『さあ、見張りを立てよ』

ハーパー・リー著 『さあ、見張りを立てよ』




『アラバマ物語』で描かれたあの日々から約20年の時が流れた。スカウトことジーン・ルイーズは26歳になり、一人ニューヨークに住んでいる。兄のジェムは心臓の発作ですでに亡くなっており、風変わりな親友ディルはヨーロッパに行ったきり戻ってこず、70歳を越えたアティカスは弁護士を続けながらも、関節炎に苦しんでいた。
ジーン・ルイーズは毎年帰省していたのだが、1956年のこの年は、これまでとは何かが違っていた……


すでにそのセンショーナルな内容は広く報じられているのでぼかす必要はないだろう。ジーン・ルイーズは、あれだけ尊敬していた父アティカスが人種差別にどっぷりつかり、差別団体の集会にまで顔を出しているという恐ろしい現実を突きつけられることになるのであった。

上岡伸雄による「訳者あとがき」に本書の成立、出版過程について簡単に触れられている。本作は「『アラバマ物語』の続編として構想されたのではなく、『アラバマ物語』を推敲していく過程で放棄した原稿をまとめたものだという(そのため、ところどころ『アラバマ物語』と重複する文章がある)」。
編集者の助言によって「現在」を扱った部分を放棄し、過去を回想する部分のみが抽出されたのが『アラバマ物語』で、残された「現在」の部分がこの『さあ、見張りを立てよ』である。

『アラバマ物語』、およびこれを原作とした映画はアメリカ人にとってまさに国民的物語となっていく。「現在」のパートが一緒に発表されていればそうなるのは難しかったであろうことが推測できるので、そういう点ではこの編集者は慧眼の持主だったしてもいいのだろう。

スカウトとジェム、ディルらの姿は、南部出身者以外にも微笑ましいノスタルジーを呼び起こす。そしてアティカスは、映画ではグレゴリー・ペックが演じたというその視覚的イメージもあいまって、アメリカの理想を体現するかのような人物として受け入れられた。アメリカには確かに不正義が数多くある。しかし、理想を抱き、公正にして不屈、そしてユーモアをも兼ね備える暖かな精神を持つアティカスのような人物が、弁護士として法廷でその不正義に立ち向かい、これを乗りこえていく。まさにこれ以上なくアメリカ的物語であった。

リーはなぜ『さあ、見張りを立てよ』をなかなか刊行しなかったのだろうか。一つには、『アラバマ物語』があまりに巨大な成功を収めたせいもあるだろう。結局リーは、プレッシャーもあって続編どころか新たな作品を発表することさえできなかった。そして上岡がもう一つ推測しているのが、「時代が急速に進んだ」ことである。公民権法などが成立した60年代半ば以降にもなれば、50年代の南部の雰囲気を描いた小説は過去のもの、今さらながらと感じられるおそれがあっただろう。ほぼリアルタイムの時事性を取り入れた作品だけに、その分ほんの数年で古びてしまいかねない。

原稿はそのまま放棄されていたのだが、2014年に発見され、リーが出版に同意したことでついに日の目を見ることになった。
この出版の経緯については様々な憶測が飛び交うことになったが、本作を読むと、やはりリーはこの作品を世に出すべきだという確信を持ったうえで出版に同意したのではないかと思えてくる。これを生前に出すというのは彼女なりのけじめであったのかもしれない。さらには、過去の遺物とも受け取られかねなかったこの物語は、発表された2015年というよりも、2016年11月のあの大統領選挙の結果を受けて、極めてアクチュアルな作品になってしまったかのようにも感じられてしまう。


「誠実さ、ユーモア、辛抱強さこそ、アティカス・フィンチを表す三つの言葉だった」。
偏見や周囲の白眼視にも屈せず、法廷で黒人男性の冤罪をはらしたアティカス。その彼がなぜ変質してしまったのか。いや、あるいはアティカスは変わってなどいなかったのかもしれない。1930年代の南部で人種問題に「穏健」だった人は、50年代から見ると良識的どころか差別的に映ることだろう。そして50年代に「穏健」であった人も、後世から見ればまたそう映るはずだ。

