『騎士団長殺し』 遷ろう文体編

村上春樹著 『騎士団長殺し』




本作でなんといってもまず注目すべきは、この物語が「私」という一人称で語られていることだ。
村上はデビュー以来基本的に一人称で長編を書いてきたが、ドストエフスキー的な「総合小説」を書くために三人称への移行が必要だと考え、難産の末三人称で長編を書くようになった(『1973年のピンボール』での、三人称で書かれた鼠のパートを村上は失敗だったと考えており、これもあってなかなか踏み出すことができなかったのだろう)。そのためか、2000年代以降の長編は一人称時代の作品の「語り直し」という性格を持つようになる。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の続編になるとも噂された作品は一人称と三人称が交じり合う『海辺のカフカ』となり、『1Q84』には『ねじまき鳥クロニクル』、『多崎つくると色彩のない巡礼』には『ノルウェイの森』が反響することになった。

本作も村上作品でお馴染みのモチーフが頻出する。なかでも『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』、『ノルウェイの森』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』といったあたりからの再利用が目立つ。「上下」ではなく「第1部第2部」が同時発表ということでは『ねじまき鳥クロニクル』と『1Q84』と重なるし、第3部への布石があるかのごとく書かれているところはこのあたりを形式的にも意識しているのだろうが、同時にどれか一作の明示的な「語り直し」というのとは異なっている。

個人的には、三人称に移行して以降の長編作品の村上の文体にはあまりなじめなかった。本作はどちらかといえば、ここ十数年の長編というよりは『ねじまき鳥クロニクル』の頃の文体に近く、そういう点では乗りやすかったのであるが、同時に文体の点で「待っていた村上春樹が帰って来た」とまではいかなかった。作家にとって「昔の作品の方が好きだった」と言われるほど嫌なことはないだろうが、懐古趣味だノスタルジーだと言われようが、やはり僕としてはデビューから『ノルウェイの森』あたりまでの文体が一番しっくりくるもので、なまじその近くに回帰した分、本作はかえって僕にとっての「失われた村上春樹」というものがより見えてくることとなったようにも感じられた。


本作の主要な舞台となるのがいつなのかは書き込まれていないが、いくつかのヒントから2007年前後だということはわかる。つまり当時36歳であった「私」は、1971年前後の生まれということになる。僕は70年代後半生まれなので、この語り手と同世代とまでしていいのかは微妙だが、その年代についてはある程度のなじみは持っている。

「私」はドアーズやボブ・ディランなど、ロックやポップスに関しては60年代から80年代あたりをよく聴いているようだ。一番新しいものでもブルース・スプリングスティーンである。つまり、世代的にモロであるはずのグランジやブリットポップといったあたりは、少なくとも作中では聴いていない。僕も自分が生まれる前の古いロックばかり聴いて育った人間なので、昔のロックを聴いていること自体はなんとも思わない。しかしこの世代がこの音楽を聴くことによる屈折というか屈託のようなものがまるでないように見えるのはどうだろうか。

僕はビートルズの「レイン」を友人に聴かせたら「オアシスみたい」と言われたことがあるのだが(逆だよ!)、このような反応をされた時の落胆、苛立ち、悲しみ、そして正直にいうと若干の優越感といったものは、自分が生まれる前のポップカルチャーを偏愛するような人間なら誰でも多少は経験があるだろう。60年代にビートルズにもストーンズにもビーチボーイズにも背を向けて50年代のロック、ポップスを偏愛している人間を、屈託なく描けるだろうか。

「私」は序盤で携帯電話を処分してしまい以降これを持つことはなく、ネットもやらない。2007年に携帯を持たないというのは、かなり積極的な意思を持ってのことでなければならないだろう。「私」が携帯を持たないことを揶揄されるところもあるのだが、しかし「私」以外の人物も携帯を使いこなしている人はほとんどおらず、むしろ「私」を含めて、固定電話を(未だに)アクティブに使い続けているかのようだ。

