『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』その2

山際康之著 『兵隊になった沢村栄治  ――戦時下職業野球連盟の擬装工作』





その1の続き。

サブタイトルに「 戦時下職業野球連盟の擬装工作」とあるように、本書は沢村栄治のみを扱ったものではなく、職業野球連盟がいかに戦争と向き合ったのかが描かれている。そしてその姿に「抵抗」を見出すかどうかは、人によって分かれるだろう。

昭和十六年、突如陸軍から呼び出しを受けると、「最後まで戦う姿勢をみせるべきだとして、引き分けの禁止やX勝ちでも九回の裏まで試合をするようにと強いた」。

「むちゃな要求に職業野球が潰されるのではと危機感をつのらせた鈴木龍二、赤嶺昌志らの野球連盟の理事たちは、ふと頭をめぐらせた。検閲の対象となったのであれば、軍は我々を潰そうとしているのではなく、むしろ国民に軍の意向を宣伝する媒体として利用しようとしているのではないか。だとすればここは、軍に協力姿勢を見せながら、こちらが利用することが得策である。こうして理事たちによる擬装工作が開始された」。

つまり、軍、とりわけ陸軍報道部に先回りして取り入ることでお目こぼしを願おうとしたのであった。
昭和十五年に日本相撲協会が満洲での準本場所開催を決めると、野球界もこの流れに乗り遅れまいと満洲行きを決めたように、お先棒担ぎの争いをしていたとされても否定はできないだろう。

鈴木と赤嶺の出会いの場面へと時間を戻そう。
職業野球発足時、関係者は当然野球経験者が中心だった。そんな中、「野球のヤの字も知らない」記者出身の鈴木が大東京軍に加わったのは、「記者時代に培った政治家、官僚、軍人などの人脈の広さを見込まれた」ためで、結果としてはこれが功を奏する形となった。

しかしこういう人物が現場に口を出すとロクなことにならないことも想像に難くない。大東京軍は慶応出身の永井武雄を監督に迎えたが、すぐに結果が出なかった。アマチュアの東京瓦斯と試合をすることになり、鈴木はしつこく永井に大丈夫かとたずねた。永井も苛立ち、「いかにも野球を知らないくせにといった口調で怒鳴り返した」。その試合はといえば、大東京軍がミスを連発しての逆転負け。この後売り言葉に買い言葉で、まだ公式戦すら始まっていなかったが、永井は「クビ第一号」となる。鈴木は新球場の建設には手腕を発揮したが、「永井という大切な野球人を失ったことにはまだ気が付いていなかった」。

また大東京軍はアメリカのジミー・ボンナという黒人投手と契約した。ところがこのボンナは、一か月たっての成績は〇勝一敗、防御率九.九〇と散々なものだった。鈴木はまたもかんしゃくを起こしてクビを宣告した。観客の小学生から「ボンナちゃん、ボンナちゃん」と声援が出るほど人気があり、しかも打者としては打率四割五分八厘を記録していた。打者として起用していれば人気と実力を兼ね備えた選手となっていたかもそれないが、鈴木にはそれが見えなかった。
なおこのボンナの帰国後の足取りは不明のようで、検索してみたが没年もわからない。1912年生まれということで存命中の可能性はないこともないが、厳しいか。

しかし鈴木のような人物だからこそ、赤嶺を見出したのかもしれない。職業野球発足間もなくの理事会、名古屋と大東京の親会社である新愛知新聞と国民新聞が同じ経営母体であることから、「名古屋と大東京はまさに兄弟である」とし、「八百長の恐れがある」と言い出した人物がいた。金鯱軍の理事の代理で来ていた赤嶺昌志だった。鈴木は激怒したが、赤嶺は一歩も引かなかった。他の理事たちにとっては暗黙の了解事項で、これ以上議論は進まなかったが、理事会は後味が悪いまま終わった。

