『ゼロヴィル』

スティーヴ・エリクソン著 『ゼロヴィル』




1969年夏、24歳の誕生日の2日後に、ヴィカーは長距離バスで6日間かけてロサンゼルスまでやって来た。「仏教徒でもないかぎり頭を剃ったりしないし、バイカーかサーカスの芸人でないかぎり刺青などしていない」時代に、ヴィカーは頭を剃り上げ、そこに『陽のあたる場所』のエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフト――「映画史上、もっとも美しい二人の人間」――の極端なクロースアップの刺青を施していた。しかしなんということか、せっかくハリウッドにやって来たというのに、人々は『陽のあたる場所』と『理由なき反抗』とを混同し、モンゴメリー・クリフトとジェームズ・ディーンの違いもわからず、エリザベス・テイラーをナタリー・ウッドだと勘違いするのであった。こうして初っ端から腰を折られつつ、ヴィカーのハリウッドでの生活が始まる……。

1960年代後半から70年代にかけての文化状況を背景に、虚実入り混じった膨大な量の映画に言及しながら、物語は進んでいく。

柴田元幸氏が「訳者あとがき」で指摘しているように、短い断章を積み重ねた構成は、どこか映画の脚本を思わせる。そして『いなごの日』ミーツ『フォレスト・ガンプ』というか、フィッツジェラルド的でもあり、村上春樹の『1973年のピンボール』や『羊をめぐる冒険』を思わせるようなところもあるように、物語はどこか既視感を漂わせているが、これはむしろエリクソンの狙いであろう。

エリクソンはアメリカ合衆国というものを問い直すような作品が多い。父親から厳しい教育を受け、神学校で建築を学んでいたヴィカーは二十歳にして初めて映画を観て、これに魅了されて人生を大きく変える。宗教と映画というのはまた極めてアメリカ的事象である。しかし本作は、こういったアメリカを問い直すものというよりは、エリクソンの映画への思い入れが溢れたもので、当人も書いていてさぞ楽しかったのではないかと読者が感じてしまうかのような作品になっている。

おそらく、エリクソンが最も意識していたのはジャン=リュック・ゴダールではないだろうか。映画の断片を寄せ集めて作品に仕立てるというのもゴダール的であるし、何より本作のタイトルが『アルファヴィル』の探偵エディ・コンスタンティーヌの「ここはアルファヴィルじゃない、ゼロヴィルだ!」というセリフからとられている。映画の断片をかき集めてくるといえばゴダールの『映画史』がその極北であるだろう。そして『ゼロヴィル』において、ある人物がこんなことを言う。「『陽のあたる場所』を作る前、ジョージ・スティーブンスは戦争から帰ってきて、それまでに自分がやったことはみんな……取るに足らないことだと思うようになっていたんだ。監督をやめて戦争で戦って、そうして……収容所にいち早く入って……何もかも見た。ダッハウ。ベルゲン=ベルゼン。そのあと、映画は世界を変えるべきだとあの男は考えた……じゃなけりゃ何の意味がある?と」。

ディディ=ユベルマンが『イエージ、それでもなお』で詳しく述べているように、まさにゴダールの『映画史』はジョージ・スティーブンスがナチスの強制収容所を目撃した体験とその後に撮られた『陽のあたる場所』というのが、重要な要素となっている。

しかし『ゼロヴィル』は、シネフィルが眉間に皺を寄せながら小難しい顔をして読む小説ではないだろう。トマス・ピンチョンの作品では登場人物がパラノイア的に世界に過剰な意味を読み込んだり、痕跡を見出してしまうことになるが、本作のヴィカーは映画にそれを見出す。そしてピンチョンとの比較でいえば、『ゼロヴィル』と対比すべきは『ヴァインランド』ということになるだろう。ヴィカーは『裁かるゝジャンヌ』(もちろんこれもゴダールが引用したことで有名であり、そのことは本作でも直接言及され、重要なモチーフとなる)やハリウッドの古典から、同時代の作品まで膨大な数の映画を観まくるが、読者はあくまでヴィカーというフィルターを通して映画に触れることになる。

なにせスコット・フィッツジェラルドのことをジョーン・クロフォード主演の『ザ・ウィメン』にクレジットされてないが脚本に参加した人物としか認識していない「映画自閉症」であるヴィカーのこと、独特の審美眼を発揮する。ヴィカーが初めて観た映画は二本立てで、一本目は「ロンドンの写真家が、一見静かな公園に見える場を映した写真から殺人事件を発見する」作品で、これはもちろんアントニオーニの『欲望』である。そしてもう一本は、「雪山に住む歌う妖怪の家族が、警察に追われ悪意ある音楽の跡を残していく話」であるが、これは何かというと『サウンド・オブ・ミュージック』のことなのである。このように大いに笑わせてくれる部分も多い。

映画とは夢のメタファーのようでもあるが、本作はまた夢をめぐる物語でもある。ヴィカーは『エレファントマン』のことを高く評価する。『ゼロヴィル』はゴダールの『映画史』をもとに『ヴァインランド』のテイストでピンチョンが脚本を書いたデヴィッド・リンチの監督した作品のように思えなくもない。本作と同じくハリウッドを描いた『マルホランド・ドライヴ』をはじめとするリンチの作品を意識していることも間違いないだろう。


このように、読者はあくまでヴィカーの目を通しての映画に耽溺すればいいのであって、言及される作品を観ていなければ読み進めるのが困難になるようなことはない。とはいえ、「訳者あとがき」に言及されている作品のリストが挙げられているが(鈴木清順の『殺しの烙印』や増村保造の『盲獣』、大島渚の『愛のコリーダ』などの日本映画も含まれている)、僕が未見の作品も多数含まれており、もし観ていたらこの『ゼロヴィル』をもっと楽しめたのではないかなあという悔しさもちょっと湧いてくる。

またティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』は60年代の世相や文化について訳者の村上春樹が脱線気味にエッセイ風の膨大な訳注を付けていてそれだけでも楽しめるが、『ゼロヴィル』ではシネフィルや6、70年代ハリウッドの内幕に通じている人が「副音声」(ちょっと変な言い方になるが)で解説を付けてくれたら、それもまた楽しそうである。


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