『ミッテラン』

ミシェル・ヴィノック著 『ミッテラン  カトリック少年から社会主義者の大統領へ』




ある人物の生涯を辿ることが、そのままある時代を描くことになる存在がある。フランソワ・ミッテランはまさにそのような人物であろう。ミッテランを描くことは20世紀のフランスを描くことであり、20世紀のフランスを描くうえでミッテランという存在を欠かすことはできない。大嶋厚が「訳者あとがき」で数多くの文献に言及しているように、存命中から現在に至るまでミッテランについて膨大な本が生み出されてきた。左翼の立場から彼を高く評価するもの、右翼の立場から酷評するもの、あるいは左翼の立場から告発するもの。本書をはじめとするミッテランの伝記を読めば、これだけ評価が分かれるのは当然のことのように思えるだろう。そしてまた、政治家ミッテランのみならずその私生活等にも関心が寄せられるのは、かの有名な「隠し子」をめぐる逸話のようなゴシップ趣味にとどまらず、政治家ミッテランについて考えるには人間ミッテランについて考えることが欠かせないからでもある。

モーリアックはミッテランのことを「小説の登場人物」と評したが、もし彼の人生をフィクションとして描くならば、『市民ケーン』よろしく臨終の場面からはじめて、その生涯にまつわる謎を解明していくという手法をとりたくなってくる。邦訳サブタイトルにあるように、ミッテランは時代ごとにその立場を大きく変えたし、それはきれいに説明がつくものから謎のまま残されたものもある。彼はその中核にあるものは変わらない、首尾一貫したものを持っていたと解釈できなくもないし、またコアとなるものなど持たない日和見主義者とも映りかねない。時代、フランスの置かれた状況、そしてミッテランの人間性と、様々な要素がからみあうことで、政治家としても人間としても多面的な、捉えがたいとも見える存在となっていった。


ミッテランはカトリックの信仰篤いブルジョワ家庭に生まれた。このような環境に育った若者が保守的な政治観を持つようになるのは自然なことだったろう。後々まで、若き日のミッテランが極右だったのではないかという疑惑がつきまとうことになる。彼はアクション・フランセーズに参加していたという噂をきっぱりと否定し、人民戦線内閣ができたときには歓喜したと述べたが、前者は正しく後者は虚偽であった。ミッテランは確かにアクション・フランセーズには参加していなかった(おそらくカトリックの信仰がそれを止めたということが大きかったのだろう)。しかし火の十字団には入団していた(なお著者は火の十字団をファシスト団体とまでするのは行き過ぎだとしており、ミッテランがその過去を消そうといた理由の一つは、この団体に入ったことでファシストだったと見られるのを避けようとしたというのもあるのだろう)。そして人種差別的主張を掲げた極右のデモに参加したことさえあった。当時のミッテランを極右とまですることはできないかもしれないが、右寄りというのを超えてはっきりと右翼であったとしていいだろう。

右から左へ政治的立場を転じたといえばモーリス・ブランショがいるが、当時の二人にはやや似たところもあったかもしれない。二人には共にユダヤ人の友人がいて、そのことによって視野が広がったといったあたりも似ている。ブランショがはっきりと極右だったのに対し、ミッテランは右翼といったあたりだった。そのせいか、ブランショがその政治的立場を短期間ではっきりと転回したのに対し、ミッテランの歩みはわかりにくいものになっている。

第二次大戦が勃発し、従軍していたミッテランはドイツの捕虜となる。この捕虜収容所での体験は彼を大きく変えることになった。彼は自分にリーダーとしての資質が備わっていることを発見したし、またこれまで交わることのなかった下層階級出身の兵士を知ることにもなった。もともと保守的なカトリックとして、大企業や少数の富豪が世の中を動かすのに不快感を抱いていたことから、この体験を経て左傾化していくことになる……とできればわかりやすいのだが、ミッテランはそうではなかった。

収容所内でも保守派として知られ、ついに脱出に成功したミッテランはヴィシー政府下で職に就くことになる。これだけなら非難にはあたらないかもしれないが、彼はペタンからフランシスク勲章まで受けている。このことで戦後攻撃されると、これはレジスタンスに参加し不在中に授与されたものだと主張することになるのだが、ペタンから直接受勲した写真が出てくることになる。当時のミッテランがヴィシー政府を支持していたこともまた確かだ。そしてペタンに対する尊敬の念は消えることなく、大統領就任後にもなおその墓前に花を贈るほどだった。同時に、ミッテランは常に反ドイツでありナチに与することはなかった。

