『『羊の歌』余聞』

加藤周一著 鷲巣力編 『『羊の歌』余聞』




加藤の40歳までを描いた自伝『羊の歌』の英訳が刊行される際に書かれた、『羊の歌』以降を振り返った「『羊の歌』その後」をはじめ、「この『羊の歌』に連なる著作や対談・講演、すなわち、自伝的性格を帯びる著作や対談・講演を編んだのが本書である」(編者解説)。


1972年に書かれた「私の立場さしあたり」に次のような箇所がある。

 民主主義は程度の問題である。もう少し話をせばめて、たとえば「言論表現の自由」もまた、程度の問題である。したがって、戦後日本社会が民主主義的であるか、ないか、という問いに、意味があるとは、私には考えられない。意味のある問いは、戦後日本社会が、どの程度に民主主義的であったか。将来この社会をより民主主義的にする道がひらけているか、どうか。それとも今日の状況は、不可避的に、社会をいよいよ非民主主義的にする方向に動いているのか、ということである。前者の道がひらけていれば、先へ進む、後者の状況が現実ならば、抵抗して現状をまもる、――他にすることはなかろう。これが私のいわば「政治」的信条の要旨である。そのためには、当人なりの民主主義の定義を必要とするが、民主主義的ユートピアの実現の可能性を、信じる必要はない。
 私の民主主義の定義は、実践的な目的のためには(理論的な目的のためには、ではない)、甚だ簡単である。強きを挫き、弱きを援く。日本国内で、できるだけ支配層の権力を制限し、人民の権利そのもの、その行使の範囲を拡大すること。国際的には、工業先進国による後進社会支配の現状を破ること。
  (pp.323-324)


加藤はこう続けてもいる。そのように定義した民主主義に近づくために何ができるかの戦略についての自分の意見は、わからぬことが多すぎるために簡単ではない。自分一人に何ができるのかについては思いわずらうことはない。というのもはじめから自身に多くのことを期待しないために、世の中が自分の念願と逆の方向に動いても「挫折感」は覚えないし、念願の方向に動くよう何万分の一かの貢献をつづけるだけであるとし、こう書いている。

「また貢献のし方は、人によってちがうのがあたりまえだ、という立場をとるから、勇気凛々として陣頭に立つ人々に感心はするが、みずからそうでないことに、ほとんど全くうしろめたさを感じない。私にできることをしてみずから足れりとするのである」。

加藤は晩年には九条の会の呼びかけ人の一人を務めることになる。民主主義への考え方については、九条の会に参加する約30年前に書かれた文章と変化はないのだろうが、「貢献のし方」については変化が生じたのかもしれない。加藤にそうさせた危機感がよく表れているのが、2002年に書かれた「それでもお前は日本人か」だろう。

「それでもお前は日本人か」はこう書き出されている。

「昔一九三〇年代の末から四五年まで、日本国では人を罵るのに、「それでもお前は日本人か」と言うことが流行っていた。「それでも」の「その」は、相手の言葉や行動で、罵る側では「それ」を「日本人」の規格に合わないとみなしたのである。その規格は軍国日本の政府が作ったもので、戦争を行うのに好都合にできていた。日本人集団への帰属意識を中心として、団結を強調し(「一億一心」)、個人の良心の自由を認めず(「滅私奉公」)、神である天皇を崇拝する(「宮城遥拝」)。そういう規格日本人集団に属さない外国人または外国人かぶれの日本人はすべて潜在的な敵であった(「名誉ある孤立」)。国際紛争は、武力による威嚇又は武力の行使によって解決する(「撃ちてし止まむ」)。多くの日本人はそういう規格に合わせて生きてきたのである」。

そして宗左近の『詩のささげもの』の中から、加藤とも親交の深かった白井健三郎のあるエピソードを引いている。宗が召集令状を受けその歓送会で、当時東大法学部の学生だった橋川文三ともう一人その同級生が、当時海軍軍令部に勤めていた白井に食ってかかり、「きみ、それでも日本人か」と言いだした。白井は落ち着いて「いや、まず人間だよ」と答えたという。

「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」
「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」
「何て非国民! まず日本人だぞ」
「馬鹿なこというなよ。何よりもさきに、人間なんだよ」
橋川らは殺気だち、「そんな非国民、たたききってやる」と叫んだが、同席していた友人たちが間に入って暴力沙汰にはいたらなかったそうだ。

「初めて知ったこの問答は、四五年以前の日本国において、実に典型的であった。「それでも日本人か」は修辞的質問にすぎず、実は「それならば日本人ではない」というのと同義である。すなわち「非国民」」。

この晩白井は二人に対していたのではなく、「ただひとり社会の圧倒的多数意思に対抗していたのである」。その多数意見は官製であり、「「まず日本人」説を主張するのは多かれ少なかれ大勢順応主義であり、当人が自覚しようとしまいと、権力順応主義でもあった。そこに同調せず自説を曲げなかった白井の精神の自由を私は尊敬する」。

