『いま、松下竜一を読む  やさしさは強靭な抵抗力となりうるか』

下嶋哲朗著 『いま、松下竜一を読む  やさしさは強靭な抵抗力となりうるか』




松下竜一といえば以前大杉栄と伊藤野枝の娘を描いた『ルイズ 父に貰いし名は』の感想をこちらに書いたが、実は読んでいるのはこれ一冊で、代表作の『豆腐屋の四季』などはまだ読んでいない。別に理由があって読んでいないわけではないので、いつかそのうちに。


竜一は生後間もなく急性肺炎からくる高熱が続き、両眼が飛び出してしまった。十人もの医者に見放され、奇跡的に助かったものの「熱でやられて白痴だろう眼も見えまい」と宣告された。この後遺症で右眼の視力はなく、右眼には「ホシ」があった。母は「それはね、竜一ちゃんの心がやさしいから、お星様が流れて来てとまってくださったのだよ」と言っていた。

小学校では「虚弱児」だったうえに目のこともあって激しいいじめにあう。おいおい泣いて帰ると母は「ホラホラ、そんなに泣くと、目のお星様が流れ出てしまうよ」と言った。竜一が「目の星なんか流れた方がいいや」と泣きじゃくると、母は「お星様が流れて消えたら、竜一ちゃんのやさしさも心から消えるのだよ」と言うのだった。

「母は一度だって強い子になれとはいわなかった。ただ、やさしいかれ、やさしかれと語りかけるのだった」。「母はたぶん知っていたのです。やさしさに徹することでしか、ぼくは強くなれないのだと。でもほんとうにやさしくなることは、なんと至難なことでしょう」。
発電所建設のための埋め立てに抗議をする「巨大な暴力に丸腰で抵抗する若き者たち」を前に、松下は「やさしさがそのやさしさのままに強靭な抵抗力になりえぬのか」を考え続けることになる。

母は小学校も終わらないうちに紡績工場に働きに出され、読み書き算数はその工場で習ったという。「かんじを忘れて一一きくのもめんだうです。かな文字ばかりで人が見たら笑ひます。読んだら焼きなさいね」、そう書いた母の手紙は2通だけ遺されている。

母も、そして豆腐屋の父も無学だった。「わが家には蔵書など一冊もなかった」。ある元図書館長が「弟をおぶって、幼い私の手を引いた母が、「何か竜一の読むような本を貸してください」といって、図書館を訪ねてきた」と回想している。

本を読み漁るようになった竜一は高校ではトップの成績であった。作家になりたかった竜一が目指すは東大仏文科だった。しかし結核による療養生活に入り浪人、しかもその最中に母が倒れて急死する。叔父は豆腐屋を一人でやっていくことはできないからと、「父を扶けて豆腐屋として働け」と竜一に引導を渡した。

「本はもう読むまい」と決めたが、それでも本が恋しくなった。「午前三時から起き出して、日の暮れるまで働く。その中にもある作業の途切れるわずかなスキの書物の逢引」が日常だった。
「たとえば、夜明けの配達を終えて朝食をすませ、次にあぶらげを揚げ始めるまでに三十分くらい休息がある」。竜一はこうして「孤独で惨めな日々」を耐えた。

六人兄弟、弟二人は生活のあてもないまま上京し、帯の仕立て職人となるが、なんの保障もない賃仕事だった。「家の前に止まる郵便屋の赤いスクーターは恐怖だった」。東京にいる二人は、どちらかが病気になればたちまち行き詰まり、金を送ってくれるよう連絡が来るのだった。竜一はなけなしの金を弟に送る。

父は再婚したが、これは家庭をさらに暗くさせた。この新しい母は子連れで、竜一らがその日の食事代にも困る爪に火を灯すような生活を送っていたのに、実子には特別に小遣いを与えたりしていた。
上京した弟たちは食い詰めると帰郷し、また上京しては行方不明になるということを繰り返していた。鬱屈からか、弟の一人は粗暴化していくが、そのはけ口として標的にされたのが竜一だった。体が弱い彼は、力勝負になれば弟にたちうちできなかった。それを知ってか、竜一に当り散らすのだった。

竜一はついに耐えかね、家を出て小倉で仕事を探しはじめるが、気力もなくなり、自殺を考えるようになる。連れ込み宿に泊まって遺書も書いたが、自分が死ねば「家族は完全に破滅する」。素直に育った、まだ中学生の末弟はどうなるだろうか。そう考えこれを思いとどまった。女中にひどい扱いをされたので遺書を寝床に並べて裏口から忍び出た。女中が驚愕して警察に駆け込むところを想像して「ひそかに笑っ」たが、「なんと暗い笑いだったろう」と竜一は振り返っている。


極貧生活、豆腐作りも失敗ばかり、それでも「父だけは黙々と耐えた」。竜一はそんな豆腐屋の日々や父の姿を朝日歌壇に投稿するようになる。何千もの投稿がひしめくなかで一位を獲得するなどその才能が認められる一方で、家族を題材にしていることから様々な波紋も起きることとなった。