アティカスを含め町中に蔓延する人種差別に嫌悪感をつのらせるジーン・ルイーズであるが、彼女の南部の黒人に対しての視線も、現在からすればかなり問題があるとされるだろう。またジーン・ルイーズは、差別に反対しつつも、最高裁判決や連邦政府の決定など、上から(つまり北部から)差別是正政策が押し付けられることや、急速に差別を解消させようという世の中の流れには心理的な反発を抱いている。リー自身もこのように感じていたようであるし、かつての南部の穏健な反差別主義者が現在からすれば差別主義者と五十歩百歩に見えかねないというところもあるだろう。そういった点でも本作は執筆時より現在読むことで、かえって興味深いものとなっている。


以前にも書いたが、トランプの主張や手法に新しさというのはまったくない。アメリカのポピュリズムの歴史をたどれば、彼とその周辺はあちらこちらからつまみ食いしているだけだというのは明らかである。それだけに文字通りの意味で矛盾だらけで、両立しない政策を同時に掲げることになっている。

その中で、トランプの主張にかなり近いのが、かつての南部民主党員たちだろう。農本主義に基づき経済政策としては保護主義、熱心な(というか頑迷な)キリスト教保守派で、人種差別的。公民権法成立によって完全に民主党を見限ったこういった人々を共和党が拾い上げることで、かつては民主党の牙城であった南部は共和党の大票田となった。

差別心を煽ることで、貧しい白人たちも被っているはずの不公正、不平等から目を背けさせ票を稼ぐというのは、共和党がこの数十年に渡って行ってきたことである。2016年の大統領選挙では、「ラストベルト」と呼ばれる北部の製造業を担ってきた地域でも、このような手法が「有効」になってしまった、とだけするのはもちろん粗雑な分析であって、実際はアッパーミドルや富裕層が私的利益を優先させたという面が大きかったことも忘れてはならない。今回の大統領選挙については、収入や学歴よりも、人種、年齢、居住地域によってその投票先が大きく分かれたとしたほうがいいだろう。端的にいえば、非大都市に住む白人中高年層が主なトランプ支持者であり、ここに前述の公益よりも私益を優先させる人々が加わったとするのが最大公約数的解釈だろう。

非大都市に住む白人中高年層の多くが、なぜあの下劣にして支離滅裂な男に煽動されてしまったのかといえば、それは彼らの内に潜んでいた差別意識を正当化するものが得られたからであろう。それは自らを被害者の立場に置くことである。これもまた共和党が長年に渡って繰り返し「犬笛」を吹いてきたことでもある。

ホフスタッター的文脈における反知性主義とは反権威主義のことでもあり、エリートや官僚への反発へと結びつく(これは多くのEU加盟国で起こっていることでもあり、日本の場合はむしろ「お上」にまかせておけばいいという意識が広まっているのであって、ホフスタッター的文脈における反知性主義とは別のものであるともできる)。一部の特権的な「リベラルエリート」によって「普通の人々」が大切にしてきたものが脅かされている、このような被害者意識は人種差別に嫌悪感を抱くジーン・ルイーズに(そして一部はリーにすら)共有されている。

ティーパーティーを「白人最後の悪あがき」と評した人がいたが、トランプ支持者の、もちろん全てではないが、多くを表すのにこれほどふさわしい言葉はないだろう。このままではアメリカ合衆国が白人(男性)のものでなくなってしまう! そんなことには耐えられない! これが倫理的に堕落しきった、支離滅裂で矛盾する政策を平然と掲げるトランプを支持できてしまう人の多くの根っこにある。

メキシコからの「不法移民」がもたらす安価な労働力によって自分たちが恩恵を受けていることは、アメリカ人なら誰でも知っている。例えばレストランで働くこういった人々が全員追放されれば、そのレストランの値段がどうなるかに気づかないアメリカ人などまずいない。メキシコ人叩きは少なからぬアメリカの白人にとっては娯楽であり、さらには被害者感情によってそれを正当なものだと強弁することができることになる。英語ができない奴はアメリカに来るな、学校で英語ではなくスペイン語で(あるいはその他英語以外の言語で)授業が行われるのはおかしい、こんなプログラムに税金が支出されることに納得いかない、こういった主張の裏にあるのが、このままではアメリカが白人のものではなくなるという被害者意識である。

黒人の血を引く、超のつくほどのインテリであるオバマが大統領になったことで、こういった層の被害者意識は活性化されていき、はたから見れば「逆ギレ」に過ぎないのであるが、心置きなく自らを脅かされる被害者の立場に置き、そして恥じることなくトランプを支持できるようになる。

