『未成年』

イアン・マキューアン著 『未成年』





高等法院の裁判官、フィオーナ・メイは二杯目のスコッチを手にしていた。もう一杯飲もうか。当番判事なので突然の問い合わせがあるかもしれず、深酒をすることはできないのだが、それでも今日という日はアルコールの誘惑にかられた。フィオーナの判決文は、「本人がいないところでさえ、褒められていた。歯切れのいい文章で、皮肉とまでは言えないが、温かいというほどでもなく、じつに簡潔な言葉で係争の論点を整理していた」。肯定的な意味で絵に描いたような優秀な裁判官ともいえるフィオーナがこんな心境になったのは、夫ジャックからの突然の告白だった。ジャックは結婚生活を維持したまま、若い女性と寝ることの許しを求めてきたのだった。二人の間にはもう長い間性交渉はなかった。59歳の自分は(60歳でしょ、とフィオーナは指摘する)まだ老いてはいない、最後のチャンスである今回、情熱的な関係をまたもちたいのだとジャックは言った。フィオーナは相手が誰なのかもわかっていた。それにしても、まさかこんなことを言い出してくるとは。

それでも仕事から逃れることはできない。家事部に属しているフィオーナは離婚をはじめとする訴訟を扱わなければならないが、もちろん感情的になることなどあってはならない。
夜遅く電話が鳴る。当番判事であるフィオーナへの仕事の電話だった。17歳の少年が白血病と診断されたが、両親も当人もエホバの証人の信者のため輸血を拒否している。すぐに治療をすれば助かる可能性が高いが、輸血を拒めば死亡するのは確実だという。病院側は輸血の許可を求めている。成人であれば信仰上に理由による治療の選択の権利が保障されているが、18歳未満の場合はそうではない。とはいえあと数ヶ月で成人することになる少年だ。急を要する案件で、数日内に判決を下さなくてはならない。

法廷では双方の弁護士が激しいりとりをするが、フィオーナは意外なことを求める。少年と直接会うのだという。そして病院でのこの出会いが、60歳を間近に控えた裁判官と18歳目前の少年にとって重くのしかかることになる。


フィオーナの人生は順調なものであったとしていいだろう。優秀な彼女は高い評価を受け、仕事にやりがいも感じている。長年連れ添ってきた夫との関係も良好だと思っていた。大学教員のジャックは知る限りでは浮気をしたこともなかった。一方で、中年から老人にさしかかろうとしている夫婦なら、誰もが澱のようなものがたまっていることだろう。先にそれを噴出させたのはジャックであったが、これを機にフィオーナも、自分の人生について様々な思いをめぐらすことになる。

マキューアンは綿密な取材に基づいて判事の仕事をリアルに描き出し、また得意の心理描写によってフィオーナの揺れる精神を巧みに抽出していく。フィオーナはそのキャリアからしても「平均的」や「普通」とされるような人物ではない。しかし彼女が人生を重ねていくことによって積み重ねてきた大小様々な経験の結晶は、また多くの人が共有するものでもあるだろう。二人は子どもを作らないことを決意した。しかしこの決定までには様々な曲折があった。子どもとキャリアとどちらを優先させるか。高齢出産の不安。甥っ子姪っ子たちを見て、自分の下した判断が正しかったのか考えは揺れる。代理出産はどうだろうか、養子をもらうことは。そしてもし二人に子どもがいたら、夫はこんなことを言い出しただろうか。

このような「揺れ」を描き出すことはマキューアンの最も得意とするところであろうし、本作でもそれが堪能できる。しかし後半の展開に関しては、伏線の回収を含めてメロドラマ的すぎるというか、O・ヘンリー調になっているようなところもなくはない。皮肉がかった辛辣さというのも控え目で、マキューアン作品としては少々物足りないという感じもしてしまうが、まあこれは期待の大きさゆえなのかもしれない。

宗教や法の論理をめぐる物語として、このあたりに関心のある人も興味深く読めるだろうし、やはりその技術的確かさというのは健在で、さすがのものである。

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佐藤太郎(仮)

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