『モード・ゴン』

杉山寿美子著 『モード・ゴン  一八六六 - 一九五三 アイルランドのジャンヌ・ダルク』



モード・ゴンといえば現在ではイェイツとの関係で記憶されていることが多いであろう。イェイツは二十代前半でモード・ゴンと出会い、数十年に渡って数度プロポーズしたが、いずれも拒絶されている。イェイツにとってモード・ゴンはミューズであり、彼女を数多くの詩に詠んだ。この二人の奇妙で入り組んだ関係は様々に語られている。

しかしモード・ゴン自身の生涯についてはどうだろうか。イェイツとの関係にばかり注目が集まり、その全体像がすぐに浮かんでくるという人は少ないかもしれない。モード・ゴンは存命中、それも若い頃からすでに神話化された存在であった。「神話」ということは、必ずしも事実を反映していないということでもある。モード・ゴン自身が潤色した部分も多いし、イェイツによって神話化されたものも多い。モード・ゴンは自伝を書いているが、これは彼女の半生であり、また自伝というものが大抵そうであるように、必ずしも信頼の置けるものではないようだ。では没後にしっかりと検証された伝記が書かれたのかというと、そういった伝記はなかなか書かれなかったようでもある。卵が先か鶏が先かではないが、あまりにその「神話」が強いがゆえに事実に光があたらなかったのか、事実に光があてられることがなかったために神話が生き残ったのかはわからないが、モード・ゴンの生涯全体に焦点をあてた、日本語で読むことのできる本書は貴重なものであろう。


モード・ゴンは「私はアイリッシュ」と公言したが、これは精神的にはともかく、「血」としては疑わしいようだ。母方のクック家はイギリス有数の織物商の家系であるし、ゴン家は「遠い昔」にアイルランドからスコットランドへ渡ってきたという説があるが、これも確証はない。つまり「イギリス人」の家系に生まれたモードがアイルランド独立の闘士となるのであるが、これは「にもかかわらず」なのか「であるがゆえに」なのかは難しいし、当人にとってもそうだったのかもしれない。

父のトマス・ゴンは英軍大尉で、これも皮肉なことにというべきか、IRB(アイルランド共和国同盟)による不穏な動きを封じ込めるための兵力増強としてアイルランドにやってきたのであった。モードはイギリスで生を受け、幼い頃にこうしてアイルランドへ渡ってきた。四歳の時に母は死去、モードと妹は父によって育てられることになる。トマスは娘たちを自由奔放に育てたが、これは当時としては異例のことで、娘たちは「野蛮人」のようだと眉をひそめられることもあり、ついには教育のために母方の親戚の元へと送られるのであった。とはいえモードと父とは生涯に渡って、いささか「不健康」なものを疑われるほどに非常に親密であった。

父はモード・ゴンの二十歳の誕生日の目前で亡くなるが、その代わりに彼女はかなりの遺産を相続することができた。奔放な性格は親戚から持て余されていたが、これによって自由を手にすることになる。しかしこの頃は政治意識というのはあまりなかったようである。

彼女の運命を大きく変えたのは妻子持ちのフランス人リュシアン・ミルヴォアとの出会いだった。当時は離婚することは難しかったが、それでもモード・ゴンは彼を愛した。ミルヴォアはモード・ゴンに「ジャンヌ・ダルクがフランスを解放したように、貴女はアイルランドを解放しなさい」と言った。ミルヴォアにとってイギリスはドイツと共に崇拝するナポレオンを倒した敵であったが、アイルランドそのものにはとりたてて興味はなかったようである。モード・ゴンが「アイリッシュ」となっていくのはミルヴォアとの出会いを通してであったが、もちろん彼女がアイルランドの苦境、とりわけ零細農民がいかに過酷な扱いを受けているかを幼少期から目撃していたことも強く作用したのであろう。

モード・ゴンは「ヴィクトリア朝絶世の美女の一人」とも、「ヨーロッパ随一の美女」とも称えられるほどの美貌を持っていた。
アイルランドは保守的な土地柄でもあり、女性が政治運動に関わることは歓迎されたわけではないが、その熱意もあって女性たちにも少しずつ門戸が開かれていった。その美貌に加えこの政治活動であるから、IRBに加わったばかりの若き詩人イェイツの目を引き、彼女に魅入られるようになったのも不思議なことではないだろう。