脱線してしまったが、『さあ、見張りを立てよ』はまさにこのような、依然としてマジョリティであり、政治的、経済的にも恩恵を引き続き受けているはずの白人が自らを被害者の立場に置き、差別を正当化する心理が克明に描かれている。リーがこの小説で描いた50年代の「現在」は、あたかも2010年代の「現在」を予言したかのようにすら思えてきてしまう。


「私があそこにいた理由は二つある。連邦政府とNAACPだ。ジーン・ルイーズ、最高裁の判決を聞いたとき、真っ先にどういう反応をした?」
差別団体の集会に出ていたことを娘から問い詰められると、アティカスはこう返す。ジーン・ルイズですら最高裁が南部社会に介入してくることに不快感を抱いていることを突いたのだ。このように、最高裁や連邦政府と並んで、この町の人々が神経を尖らせる組織がNAACP(全米黒人地位向上協会)である。

もちろん30年代も差別は激しかった。しかしまともな人であれば人前で「ニガー」などとは言わなかった。なのに今(56年)では、「普通の人々」までもが平然とこの言葉を口にするようになってしまった。とまどうジーン・ルイーズに対して、多くの人が時代が変わったのだと言う。

アティカスは、NAACPに雇われた黒人の弁護士が黒人が白人相手に重罪を起こすのをハゲタカのごとく待っているのだと言う。彼らは陪審員に黒人を加えるよう要求し、判事のミスを誘おうとし、事件を連邦最高裁まで持っていこうとする。「知っている限りの合法的手段を使って」。
かつて法廷で黒人男性の無罪を勝ち取ったアティカスがこのような主張をしているのである。ジーン・ルイーズがNAACPの活動はアラバマで禁止されているという事実を指摘すると、「君は知らないんだよ、アボット群で似たようなことが起きたときにどうなったのか。(……)この辺で流れを食い止めないと」とアティカスは言うのだった。

アティカスのような人は、30年代に黒人が隷属的立場に置かれていた自分たちの地位をおとなしく受け入れていた頃は、彼らが(ある程度の)正義を得られるよう協力することにやぶさかではなかったのだろう。しかし堂々と権利を主張するようになると、これに拒絶反応を示すようになったのである。

人種差別、性差別、宗教差別は、かつては平然と行われていたが、2016年にはこれらは許されないものというコンセンサスがアメリカ社会にはできていた。さらには同姓婚など、数十年前には考えられなかった権利まで認められるようになった。このような社会の変化を耐え難く感じていた人々は、自分たちこそが迫害される側なのだと考えトランプ支持に走るのであるが、こういった現象は南部では過去にすでに起こっていたのだということを、この作品は炙り出している。

また50年代といえば赤狩りの時代でもある。この町の人々は当然のごとく共産主義を目の敵にしている。そしてNAACPに共産主義とのつながりを見出し、さらなる被害者意識にかられる。彼らの被害妄想は「国を守る」という愛国心によって強化され、差別を正当化する。

「北部で活動しているニガーたちはガンジーがやったみたいにやろうとしているんだって」と言うヘスターに、ジーン・ルイーズがどういうこと?と訊くと、彼女は「共産主義よ」と答える。

「いったいどこにいたの、ジーン・ルイーズ」とヘスターは呆れる。「彼らは自分たちの目的のためなら手段を選ばないのよ。カトリックの連中と同じなの。(……)黒人を改宗させるためなら、聖パウロは皆さんと同じニガーだったって言いかねないわ。(……)共産主義も同じよ。彼らは国を乗っ取るためなら何でもするの。それがどんなことであってもね。しかもそこらじゅうにいて、誰がそうで誰がそうじゃないかがわからないのよ。ここメイコム郡にだって――」。
「共産主義者がメイコム郡をどうしたいっていうの?」とジーン・ルイーズは笑ったが、「わからないわ。でもタスカルーザに組織があるっていうのは知ってる」と言い返される。ジーン・ルイーズは「ついていけない」と嘆息するのであった。

ガンジーを共産主義者として非難し、カトリックと共産主義を同じ穴の狢扱いするという滅茶苦茶な世界観であるが、自分たちの敵はすべて裏でつながっていていて陰謀を張り巡らせているのだという被害妄想もまた、現在でも世界中で広く見られるものだ。その結果、論理的整合性を追及するなら否定的に評価すべき存在まで敵の敵は味方と肯定してしまうのは、トランプ支持者やヨーロッパをはじめとする世界各地の極右がプーチンをどう評価しているかを見れば、過去のことではない(最早自国を最優先させる「愛国者」ですらないのである)。もちろんというべきか、日本の極右も、東洋人など差別される側であるにも関わらずトランプに、そして日本の「国益」と矛盾しようとも、プーチンに圧倒的な好意を寄せている。