ミッテランはレジスタンスに参加することになるが、ペタンを敬愛し保守的であることとこの行動は矛盾するものではなかった。しかしまた、レジスタンス内で指導的立場につき、ロベール・アンテルムら共産党系レジスタンスとも共闘することにもなる。アンテルムの『人類』、アンテルムの妻だったマルグリート・デュラスの『苦悩』にも描かれているように、ミッテランは間一髪でナチスによる逮捕を逃れたが、アンテルムは捕らえられ、強制収容所へと送られる。こちらに書いたように、ミッテランは瀕死のアンテルムを偶然発見し救出することになるのだが、本書は「網羅的」な伝記ではないと著者が断っているように、このあたりのエピソードには軽く触れられる程度である。おそらくフランスではすでに大量の文献が出ているためであろうが、日本では必ずしもそうではないもので、この時代に関心のある者としては少々残念なところでもある。これからこの当時のミッテランやその周辺を扱った本も邦訳されていってほしい。

レジスタンスの活動を通じてミッテランが左翼となっていったのかといえば、それも違う。第二次大戦後、ミッテランは政治の世界に足を踏み入れることを決意する。彼の当時の立ち位置は、反共保守の中道右派といったあたりだろう。そして小政党所属の身軽さもあって、第四共和制時代に次々と大臣職を務めることになる。後に大統領として、世論の反対を押し切って死刑廃止を実現することになるミッテランであるが、法務大臣時代にアルジェリア紛争をめぐって下した死刑執行令は、少なからぬ人に記憶され、後々まで批判や疑念を呼ぶことになる。

ミッテランは政治的軸足を徐々に右から左へと移していった。ある瞬間に決定的な転回を遂げたのではなく、その時々の政治状況で、左に身を置いたほうが有利だという判断もあったことだろう。ミッテランは本当に左翼になったのか、それとも単に権力を取るために有利だという理由でそれを装ったのかは、様々な憶測を生んだ。著者は、徐々にではあるがミッテランは確かに左翼へとなっていったという評価をしている。いずれにせよ、このような過去から彼には狡猾なマキャベリスト、権力を得るためなら手段を選ばぬ日和見主義者というイメージがつきまとうことになる。

ド・ゴールによって第五共和制が開始されると、ミッテランはこれを激しく批判することになる。そして右派を打ち破るために欠かせない左翼の大同団結に力を発揮し、ついには自らがその中心となっていく。ミッテランは左翼となったといってもマルクス主義者になったのではない。むしろ共産党の影響力をそぎ、社会党が左翼で中核を占められるようヘゲモニー争いを繰り広げ、左翼内の闘争に勝利する。そしてついに、不可能にも思われていた第五共和制において左翼の大統領となるのであった。


初期のミッテラン政権は順調さとは程遠いものだった。政策的失敗としてはなんといっても急速に企業の国有化を進め、経済的混乱を引き起こしたことがある。ミッテランは周囲に慎重意見もあるなか、国による株式の100パーセント取得などを進めていった。ミッテランが本当に左翼なのかという疑念が常につきまとったがゆえに左翼であることを証明せねばならないという心理がそうさせたのかもしれない。その後政策的には「革命的」であることをやめ、漸進主義的な、社会民主主義的な道を模索することになるのだが、また社会党の綱領の変更は行わなかった。著者はこのあたりのミッテランの不決断が尾を引くことになると否定的に評価している。著者はミッテランが出馬した四回の大統領選挙でいずれもミッテランに投票したとしているが、熱烈な支持者というわけではなかったともしている。端々から見える著者の政治的立場は穏健左派といったあたりだろう。こういった立場からすると、ミッテランがはっきりと社民主義に舵を切らなかったことは不十分なことと映るだろう。一方でマルクス主義者や社会主義者からは、ミッテランは「現実」に屈し左翼の理想を追求することを放棄したとも映ることとなる。

