『橋川文三  日本浪曼派の精神』

宮嶋繁明著 『橋川文三  日本浪曼派の精神』





加藤周一の『『羊の歌』余聞』には、宋左近が召集令状を受け、その歓送会で白井健三郎と橋川文三が一触即発の言い争いをしたエピソードに触れられている。当時日本浪曼派に浸かっていた橋川らが「きみ、それでも日本人か」と言い出し、これに対し白井は「いや、まず人間だよ」と答えたという。

この有名なエピソードは当事者たちを含めて多くの証言があるが、その内容は様々である。真相はどこにあったのだろうか。
本書では橋川の生い立ちから大学専任講師になる60年代前半までが扱われている。著者の宮嶋繁明は学生時代から橋川に師事しており、橋川に好意的な視点から描かれているのでその点は少々注意を必要とするだろうが、橋川の前半生を丹念に追った労作になっている。

橋川は保田与重郎の影響もあり、「戦争と死を自明としてうけいれ、それ以外の現実を想像することはない人間だった」と振り返ることになる。祝詞を唱えるような日本主義的右翼ではなく、「私たちは死なねばならぬ!」という日本浪曼派的美意識を内面化していたのであった。

皮肉なことに、戦争で死ぬことを求めていた橋川は徴兵検査で結核が判明し徴兵免除となるのであった。橋川はこの後に自殺未遂を起こしたという証言もあり、このあたりの屈折も白井との口論につながっているのだろう。

橋川によると、白井が「結局ナチスと同じじゃないか」と言い出し、橋川はユダヤ人迫害を持ち出して「ナチスは否定すべきだ、ナチスと日本は違うと主張した」という。まずは「感情の論理みたいなもの」があり、「日本ロマン派なんてのに惹かれたのもそういうことなんで『まず日本人であれ』って主張を、何かスローガンにしていたのじゃなく、いまの言葉でいえば、そういう『実存』様式を前提としない議論はウソだという考えなんで、もちろん理論的な信念というようなものじゃない」としている。「『要するに死んでみせますよ』という少年期の心理的亢進だったんだな」と振り返っている。


橋川は戦後編集者時代に丸山真男と知り合い師事することになるのだが、東大在学時には丸山の授業は受けていなかったそうだ。これは勘違いをしている人が多いというが、まさに僕もそうだった。いったいどういう心理で戦時中に丸山と付き合っていたのやら、と疑問だったのだが、本書でそういうことだったのかというのがようやくわかった。

なお橋川は敗戦間際に、故郷の広島食料事務所で働いていたが、東京の農林省から採用試験のために呼び戻され、原爆投下の二日前に広島を離れている。この呼び出しがなければ橋川は被曝していたことだろう。そしてこの時「丸山二等兵」も広島におり、被曝することになる。あるいは二人をより一層結び付けたのは、この経験だったのかもしれない。

その「師」である丸山は、白井らとの悶着の際に橋川が、「天皇の悪口をいうと、胸ぐらつかんでね、貴様何とか、といったという……」としているのだが、もちろん丸山はこの場にいなかったので伝聞情報なのだろう。著者は橋川は天皇崇拝はしていなかったとし、橋川の「私たちのまわりの少年ロマン派の仲間たちは、『天皇』に文字通りイロニカルな、適度に不逞な嘲弄感をいだいていた」という証言を引いている。

また一部に橋川が日本刀を持ち出したとされることもあるがそんなことはなく、「そんな非国民、たたっきってやる」と言ったという証言から勘違いが生まれたのだろうとしている。しかしそのような発言があったことは確かなようだ。