その後名古屋軍は監督の離脱など混乱状態に陥る。しかし新愛知新聞の主幹の田中斉は、新聞経営に手いっぱいで野球に回すカネはなかった。田中は記者時代から鈴木の上司であり、鈴木は田中に頭が上らなかった。こうして鈴木は名古屋軍再建という無茶な仕事を背負わされることになったが、まずは資金作りよりも人を集めることを考えた。そこで思いついたのがあの赤嶺であった。赤嶺は金鯱軍や名古屋新聞の正式の社員というわけではなく、すでに球団から離れていた。鈴木はああいう人材は敵に回すよりも味方に引き入れた方が得策だと考えた。鈴木は名古屋軍の状態を包み隠さず話、立て直すのは君しかいないと説得した。断られるかと不安であったが、赤嶺は田中と同じ明治大学出身だったこともあってこれを快諾。こうして二人の共闘関係が始まるのであった。

二人の出会いや性格、関係というのは、この後を暗示しているように思えなくもない。


日米間の緊張が高まり始めると、日本にやって来ていた日系人選手たちは厳しい選択を迫られた。
サム高橋は「二世は徴兵猶予できることを知り、父親に手続きを依頼したのだが、「ベースボールで遊んでいるのに何を言うか」として、はねつけられ」、昭和十三年に日本語もろくにわからないまま入営したが、高橋は「日本精神の何んであるかを体得することが出来」、「麦飯の味も馴れたし、これからは真の日本人として更正」していくと決心したという。
テッド亀田は昭和十五年には二十四勝をあげ、奪三振一位にも輝いたが、翌年六月には弟を含む四名と共にハワイへ帰った。濃人渉は日米二重国籍を持っていたが、日本育ちであったことから日本国籍を選び、従軍して負傷したが、選手としての復活に成功した。阪神の投手若林忠志と捕手の田中義雄も日本に残ることを決めたが、田中は「二世は一ばん苦しい立場」としている。

三国同盟が結ばれアメリカとの緊張がますます高まると、ついに「日本語化」を求める声があがり始める。プレー・ボールを「仕合始め」、タイムを「停止」、ゲーム・セットを「仕合終わり」とすることなどはすぐに実行に移された。そして新しい規約で「日本人以外の選手の採用は、東亜民族を除き不可」となったことから、苦し紛れにスタルヒンを「須田博」に改名させた。名前にはいくつか候補があり、廣瀬武雄の名前にあやかって「廣」とする案もあったが、「藤原釜足のように国民的尊厳を軽視しているとして禁止されてはたまらない」と、「博」になった。

英語の球団名も日本語化されたが、元々日本語であった名古屋軍には変えるものがなかった。そこで赤嶺はなんとユニフォームの「名」の文字を鉤十字風のデザインにしたのであった。
またライオンがスポンサーについていたライオン軍も問題となった。契約期間が残っているうちは待ってもらうことになったが、胸から「LION」の文字が消え、無地のユニフォームを着なければならないという「みじめな姿」となった。そして当のライオン歯磨きがそのまま販売され続けていたにも関わらず、朝日軍と改名した。

試合前に手榴弾投げが余興として行われるようになり、「英米撃滅」と書かれた標識に向かって選手たちは手榴弾を投げた。なおアメリカでも眼鏡姿の日本兵の戯画に向かってボールを投げる余興が行われていた。ジョー・ディマジオの入隊などアメリカの野球の動きも傍受していた軍は、これを意識してかルーズヴェルト、チャーチル、蒋介石の藁人形を的に選手に遠投競争をさせてはどうかという提案を行っている。これには「子供だまし」「選手が肩をこわすだけ」と反発する意見が強かったが、その代りとして行われたのが選手が参加する銃剣術鍛錬だった。巨人の主将を務めていた沢村は先頭に立ってこれに取り組み、軍はご満悦で藁人形のことは忘れた。

「日本化」を求める声はますます高まっていき、ついに軍はストライク、ボールなどの用語も日本語をとするよう求めてきた。「強制するわけではない」、「変えることを期待する」だけだと言うものの、実質的には強制だった。ここで反発する声を押し切ったのは赤嶺だった。赤嶺はまたユニフォームを国防色のカーキ色とし、軍帽をかぶるようにも主張した。そして各地の工場を訪ねての慰問試合も行われるようになった。