このように左翼内でもその評価は揺れており、また当然ながら右翼からは基本的には否定的に評価されることになるのだが、しかし右からの評価も一定ではない。ミッテランは第五共和制が独裁化すると批判したが、自らが権力の座に登りつめるとこれを改革するのではなく、そこにすっぽりと収まって「君主」のように振る舞うことになる。議会多数派を失いコアビタシオン(保革共存)政権となり、首相となったジャック・シラクとは火花を散らすのであるが、シラクはまたミッテランに魅了されてもいた。ミッテランが「総理、もうお帰りですか」と言うと、シラクは思わず「はい、将軍……。いや、大統領」と返事をしてしまったことすらあったという。政策的には相容れない二人の間にある種の絆が生まれたのは、ミッテランの人格ゆえであろう。


政治家としても捉えどころがないように映るが、人間的にも多面的である。ブルジョワ家庭に生まれエリート教育を受けたミッテランは、気さくで親しみやすいキャラクターではなかった。政治家となり選挙でもまれることで多少やわらかくはなったにせよ、テレビ時代となった社会状況ではこの性格はプラスには働かない。しかし彼のその堂々たる威風は神秘性やカリスマ性といったものを帯びることにもなる。

本書を読むまで気がつかなかったのだが、ミッテランは極度にというほどではないが、どちらかといえば小柄なほうであった。複数人で映っている写真を見ると、確かに彼が小柄であることが確認できるのだが、僕は今までずっと、勝手にミッテランは大柄なのだと思いこんでいた。写真や映像はこれまでも見ているわけで、その身長はわかっていたはずのなのにそう思えてしまったのは、ミッテランが醸しだす雰囲気のせいだろう。

「君主」と揶揄気味に評されるのもゆえなきことではない。ここには正否両方の意味が込められてもいる。繰り返しになるが、ミッテランは気安い人付き合いをするタイプではなかった。一方で、彼はまた友情に篤い人間でもあった。そして政治的打算を超えた人付き合いをするのであるが、これは物議を呼ぶものとなることも多かった。

大統領就任後もペタンの墓前に花を贈っていたことはすでに書いたが、そればかりか、ドイツ占領下フランスにおける汚点である、ナチスに協力しユダヤ人迫害を行った中心人物ルネ・ブスケとの交遊も続けていた。ミッテランにとってはブスケは49年に裁判にかけられたことで過去の禊はすんだということだったのだろうが、ミッテランがブスケとの友人関係に代表されるように対独協力者を裁くことに否定的であったことは、彼自身の右翼でありペタンから勲章を受けたという過去も相まって強い批判と疑念を呼ぶことになる。

「君主」らしく、彼はそのような批判に動じることはなかったが、権力を持った者のこのような姿勢は腐敗を招くことにもなる。80年代後半以降、ミッテラン政権は数々のスキャンダルに見舞われることになるが、そのなかのいくつかはミッテラン自身が招いたものでもある。彼は疑惑を持たれるような相手でも切り捨てることはしなかった。権力者がこういった態度であれば、メディアへの監視や圧力という方法でこういった人物を守ろうという方向へと向かっていくことになる。ミッテランは一度友人になると、疎遠になったとしても、遠ざけることはあっても切り捨てはしなかったというが、人間的にはともかく政治家としては致命的な過ちにもつながりかねないし、実際に政権や社会党は大きく傷つくことになる。


ミッテランは常に本を手放さず、高い教養で知られた。読書趣味は政治や政策的なものよりも、文学の方を好んだ。アルジェリア問題でテロが吹き荒れたときにも、ミッテランは大臣や重要政治家として護衛がつくことになっていたが、彼はこれを拒み、自由でいることを選んだ。彼は妻の他に愛する女性ができ、彼女との間に子どもをつくることを望み、それを実行した。妻はそれを知りつつ離婚はせずに受け入れ、ミッテランは二つの家庭で生活を送った。こういったエピソードはいかにもフランス的であるように思えるし、政権末期に「隠し子」が暴露された記事を受けても、彼に近い立場の人はプライバシーの侵害であると擁護に回り、世論もこれを受け入れた。現在でもミッテランへの批判がそれほど高まらなかったことが「美談」のように扱われることが多いだろう。政治家といえども、とりわけ恋愛や家庭をめぐるプライバシーは尊重されるべきだという意見もあるかもしれないし、倫理的潔癖症を装った政争の具にされることにうんざりする向きもあろう。しかしまた、彼の大統領の任期中にもう一つの家庭を維持するために税金が使われていたことも確かである。