著者は戦後橋川と親しくなる吉本隆明の、加藤周一らにたいする批判を取り上げている。吉本は加藤らが戦争を嫌い、ファシズム的な運動に加わらなかったのは確かだが、しかし戦後にいうように当時から戦争反対を公言していたわけではなかったではないかとなじっている。グループ内で内緒話としてしたことはあったかもしれないが、「リベラルな人たちが表立って戦争に反対したことはない。だから彼らまで含めて、純粋さがなかった」と批判する。一方で吉本らは「僕らは自分の命と引き換えにして、こうだ、と追い詰めた。追い詰めた結果はどうであれ、それなりの青年としての純粋さはあった」と語る。では吉本は戦中非転向を貫いた共産党員を「純粋」だと評価したのかといえばそうではなく、吉本のことがあまり好きではない僕から見れば、吉本のこの手の発言はまったく支離滅裂に映り、他人の批判をして自己肯定をしたいだけのように思えてしまうのだが。著者はこの吉本の心理は当時の橋川に近かったのかもしれないと推測している。

当時の橋川からすれば、「自分の方は「たたききられる」のも覚悟の上で、自分の命を引き換えにすることも辞さない覚悟で主張していた」が、白井らは「仲間うちの送別会という私的な場所であったからこそできた発言で、自らの全存在を賭けて、戦争反対と公言したわけではない」と映ったのかもしれない。

では白井らは、何もせずに過ごしていたのだろうか。本書でも触れられているように、彼らなりの抵抗をしていた。白井は「徴兵忌避を目的に食事制限などにより肉体を衰弱させて、徴兵検査では通常は徴兵免除となる第三乙だった」。それでも戦争末期に赤紙がくるが、「入営後も食事を取らずに眠らずにいると、顔面蒼白、血沈が速くなり、軍医はついに帰郷を命じるに至った」(白井 『知と権力』)。

宋もまた絶食をし、丙種となったが、こちらも戦争末期に赤紙が来る。精神病だと主張するが却下され、上官を刺して狂人を装うかと考えていたが、軍医少佐に呼ばれ、「大学では何を勉強している?」ときかれ、「西洋哲学であります」と答えると、しばらくして「即日帰郷を命じる。その病気では軍隊はつとまらん」ということになったという(宋 『縄文発進』)。

また橋川より4歳年少のいいだももは、「この農村にめんめんと伝わる『醤油のみ』の秘伝は、ぼくも召集令状が来て入隊しなければならなくなった時には活学・活用させていただき、首尾よく『即日帰郷』ということにあいなりました!」と振り返っている(『サヨナラだけが人生か。』)。

著者が書くように、「白井、宋、いいだらのこうした兵役に対する姿勢は、積極的な徴兵忌避」であった。著者は当時の橋川や吉本の方を必ずしも肯定的に評価しているのではなく、橋川より2,3歳上の白井、宋らと、橋川より年少のいいだらとを比較し、橋川や吉本の世代がわずか数歳の差も大きいほど、特殊なメンタリティを持ったのかを論じている。とはいえ橋川は戦後に白川らとの口論について、「我が方に利ありとも思えない」という、誤りを認めたとはいえ消極的なものに留まったことにも触れている。橋川はその後『日本浪曼派批判序説』で自身を含めて過去との対決を行うことになるが、しかし橋川、あるいはその周辺にいささか危ういものを感じさせなくもないことを、本書のこの事件への記述は図らずも明らかにしてしまっているようでもあった。


橋川は戦後に共産党に入党することになる。宋は橋川から「きみも活動せよ」と言われたが、言を左右していると、「もうすぐ革命が成功する。そしたら、デス・バイ・ハンギングだ、お前なんか」と言われたと振り返っている。では熱烈な共産主義者になった結果なのかといえば少々疑わしく、丸山は橋川から、このとき左翼的な出版社に勤めていたため「どうもパルタイにはいらないと編集の上で具合が悪いんです」と言われたとしている。丸山は「具合が悪いなんていうことで入党するもんじゃないって、ぼくは叱ったのを覚えています」としているが、結局橋川は入党し、そしてしばらくした後に党を離れる。「だから後年、橋川君はぼくに笑いながら、『どうも変なもので、なんとなく入党し、なんとなく脱党したという感じです』なんて話したことがあります」と、丸山は言っている。

