『須賀敦子の方へ』

松山巌著 『須賀敦子の方へ』




晩年の須賀敦子とも交遊があり、『須賀敦子全集』の編集委員も務めた著者が、幼少期からフランス留学に旅立つ頃までを須賀のゆかりの場所、人々を訪ねながら描いていく。

須賀が一般的にその名を知られるようになったのは『ミラノ 霧の風景』を61歳の時に刊行してからだった。これはもともとオリベッティ社の広報誌、「SPAZIO」に連載されていたものだった。著者は須賀が「ほんとうに信頼できる友人なの」と語っていた「SPAZIO」編集長鈴木敏恵に会う。「びんさんこと鈴木敏恵さんには、なん度か話を伺っているが、はじめて会ったときから、須賀ではなくともびんさんと呼びかけたくなる雰囲気を感じた。銀髪ながら男の子のような短い髪そのままに、さっぱりした気さくな人柄だとすぐにわかったからだ」。

須賀より一つ年下の鈴木は敗戦時に高等女学生だったが、自活の途を探るため文化学院で事務員をしながら同院で学び、卒業後もそのまま働くと文化学院の教師でエッセイや新聞の人生相談などで知られていた戸川エマの秘書になる。鈴木は多忙の合間を縫ってコピーライター教室に通い、成績もよかったことから広告代理店に就職する。「一九六〇年代初頭のはずだから、鈴木さんはいわばコピーライターの草分けである。その際、銀座にあった会社に和服を来て通ったとも語ったから私は驚いた。私が中学高校の頃で、もはや和服で企業に通う女性はいなかったと思うし、似合っていただろうが度胸があると思ったからだ。鈴木さんは、若かったのよ、と一言いって笑った」。

「そしてコピーライターの仕事が認められ、日本オリベッティ社の広報部に引き抜かれ、「SPAZIO」誌の創刊に携わる。創刊は七〇年だから、その直前といえば、須賀とペッピーノが、ヨーロッパを席巻し、コルシア書店を巻き込んだ学生運動のなかで、書店をなんとか維持しようと苦労していた時期だ」。

「編集長といっても、彼女一人だけで企画から原稿取りまでする。鈴木さんが、結局さ、だから年二回しか出せないね、といってまた笑ったから呆れた。「SPAZIO」誌はいわゆる企業広報誌ではない。宣伝臭は見せず、イタリアを中心にした世界の文化と芸術を伝える雑誌として、洗練したレイアウトから選ばれた寄稿者たちまで、その質は高く評価されてきた。ほぼ正方形の雑誌デザインはいまも新しい。おそらく彼女はすべて自分でやらなければ気がすまず、創刊から四十年、社会が変わり、オリベッティ社自体が変貌しても、粘り強く雑誌の高い質は保つようがんばり続けてきた。須賀が信頼するはずの気丈さと熱意が彼女には身についている」。

マッドメン』は60年代アメリカの広告業界を描いたドラマであるが、男尊女卑が当然の当時の社会において苦労を重ねる女性の姿も描かれている。日本版『マッドメン』なんて作られたら、和服姿で颯爽と現れる新人コピーライターが登場することになるのだろうか。

事業を営む裕福な家庭に生まれながらその生活が戦争で破壊され、戦後学業を再開しても、周囲からは明るく朗らかに映りながらも悩み多く、さらに父が愛人と出奔するなどの事件が巻き起こるなど苦労しながら自分の進むべき道を模索していった須賀の前半生は「朝ドラ」的なところもあるが、「びんさん」こと鈴木敏恵の人生というのもなかなかのもので、二人合わせて映像化なんてしてもいいのかもしれない。

映像化希望といえばなんといっても須賀とも親しかったナタリア・ギンズブルクの自伝的小説『ある家族の会話』であるが、須賀がまずこの作品を訳したのも「SPAZIO」においてであった。イタリアのブルジョワのユダヤ系一家がファシズムによって翻弄されていく姿を描いた『ある家族の会話』であるが、この作品で印象深く登場するのがアドリアーノ・オリベッティである。アドリアーノはオリベッティ社の御曹司にして反ファシズム運動にも加わり、独特の経営姿勢でオリベッティ社を成長させていくことになる。イタリアで裕福な家庭に生まれ左翼でありつつ実業家としても優れているといえばこちらに書いたようにフェルトリネッリがいるが、さすがにオリベッティは過激派として自らが仕掛けた爆弾で爆死するようなことにはならなかったが、それだけにイタリアでは広く尊敬を集める存在であったようだ。フェルトリネッリの伝記も邦訳されたのだから、アドリアーノ・オリベッティの伝記もいいのがあれば訳されてほしい。


それから本書で知ったことにはこんな話もある。須賀は「イタリア語の文章で最も素晴らしいのはダンテだけれど、現代作家ではカルヴィーノだと語」っていたそうだ。さらには「じつは彼の『木のぼり男爵』を訳したことがあるの、と話したので驚いた」。

須賀はフランス留学に立つ前、カトリック左派の団体であるカトリック学生連盟に加わっていた頃に有吉佐和子と知り合っていた。ローマオリンピックが開かれた1960年に、取材に来た有吉と取材団の通訳を務めた須賀は再会する。有吉が「ガス、ガス」と昔の綽名で呼んだので、事情を知らない人はびっくりしたようだ。有吉は「ガス、あなたほどの人がなにをやっているのよ」と、カルヴィーノの『不在の騎士』の翻訳を薦めた。須賀はより受け入れられやすいであろう『木のぼり男爵』の翻訳を行い出版を目指したようだが、これは実現しなかった。

須賀敦子訳でカルヴィーノの『木のぼり男爵』、『まっぷたつの子爵』、『不在の騎士』の三部作が訳されていたらぜひ読みたかったので、これは残念。「訳したことがある」と語った『木のぼり男爵』の原稿はどうなったのだろうか。

有吉が「ガス、あなたほどの人がなにをやっているのよ」と言ったように、彼女の才能を知る人からすれば当時の須賀はいろいろと歯がゆかったのだろう。それだけにまた、60年代には本書でも触れられているように夫ペッピーノとともに日本文学をイタリア語に訳し、日本の出版業界でもそれなりに知られた存在であったはずなのだから、夫の死後に日本に帰国した後も60歳を過ぎるまでほぼ無名であったというのは、なんとも信じがたいことのようにも思えてくる。人生というのはほんの少しのきっかけでいかようにも転がりうるものなのであろう。



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佐藤太郎(仮)

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