またヘスターは「 いったいどこにいたの」と言うが、ジーン・ルイーズはここは同じアメリカ合衆国とはいえ、ニューヨークとはまるで違う世界なのだということを突きつけられる。獄部、とりわけニューヨークと南部のように、地域による意識の差も、アメリカはもともと危険な水域に達していたといっていいほどにあった。


自分の娘に対して「NAACPの会員証は持ち歩いているのかな」とすごんでみせるアティカスの姿も衝撃的であるが、ある意味では最も深刻に映るのは、アティカスの弟のジャックかもしれない。彼は理路整然と南部のメンタリティーを分析してみせ、そのうえで正当化するのである。

「国の他の地域を見てごらん。ずっと前から南部のことなど無視してずっと先を考えている」とジャックは言う。「由緒ある慣習法上の財産権の考え方」が失われたのだと彼は嘆く。貧しい人たちが立ち上がり、当然の報酬を得るだけでなく、「ときにはそれ以上を得た」。そして「金持ちは余分な報酬を得ないように制限された。老齢という北風からは守られている。自分の意思で守られているのではなく、国民を信用しない政府によって守られている。国民が自分で老後のための貯えをするとは思えないから、無理に貯えさせてやるというわけだ」。

このあたりは、連邦政府を信頼せず、税金と再分配政策に憎悪をたぎらせるアメリカの保守のメンタリティを代表したようなもので、トランプ支持者の一部にもこれは共有されている(もちろん介入主義、保護主義を唱えるトランプはこれと真っ向から対立するのであるが、そのような矛盾を気にするようではトランプの、そして共和党の支持者などやってられないのである)。

ジャックはまた「原子力の時代」に「新しい階級の人々が出現したことに気づかなかったかな?」と姪に問いかける。
「小作人はどこに行ったんだ? 工場だよ。作男たちは? 同じところだ」。こうして南部ですら農業中心から工業社会に移り変わることで、南部は悪しき変化を遂げたのだとする。
「自由」を重んじるはずのアメリカの「保守本流」とは異なるトランプ支持者は、アメリカを守るために政府が介入してでも工場を守れとするのであるが、ではジャックのこの発言と対立するものなのかといえばそうではないだろう。かつての南部の白人にとっては農業が工業に移り変わることで「古き良き」アメリカの南部が失われたと思えた。そして現在の北部製造業のかつての担い手たちには、工業がサービス業や金融業などに取って代わられることで「古き良き」ものが失われていると映る。「ラストベルト」が失業者で溢れ返っているのかといえば、必ずしもそうではない。現在より状況が悪い時でも民主党を支持してきたはずの人の一部がトランプ支持に走ったのは、失業そのものよりも、時代が移り変わっていくということへの恐れと警戒心と拒絶感だろう(もちろん、仕事は選ばなければあるにしても、とりわけロウワーミドルの人々が厳しい生活を強いられていることもまた現実であり、民主党がこれらの人々の苦境を軽視しがちであったこともまた確かでもあるが)。
こういった人々は、個々の政策に一致点を見出しているのではなく、間違った方向に時代が動いているという危機感と被害者意識を共有してるので、互いに矛盾し合いながらも政治行動を一致させられることになる。

ジャックが嫌悪感を抱くのは、「父親的温情主義と、金をばらまく政府」である。「こうした人たちは連邦政府の掌中の珠ってやつさ。政府は彼らが家を建てるように金を貸す。軍に奉仕すれば無料で教育を受けさせてやる。老後の貯えもしてやるし、失業すれば数週間は面倒を見てやる」。
大きな政府とそれが行う社会保障こそがジャックには何よりも忌むべきものなのであり、ティーパーティーに典型的なように、アメリカの「保守」に流れ続けているものである。またここに由来する、自分たちが得た金が税金として不当に徴収され、政府に頼ることばかり考える寄生虫的人間に奪われているのだという「保守」の被害者意識は、その差別意識と相まっての攻撃性が増していく。

