『ヌメロ・ゼロ』

ウンベルト・エーコ著 『ヌメロ・ゼロ』





1992年6月6日の朝、コロンナが自宅キッチンの蛇口をひねっても水は出なかった。隣に確認するとそちらでは異常はないとのこと。隣家の奥さんは止水栓を閉めたのではないかと言う。流しの下を見るとその通り、止水栓が閉められていた。ほんとに、あなたがたシングルは!
しかし妙だ。コロンナは止水栓の存在すら知らなかった。シャワーの水がぽたぽた落ちるのが気になって眠れないことだってあった。これを知っていればさっさと止めたはずだ。そう、つまり、何者かが夜中に侵入し、部屋の主がしたたり落ちる水滴の音で目を覚まさないように止水栓を閉じたということなのではないか。奴らの狙いはわかっている。

コロンナは大学中退後、校正や持ち込み原稿の下読み、ゴーストライターといった仕事でなんとか食いつなぐ生活を続け50歳になっていた。92年4月、そんな彼にシメイが接触してきた。依頼は本を書くこと、報酬は信じがたいほどだ。『ドマーニ(明日)』という日刊紙が立ち上げられることになり、しばらく創刊準備号として「ゼロ号(ヌメロ・ゼロ)」を出すのだという。そして『ドマーニ』は、実は創刊されないことがあらかじめ決まっている新聞でもある。何十ものホテルを持ち、地方テレビ局なども所有するいわくつきの人物ヴィメルカーテが、有力者やエリートに受け入れるために一芝居打っていたのだった。『ドマーニ』によってエリート層を窮地に陥れることが可能なのだと見せかけ、創刊断念と引き換えに彼をエスタブリッシュメントに加えさせるのが狙いだった。コロンナは編集部に加わりつつ、『ドマーニ』が志しの高い試みであったかのように見せかけるための編集長シメイの回想のゴーストライターを引き受ける。

『ドマーニ』の編集部に集められたのは、コロンナと同じようにキャリアに恵まれない一癖も二癖もある人間ばかりだった。コロンナは職場を共にするようになった、親子ほども年の離れたマイアに次第に心惹かれていく。この編集部にはまた、ブラッガドーチョという変わった名前の男も雇われていた。彼はシメイに与えられた事件だけでなく、独自の調査を行っており、それについてコロンナに情報を知らせていた。それは第二次大戦末期、そして戦後のイタリアをめぐるあまりに荒唐無稽な陰謀論のようにも思えたが、ついにある事件が発生する……


イタリア現代史にまつわる陰謀(論)を正面から扱ったこの小説は、小説家エーコの遺作にふさわしいものであろう。

ヴィメルカーテの設定はベルルスコーニを連想せずにはいられない。『ドマーニ(明日)』というのはもちろん皮肉になっていて、読者は92年という「昨日」のイタリアの姿を見せられることになる。またこれは作中のテーマとも深く関わるものでもある。メディアを使って成り上がろうとするヴィメルカーテと、彼に仕え自己の利益しか考えないシメイの姿は、痛烈なメディア批判となっている。自らの読者の知的能力をみくびり、どうせまともなものなど読まないのだからと低レベルな記事で埋めようとするシメイの不誠実さは、現在の日本の新聞、テレビ等からも感じられる。このように、ここで批判されるメディアの状況はイタリアだけのものではないし、あたかも日本のそれを指しているのではないかと思えてしまうことすらあった。

新聞は「昨日」のニュースしか扱えない。もう読者が知っていることばかりだ。これではテレビに勝てるはずもない。これからやるべきは「明日」を伝えることで、創刊される日刊紙は調査報道を重視し、新聞というよりは週刊誌に近くなるとシメイは言う。ここだけ聞くとそう悪いものには思えないかもしれないが、実際にシメイや他の編集部員が行おうするのは、自分たちでニュースを作り上げ、読者を誘導することである。事故一つをとっても、「運が悪かった」という証言と「市の責任だ。この高架橋に問題があることは前々からわかっていた」という証言のどちらを載せるかによって印象はまるで異なる。あるいは対立する二つの意見を掲載することで、新聞があたかも中立であるかのような印象を与えることもできる。証言やコメントを鍵括弧でくくれば、それだけで客観的事実であるかのようだ。