昭和十四、五年には巨人はフィリピン遠征を行い、「比島ベーブ」と言われたアチラノ・リベラを入団させているが、この時は「日本に最も近い星条旗下に乗り込んで日比間の融和に貢献」しようとするものだった。戦線が南方に拡大していた昭和十八年にも職業野球の選手を派遣して地元チームと試合を行うという案が持ち上がったが、危険極まりないこの案は軍にコネを持つ鈴木龍二がなんとか回避した。


本書を読んでいて最も奇妙な印象を与えるのが赤嶺昌志だろう。彼は鉤十字風のロゴ入りユニフォームや軍帽をかぶることなどを進めた。表面上国策に迎合しているだけというよりも、ファナティカルな右翼のようにすら見える。しかし彼はまた、選手たちの徴兵回避のために様々な策を練ってもいた。

日中戦争が始まると、選手から「球団は何の手も打ってくれなかった」という恨み節が漏れた。そこで赤嶺は、「日大のボス」と呼ばれていた人物と渡りをつけ、選手たちを徴兵猶予のため大学へと送り始めたのだった。私立大学は「徴兵猶予の恩典在り」「徴兵猶予の特典」といった広告で学生集めをしていたこともあったが、さすがに日中戦争以降は表立った広告は控えられていた。それでも、「急増する徴兵猶予者は私立大学の経営を安定させるための大きな要素となっていた」。
これに各球団もならい、川上哲治は巨人に入団すると「大学に籍を置いて、兵役を延期しなければならない」と言われたという。こうして様々な大学に選手が籍を置くようになった。

野口二郎はできるだけ大学へ行くようにし、法政大学の夜間部で中等学校教員の資格を取っている(教員は大学卒業後も兵役が免除された)。日大に籍を置いていた石丸藤吉は弟の進一を名古屋軍に入団させる際に、「必ず夜学に通うこと」を条件にさせた。藤吉は進一がサボろうとすると尻を叩き、週に三日は出席させていた。一方で教練さえ受ければ籍は維持できるとされたことから、ほとんど授業に出ない選手も多数おり、川上もその一人だった。

さすがにこうまで目立つことをされては軍の監視を招く。南海にいた川崎徳次は二年次の学費を納めに行くと出席日数不足のためとして除籍を言い渡されると、すぐに「徴兵検査の通知が来て、待ち構えていたように甲種合格となった」。

柔軟な動きで「蛸」というニックネームを持つ中河美芳は、その一塁手の守備を見ようと客が来るほどだった。中河は関西大学を中退して職業野球に入ったが再び日大に入学したことから目をつけられ、下宿先に突然憲兵が押し入り本棚を調べられたこともあった。精神的に追い詰められた中河は「憲兵の目が……」とうなだれ、とうとう兵役を志願する。

川崎はビルマ方面に派遣され、マンダレーの戦地にいた。呼び出しがあったので誰かと思うと、巨人の吉原正喜だった。川崎と吉原は昭和十六年十二月八日に偶然会って酔いつぶれるまで飲んだことがあった。朝目を覚ますとラジオで真珠湾攻撃を知り、「こりゃあ、野球どころじゃのうなったバイ」となった。

川崎より一年早く入隊していた吉原は軍曹の分隊長になっていた。吉原はあんころ餅と小遣いの十円を渡すと、「明日また来るわい」と言った。翌日もやはりアメや餅を手にいっぱいにして、「かわいい弟に渡すかのような笑顔」を見せた。そればかりか、痔に苦しんでいた川崎のために薬まで持ってきてくれた。吉原は「明日もまた来る」と言ったが、川崎が彼を見たのはこれが最後になった。

