『沈黙』再訪

遠藤周作の『沈黙』を20年ぶりくらい(?)に再読してみた。相変わらずひどい記憶力で、ものすごくおおまかなあらすじ以外は大方忘れていたもので初めて読んだかのようであったが、それはつまり前に読んだ時にそれほど心を動かされなかったということでもあろう。今回は昔よりは入り込めたが、また語るのが容易なようで非常にやっかいな作品なのではないかという印象もまたあった。


日本で布教を行っていたフェレイラ神父が拷問の末に棄教したという報告がもたらされた。フェレイラの教え子であったロドリゴたちにはとても信じることができないことだった。日本ではキリスト教、とりわけカトリックへの弾圧が激化し、ポルトガル人が潜入することはあまりに危険で無謀なこととされるようになっていたが、ロドリゴたちは布教と事の真相を確かめるべく、命を賭して日本へ向かうことを決意する。ロドリゴらはマカオで出会った日本人、キチジローを伴ってついに日本に足を踏み入れるが……


以下作品の結末部分に触れているのでご注意を。





「沈黙」というのが「神の沈黙」を意味することは作中ではっきりと示される。神がこの世を創ったのならば、なぜこの世には悪が存在するのか。そして苦しむ人間になぜ神は救いの手を差し伸べないのか。「ヨブ記」をはじめ旧約聖書における重要なモチーフであるとともに、この作品にもあまりに有名な、イエスが口にしたとされる「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ(なんぞ、我を見棄て給うや)」が引用されているように、この問いはキリスト教という宗教にとっても原点の一つなのかもしれない。そして『沈黙』は、まさにこれをテーマにしているのであるが、しかしそこだけに焦点をあてることもまたできないようにもなっている。

「神の沈黙」だけがテーマであれば、最終的に「転ぶ」(棄教する)ことになるロドリゴと、彼に先立って「転んだ」フェレイラを中心的に描けばいいはずだが、しかしここにキチジローという人物が入り込むことで、複数のテーマが入り混じることになる。

マカオで酒におぼれていた漂流民キチジローは、信仰を持っているのかという問いに言葉をはぐらかす。日本潜入後に明らかになったのは、彼は一家あげてキリスト教徒であったが、拷問に屈しなかった家族と違い棄教していたということだった。そのキチジローもロドリゴらを日本へ案内したことで失地を回復したようだったが、しかしやはり彼は拷問を前にして「転んで」しまう。そればかりか、ロドリゴを売り渡すことまでするのである。キチジローのある部分は明らかにユダと重ねあわされているが、しかし彼は首を吊ることはない。拷問や弾圧に怯え、何度も信仰を捨てそうになりながら、その度ごとにまた信仰へと帰ってきて、捕らえられたロドリゴの後を追い続ける。

キチジローはこう言う。「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教〔マルチノ〕さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか」。
弱い人間は殉教することすらできない。しかし何も好き好んで弱い人間に生まれてきたのではない。なぜ自分はこんな世の中に、こう生まれてきてしまったのか。
弱さを抱えたキチジローにはキリスト教徒たる資格はないのだろうか。いや、むしろ彼のような人間こそがまさに迷える一匹の子羊なのではないか……といったあたりも、前景化されるテーマである。しかしまた、『沈黙』で扱われるのはこれだけではない。

キリスト教を知り尽くし、恐るべき拷問を生み出しフェレイラやロドリゴを転ばせる井上筑後守はこう言う。「パードレは決して余に負けたのではない」。「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」。
ロドリゴは日本の隠れキリシタンと会うことに成功し、彼らが弾圧にもめげずに信仰を保っていたことに感激するが、また土着化されつつある信仰を抱く日本人信徒を前に、彼らが信じているのは本当にキリスト教なのだろうかという疑念にもかられる。裏を返せば、日本という場所で、あるいは日本人が、本当にキリスト教徒になれるのだろうかという疑念でもあろう。

キチジローの弱さや、日本で日本人がキリスト教徒であることは可能なのかという疑念は、遠藤の抱いた葛藤でもあろう。

キリスト教圏の文学はキリスト教を知らない日本人には真の意味では理解できないという(相当に乱暴な)主張がかつてはなされたこともあったが、ではカトリックである遠藤が書いた『沈黙』はキリスト教徒(ないしカトリック)にしか理解し得ないものなのだろうか。本作発表直後は、むしろ信仰を持つ日本人から批判をされたり、あるいは違和感が表明されたようでもある。

『沈黙』は英語圏をはじめとするキリスト教圏で広く受け入れられ、この作品にほれ込んだマーティン・スコセッシによって映画化された。キリスト教圏では、「神の沈黙」やフェレイラやロドリゴ、そしてキチジローの信仰の揺らぎという「弱さ」に、真の信仰とは何かという問いを見出したのだろうか。

そもそも宣教師がやって来なければキリスト教徒であるとして拷問され、殺されていく日本人はこんな目に合うことはなかったのではないか。そして捕らえられたロドリゴは繰り返し、形だけでもいいから踏み絵を踏むようにと説得される。そうすればロドリゴへの拷問として行われる日本人への拷問(鼾が響いているかに思われたのは、拷問によって発せられるうめき声であり、罪悪感と恐怖心にロドリゴは苦しめられる)が終わるのではないか。まさにフェレイラが転んだのはこのためであった。真の信仰とは、正しき信仰とはなんなのか、そのためになすべきこととは。
一方で日本の信仰のある人が、井上の術中にまんまとはまりその目論見どおりに転んでいくフェレイラやロドリゴに、本当の信仰があったといえるのだろうかという気にさせられたことも想像できる。