60年代に青春を送った人にとっては60年安保と70年安保を混同されるのは耐え難いであろうし、80年代に青春を送って人にとっては80年代前半の「円高不況」期と後半のバブルとを一緒くたにされるのはたまったものではないだろう。
このあたりの、2000年代に生じたわずか数年での大きな変化というものに本作はいささか無頓着であるかのように映るし、音楽の趣味やその消費の仕方にしても、まるで80年代に30代であった人物を描いているかのようだ。

もちろん村上春樹は一時の村上龍のような「都市風俗の最先端を切り取る」といったタイプの作家ではない。サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』で、その野崎孝訳に強い影響を受けた庄司薫が『赤頭巾ちゃん気をつけて』でしたような、当時の若者言葉のリアルな再現を目指すといった作風でもない。デビュー時から村上作品の会話は必ずしも「リアリズム」を目指したものではないことは明らかだ。従って本作にしても、言葉のチョイス等が「リアル」でなかったとしても、それをあげつらおうとは思わない。しかし2007年に36歳の人間がドアーズを聴くことや、携帯も持たずネットにも触れないことによる彼の性格や精神についてあっさりと済ませてしまっているところは、この作品が地に足がついていない感覚をもたらすことになる。


村上の「若作り」は何かと揶揄の対象ともされるが、一番の問題は作家と同年代の主人公を描かないことではなく、主要キャラクターがこの時代に生きているという感覚が希薄になってしまっていることにあるだろう。短篇であればさほど気にならないのであるが、「体力勝負」という面もある長編では、これがいささかしんどさをもたらすことになる。

本作にもカントへの言及があるが、村上とカントといえば最も印象深いのが、『1973年のピンボール』における配電盤の葬式の場面だ。僕は73年にはまだ生まれてもいないし、もちろん双子の姉妹と同棲をしたこともなければ配電盤の葬式を執り行ったこともない(おそらくは村上もそうだろう)。それでも、ここを初めて読んだ時に、「哲学の義務は(……)誤解によって生じた幻想を除去することにある。……配電盤よ貯水池に安らかに眠れ」という言葉とともに、雨の匂いや、貯水池が水面を打つ音が、あたかも自分が体験したかことであるかのように浮かんできたし、その感覚は今でも僕の中に残っている。

村上作品の英訳者であるジェイ・ルービンは村上文学の魅力を「密輸」に例えているが、僕が何よりも夢中になったのも、「自分のためにこの物語は書かれているのだ」といった感覚を与えてくれるこの「密輸」業によるものであったのだろうし、あの頃の村上の文体とそれが醸しだす雰囲気(必ずしも「リアル」なものでなくとも)こそがそれを生み出していた。

自分が行ったこともない場所を舞台に、自分とは年齢も性別も異なるキャラクターに容易に生命を吹き込むことができるタイプの作家もいるだろう。一方で、自伝的か否かに関わらず、体験を経なければ命を吹き込むのに苦労する作家というのもいるだろう。その点村上は実は案外不器用な作家なのかもしれない。ジェイムズ・ジョイスはアイルランドにほとんど帰ることなくヨーロッパを転々としながら『ユリシーズ』を書き続けたが、1904年6月16日のあの日あの時には、ジョイスはダブリンにいた。ジョイスは猛烈なリサーチを行いダブリンの瑣末とも思える出来事までをも再現して一日を描いたのであるが、やはりあの瞬間にあの空気を吸っていたというのは大きいだろう。村上はずっと日本を離れているわけではなく、ここのところは基本的には日本に住んでいるようだが、しかし自分の子ども、下手をすれば孫ほども年の離れた世代の吸っている空気を共有しているかといえば、やや疑問である。

村上は80年に発表した短篇「街と、その不確かな壁」を習作と見なし、単行本に収録しなかった。この物語は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終わり」として蘇ることになるのだが、『ノルウェイの森』の原型となった短篇「蛍」が短篇集の表題作にまでなっていることと比べると、その扱いの差が目立つ。
中欧を思わせる、壁に囲まれた奇妙な街を舞台にしたファンタジー的な「世界の終わり」と、計算士と記号士がしのぎを削るSF的な「ハードボイルド・ワンダーランド」が交互に語られていくのであるが、この一見するとリアリズムから遠く離れたような作品も、「ハードボイルド・ワンダーランド」には間違いなく80年代半ばの東京の気配がありありと刻まれている。「街と、その不確かな壁」はこの空気を必要としていたのである。