南部で工員が同僚を襲うことはあっても北部ではそのようなことは起こらない。なぜなら、南部の事件は新聞がセンセーショナルに書き立てるが、北部の事件は無視されるからだ。イタリアは南北の格差と対立が激しいが、北部の新聞は南部が貧しく粗野で暴力的だという印象を与えるニュースなら嬉々として報じる。

『ドマーニ』のパイロット版として作られるナポレオンの死亡記事や偽のマルタ騎士団の告発記事などは思わず笑ってしまうが、一方で日々のニュースがこのように作られているのだとしたら、読者が新聞を通して知っているつもりのニュースとはいったいなんなのであろうかという気持ちになってくる。

なお、ある裁判官を尾行して、彼が公園でぼんやりタバコを吸ったり、中華料理屋で箸を使って食事をしたり、エメラルドグリーンの靴下にテニスシューズを履いていることをもって「風変わりな言動」をする人物として信頼性を疑わせようとするという場面が出てくるが、注によるとこれは実際にあった出来事をもとにしているとのこと。2009年にベルルスコーニ所有の会社に多額の罰金を命じた判事をこの会社が持ち株会社となっているテレビ局が尾行して、この判事にあたかも奇行癖があるかのように報じたのだという。このあたりは日本でも、行政訴訟などで国に不利な判決を出した裁判官を右派週刊誌などが変人であるかのように書き立て正当性のある判決か疑わせるミスリードを行うというのはお馴染みの光景である。


メディアの堕落は陰謀論を育む。あいつらが報道している事はウソばかり、真相を知っているのは自分たちだけなのだと思い込むのは陰謀論者の典型例である。とりわけ近年ではネットの普及によって、かつてであれば主要メディアが頬かむりしてすませてきた不祥事等が暴かれることによって、このような陰謀論者はますます力を得ている(携帯電話などすぐにすたれると話していた92年の『ドマーニ』編集部の牧歌的なことよ!)。

また、陰謀論を取り扱うには注意が必要でもある。荒唐無稽な馬鹿げた話を頑なに信じることは愚かであるように思えるが、では荒唐無稽なことは、そのすべてが事実無根のでたらめなのであろうか。別々の事件のバラバラの断片を繋ぎ合わせることで真実の姿がおぼろげながら浮かび上がってくるように思えてしまうことを、パラノイア的幻覚だと言い切ることができるのだろうか。とりわけイタリアのような歴史を持つ国では。

ブラッガドーチョの祖父と父はファシストだった。彼はその轍を踏むまいと極左に加わる。しかしここで彼が目にしたのは、極左組織にも諜報機関の扇動者が潜入していることだった。毛沢東に入れあげていた60年代後半の西ヨーロッパの極左であるが、毛沢東政権下でどれだけの人命が失われたのかについては全く無知であった。一方で極左による暴力とされたものの中には、様々な陰謀が絡んでいたものもあった。いったい何が真実なのか。ブラッガドーチョの父はガス室はなかったとは主張しない。しかしファシズムを擁護する立場からニュースを疑い、息子もその影響を受けた。さらにこうした体験から「もう何も信用しない」と言う。ユダヤ人虐殺はなかったとは言わないが、月面に着陸した宇宙飛行士の影を見ると怪しげに思えるし、湾岸戦争はほんとうに起こったのかと感じてしまう。「おれたちは偽りに囲まれて生きている。嘘をつかれるのだと知ったら、疑いながら生きなければならない。おれは疑う。いつだって疑う」。

ブラッガドーチョは絵に描いたようなパラノイアに冒された陰謀論者のようだ。しかし壊れた時計も一日二度は正しい時を指す。彼が追う疑惑は陰謀論者の馬鹿げた幻覚なのか、それとも彼は真実に近づいているのだろうか。