ところが意外にとすべきか、彼女は性においては保守的であったようだ。ミルヴォアの愛人になった後に性に嫌悪感を覚えるようになったとし、ミルヴォアが他の男性と関係を持つよう勧めるという、これまた奇妙なものでもあった。

モード・ゴンは政治活動に加わる一方で長期に渡って姿を隠すことがあった。それは出産と育児のためだった。ミルヴォアとの間に二人の子をもうけていたが、長男は早くに病死してしまう。そして娘のイズールトについては、養女であるなどの少々苦しい言い訳をしていた。ミルヴォアとの関係が悪化していたころ、ついにモード・ゴンはイェイツに全てを話すが、彼女の真意は謎である。ただイェイツは、この告白が求婚を拒絶するための盾だとも解釈した。結婚を迫るイェイツにモード・ゴンは性に対する「恐怖、怖れ」を訴える。イェイツの方も、強引に事を進めることはなく、あるいはこれが駆け引きであったのだとすると、モード・ゴンは彼の煮え切らない態度に失望したのかもしれない。イェイツとしては、出会ってからの十年間、彼が信じてきたことが「美しき誤解」であったことを知ってひるんだということもあったのかもしれない。

イェイツはそれでもモード・ゴンに気持ちを寄せ続けたが、彼女がジョン・マックブライドとの結婚を決めたことを知り衝撃を受ける。マックブライドはボーア戦争に反イギリスの立場から参戦し名をあげるが、貧しく教養もない人物であった。一方モード・ゴンは相続した遺産でパリを拠点に上流階級の一員として振る舞ってきた。周囲はこれを釣り合わない結婚だと猛反対したが、モード・ゴンはこれを押し切り、カトリックに改宗して結婚するのであった。イェイツにとってこれは「個人的トラウマに留まらず、社会的屈辱」ですらあった。

案の定というべきか、この結婚は惨憺たるものとなる。二人の間には息子のショーンが生まれるが、マックブライトは酒飲みであるばかりか暴力もふるい、さらに下半身事情もひどいものであった。見境なく女性に手を出し、当時十歳であったイズールトを寝室に呼ぶと、この義理の娘の前で全裸になったことすらあったと、モード・ゴンは主張することになる。モード・ゴンの異母妹アイリーンにも手を出したようで、それを隠すためか、彼女は温厚であったマックブライトの兄に嫁ぐことになる。不幸中の幸い、アイリーンとこの父親ほども年齢の違う夫との結婚はうまくいったようであるが。

離婚を決意し裁判を起こすが、著名な政治活動家夫妻の泥試合は現在であっても相当なスキャンダルになったであろうし、これが当時どう受け取られたかは想像に難くない。イェイツは断固としてモード・ゴンの味方であったが、ほとんどはマックブライト側につき、彼女はすっかり孤立してしまう。
これ以降約十年に渡って、モード・ゴンはイズールトとショーンと共にパリで暮らし、アイルランドから距離を取ることになる。ショーンは父親とのつながりをたつために、フランス語とゲール語で育てられるのであった。


モード・ゴンとイェイツにとって、そしてアイルランドにとっても大きな事件が1916年のイースター蜂起であった。準備不足が明らかな、成功する見込みのない武装蜂起はあっさりと制圧される。多くのアイルランド人が事件当時は冷ややかであったが、イギリス側の過酷な報復的処罰が反発を呼び、処刑された指導者たちは殉教者となっていく。マックブライトもその一人であった。「恐ろしい美が誕生した」という一節があまりにも有名なイェイツの代表作、「イースター、1916」において、彼は殉教者を称え神話化し、その中にマックブライトをも加えた。

モード・ゴンはなんとしてもアイルランドへ戻りたかった。しかし第一次大戦中のことでもあり、イギリス当局は騒動の拡大をおそれ彼女の渡航を禁止する。フランスのパスポートを持つイズールトだけが先にイギリスに渡りイェイツのもとを訪ねる。イェイツはこの美しく成長した女性をロンドンの友人、知人の間を連れまわした。ここでいささか、というか相当に倒錯したことが起きる。イェイツはイズールトにも心惹かれるようになっていたのである。イェイツはイズールトと共にフランスに渡りモード・ゴンと合流する。モード・ゴンはすでにフランス人の愛人とは別れている、そして彼女の「夫」はこの度の蜂起で死亡した。つまり彼女は「自由」になったのである。「彼は当然のごとくモード・ゴンに求婚し、当然のごとく拒否されると、彼の想いは、驚くべきスピードで、娘に移った」。

