『シュピルマンの時計』

クリストファー・W・A・スピルマン著 『シュピルマンの時計』



ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』はナチス支配下のポーランドで奇跡的に生き残ることに成功したユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの実際の体験を基にした作品であるが、第二次大戦後に生まれたこのシュピルマンの長男は曲折のすえ「日本近代史、とくに日本のナショナリズムやアジア主義」を専門とする研究者となった。本書はそのスピルマンによる『戦場のピアニスト』のその後の物語であり、また自身の半生を描いたものである。

まず「スピルマン」という名前の表記だが、これは著者が日本にやって来た時に日本人が「Szpilman」の「Sz」をうまく発音できないことに気がついたため、「スピルマン」という表記にしたそうだ。また「ポランスキー」や「カミンスキー」といった名前はポーランドではロシア人のようにのばさずに「ポランスキ」「カミンスキ」となるとしている。「ワレサ」は「ヴァレンザ」であるそうだが、「なぜか日本ではかけ離れた書き方が定着してしまった」。

言葉の問題でいうと、ポランスキーは英語で撮られたこの作品の中で、ドイツ語での会話をあえてドイツ語のままにしている。ホーゼンフェルト大尉がシュピルマンを発見し、ピアノを弾かせる場面であるが、ここではホーゼンフェルトがユダヤ人相手に敬語で話しかけていることを描くことで彼がいかなる人物であるかを簡潔に表しているとしており、日本語字幕ではこのニュアンスが消えてしまっていることを残念がっている。このあたりは字幕にしろ吹き替えにしろ、映像作品の場合注釈をつけられないのでなかなか難しいところであろうが。

本書でもホーゼンフェルトはナチではなく徴集された国防軍の将校であり、身の危険をかえりみずにユダヤ人たちを救ったエピソードが取り上げられており、また映画の原作となったシュピルマンの『戦場のピアニスト』にはホーゼンフェルトの日記の抜粋が収録されている(もっとも「国防軍神話」には注意せねばならない)。ホーゼンフェルトは戦後ソ連の収容所に入れられたまま、精神を病んでそこで亡くなることになる。


著者は日本にやって来た時には父がこれほど有名になるとは思わなかったそうだが、シュピルマンも1964年にワルシャワ五重奏団の一員として来日している。この時に電化製品等のおみやげを持ち帰ったが、なかでも一家の目を引いたのが五円玉だったそうだ。ポーランドには穴の開いた硬貨がなかったため、「ずいぶん長いこと、一家の話題にのぼっていた」とのことである。

このようにシュピルマンは戦後もピアニスト、作曲家として活躍し続けたが、その過酷な体験からくるであろう後遺症も本書では描かれている。

著者の父と母が出会ったのは1948年のことだった。医学生だった18歳の母は温泉地を訪れたが、そこで彼女に視線を送る男に気づいた。一年後に母はその父らとともに同じ場所を再訪すると、あの男がまたいた。その男の友人はなんと母の父の友人であり、「この人は私の友人で、有名なピアニストのシュピルマンさんです」と紹介された。シュピルマンといえばピアニスト、作曲家としても有名であり、その体験を記した『ある都市の死』でも知られていた。

この『ある都市の死』が約50年後にドイツ語や英語に訳され、ポランスキーは英訳を読んで映画化を決めたそうだ。といってもポランスキーがここで初めてこの話を知ったのではないだろう。シュピルマンはアンジェイ・ワイダらポーランドを代表する監督たちと付き合いがあり、ポランスキーともすでに60年代に面識があったという。

また『ある都市の死』については、邦訳においても発表後すぐに当局の禁忌にふれ発禁にされたとなっているが、これは事実誤認だとしてある。すぐに品切れになったことは確かだが、それは紙不足のうえに当時の政権がプロパガンダ的な出版物を優先したために増刷できなかったというのが真相なのだそうだ。ホーゼンフェルトが救いの手を差し伸べる部分はドイツ人ではまずいということでオーストリア人に変更させられたが、それ以外は特に問題とはならなかった。

その証拠に、実は48年にすでに一度ポーランドで映画化されているのである。脚本は『灰とダイヤモンド』の作者のアンジェイフスキと、後にノーベル文学賞を受賞することになる詩人のミウォシュに決まったが、共産党が検閲の際に設定の大きな変更を求めてきたために二人は手を引いてしまったそうだ。共産党はピアニストは中産階級的だ、何もせずに生き残っただけじゃないか、などとケチをつけ、主人公を普通の労働者にしよう、主人公は一人ではなく複数にしよう、ポーランド独立運動のために頑張っていることにしよう、ポーランドを解放してくれたソ連将校と一緒に歩かせよう、などと注文をつけてきたという。このあたりが本が発禁にされたという誤解を生んだのかもしれない。

この映画は著者が十代半ばのときに『ワルシャワのロビンソン』というタイトルで放送されたが、「あの映画はあんたのお父さんのことだよ」と言われても何がなんだかわからなかったほどだった。ピアノが登場するのは一箇所だけ、ピアノが隠れた場所にあり、主人公が瓦礫の中で鍵盤をうっかり踏んでしまったというところだけなのだという。


父と母の出会いに戻ると、二人は20歳もの年齢の違いをものともせずたちまち恋に落ちる。父はユダヤ系であるが無信仰であり、母の一家はカトリックであったために母方からは不安の声もあったが、二人はそのまま結婚する。在学中に著者を妊娠、周囲からは退学を勧める声もあったが、母は卒業し医師となる。社会主義国家でピアニストの父と医者である母となると、男女平等の考えに基づいて家事などもきちんと分担していたと思われるかもしれないが、シュピルマンは実際的な能力を一切欠いており、すべて母まかせであった。