松本健一はこのようなエピソードに触れ、「かれはつねに状況との関わりかたが、受身なのである」と論じているという。
「受身」というよりも「おっちょこちょい」とでも言った方がいいのかもしれない。橋川は必ずしも政治的な人間ではないのだろう。むしろ現実政治になど向いていないタイプだ。それでも周囲の雰囲気を受けて、過剰反応してしまったということなのかもしれない。著者自身を含め、橋川と仕事をした多くの人が、橋川が「優しい人」であったとしている。また宋は敗戦間際に自分の歓送会であんなことを引き起こされたうえに、戦後には今度は逆の立場からお前なんか絞首刑だと言われたにも関わらず、「戦中も戦後も、しかし、橋川が憎めなかった」としている。橋川がいかに「いい人」であったかが窺えるのであるが、そのような「優しい人」がおっちょこちょいな政治的思い込みによってとんでもないことを言い始めるということでは、ちょっとぞっとするようでもある。


本書で最も印象深いのは、橋川の極貧エピソードかもしれない。
橋川家はもともとは父の才覚もあり裕福であったが、橋川が旧制高校一年の時に父がガンで死去してしまう。しかしすぐに追い詰められたわけではなく、当時は家庭教師などのバイトで学費や寮費を捻出しなければならない一高生もいたが、橋川がこのような生活を強いられるほど経済的に逼迫したわけではなかったようだ。というのも父は残された家族のために、資産を現金化して残しておいてくれていたのであった。しかしこれが裏目に出ることになる。間もなくやって来るインフレによって、またたくまに目減りし始めるのであった。

橋川は現在とは比べ物にならないほど超のつくエリート高校であった一高生の中でも一目置かれるほど勉学に秀で、文学的才能にも恵まれていると目されていた。周囲は当然東大文学部に進学するものと思っていたが、橋川は法学部に進む。これは就職を考えてのことだった。当然官僚コースを歩むはずであり、当人もそう考えていたのだろうが、敗戦間際に学徒勤労令により貴族院などで働かされたことで考えを変える。橋川は靴もなく、中学時代の地下足袋を実家から送ってもらうほどだったが、当時の小磯首相は「ぴかぴかに輝く長靴」をはいていた。貴族院で「戦局の苛烈さが、この世界にほとんど影響を与えていないらしい」ことを見せつけられ、「私たちとは別の人びとが、何かべつの考え方でこの戦争を指導しているらしいということも感じないではいられなかった」。さらに「日本軍=皇軍を義軍」だと考えて橋川は、「暴行・掠奪はおろか、虐殺・強姦まで行う」という噂話を同じ大学生から聞かされて衝撃を受ける。当時の橋川は「同じ年齢の学生仲間でも、いくらかロマンティクで、幼稚だった」。議会の低調さとこの噂話によって、「この戦争の疑わしさ」をようやく認識するようになった。さらには官僚が物資に恵まれた贅沢な生活を送っていることも目の当たりにし、このような「腐敗・堕落を知った橋川は、そうした官吏の側に身を置くことに、疑問を感じ始めていた」。

敗戦直後の橋川の行動は謎が多いが、茫然自失状態となったのか働くこともできなかったようだ。橋川の東京のアパートには数人が転がり込み、金も食料もないことから「ネコのすき焼き」や「犬鍋」を食い、本のカバーや机の脚を燃料として燃やさねばならなかった。当時は一部の特権階級を除けば東京のほとんどがこうした状態だったのだろうが、中でも「橋川の貧乏は最低だった」と友人は振り返っている。大学卒業から五ヵ月後にようやく小さな出版社の仕事にありつく。こうしてしばらくの間いくつかの小出版社を渡り歩いて糊口をしのぎ、編集者として丸山と親しくなり、「丸山シューレ」の一員となる。

