『沈黙  サイレンス』

『沈黙  ――サイレンス――』

長編小説を映画化した場合、原作にこだわりすぎた結果として、原作を未読の人には意味がわからず、読んでいる人にはあれが足りないこれが足りないとなってしまうということがままある。その点この『沈黙  サイレンス』は、スコセッシが長年温めていた企画だけあって見事にまとめあげられていて、原作をほぼ忠実になぞりながら、独立した作品としてもきっちり一作に収めている。


とはいえ、直前に原作を読み直してから行ったものでどうしても両者を比較してしまいたくなってしまい、まずは本筋とはいえないここから。


ロドリゴは井上について、見るからに禍々しい存在を予想していたのであるが、目の前にいる人を喰ったような飄々とした老人がその井上であることを知り驚く。このあたりは原作も同じである。

「茫然として、彼は老人を見つめた。老人は子供のように無邪気にこちらを眺めて手をもてあそんでいる。これほど、自分の想像を裏切った相手を知らなかった。ヴァリニャーノ師が悪魔と呼び次々と宣教師たちを転ばせた男を彼は今日まで青白い陰険な顔をした男のように考えてきた。しかし眼の前には、ものわかり良さそうな温和な人物が腰かけていた」。

しかし映画の観客は、ロドリゴとこの驚きを共有することはないだろう。イッセー尾形が井上役だといった予備知識ゼロで見始めたとしても、井上の登場の仕方は意味ありげであり、彼が重要な人物であることが初登場時に示される。原作でもロドリゴはこの老人の一見温和な様子の裏に潜む狡猾さを目撃しているのであるが、これがどれほどの人物であるのかは読者には示されない(この部分はロドリゴがしたためている手紙という形式のため、読者はロドリゴ以上の知識を持てない)。

原作では冒頭で恐るべき拷問である「穴吊り」への言及があり、ヴァリニャーノは「日本には今、基督教徒にとって困った人物が出現している。彼の名はイノウエと言う」と警告を発する。ヴァリニャーノは、井上と比べれば「さきに長崎奉行として多くの切支丹を虐殺したタケナカなどはたんに凶暴で無智な人間にすぎない」と言う。そして「悲しむべきことに」、「彼はかつて我々と同じ宗教に帰依し、洗礼まで受けた男なのだ」。だからこそ井上は、「前任者タケナカとは全く違った蛇のような狡猾さで、巧みな方法を駆使し、それまでは拷問や脅しにもひるまなかった信徒たちを、次々に棄教させ」ることができるのであった。
ロドリゴは日本潜入前に、「やがて日本に上陸した後、おそらく出会うかもしれぬこの日本人の名を記憶にとどめるため、馴れぬ発音を私たちは口のなかで繰りかえ」すのであった。

井上をめぐるこのあたりの描き方は原作の方が効果的であろう。映画でもマカオでロドリゴが井上の名前を耳にして強烈な印象を抱いていたとすることは難しくなかったはずだが、あるいは脚本を長年に渡って切った貼ったしているうちに削られてしまったのかもしれない。

原作では井上とい存在はロドリゴとガルペのみならず読者にも冒頭で強く印象づけられている。しかも井上が元キリスト教徒だけあってキリスト教を知り尽くし、主観的にはともかく第三者から見れば、フェレイラやロドリゴが井上の術中にまんまとはまっていくというのは、この物語が与える多義的な印象にとって重要な部分でもあるので、本筋とは関係ないとしたが、単にエンターテイメント的効果の問題に留まらない微妙だが大きな改変部分だとすることもできるかもしれない。



『沈黙』という小説は、単に長さの問題だけでなく映像化しにくい要素を抱えている。三人称、書簡体、日記と複数の視点とナラティブが混在しているためだ。このあたりをどう処理しているのかが一つの注目であったのだが、スコセッシはボイスオーバーという好みが分かれる手法を恐れない監督だけあって、一人称部分はそのものずばりで描いていた。スコセッシの作品ではおなじみのもので違和感を覚えた観客はあまりいないと思うが、その分原作のナラティブの使い分けといったあたりは後景に退くことになっている。語りの問題というのは小説と映像の最大の差異であり(映像作品で完全な一人称の再現は不可能といわないまでも非常に困難である)、むろんこれに唯一の解があるというのではない。

遠藤がこうした手法を用いたのは、『沈黙』という作品に複数のテーマが内包されているからであろう。神の沈黙、キチジローに代表されロドリゴらにも潜む人間が抱える弱さとその救済、そして日本人カトリック作家による、日本という場所でキリスト教徒になりえるかという疑念といったあたりが主なものである。これらは「信仰をめぐる問い」と一くくりにすることも可能であり、スコセッシがこの作品に惹かれたのはまさにここであろうし、その結果として映画『沈黙』は確かにきれいにまとまってはいるのだが、原作に孕まれていた「いびつ」さというのがそがれているようにも思えた。