強制収容所から帰還した人は、自身の体験について口をつぐむ人も少なくない。シュピルマンは強制収容所送りを逃れたものの、家族は皆そこで殺された。彼が自分の著書の再刊に消極的であったのも、強制収容所から帰還した人々と似たような心理からなのかもしれない。

著者は子どものころ、父がこのような体験をしたことを全く知らなかった。シュピルマンは息子に何も語らなかったのだった。父には親戚縁者が誰もいなかったが、当時のポーランドにおいてはそう珍しいものではなかった。著者が11歳のとき、本棚から父の著作を見つけて読み、こんな体験をしていたのかと衝撃を受けるのだった。

シュピルマンは冗談好きで、暗い影のようなものを普段は見せることはなかったようだが、時おり過酷な体験の後遺症が顔を出すこともあった。著者が幼いころ海に行くと、父は海の怖さを植え付けるようなことを言った。後に気づくのだが、父はもう二度と家族を失いたくないと、事故に合うことを恐れたのだった。著者は転んで大怪我をしたことがあった。唇は裂け、歯が折れていた。血まみれで家に帰ると、シュピルマンはなんと息子を激しく殴り始めたのだった。これもまた、息子の姿に動揺し、こんな思いをさせてくれるなということだったのだろう。

シュピルマンは休みのときでも家でピアノの練習を欠かさなかったが、仕事に没頭することで過去の体験を振り払おうとしていたのかもしれない。演奏を引退した後は一気に酒量が増えることになる。晩年は息子に電話をすると、「こんなに生き続けていることに何の意味がある。私は家族と一緒に、あの時に死ぬべきだったんだ」といったことを言うようになってしまう。


とはいえこれは後の話で、著者は著名なピアニスト・作曲家の父と医師である母を持ち、比較的裕福で幸福な少年時代を送ることになる。両親はともに共産党に入ることはなく、著者も社会主義体制に早くから疑問をおぼえる。
もっともポーランドは他のソ連の衛星国と比べると自由であり、とりわけスターリンの死後は一般市民は政権批判なども平気で行っていたそうだ。そしてこの自由のおかげで、著者はポーランドを離れることができた。

著者は学校での勉強にはまるで身が入らず、大学進学は絶望的な成績であるばかりか、高校の卒業すら危ぶまれる状況となってしまう。というのも、高校には「ロシアばあさん」がいたのである。このロシア語教師は気に入らない学生を片っ端から落としては別の学校のロシア語教師に紹介し、また自身が放課後にやっている個人塾にその見返りとして学生を斡旋してもらうという裏の商売をしていた。著者はこの「ロシアばあさん」に目をつけられてしまう。ウクライナ生まれでロシア語のできる祖母は心配して、ロシア語の勉強をかねて著者を保養地であるソチへの旅行に送り出してくれた。

映画には出てこないが、シュピルマンの原作の『戦場のピアニスト』には逃亡生活を送りながら英語の勉強もしていたことが書かれているが、息子もまたBBCなどを聞いて英語の勉強をしていた。そしてこの旅行で、やはり旅行に来ていたイギリス人夫妻に英語で話しかけ友だちとなり、イギリスに来るように言われるのだった。

当時の社会主義国としては珍しく、ポーランドは自国民が国外へ出るのに寛容であった。ポーランド人の中には数年間西側で肉体労働などをして、帰国してその稼ぎで家を建てる者もいたという。ポーランド政府としては、ポーランド人は西側へ出ても戻ってくると考えていたようだ。従って著者もパスポート自体は容易に手にできた。ただし観光という名目で取ったもので、有効期限は二週間とされていたが、戻るつもりはなかった。

イギリスでは当初父の知り合いの家に転がり込んだが迷惑顔をされ、旅行先で知り合ったあの夫妻の家に向かうと歓迎された。このイギリス人夫妻はかなり裕福で、家に置いてくれたうえにリーズ大学への進学も勧めてくれた。

著者は割りとあっさり書いているものでこのあたりの事情はよくわからないのだが、イギリスにおいてビザを持っていない外国人の長期滞在や大学入学というのは当時はこうも簡単に認められていたのだろうか。それとも東側から来たからということだったのか、あるいはイギリスでも演奏活動を行うなど著名な音楽家の息子だったおかげなのだろうか。いずれにせよ、EU離脱決定後のイギリスには排外主義が高まり、その余波は留学生にも及んでいるとされており、ましてやもっとも標的とされているのがポーランド人であることを思うと、現在ではとても考えられないことだろう。

ともあれ著者はリーズ大学でロシア語と哲学を学ぶことになるが、ここでも勉強にはあまり身が入らなかった。しかし著者は大学時代に柔道と出会い、日本語も学びはじめる。大学卒業後ロンドン市役所で働き始めるが(これも考えてみればすごいのだが、当時はよくあったことなのだろうか)、日本への思いがふくらみ、ついに日本へ行くことになる。イギリスの柔道クラブで知り合った日本人の故郷愛媛県の川之江で英語教師となる。前任者は小豆島から通ってきていた、映画『大いなる幻影』でドイツ将校役を務めた映画監督のエリック・フォン・シュトロハイムの同名の孫であったそうだ。

しかし著者は系統だった勉強の必要性を感じてロンドン大学日本語学科に入りなおし、日本に戻ると今度はインドネシア難民の救援ボランティアを始め、さらにバンコク滞在中にアメリカの大学院を受験しこれに合格してエール大学大学院東アジア研究学科で学ぶことになる。ここで日本人の女性と出会い、結婚して日本の大学でも教鞭を取るようになるのであった。

と、父親の生涯もすさまじいものであるが、息子の人生もかなりのものである。


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佐藤太郎(仮)

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