60年代後半から80年頃にかけて、イタリアでは不可解な事件が頻発し、現在でも真相は謎のままであるものも多いが、ある程度その背景が透けて見えているものもある。
本作でも言及されるロッジP2など、話を聞くだけでは馬鹿げた妄想に思えてしまうのだが、実在した組織である。右翼が白色テロを起こすことで緊張状態を作り出し、場合によっては反共軍事政権の樹立をも視野に入れ、これに警察など治安機関も関与していたという疑いは濃厚だ。CIAが元ナチや元ファシストを雇い入れ、反共の道具として利用していたことも事実である。カトリック教会の一部がナチやファシストの残党を匿い、南米に脱出させていたことも事実である。本作で中盤以降のキーとなる、NATOやCIAがヨーロッパ各地の極右と連携してテロなどを起こしたグラディオ作戦も実際に行われた。これを取り上げた、コロンナらが見るBBCの番組も実在している。

こういった本来であれば世界がひっくりかえるような事実を見せられても、多くの人がこれをなんとなく流してしまった。陰謀論を含めてセンショーナルな情報があたりまえのように流通している結果、衝撃の事実に衝撃を感じなくなっている。メディアのもう一つの得意技が、ある事件に対し別の事件をぶつけることで情報を相殺することだ。
「問題は、新聞というのはニュースを広めるためではなく、包み隠すためにあることだ。Xという事件が起こる。伝えないわけにはいかないが、そのおかげで当惑する人間があまりに大勢いる。そこで、同じ号に、ぎょっとするような大見出しの記事を載せるんだよ、母親が四人の子どもを惨殺、国民の貯金が無に帰する恐れ、ニーニ・ビクショを侮辱するガリバルディの書簡発見、等々。すると、Xという事件も情報の大海におぼれてしまうわけだ」。


反ユダヤ主義を掻きたて、ついには大虐殺に至る下地を作ったものの一つが「シオン賢者の議定書」である。この話にならない馬鹿げた内容を真に受けたり、偽書だということを知りつつ反ユダヤ主義を煽るうえで有用だとして利用した人間もいた。このように、陰謀論は現実の脅威である。『プラハの墓地』は数多くの実在の人物と実際の事件を取り上げ、「シオン賢者の議定書」がいかに作られたのかを幻視する。

やはり数多くの実在の人物と実際の事件が登場する『ヌメロ・ゼロ』は、『プラハの墓地』とコインの表裏の関係にあるだろう。陰謀論を弄ぶことがどれほど危ういかを描いたのが『プラハの墓地』ならば、信じがたい現実をその信じがたさゆえに否認したり、あるいは逆に陰謀論に馴れきることでアパシー状態に陥り、無批判に恐るべき現実を受容し流してしまう可能性が生じることを示唆するのが『ヌメロ・ゼロ』である。といっても、もちろんエーコは、陰謀論扱いされているがこれは現実なのかもしれないといった安易な形に落とし込みはしない。その終わり方は、オリバー・ストーンの『JFK』とは対照的であるとしていいだろう。

陰謀論を、あるいはその逆に、荒唐無稽に思える馬鹿げているとすらいっていほどの現実をどう扱えばいいのかは難しい問題である。後になって振り返れば、ドイツやその周辺のユダヤ人がヒトラー政権樹立直後に、なぜ脱出するなり打倒に動くなりの行動に移らなかったのかと思ってしまかもしれないが、1920年代のヒトラーはちょび髯の道化師としか見られておらず、ナチスが勢力を急拡大させてもそのイメージを引き続き持ち続けた人が多かった。またユダヤ人を含め、少なからぬ人がヒトラーは政権の座に就いてもその任に堪えかねてすぐに逃げ出すかエスタブリッシュメントに屈すると考えた。ミュンヘン一揆直後にヒトラーをあなどるなと叫んだら、そちらのほうが頭のおかしい人扱いされたことだろう。いったいなにをどこまで真に受けて、それにどう対処すればいいのかに、決定的な答えはない。


