍だけの沢村じゃない」と語ることになる。

昭和十九年十月、沢村に三度目の召集がかかった。沢村は「おい、行ってくるわ」と笑顔で家を出た。
「車で連隊の営門前まで行くと、沢村は、同行してくれた父に、これまで誰にも言うことのなかった巨人軍からの解雇の話をした。悔しさと悲しさから涙が止まらない。帰ったらもう一度野球がしたい。そうした願いを受け止めた父は沢村の後ろ姿を見送った」。

沢村を乗せた輸送船は屋久島の西約一五〇キロのところでアメリカ軍の潜水艦に発見され、魚雷攻撃を受け沈没、生存者はいなかった。


というところで長くなったのでその2に続く。
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佐藤太郎(仮)

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