沢村栄治とバッテリーを組んでいた内堀保ははビルマと中国の国境近くの騰越で「英軍の動きを探る任務に就いていた」。そこに豚をかついで来た兵隊が現れ、「内堀さんじゃないですか」と声をかけてきた。吉原だった。二人は入れ替わりに巨人の捕手を務め、ともに沢村の球を受けていた。吉原が「今夜はここで野営です」と言うと、内堀は「それなら、オレのテントに泊まれ」と誘った。吉原が缶詰を持ってくると、内堀も隠していた酒を開けた。朝まで語らい、「それじゃ、元気でな」、「内堀さんもお元気で」と言葉をかけ合って別れた。作戦のことは話さなかったが、「内堀は吉原がインパールに向かうのだろうと感じ取った」。


戦局は悪化の一途をたどり、ついに大学生の兵役免除が停止されることになった。昭和十八年十月に神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会には、石丸進一の姿もあった。
そこで鈴木龍二と赤嶺が考え出したのが、「選手たちを産業戦士として徴用工に仕立てることだった。軍の工場で平日は働き、休日に職業野球をするのである。軍の懐なら召集も免れるかもしれない」。鈴木は報国会を結成し、大政翼賛会に協力を求めた。さらに工場で働く選手たちを読売の記事にして軍のご機嫌をとった。沢村が工場で働いていたのもこのせいであった。

新愛知新聞と名古屋新聞とが合併し中部日本新聞社となると、赤嶺は親会社を頼ることはできなくなった。赤嶺は後楽園球場のそばにあった、「鉄砲や大砲の薬莢などを作っていた理研工業」に選手を引き取ってもらうことを決めたが、親会社は球団の権利が奪われると、いいがかりとも思える理屈で難色を示した。ここで喧嘩別れしては球団が解散して選手が路頭に迷うと、赤嶺は借用書を提出して選手の籍を理研工業に移した。中部新聞はほとんど球団を投げ出すような形になっていながら、このように権利を振りかざした。赤嶺は「せめてもの抵抗として、球団の名称を産業軍と改めた」。


東京大空襲から程なくして、理研工業にいた赤嶺の前にひょっこり石丸進一が姿を現した。海軍少尉となっていた石丸は休暇をもらい、東京まで出て、焼け跡となった街を二時間かけて歩いてやって来ると、「新しいボールを下さい。死ぬ前に思う存分ピッチングをして死にたいんです」と言った。赤嶺が渡せたのは粗末なボールだったが、石丸は嬉しそうにした。

石丸は特攻機に乗り込む前に、赤嶺からもらったボールで、「一球ずつ、感触をたしかめるようにキャッチボールをした」。石丸が出撃して三時間後、隊長機から「敵艦見ユ」という無電が入った。「それを最後に連絡は途絶えた」。終戦の約三ヶ月前のことだった。


戦後、赤嶺は選手たちの復員を待ち、選手たちは彼のもとに集まってきた。「しかし、「中日」と名前を変えた球団は、再開したリーグ戦での成績不振を理由に赤嶺を解任したのだった」。
選手たちは赤嶺と行動を共にすることにした。「赤嶺と選手たちは、チームを渡り歩き、セントラル・リーグ初の覇者となった松竹の優勝などを請け負った。組織に頼ることなく自らの思想を基にした独自の行動は、「赤嶺旋風」と呼ばれた」。

鈴木龍二は敗戦の年に日本野球連盟を立ち上げ会長となり、二リーグ分裂後はセリーグの会長を務め、野球殿堂入りした。鈴木は戦没した選手のために鎮魂の碑を建てたが、「碑に刻まれている名は判明している限りである。戦死した職業野球の選手のなかにはいまだ不明者が多い」。


鈴木や赤嶺が時局に迎合したところがあったことは否めないだろう。一方で彼らがいなければ、職業野球はもっと早くに休止に追い込まれ、また命を失った選手たちもさらに増えていたかもしれない。鈴木や赤嶺に批判されてしかるべき言動があったことは確かだろうが、少なくとも彼らなりの「抵抗」を試みたといえなくもない。軍や当局に協力することでお目こぼしを図るということでは『シンドラーのリスト』のシンドラーも思い浮かぶが、こういった人物をどう評価すべきかは難しいところである。


なお石丸を描いたノンフィクションとそれを原作に映画化もされているが、僕はどちらも未読未見なもので内容はわからない。





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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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