それを象徴するのが、基本的には原作に忠実でありながら、ここだけは大きく改変した最後のパートである。遠藤は読みにくい「漢文体」の「切支丹屋敷役人日記」をエピローグとして結末に置いており、実際にここは読み飛ばされたり、意味がよくつかめなかった読者も多かったようで、こちらに書いたように遠藤は自作解説を行わなくてはならないほどであった。もちろんこの人を遠ざけるようなわかりにくさや曖昧さこそが遠藤の狙いであったのだろうが、映画『沈黙』ではこれをオランダ商館員ヨナセンの日記を引き伸ばす形で処理し、結末は観客が誤解のしようのない形になっている。井上の術中にはまってキリスト教が「日本と申す泥沼」に敗れていくという、普遍宗教であるはずのキリスト教の普遍性への疑念を描いたものともとれてしまう原作には、少なからぬクリスチャンが居心地の悪さを覚えることだろうが、映画をその結末まで見れば、このような居心地の悪さは生まれないだろう。
スコセッシが直接的に描いたあの場面は遠藤自らが解説しているように原作からも引き出せるものであり、必ずしもエッセンスまでをも改変したわけではないが、やはりその印象は大分異なるものにもなっている。


微妙な印象の違いといえば、聖書的イメージとの類似と差異というのもあるだろう。キチジローからは誰もがユダを連想するだろうし、明らかに重ね合わされている部分がある。しかし同時に、キチジローはユダと違って首を吊らないように、遠藤は意図的にあえてずらしているところもあり、これこそがこの作品の肝の一つであろう。彼のような人間も救われるのかというのは遠藤の問いでもあり、非常にスコセッシ的な問いでもある。この部分は原作と映画は明確に共有している。しかし映画では、ロドリゴはかなり露骨に自らをイエスと重ね合わせているのであるが、原作では捕らえられたロドリゴは、予想と違いその「のどか」な捕われの日を送る中で、「自分が多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でないことに幻滅さえ感じ」ることになる。

ロドリゴはキチジローの密告によって捕われる直前にこう考える。
「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎で焼かれ、海に沈められることを耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏絵を踏んだかもしれぬ」。

まさに彼は踏絵を踏むことになる。つまり、ロドリゴが「転ぶ」ことになるのは、独善的な信仰のみを盲信し教条主義に陥るのではなく今苦難に見舞われている弱き者にこそ寄り添わねばならないという一種の悟りを得た結果のみだけではなく、ロドリゴ自身が捕らえられる前から、自分はキチジローと同じ弱さを持っているのではないかという疑念を抱いており、まさにその弱さゆえであったのではないかということもまた示唆されている。もちろん映画でもこのあたりは汲み取られていて、フェレイラの見るからに、明らかに自信なさげな、目線をそらすおびえたような様子は、彼が己と信仰の強さへの自信からあえて転んだのではなく、弱さに押し潰された結果であることも表しており、当然ロドリゴもまたそれを共有することになっているであろうと思わせるのであるが、映画ではロドリゴについてはこの部分の描写は弱い。

死ぬことになるのに「みんな、平気なのか」とロドリゴが問うと、同じく捕われの身にある女は「パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田さまは常々申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓も病の心配もなか」と答える。「ほんと、この世は苦患ばかりじぇけえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」、そう訊ねられると、ロドリゴは「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言いかけるのであるが、口をつぐむ。ロドリゴは「天国とはきびしい税金も苦役もない別世界だと夢みる」百姓たちの、「その夢を残酷に崩す権利は誰にもな」いと思い、「そうだよ(……)あそこでは、私たちは何も奪われることはないだろう」と言う。

ここでロドリゴは、信仰を棄てずに「パライソ」に行く覚悟を決める(というかむしろそれを積極的に望む)百姓たちの信仰心の篤さに感動しているのではない。土着化した信仰がキリスト教から離れていっていることは日本で布教を開始してから感じてきたが、まさにそうであることを見せつけられるのであり、彼がそれを正さないのは、同情心からであってこれこそが真の信仰だと考えたからではない。

しかし、 キリスト教にとってイエスの死とその復活とが信仰の核であり、最初期の伝道師たちは次々と殉教を遂げ聖人となっていったように、殉教はキリスト教の普及にとって欠かせないファクターであり、まさにイエズス会はそれを恐れぬ団体である。この世の辛さからの救済を求めて死を願う日本人百姓と、あえて殉教を望むかのような宣教師たちに違いはあるのだろうか。そもそもロドリゴとガルペはあまりに危険だという警告を振り切って日本に潜入したことを思えば、布教やフェレイラの棄教の噂の真相を確かめたいという目的もあるとはいえ、殉教すること自体を望んでいたという部分もないとはいえないだろう。この「のどか」な捕われ生活を送っているときは知る由もないが、後にガルペはロドリゴと違い殉教することになる。転ぶことを拒み、信徒とともに死ぬことを選ぶガルペはこれに忠実であり続けた。一方ロドリゴは殉教しない、あるいはできない自分が、「多くの殉教者や基督のように、悲劇的で、英雄でない」という事実を突きつけられ、自分がキチジローと変わらないのではないかと「幻滅」し、「言いようのない不満」を覚える。