舞台が近過去である『ねじまき鳥クロニクル』の頃まではなんとか同世代を描いていた村上であるが、それ以降作家は年齢を重ねるものの主要キャラクターは若いままにとどまり続ける。繰り返しになるが、問題は登場人物の年齢ではなく、「地に足がつかなくなった」ことによって細かな描写によって醸しだされる親密さというのが薄れていることだろう(『1Q84』も近過去が舞台であるが、印象としてはむしろ「現代」に寄っている)。

「文章を書くたびにね、俺はその夏の午後と木の生い繁った古墳を思い出すんだ。そしてこう思う。蝉や蛙や蜘蛛や、そして夏草や風のために何かが書けたらどんなに素敵だろうってね」
これは『風の歌を聴け』の鼠の言葉であるが、『騎士団長殺し』の「私」には、こうした瑞々しさ(それは苦しさと表裏一体でもある)は希薄であるように感じられた。

このあたりはあくまで僕の個人的趣味の問題であって、本作を含む2000年代以降の村上の長編でそのような感情が喚起されたという人を否定するものではもちろんない。


また一人称から三人称への移行と並んで大きいのが、固有名詞の付け方である。村上はある時期まで登場人物に名前を付けることを極度に(といっていいほど)慎重であった。語り手の「僕」に名前が与えられることはなく(『騎士団長殺し』の「私」の名前が伏せられているのも、一人称と並んで注目できるポイントである)、親友の「鼠」や中国人の「ジェイ」、あげくのはてに「208」と「209」というトレーナーを着ることになる双子の姉妹となる。そのため村上の作品は「記号的」ともされたのであるが、むしろこれは「記号」を恐れた結果だったとすべきかもしれない。

キリスト教圏では、聖書やギリシャ・ローマ神話由来の名前を小説の登場人物につけることは多かれ少なかれ何らかの象徴性を帯びることになるのだが、日本語の場合も漢字という要素は大きい。もちろん日本語だけではなく、『ノルウェイの森』の中国語訳の際に訳者から「キズキ」の漢字は何なのかという問い合わせがあったように、漢字圏においても無色透明無味無臭の中立的な名前というのはなく、その漢字をあえて作者が選んだところに何らかの象徴性を見出してしまいたくなる。

こちらに書いたように、デビュー作の『風の歌を聴け』と二作目の『ピンボール』には、後に『ノルウェイの森』で描かれるイメージが大量に含まれている。幻聴らしきものを聞いてしまう女の子、「アウシュヴィッツを連想」させるほど髪を短く刈り込むかつてのガールフレンド、井戸、吃音の青年、そして「直子」という名前すらすでに登場している。おそらくこれらは村上にとって、物語を紡ぐ原風景のようなものだったのだろうし、それだけにかえって、ある時期までは直接的に書くのははばかられたのだろう。

『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と、エンターテイメント作品としても完成度の高いウェルメイドな長編を経て、村上はついに『ノルウェイの森』を書く。『ノルウェイの森』はプロットとしてはあんまりな作品ともできるし(精神を病んだ女の子との悲恋と書くと、なんと陳腐に響くことか)、構成としてもいびつなものである。それでも村上は次のステップに進むためにこの作品を書かねばならなかったし、こちらに書いたように、僕はそれをあえて「蛮勇」と呼びたい。ここでもやはり名前には慎重で、余計な「記号」を負わされることを拒否するかのように「ワタナベ」や「キズキ」はカタカナで書かれ、その他の人物も多くが没個性的な名前をつけられている。「直子」という漢字からは「直線」や「直角」といった「固さ」を連想できなくもないし、それは彼女の精神を暗示しているようでもあるが、村上は漢字に過剰な意味を込めさせたくはなかったのだろう。