ちなみにイェイツは友人に宛てた手紙に、イズールトに惹かれていることを認めつつ、それは愛や欲望ではない、子供に対するようなもので、何より30歳も離れた年齢では彼女は幸せになれないだろうとしているのだが、「愛や欲望といった形」ではないというイェイツの言葉を素直に信じることは難しい。イズールトに対する感情が変ればすぐにもここを立つとしているが、結局イェイツは二ヶ月近くもノルマンディに滞在するのである。

イズールトは美人であると同時に精神的には問題も抱えており、幼少期から彼女を知るイェイツが父親のような愛情を持っていたことも確かだろう。とはいえならばなぜ求婚という形をとらねばならなかったのか。母親が駄目なら娘にというのは、やはり常人には理解し難い感性であるように思えてしまう。結局イズールトは態度を明らかにせず、イェイツはノルマンディを離れる。
出会ってから約30年、イェイツがモード・ゴンに求婚したのはこれが最後であった。

結局イェイツは親子ほど歳の離れたハイド-リースと婚約することになるが、このころゴン一家はロンドンのイェイツの家に滞在していた。モード・ゴンはイェイツの婚約者を褒めているが、内心複雑なものもあったようである。


「モード・ゴンはきっと何か無謀なことをするでしょう」、イェイツはそう予言していたが、この予言は当たることになる。1918年、軟禁状態にあったロンドンから抜け出すとアイルランドへと渡り、ダブリンに居を構える。以降モード・ゴンは亡くなるまで、この「祖国」にとどまることになる。

モード・ゴンはマックブライト姓を名乗るようになり、公の場では喪服と黒いヴェールで現れることとなる。英雄、殉教者となった「元」夫の威光を最大限に活用しようとしたのだろう。当然これには冷ややかな目も注がれただろうが、またキャッチーなアイコンとなったという部分もあろう。

第一次大戦が終了し、アイルランドとイギリスとの関係はさらに緊張感を増していくが、そんな中25歳になっていた娘のイズールトは、当時まだ17歳の詩人志望のフランシス・スチュアートと駆け落ちをしてしまう。結局二人の関係は既成事実化し結婚が認められるが、良好な夫婦関係とはいかなかったようである。1921年には二人の間に子どもが生まれるがすぐに亡くなってしまう。イェイツはこれについて、「多分、悲劇的女の種族が死に絶えるのはよいことです」と、激烈な言葉を残している。そのスチュアートは後に小説家となり、Black List Section Hという、モード・ゴンやイェイツが実名で登場する自伝的作品も書いている。

1921年にはアイルランドとイングランドの間の講和会議が開かれ、マイケル・コリンズの目にとまったショーンは補佐役として彼に同行し、アイルランドに残ったドゥ・ヴァレラとの連絡役として海峡を頻繁に行き来した。

1922年、アイルランド議会は北の6州を除いて南の26州でアイルランド自由国とするという条約を僅差で可決する。かつての自治よりは前進したと取ることもできるが、不平等条約という事実も厳然たるもので、ドゥ・ヴァレラなど有力者も条約反対に回りアイルランドは二分され、内戦状態に陥る。モード・ゴンは当初は条約賛成派であり、息子のショーンは母の立場もわかるとしながらも、IRAでの武装闘争を継続する。

政府側は過酷な弾圧をし、一方で反条約側もマイケル・コリンズを暗殺するなど激しい暴力の応酬が繰り広げられる。当初は条約賛成派であったモード・ゴンは、政府側が報復的な処刑にうってでるとIRA支持に転じる。彼女の住居などはたびたび襲撃にあい、イェイツとの書簡をはじめ、彼女が大切にしてきたものが焼かれることまであった。

自由国政府に協力するものはIRAの襲撃リストに入れられたが、そのリストには上院議員となっていたイェイツも加えられた。政府の弾圧はさらに過激化していき、モード・ゴンも身柄を拘束される。イェイツとモード・ゴンとの関係は冷え切っていたが、それでもイェイツは上院議員としての立場も使い、モード・ゴンに、そしてショーンに救いの手を差し伸べ続けた。「二人を分かつ政治的距離にもかかわらず、彼女は何時ものようにイェイツに助けを求め、何時ものように彼は応じた」のであった。