そして加藤はこう書いている。
「「まず日本人」主義者と「まず人間」主義者との多数・少数関係は、四五年八月を境として逆転した――ように見える。しかしほんとうに逆転したのだろうか。もしそのとき日本人が変ったのだとすれば、「それでもお前は日本人か」という科白をこの国で再び聞くことはないだろう。もしその変身が単なる見せかけにすぎなかったとすれば、あの懐かしい昔の歌が再び聞こえてくるのも時間の問題だろう」。


徐京植との対談、「教養に何ができるか」を読むと、加藤の生い立ちやその教育を様々な人物と比較したくなってくる。

加藤家は地主であり、戦後の農地改革で貧しくなったのかもしれないが、次男であった加藤の父は本家とは切れていたので影響は被らなかった。しかし父の家は医者を始める際に祖父に土地を買ってもらっていたものでもあった。つまり、「その土地は祖父から来たものです」。

「そういうことを考えると、私は、埼玉県の地主が持っていた財産で東京の土地を買って、その土地を売って買い代えた土地にいま住んでいるということで、一般の市民にくらべて私は、言ってみれば不当な恩恵を受けていたと思いますね。どうして埼玉県の地主が豊かであったかというと、それは小作人を搾取していたからでしょう。ところが、小作人搾取の結果がある程度まで私のところに来ているのだから、ちょっと後ろめたいです」。

加藤がこの「後ろめたい」気持ちを持てたのには、父の教育も影響していたのだろう。地主の息子で医師となっている父からすれば、息子を早くから私立学校に入れて英才教育をしたいという気を起こしそうなものだが、そうはしなかった。

「父は子どもを特殊な学校には入れなかった。だから私は、普通の町の小学校に通いました。比較的中産階級以上の家の子どもたちが通う特殊な学校に行くと、普通の庶民と直接接しないでしょう。子どものときからそれではまずいというのが、父の考えでした」。

小学校の同級生の中に、他の子とは段違いに勉強ができる男の子がいた。
「その子どもは、中学校から高等学校へと上ったのではなく、高等小学校へ行って家業を、大工さんだったかと思いますが、継いだ。私の家では、子どもを大学まで送ったわけだから。それはまったく本人の力ではないということは私自身がよく自覚していて、思い出して『羊の歌』にそのことを書いたんです。それは非常に強い印象を受けました」。

さらに加藤はこんなことも思い出している。
「家は渋谷にありました。散歩に行くと、道玄坂では夏は氷屋とかが出ているわけ。ハチ公がいたところです。散歩に行くと氷屋の息子の同級生がそこで氷なんかを売っている。そこで氷を買って飲むというような感じがね、学校にいるときは平等という感じだけれども、夜になると彼は街で氷を売っている。こっちは働いていないわけだから、そういうところで差別があるということを理解したな、小学校の時に完全に理解しましたよ、不当なる差別だということを。私の父は子どもに理解させることが大事だと思ったんですね」。

子どもがどんな家に生まれるのかを選べるわけではないので、金持ちや特権的な家庭に生まれたことをもってどうこう言うべきではないのはもちろんである。しかし社会の現実から切り離されたような生活を送り、同質的な人間に囲まれた教育を受けてしまうことの危うさは、とりわけその家庭が権力に近いものであればあるほど、強調し過ぎるということはないだろう。


ところで、「教養に何ができるか」にはこうある。

父は開業医であったが文学にも興味を持っており、若い頃にはアララギや明星のグループともつき合いがあった。そして周一少年はこう気づく。

「それで、文学というものには古典がたくさんあって、トルストイとかドストエフスキーとかシェイクスピアとかがあるでしょう。それを聞いたこともなく、一冊も読んだこともありませんっていうのでは友だちとまともな会話ができない。こりゃ大変だということになってね。とても英語では読めない、ロシア語はまったく知らない。そこで、古典は岩波文庫で読みました。ある時期、高等学校の一年か二年のときだったか、「一日一冊主義」という目標を立てたんです。手当たり次第にとにかく一日一冊何かを読むことにしたんですね。日本語だからできないことはない。だからそのころは外国語の本は読みませんでした。外国語の本は時間がかかって、とてもじゃないけど一日一冊主義なんてできませんから。それでいくらか読んで応急手当をして、それが私の教養の出発点になったのかな、と思いますね。/でもそれは「又聞き」とは違うんです。シェイクスピアについての本やシェイクスピア物語とかではなくて、直に、とにかくたとえ翻訳でもはじめから終わりまで一つの芝居を読むということは、やはり大きいと思います」。

加藤にとって精神的な師の一人ともいえる渡辺一夫については本書でも幾度も言及されているが、『狂気について』に収録されているエッセイでも加藤と同じような焦燥感に触れられている。こういったものが健康なものであるかどうかについては意見が分かれるところであろうが、「教養」への強迫観念的焦燥が1970年代あたりからほころび始め、80年代から90年代にかけて完全に崩壊してしまった後に育った人間からすると、「若い頃にもう少しでも古典を読んでいれば……」と後悔することしきりなもので、ある程度の教養主義的プレッシャーというのはあったほうがいいのではという気にもなってくるのであるが、もっとも実際にそういったものがあったらむしろ反発して「古典なんぞなんぼのものじゃい」となるようにも思えてもしまい、どっちにしろ古典をまともに読むことなんてなかったのだろうとも思ってもしまうところでもあるが。


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佐藤太郎(仮)

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