これ以降村上の長編作品はウェルメイドなものとは言いかねるものになっていく 。村上は『ノルウェイの森』を書くことで、自分が書きたいのは必ずしもウェルメイドな作品ではないということを意識したのであろうし、さらには自分の心象風景のコアな部分を剥き出しにして読者に曝すことをやってのけることで、過剰なまでの慎重さを振り払ったかのようだ。

そして『ノルウェイの森』の次の作品『ダンス・ダンス・ダンス』において、名前(本名)に積極的な意味が込められた「五反田君」が登場することになる(五反田君は五反田君でなくてはならない)。『ダンス・ダンス・ダンス』はそれまでの作品よりも、2000年代以降の長編に近い肌触りを持った作品であり、2000年代以降の村上の長編を予告するものであるようにも思える。

村上作品は徐々に大江健三郎化とでもいおうか、過剰なほど意味を込められたかのような名前が頻出していくようになる(『騎士団長殺し』において白髪の人物が「免色」というのはあまりといえばあまりだし、ググってもひっかからないことは仮名であることの前フリになっているようにも思えたのだが……)。

村上は『ノルウェイの森』で「蛮勇」をふるう覚悟を決め、それは何よりも、『ねじまき鳥クロニクル』を書くために必要なことであった。『ねじまき鳥クロニクル』は村上にとって総決算的な作品であり、また一人称から三人称への移行、あるいは名前の問題といったあたりでは移行期にある作品でもあった。

僕は『ねじまき鳥クロニクル』を高く評価するが、同時にあやういバランスの上にかろうじて成り立つ「志の高い失敗作」だとも考えている。村上作品にデビュー以来不気味に姿を見え隠れさせていた「悪」を正面から描こうとしたものでありながら、それを描ききれなかったという点では「失敗作」かもしれない。しかしそれに挑むという苦闘の過程こそが、この作品の価値でもあるとも思える。

『ノルウェイの森』で「蛮勇」をふるい、『ダンス・ダンス・ダンス』では奔放に物語を転がした。しかしこの奔放さというのは一つ間違うとルーズさにもつながりかねないもので、『ねじまき鳥クロニクル』ではかろうじて取れていたバランスを、その後徐々に逸していったことが文体にも表れているかのようにも思えてしまう。固有名詞にさえ慎重になるのは、どうあっても過剰な意味を帯びてしまう言葉への、そして過剰な意味を読み込もうとしてしまう読者への不信感があったとすることもできる。奔放さやルーズさというのは、このような不信感とそれがもたらす緊張感の喪失にも結びつくことにもなりかねないものだろう。

こう考えると、一人称で書かれた『騎士団長殺し』が文体的に「戻して」きたというのは個人的には非常に興味深いところであり……というのを前フリとして書こうとしたらこれだけで結構な量になってしまったので、続きは顕れるテーマ編にて


それから「文体」の問題ではなく、しょうもないことといえばそうであるのだが、村上作品における少女の変化も、いささか距離を感じるようになった要因の一つでもあるかもしれない。村上作品には物語のキーとして少女がよく登場するし、『騎士団長殺し』もそうである。『ダンス・ダンス・ダンス』のユキや『ねじまき鳥クロニクル』の笠原メイは、『ノルウェイの森』のミドリを想起させる(ちなみにミドリのモデルは村上の妻であると一般に考えられている)、気の強い「ツンデレ」風であったのに対し、『1Q84』の「ふかえり」や『騎士団長殺し』の「まりえ」は「天然不思議ちゃん」系になっている(では直子なのかというと、ちょっと違う)。個人的には前者の方に圧倒的に魅力があるように思えてしまうのだが……なんてことをおっさんが言うとキモいと思われるかもしれないが、『ダンス・ダンス・ダンス』や『ねじまき鳥』を初めて読んだ時はまだ十代だったもので許して下さい。まあそれを言えば60代後半になった作家が……というのはあまり考えないようにしませう。僕もあと何十年かたつと、「やっぱり不思議ちゃんが最高や!」なんてことになってたりするのだろうか……



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