ジャックは「この国について俺がただ一つ恐れているのは、その政府がいつの日か大きくなりすぎて、国で一番ちっぽけな人がつぶされてしまうってことだ」とする。
ここはアメリカの保守とトランプ支持者を本来なら分けるところであるはずで、トランプは福祉国家とはまた別の次元で「大きな政府」を作ろうとしているのであるが、ではこれに保守の側が徹底して抗しようとしているのかといえば、とてもそうは見えない。そしてこのような欺瞞はトランプ現象に始まったものではなく、ここ数十年の共和党支持者全体に見られることである。

一つには私的な利益を優先させるという行動に表れている。連邦政府が妊娠中絶のようなプライベートな領域にまでずかずかと足を踏み入れようとも、企業や富裕層の税金を安くして、金融や環境にまつわる規制を緩和してくれさえすれば、それは「小さな政府」ということにしてしまうのである。

そしてもう一つが、シニシズムだろう。
「南部はいま最後の産みの苦しみの真っ只中にいる。新しいものを産み出そうとして、俺の気に入るものかどうかはわからないが、産まれた頃には俺はいないだろう」。
「俺や兄貴のような人間は時代遅れで、そろそろ退場しなきゃいけない」と、ジャックは悟ったようなことを言う。しかし同時に、「この社会に関して意味のあるものまで俺たちといっしょに消えるんだったら、それは残念なことだ――ここにはよい部分もあったんだよ」ともする。
リベラルが政治的勝利を収め自分たちが望まない方向に世の中が動くくらいならこの世の中が滅茶苦茶になった方がマシだという、無力感に包まれつつシニカルなせせら笑いを浮かべる保守主義者は、トランプ支持者の中にも少なからず含まれている。


ジャックは自分こそが、アメリカの理想をわかっているのだと考えているかのようだ。そしてアティカスのようにこの町でNAACPと共産主義に憎悪の炎を燃やす人々も、自分たちこそがアメリカの価値観を体現し、守っているのだと考えているのだろう。

「私は時代遅れの人間だが、これだけは心の底から信じている。私はジェファソン的民主主義者なんだ」とアティカスは言う。「ジェファソンはこう信じていた。完璧な市民権というのは各自が獲得しなければならない権利であり、気軽に与えられるものでも得られるものでもない。ジェファソンの目から見れば、人は人だからってだけで投票できるのではなく、責任のある人でなければならないんだ。ジェファソンにとって投票権とは、人が自分で勝ち取った貴重な権利なんだよ――“おのれも生き他人も生かせ”という経済体制においてね」。

アティカスにとって、南部の「怠惰」で「遅れた」黒人は投票権を得るのに値しない人々なのである。そして北部のエリートやNAACPはそんな事情もおかまいなしに、(アティカスから見れば)アメリカ的価値観を逸脱した平等思想を押し付けてくる。しかも投票権をはじめとする公民権の問題だけでなく、「おのれも生き他人も生かせ」という経済体制は福祉国家化によって失われようとしているではないか。アティカスも弟と同じように自分が「時代遅れ」であることはわかっている。それでも、「放っておいてもらいたいという気分」なのである。「この“おのれも生き他人も生かせ”という経済体制において、自分のことは自分でするよ。自分の州の運営に関しても、放っておいてもらいたい」。

アティカスはこのような考えを持つ自分が「上流気取りの嫌なやつ」であることを認めている。ではなぜその「上流気取り」の彼が、うさん臭い、下劣極まりない人間が集まる差別主義者の集会に顔を出せるのであろうか。
「では、これを考えてくれ。南部の黒人がみんな、突如として完璧な市民権を与えられたらどうなる? 教えてあげよう。また再建時代が始まるよ。州政府の運営を、その運営の仕方がわからない人たちに任せたいかい? この町の運営を――ちょっと待って――ウィロビーは詐欺師だ、それはわかっている。だが、黒人でウィロビーほどに物をわかっている人を知ってるかな? ジーポがメイコム町長になるようなもんだよ。ジーボ程度の能力の人に町の財政を担ってもらいたいかい? 白人は数で負けているからね」。

「数で負けている」白人が権力を持ち続けるためなら、「詐欺師」だとわかっている人間のことだって支持できてしまう、それが時代の変化に直面したアティカスが辿り付いた境地であった。これはまさに、民主党には何があろうと勝たせないためにトランプのような人物にも平然と投票する共和党員の姿を見るようでもある。