橋川にとってさらなる負担は、弟が重度の結核に冒されていたことだった。不幸は重なるもので、母も40代の若さで死去し、橋川は妹たちを東京に呼び寄せ、四畳半一間のアパートで兄妹の三人での生活を試みるが、すぐに限界に達する。橋川自身が、徴兵検査のときにひっかかった結核のシェーブ(病巣の拡大・転移)に襲われたのだった。

丸山が結核で入院して片肺を摘出することになった。橋川は見舞いに行ったが、丸山から橋川も受診するように言われる。すると医者からなぜこんな状態になるまでほっといたのかと言われるほどの状態で、即入院が決まる。橋川は肋骨を六本も切除する大手術を受け、4年に渡る療養生活が始まる。かねてから丸山らは橋川の窮状をみかねて翻訳の仕事などを回すなどしていたが、入院中も弟の治療費のためにも翻訳の仕事を病床で続けた。病状が深刻だった弟は痛みを緩和するたえにモルヒネを投与されたが、モルヒネ中毒となってしまっていた。橋川は弟のために、なんとか高価なモルヒネ代をひねりだす。故郷に帰っていた妹の事情で一度広島に戻り、弟を見舞うが、帰京の二ヵ月後についに弟は亡くなる。この知らせを受け橋川は「帰るべきだが、迷う、金もなく、体にも自信がない」という有様だった。「翌日空しく金策に歩いた」ところを追いかけるように、「カヘルニハオヨバヌバンジスンダ」という電報が届いた。

これ以降も橋川の極貧生活は続き、生活保護を受けていたが、これが打ち切られて退院を余儀なくされた。橋川は英語と、高校・大学で学んだドイツ語の他に、フランス語とロシア語を独学し、翻訳の仕事でわずかながらの収入を得ていた。このあたりはさらっと書いてあって事情がよくわからないのだが、収入といってもごくわずかであり、こんな状態で生活保護が打ち切られてしまったのはひどい話である。さらには質の方は定かでないとはいえ、貧困にあえぎ肉体的にも悲惨な状況でありながら独習したフランス語とロシア語で翻訳をこなすというのもすさまじい。

なんとか健康を回復した橋川は再び編集者となり、次第に書き手としてもジャーナリズムから注目を浴びるようになり、そして明治大学の講師に就任する。「丸山シューレ」の一員であった明大教授の藤原弘達が招聘したもので、丸山も形式的なものではなく「大論文」となる推薦状を書いた。さらにこの4年後に専任講師に就任してようやく橋川の経済状態は安定する。

これについても少々不思議な話がある。橋川は当初は教授ではなく「教授会員でない専任講師」(現在でいうと非常勤講師のようなもの)を希望したが、その理由は「本業である文筆活動を続けたいから」というものだった。4年後に「ご自身の心境の変化」があったとして、ようやく専任講師となり「正規のステップ」をふむこととなった。大学教授になっても文筆に割く時間もあるということは編集者としてわかっていたはずなのになぜこんな希望を出したのかは理解に苦しむのだが、どうやら橋川は給与を含めた待遇の差をわかっていなかったようなのだ。著者は「後になってその実情を知るにおよんで、あまりの格差に「ちょっとおかしいぞ」と思ったことがあると、本人が語るのを聞いた覚えがある」としている。

金に不自由したことのない人ならともかく、極貧生活を数年に渡って繰り広げた後であるにもかかわらずこのあたりをきちんと確認しないというのは、橋川という人はやはり相当のおっちょこちょいなのだろう。また丸山らはあげたつもりで橋川に資金援助を行っていたのだろうが、経済状態が上向くと橋川は律儀にこの「借金」を返済したのであった。このあたりも橋川の性格というものがよく表れている。本書には丸山らしくないとも思える珍エピソードもあるが、それだけ丸山は橋川に気を許していたのだろうし、この二人は思想的つながりというよりも性格的なつながりの方が強かったのかもしれない。


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佐藤太郎(仮)

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