遠藤は自作解説で、作品の最後に置かれた「切支丹屋敷役人日記」が多くの読者に読まれていないことに触れている。そして「作者としてこの日記をなぜわざわざ挿入したかについて簡単な説明をしておきたい」として以下のように書いている。

「ひとつは裏切り者であるキチジローがこの牢屋に投獄されていることに注意して頂きたい。彼は主人公のロドリゴ神父を見棄て、棄教を誓うことによって捕縛をまぬかれていたのに、自ら進んでまたこの牢屋に入牢しているのである。/次にロドリゴこと岡田三右衛門が役人に命じられ書きものをしたことがこの日記に記載されている。この書きものとは誓約書の意味と受け取って頂きたい。つまりロドリゴは入牢後、ふたたび棄教の誓約書を役人から書かされたのだ。それは彼が入牢後も自分は踏み絵こそ踏んだがやはり基督教徒だと告げ、それによって再拷問をうけ、ふたたび棄教したことを私は暗示したのである。少なくとも彼が誓約書を書かされる破目になったことは確かだ。この点は主人公のその後の信仰について非常に重要な部分なので、ここに書きそえておきたい」(『昭和文学全集 21』 「遠藤周作・人と作品」)。

さらに続けて、「「沈黙」の英訳はこの書きものをBOOK(本)と訳してしまった。それを発見してあわてて訂正を申しこんだが、依然としてBOOKである。これではロドリゴの内面や苦悩や戦いが一向に表現されない。そして「ロドリゴは決して神を棄てたのではない。彼の時代のヨーロッパ教会とはちがった形で神を信じつづけた」ことも英訳本の読者には伝わらないであろう」としている。


それにしても、こうして自ら解説せねばならないほどその結末をわかりにくくする、読まれにくい「漢文体」の日記をなぜ最後に持ってきたのだろうか。

『沈黙』はカトリックに限らず、キリスト教にまつわる普遍的な問いを扱ったものであり、また日本でキリスト教の信仰を持つことは可能かという、ある種の「文明論」的な問いでもあり、また遠藤の個人的な信仰をめぐる問いを小説化した作品でもあろう。このそれぞれはわかりやすくもあるが、また三つの問いを一つの作品に押し込めることで収まりが悪くもなってもいるところもあるのかもしれない。それをウェルメイドに溶け合わせることをせずに、いささかいびつになってしまったままにした、あるいはあえていびつな形にしたということの表れが最後の日記であろう。

個人的なことをいうと、祖父がクリスチャンだったこともあって(カトリックではなく聖公会だが)、僕は子どもの頃からキリスト教に対して漠然とした関心と好意とを抱いていた。しかしある時気づいたのは、自分はキリスト教に限らず、信仰というものを持つことができないということだった。世の中がどうあっても生きづらいし、かといって死ぬのはとても恐ろしい。信仰が持てれば自分は救われるのではないかと思ったこともあったが、信仰を持つ持たないという以前に、信仰なるものがいったいどういう状態なのかを理解することすらできなかった(し、今でもできない)。昔『沈黙』を読んだ時に今一つピンと来なかったのは、この作品にある「問い」が、自分の中にあるものではないと感じられたからだったのだろう。

つまりあまりに「キリスト教的物語」として読んだために、信仰を持てない自分には遠い物語だと感じられたのだった。
今回読むと、そういったキリスト教的な「問い」を離れても、びくびく怯えていたのに生来のお調子者っぷりを発揮してお気楽になったりもするが、また弱さへと沈み他人まで引きずり落とすことになってしまうキチジローの姿は他人事とは思えなかった。「なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか」というのは、若いときだけに抱く疑問だけではなく、年をとれば自然と解消していくのかもという期待が裏切られた今だからかえって胸にくるものもある。そういった点では信仰の有無(あるいはキリスト教へのなじみ)に関わらず、まさに普遍的な、広く自分に引きつけて読むことができる作品でもあろう。

言うまでもなく『沈黙』は小説であり、神学書でも護教論でもない。収まりの悪さやいびつさは、文学作品としては必ずしも欠点になるとは限らない。三人称、手紙という形式の一人称、さらにプロットに絡まない人物の日記など複数のナラティブを組み合わせたのは、遠藤がそれを自覚しかつコントロールしていることの表れともできる。この作品に「いびつ」さを感じるかどうかはそれぞれかもしれないが、文庫版の解説で佐伯彰一は遠藤のこのの手法の卓抜さを讃えているように、やはりこの複数のナラティブなくしては『沈黙』という小説は成り立たなかったろう。

かつてピンとこなかったのは、作品のメッセージといったものをどう受け取るかという、僕自身の個人的な切実さゆえにとはいえやや安直な読み方をしたために、このあたりの視点が抜け落ちていたということもあろう。

今回の再読で、出発点としてはその「弱さ」を含め必ずしも信仰の問題に限らない遠藤自身の切実な問いでありつつ、それを信仰の問題へと普遍化しつつも、また個人的なものにとどまらせ続けてもいるというこの「いびつ」さとそれを活かすナラティブこそが、『沈黙』の最大の魅力ではないかとも思えた。それだけに、スコセッシはこの辺をどう処理しているのかというのも気になる。


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佐藤太郎(仮)

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