アティカスにとって南部の黒人たちは「国民としてまだ児童のようなもの」だった。それでも進歩を遂げていたし、少しずつ前進していたにも関わらず、NAACPが入ってきて「途方もない要求をし、粗悪な州政府を作ろうとした」ことが受け入れられないのだとする。「こちらの日常の問題をまったく知らない人たちから、こちらの人々にああしろこうしろと言われ」た結果、「南部の白人たちが怒ったとしても、彼らを責められるかい?」

これを「アメリカの白人たちが怒ったとしても、彼らを責められるかい?」と置き換えれば、「白人の苦境」にばかり焦点をあて彼らへの同情を喚起することで議論をミスリードさせ、トランプ支持者を被害者なのだとして擁護し、差別を正当化しようとする声と重なる。


トランプの主張が新しいものではないように、こうした現実を切り取ったリーのこの感性もまた、新しいものではない。『風と共に去りぬ』でスカーレット・オハラが憎悪を燃やすのは、「ヤンキー」とつるんでビジネスや政治に乗り出そうとする黒人である。オハラは黒人の触った物には触れられないといったタイプの人種差別主義者ではない。黒人たちが奴隷という地位を受け入れて、白人におとなしく服従している限りにおいては、それなりの扱いをするのにやぶさかではない。しかし黒人たちが権利を主張しようものなら、憎悪のあまり呪い殺さんばかりとなる。しかし彼女が何よりも憎むのは、黒人たちをそそのかしたぶらかすヤンキーどもである。

アティカスは30年代には差別にさらされる黒人たちにシンパシーを寄せているかのようだった。50年代に公然たる差別主義者となっているのだが、彼はかつての自分を否定し、新たな価値観を身につけたとは考えてないだろう。変わったのは時代の方だと思っている。アティカスは人種主義に基づき黒人の能力を低く評価しており、黒人を対等の存在とは認めていないが、彼が憎むのはその「劣った」黒人たちではなく、そのような黒人をそそのかし、たぶらかすNAACPであり、「現実」も知らずに社会変革を迫る北部人(ヤンキー)、連邦政府、最高裁である。アティカスは百年前に生まれていれば「いい奴隷主」であり、オハラのように南北戦争で全てを失い、ヤンキーに憎悪を燃やしたことだろう。

ヤンキーに不当にも虐げらる南部という物語は、2016年には虐げられる白人の物語へと転化して、北部の一部にも受け入れられるようになった。アメリカ的価値観を否定しているかのように映るトランプであるが、その支持者たちからすれば、むしろ自分たちこそがアメリカ的価値観を体現しているのだと思っているのだろうし(Make America Great Again!)、だからこそ、正しいはずの自分たちが不当に迫害されているという物語を進んで作り出し、受け入れていく。

マーガレット・ミッチェルはオハラや南部を告発したのではなく、失われた「騎士道精神」へのノスタルジーで作品を包み込んだ。リーは50年代当時としては、「穏健」な立場で南部の人種差別と対峙しようとした。この点で両者はイコールではないものの、『さあ、見張りを立てよ』のその結末では、結果としては両者がかなり接近しているような印象もある。

「アメリカの分断」は今になって始まったのではない。東部と西部、北部と南部、あの広大にして多様な地域を一つの国とするのに無理があるといえばそうかもしれないが、それでも一つの国であることを可能にしてきたものは、独立宣言と合衆国憲法が生み出す神話であり物語である。アメリカでは、保守派もリベラル派もともに憲法を擁護し、我こそは憲法の精神、つまりアメリカの精神を体現しているのだと主張する。アメリカという正しい物語を紡いでいるのは自分たちだという争いはまた、アメリカ合衆国の歴史そのものでもある。


正直にいえば、『さあ、見張りを立てよ』は、小説単体の出来としては傑作とはいいかねる。それでも、やはり『ラバマ物語』とセットで読むと、より一層「アメリカとは何か」を考えさせる作品となっており、アメリカについて考えるうえでは必読であろう。そして皮肉なことに、2015年になって出版されたことにより、現在さらなる今日性を帯びたかのようでもある。


ところで、これと合わせて『アラバマ物語』の新訳も出てくれればと思ったのだがそうはならなかったようで。版権がどうなっているのか知らないが、「新訳ブーム」でもあるのだし、ぜひとも実現すべきだと思うのだけれど。



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