こう考えると、原作ではロドリゴが耳にする神、あるいはイエスの声は、彼が自己防衛として頭の中で作り出しているようにも思えてくるのであるが、映画ではロドリゴはより直接的に自分をイエスと重ねているため、「実際」にこの声を聞いているという印象の方が強まる。もちろん映画でもそれは逃避的幻覚、幻聴であるとも解釈できるため、必ずしも原作から逸脱しているとはいえないが、やはりその肌合いというのは多少異なることになる。

誰もが誉め言葉として、映画『沈黙』が原作に忠実であると口にするし、改変した結末のエッセンスをも含めて実際にその通りであるのだが、同時にこうした差異から生じる微妙な肌触りの違いというのもある。


当然ながら、映像作品の価値とは原作をいかに再現するかにかかっているのではない。原作との間に差異があるからといって、スコセッシの『沈黙』の価値が低下するというのではない。
文学作品をいかに映像化するのかというのは文字通りに山のような試みが重ねられてきており、絶対の正解というものが存在しないどころか、ある意味では敗北があらかじめ決定付けられている試みであるとともに、また文学とは違う形での勝利の可能性というものを映像作品は持っている。
スコセッシの『沈黙』は映画単体としても完成している素晴らしい作品であるが、二つの『沈黙』を対比的に見るのも面白いし、篠田正浩版は未見なのだが、この三者を比較してみるとまたいろいろなものが見えてくることだろう。もし映画を観て原作を未読であれば、ぜひとも一読していただきたいし、原作を読んだが映画を観るのは迷っているという人がいれば、ぜひとも映画も観ていただきたい。このようにしてさらに探求を重ねることができるタイプの作品になっている。


そういえば前作『ウルフ・オブ・ウォールストリート』はこれとはまったくテイストの異なる作品なのであるが、こちらに書いたように、このはちゃめちゃな物語も意外なほど原作に忠実でもあった。テーマ、作風のみならずバジェットからして全く違うのであるが、それでいてやはりどちらも紛れもないスコセッシ印の作品ともなっており、スコセッシという監督の個性についてこのあたりから考えることもできるのかもしれない。


ついでにいくつか。
キチジロー役が窪塚洋介であることも、結構意見が分かれるかもしれない。窪塚の演技力の問題ではなく、キチジローというキャラクターを考えると、もっと軽い感じのお調子者風でよかったのではないだろうかとも思えた。そうであれば、こういう人物があのような行動を取るからこその痛切さというのがより一層のものとなったであろう。世が世なら、彼は頼りがいはないが気のいい男として、平々凡々、それなりに幸せな人生を送れたはずである。それが自分の「弱さ」をこれ以上ない形で突きつけられ、救済を信じて死ぬことすらできずに呪われたように生き延び、それでも救いの可能性を求め続ける。ところがこれが窪塚では、顔の整った造型を含めて見るからに「悩める青年」風になっていて、彼の苦悩がかえって一般化されることで、その効果が弱まったようにも感じられてしまった。原作でキチジローのお調子者っぷりが描かれ、ロドリゴは少々呆れつつ微笑ましくも彼を見つめるのであるが、映画ではキチジローはどこにあっても孤立しているような姿で描かれており、常に「実存的」な悩みに煩悶しているかのように見えてきてしまう。
まあハムレットをどういった人物像にするかというのは演出家の腕の見せ所で、現在進行形で何種類ものハムレットが今も生み出され続けているように、このあたりにも絶対の正解があるわけではもちろんないので、あくまで個人的な解釈と好みによると、というところである。

それから、気にならない人にはまったく気にならないが、ひっかかる人にはどうにもひっかかるのが言葉の問題であろう。映画では英語で交わされている会話が一応ポルトガル語でしゃべっているという設定になっていることには微苦笑してしまったが、ただでさえ資金集めに苦労した作品だけにこれはやむを得ないだろうと同情する。そもそもが、原作でも「ここはいったい何語で話しているのか」というような場面もあるので(上の引用の場面でも、ロドリゴは短期間で方言を聞き取れるようになったのだろうか、そして彼は自分の意思を十分に伝えられるほどの日本語を身につけたのだろうか、それとも信徒たちはポルトガル語で言われたことをきちんと理解できるのであろうか)、目くじらたてる必要はないとは思うのだが、「ロドリゲス」と言われると、う~むとならないこともないが。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
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