『ユリシーズを燃やせ』

ケヴィン・バーミンガム著 『ユリシーズを燃やせ』




「最も偉大な文学作品は何か」、このようなアンケートを取ると、ほぼ確実にジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が上位に食い込むことだろう。そして『ユリシーズ』が、アメリカなどでは長らく発禁にされ、数にして実に千部以上が燃やされたたというのも、またこの作品にまつわる挿話としてよく語られる。

「本書は『ユリシーズ』の伝記である」と「序」にあるように、ジョイスによる構想の芽生えから混乱に満ちた雑誌での連載とそれを巡る闘い、単行本化されてますます激しくなる争い、そしてついに1933年にアメリカ最高裁で出版が許可されるまでが描かれている。

『ユリシーズ』の伝記というということは、もちろんジョイスの伝記ということでもある。彼のエキセントリックで常人には理解し難い人生も辿られることになる。『ユリシーズ』の舞台となるのは1904年6月16日のダブリンであるが、この日はジョイスと妻のノーラにとって記念すべき日であった。一度約束をすっぽかされたジョイスであったが、今回は二人で会うことができた。ノーラはジョイスに身体を近づけ、ワイシャツの裾をたくし上げると、「器用に指を滑り込ませて愛撫を始める。彼がうめき声を上げると、ノーラはその顔を見て小馬鹿にするように笑った。「あら、どうしたの?」 それは文学史における重要な瞬間だった」。

この後、ジョイスは永遠にアイルランドを離れることを決め、出会ってまだ4ヶ月の19歳のノーラに「僕を理解してくれる人間がいるだろうか?」と訊ねた。「イエス」と彼女は答えた。
このように本書はノーラの物語でもあり、『ユリシーズ』の単行本を刊行することになる「シェイクスピア・アンド・カンパニー書店」の創設者のシルヴィア・ビーチの物語であり、W・B・イェイツ、エズラ・パウンド、T・S・エリオット、ヴァージニア・ウルフと、直接間接にジョイスや『ユリシーズ』と関係のあった文学者たちを描いた20世紀モダニズム文学の歴史であり、またアメリカ出版史の一断面でもある。

本書において何よりも印象深いのが、ジョイスを支えた女性たちだ。女性たちを堕落から守るという名目で検閲や弾圧が行われたが、まさにこれこそが女性たちが戦うべき理由であった。アメリカでジョイスを攻撃する急先鋒となったのが悪徳防止協会であり、アメリカで弾圧の道具とされたのが「猥褻、みだら、または性的な本、冊子、写真、新聞記事、あるいはその他の不道徳な出版物」を米国郵便システムを使って配布、宣伝することを禁じた、1873年に制定されたコムストック法だった。女性参政権論者たちにとって、ジョイスのあけすけな性行為、性器、糞便等への言及は因習への挑戦でもあり、共闘できるものであった。『エゴイスト』をはじめとする雑誌で発表の機会を与え、また資金面でも支え続けた。本書はまた、20世紀前半の女性たちの戦いの記録でもある。

このように、『ユリシーズ』入門としても読むことができるだろうし、20世紀前半の文学史として、社会史としても読むことができる。またアイルランド人であるジョイスがダブリンを舞台にチューリッヒやパリなどヨーロッパで書いた作品であるが、アメリカ合衆国のピューリタン的潔癖症と、それを打ち破るのに法廷闘争を敢然と挑むランダムハウス社という構造は、アメリカ合衆国の持つ複雑な姿を理解するのにも役立ってくれるだろう。


それにしても、やはりなんといっても一番印象に残るのはジョイスという人物である。スコット・フィッツジェラルドはジョイスと会うと、忠誠心を示すためにそう命じられたら窓から飛び降りると言うと、ジョイスは「あの若者はどこかおかしいに違いない」、「自身を傷つけるのではないかと心配だ」と言ったが、「どこかおかしい」のはあなたの方でしょ、と思わずにはいられない。

「僕たちは出会うのが遅すぎた。あなたは年を取りすぎていて、僕に何の影響も及ぼさない」、当時20歳のジョイスが35歳だったイェイツに対して放ったこの言葉は有名である。このように格好いいと思えるようなエピソードもあるにはあるが、とにかくもうそのどうしようもない浪費癖や自己中心性がすべてをかっさらっていく。トリエステで弟とともにベルリッツで働いていた際、貯金という概念のなかったジョイスはすでの子どもがいる身でありながら、月末に金が余るとレストランなどで散財し、翌月には前借を頼むという有様で、弟がいい加減にしろとぶちぎれてぼこぼこに殴りまくったというのも有名な話であろう。また支援者たちが懲役刑をくらう覚悟で『ユリシーズ』の密輸や配送を行っている最中にも、あまりに身勝手な金の無心をして、ついには忍耐強く気前よくジョイスを支え続けてくれていたビーチとも袂を分かつことになる。

手術を繰り返し、ついにはほぼ失明状態にまで陥るその姿は痛々しくあるが、また素直に感情移入するにはエキセントリックすぎるのでもあるが、天才とはそういうものといえばそれまでかもしれない。


なお巻末には邦訳オリジナルのブックガイドもある。ジョイスについてはなんといってもリチャード・エルマンの『ジェイムズ・ジョイス伝』であろう。これは前に目を通していたのだが、また読み返したくなってきた。柳瀬尚紀の『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』の紹介に「柳瀬氏の『ユリシーズ』完訳を心から待ちわびるひとりとして、ブックガイドの締めくくりに本書を挙げておきたい」とあるのはつらい……


このブックガイドで紹介されている本を含めて日本での書誌についてはSTEPHENS WORKSHOPというサイトで見ることができる。

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佐藤太郎(仮)

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