1930年代、ファシズムがアイルランドにも流れ込む。「青シャツ隊」が結成され、一時はイェイツも期待を寄せたことは事実であり、「貴族主義」的な、保守化したイェイツがファシズムと親和性があったのではないかとい疑いを持つ人もいるし、イェイツの秘書でもあったエズラ・パウンドが完全にファシスト化してしまったこともその疑念を強める(本書はイェイツの評伝ではないためかそのあたりについての記述はない)。そしてモード・ゴンが極右極左双方へ期待を抱いてしまっていたことは否定できない事実である。

第一次大戦時にもイギリスの交戦国であるドイツと連携を模索し、武器の輸入などを試みた勢力がいたが、第二次大戦時にもまた同様であった。「イングランドの敵はアイルランドの友」という発想からモード・ゴンも親ドイツ的であり、ナチスの蛮行が明らかとなった後にも、「もし私がドイツ人だったなら、ヴェルサイユ条約後、ナチにならなかったとは断言できません」とまで言っている。また義理の息子であるスチュアートも親ナチ、反ユダヤ主義が批判されている(こちらを参照)。

一方息子のショーンはその立場を大きく変えた。 フランス語を母語同然にあやつり、「フランス語なまりを矯正するため貴族のような英語を話したと言われ」、平均的IRAのメンバーからは「奇妙なアイリッシュマン、独特のアクセント、教育があり過ぎ、非常に、非常に利口」とも感じられていたというショーンは、1939年にIRAを離れ、弁護士となる(しかし政治犯の弁護は無償で行った)。

第二次大戦後には政界に進出し、外務大臣となる。ショーンの外務大臣としての最初の仕事は、1939年に客死して南仏に仮埋葬されていたイェイツの遺体をアイルランドに運ぶことだった。その後議席を失うと政界を引退しアムネスティ・インターナショナルの共同創設者となり、1977年にはノーベル平和賞を受賞している(同時受賞が佐藤栄作と知ると、この賞の価値はとたんに怪しく思えてしまうが)。


イェイツは1939年に亡くなったが、モード・ゴンはまだ生き続ける。高齢になって生き続けることは、友人たちを失っていくことでもある。彼女は寂寥感に苦しめられていったようだ。一方でこの伝説の存在は若い世代からも注目を集め、とりわけその声の「魔術」のような魅力が語られている。

1953年4月、モード・ゴンは「老いの牢獄」から解放される。「孤独な魂」を持つ娘のイズールトはすっかり気落ちし、それから一年も経たない1954年3月に、60歳を前にして亡くなった。


「あとがき」に「フェミニスト志向の過激な革命家に心情的に傾斜する余地は少なかった」とあるように、著者はその関心領域の違いもあってモード・ゴンの伝記を書くことにはためらいがあったとしている。また人間的にも「利用価値の高い」イェイツを「利己心と虚栄心から弄んでいる」印象は拭えなかったとし、イェイツが「狂信と憎悪にとり憑かれた」と語ったモード・ゴンに共感はもてなかったようだ。もちろん伝記作家がその対象者を崇めなくてはならないということはない。むしろ多少の距離があったほうが、聖人伝ではないバランスの取れた伝記が書けることだろう。とはいえ視点が違えばまたモード・ゴンの別の姿も浮かんでくるだろうし、それはまた別の研究者、伝記作家に期待したい。


それから、ケン・ローチ監督の『麦の穂を揺らす風』は講和条約賛成と反対をめぐって兄弟が敵味方に分かれる悲劇的戦いを描いたもので、『ジミー、野を駆ける伝説』はその後日談的物語になっている。なぜジミーがアイルランドを逃れアメリカに渡らなければならなかったのか、帰郷した彼がなぜ「伝説」の人物として期待され、またなぜあそこまで憎まれたのかについて、その背景を知りたい人も本書は参考になるだろう。
モード・ゴンやイェイツに興味のある人はもちろん、19世紀末から20世紀半ばまでのアイルランドについて興味があるという人にとっても貴重な一冊だろう。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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