ミッテランは就任直後に自身がガンに冒されていることを知る。医師は余命は3か月から3年と診断したが、実際には15年ほど生きることになる。ミッテランは健康診断書の定期的公開を公約にしていたが、虚偽のものを発表し続けた。医師たちは秘かに治療を行い、この秘密を守り続け、政権末期までミッテランの健康状態は公表されることはなかった。もう一つの家庭の問題と並んで、行政のトップを務める政治家の振る舞いとしては非常に問題があったとすべきだろうし、現在ではこれが受け入れられることはないだろう。

いずれにせよ、このような政治家はフランスにおいても、ミッテラン以降は良くも悪くも登場することはないだろう。任期中その支持率は乱高下といっていいほど大きく揺れた。誰もが愛し、信頼を寄せた大統領だったとはとてもいえない。それでも、ミッテランの死後、左右を問わず、政治的意見の相違を超えて彼を哀悼するムードに国中が包まれたのは、まさに彼が最後の「君主」であったことを表しているかのようだ。


本書はまたフランスについて、そしてヨーロッパについて考えるうえでも有益なものである。フランスというと成熟した民主主義国家であったり、あるいはレジスタンス神話もあって共産党が強力であったことから左翼が強い国というイメージを持つ人も多いかもしれない。しかし実際には、第二次大戦後においても、とりわけアルジェリア問題をめぐって軍事政権ができる可能性は決して低くなかったし、ド・ゴールが独裁者として復帰するのではないかという恐れも現実離れしたものではなかった。再登場したド・ゴールは彼を待望した右翼の願いとは逆にアルジェリアを独立させることで事態の収束を図りつつ、大統領権限を大幅に強化する第五共和制を開始する。そしてこの政治体制において左翼が勝利を収めるのは不可能と見られるほど、右派が優勢でもあった。

一方で右翼の中にはド・ゴール派に裏切られたことを根に持ち続ける勢力もいた。ド・ゴール派憎しで極右が左翼連合を支持するという倒錯したことが起きることもあり、当然ながら左翼の中にはこれを拒絶すべしという意見もあったが、ミッテランは受け入れた。また邦訳に解説を載せねばならぬほどフランスの選挙制度は複雑怪奇といってもいいほどのものであり、様々な思惑から度々いじられているのだが、ここでもミッテランは極右を利することによって右翼を削る作戦を取ったこともあった。もともとが右翼で極右的人物との親交もあっただけに極右へのアレルギーもなかったのかもしれないが、こういったミッテランによるマキャベリスムがフランス社会を毒していって現在に至っているという面もあるのかもしれない。

またフランスは政治においては女性への偏見が根強くあることは現在でも指摘されている。ミッテランは91年にフランス初の女性首相としてエディト・クレソンを起用するが、これは散々な結果に終わり、クレソンは一年も持たずに退陣に追い込まれる。「ル・モンド」にすら「ねえ、クレソンちゃん、わかるかな……」というコラムが掲載されたように、彼女が「国会議員、ジャーナリスト、お笑い芸人の集中砲火を浴びた」のは、女性蔑視が背景の一つをなしていたことは確かだろう。また彼女の起用には政局をめぐる思惑もあったことから、クレソンは十分に支えてくれなかったミッテランに、自分は利用されたのだと恨みを抱くことになる。

ミッテランは政権後半にはヨーロッパ統合へ邁進し、これも彼の威信を高めることになるが、現在考えると不気味な出来事もあった。81年の大統領選挙では、「「青・白・糞」の候補を自称するお笑い芸人のコリューシュ」を一部の知識人が支持し、ブルデュー、ドゥルーズ、ガタリらが「道化師の赤い鼻をつけ、オーバーオールを着た芸人が「反糞的」公約を読み上げるのを聞いて喜んだ」。コリューシュは最終的には出馬を断念するが、一時は12.5パーセントもの支持率を得た。これはイタリアにおける五つ星運動を予告するもののようにも映る。ドイツ統一やユーゴ問題等で曲折はありつつも、ミッテランはコールらドイツの首脳とも良好な関係を築きヨーロッパ統合への道筋をつけていったのだが、その下では全てに唾を吐きかけたり、インテリ層においてさえそれに快哉を叫ぶといった、このようなマグマがフランスのみならず各地で蠢いてもいたのである。


その政治的成功と失敗、理想と狡猾さなどを含めて、ミッテランという複雑な政治家、人間は、フランスの歴史のみならずヨーロッパの現在にもなお、光と影とを投げかけているかのようでもある。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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