そんな竜一も恋をすることになる。豆腐の納入先の娘の洋子との結婚を夢想するようになった。当時竜一は25歳、洋子は14歳の中学生だった。もともとは洋子の母が内気すぎる娘について竜一に相談してきたのがきっかけだった。「洋子ちゃんは、母親に似て美しい娘になるだろう。とても気の優しい娘になるだろう。今から五年、そのことをひそかに私の胸に秘めて、待っていようか」。こう思うものの、自分の肉体が若者らしい生気を取り戻すことができるとも思えなかった。

この直後、竜一は日記に「私の三原の奥さんに対する感情は、もはやまぎれもない恋情である」と書くのだった。竜一は自分より11歳年上の、洋子の母を愛するようになっていたのだった。「私がもう一度若くなれるんだったら、あなたに結婚を申し込むんですけどね」と奥さんは答えたように、二人の関係はプラトニックなままだったが、この噂はたちまち広がり、竜一は姉にもなじられた。

洋子は後に「あんたとかあちゃんが好き合ってるのは、早くから知ってたわ」と語る。母は二階で家族で食事をしていても、店から竜一の咳(竜一は年中風邪をひいて咳が止まらなかった)を聞くと大急ぎで食べて下へと降りていくということもあった。

洋子は高校二年のとき、母から「あのお豆腐屋さんはすばらしい人よ。きっと将来何かする人よ。それにとってもやさしい人だから、あんたがお豆腐屋さんと結婚したら、きっとしあわせになれると思うわ。あの人はそのつもりでずっとあんたを待ってるんよ」と言われる。
洋子はこういわれる日がいつかは来ると思っていたため驚きはしなかったが、「いややなあとは思ったわ。そんなに早く結婚なんか考えられんやったもの。それに、うちは早起きが苦手やから、豆腐屋はいややったし」と思った。それでも、高校を卒業すると竜一と結婚することになる。竜一29歳、洋子18歳だった。

後に「かあちゃんの身替わりに結婚されて結婚させられるんやなあち思うと、かあちゃんがうらめしかったんよ」と洋子は言うが、逆にこんなことをあけっぴろげに言えるほど、竜一と洋子は幸せな結婚生活を送った。竜一は生涯洋子を愛しぬき、「そのあまりに深い愛し振りに周囲の人びとはうらやみを超えてあきれかえった」ほどだった。


とはいえ、他人からするとやはり相当に不思議な関係であるように思えてしまう。竜一は「洋子をかならず幸せにすることであなたへの愛を成就するのだ」と洋子の母に言った。「絶望の淵であがいていた私を、彼女は救いあげてくれたのだ。その出会いがなければ、私は二十代の終わりに自死していただろう」と書くが、この「彼女」とは「心の妻」のことだった。

洋子は母から「あんたほどのしあわせものはいない、よっぽどいい運の星の下に生まれたやろうなあ」と言われたそうだが、一体どんな気分だったのだろう。そもそも竜一に短歌を詠むようにすすめたのも母だった。ちなみにこの母は離婚したり未亡人だったわけではなく、「夫は妻と竜一との仲も知っていながら、小心ゆえに内向させてきたという」。この夫(竜一からすると義理の父)は妻が末期癌となって、ようやく竜一に強く出るのだった。


前にW・B・イェイツが、モード・ゴンへの求婚がうまくいかないとみるや娘に目を向けたということをこちらに書いたが、イェイツは恋焦がれ続けた人の娘と結婚することはなかったが、これが松下の場合だとさらに複雑なことになっている。まあ二人が幸せならそれでいいので、他人がとやかくいうようなことではないが、それにしてもすごい話である。


『豆腐屋の四季』を自費出版し、残ったものをよければ差し上げますと洋子が朝日新聞に投稿するとこれが大反響となり、注文が殺到するようになった。もともとのきっかけが洋子の内気さを相談されたことだったが、取材も殺到し、「何気なく投稿した小文の波紋に怯えて、気弱な洋子の様子がおかしくなった。布団を被り泣いているのだ」ということもあったという。洋子は当初は「いややなあ」と思ったのかもしれないが、ここまで内気だと竜一のような人でないと結婚できなかったのかもしれない。

『豆腐屋の四季』はベストセラーとなり、緒形拳主演でドラマ化されるほどだった。体の弱かった竜一はこれ以上豆腐屋を続けるのは無理と廃業を決意するが、そのブームも下火となっており、執筆依頼はなかなか来ない。そしてようやく来たのが、西日本新聞からの公害現場のレポートだった。この作業を通じてかねてから心にひっかかっていた問題と向き合うようになっていく。

こうして竜一は洋子と「ビンボー暮らし」を続けながら、優れたノンフィクションを生み出していくことになるのであった。


もちろん松下の本を読まなくてはなあという気にもさせてくれるのであるが、結婚にまつわるエピソードに全部持っていかれた観もなきにしもあらずでもあった。



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佐藤太郎(仮)

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