ブラッガドーチョは、いかにもミラノ的な居酒屋の主人が実はトスカーナ出身だと聞いて、「トスカーナ人に対しては、なんの敵意もない。彼らだってちゃんとした人たちなのだと思うよ」としつつ、子どもの頃のこんな話を思い出す。「不似合いな結婚をした知り合いの娘の話になったとき、いとこがほのめかしてこう言うんだよ、フィレンツェのすぐ南に壁を築くべきだってね。すると、母はこう言ったんだ、フィレンツェの南? ボローニャの南でしょう!」

ベルルスコーニ政権を支えた勢力の一角に、経済的に恵まれた北部を停滞にあえぐ南部から切り離し独立させるべきだと主張する北部同盟がいる。「南に壁を築くべきだ」というのは、ベルルスコーニ時代には笑い話の冗談で済ませることはできなくなる。腐敗しきったベルルスコーニが権力に執着する理由の一つとして囁かれたのが、訴追をさけるためというものだった。訴追されかねない人間が権力の座についてしまったというよりも、訴追を避けるために権力の頂点にのぼりつめようとしたのであった。こんな人間が権力の座に長く留まることなど不可能に思えるだろうが、現実は20年近くも政治の中心であり続け、今なおその影響力を完全に排除できないでいる。そしてご存知の通り、ベルルスコーニの力の最大の源泉が、テレビ、出版等の巨大メディアコングロマリットを支配していることである。

ベルルスコーニをトランプに置き換えても、多くがそのまま通じてしまいそうなほどである。イタリアの「昨日」を描いた『ヌメロ・ゼロ』は、世界の「今日」を描いたものとなっている。こんな馬鹿げたことが起こるのはイタリアだからだ、まともな民主主義国家ならばこんなことは有りえないなどとは、現在どの国の人間も口にすることはできなくなってしまった。

この現実にどう立ち向かえばいいのか、無力感に襲われもするが、中山エツ子は「訳者あとがき」で、エーコの映像作品『記憶について(Sulla memoria)」からこんな言葉を引用している。「私たちの存在は私たちの記憶にほかならない。記憶こそ私たちの魂、記憶を失えば私たちは魂を失う」。
過去を、そして今のこの現実を、私たちは記憶し続けなければならない。


エーコであらば長編に仕立ててもいいであろう題材が中篇といってもいい長さにおさまっているのは、2015年、死の1年前の83歳の時に発表したという年齢のせいもあったのだろうか(この年齢でこれだけのものが書けるのもすごいが)。個人的には最後にすっと脱臼させるような終わり方は嫌いではないが、エーコの作品としてはトップクラスとは言いかねることも確かではあろう。筋運びにややぎくしゃくしたところが見られるし、もう少し練れていればと思わせるところもある。とはいえ、『プラハの墓地』に引き続いて、「現在」への危機感がこの作品を書かせたことは想像に難くないが、ではテーマばかりが先走っているのかといえばそうではなく、やはりエーコらしさを楽しめる作品ともなっている。


本作は予備知識があまりなくともそれなりに楽しめるとは思うが、やはりイタリア現代史についてはある程度知っておいてから読んだほうがいいだろう。
『イタリア現代史』(伊藤武著)はコンパクトに概観できるし、60年代から80年前後にかけての「鉛の時代」についても当然扱われているので、まず手にしてみるのにいいだろう。




『ゴッドファーザー PART3』で描かれたヨハネ・パウロ二世の不可解な死や銀行家が橋から吊るされた死体として発見されたあの事件などについても『ヌメロ・ゼロ』に言及がある。



エーコの小説家としてのデビュー作である『薔薇の名前』は、中世の修道院を舞台にしつつ実はアクチュアルなイタリアの政治状況が編みこまれているといったあたりは『光の帝国』(伊藤公雄著)も参照してほしい。イタリア現代史を扱った『ヌメロ・ゼロ』は、小説家エーコの原点回帰という面もあったのかもしれない。





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佐藤太郎(仮)

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