『昭和初年の『ユリシーズ』」

川口喬一著 『昭和初年の『ユリシーズ』」





芥川龍之介の『餓鬼窟日録』には、大正8年6月に「丸善より本来る。コンラッド2、ジョイス2」との記述がある。洋書売場であった丸善2階は芥川にとって特別な場所であり、洋書を熱心に漁っていた。コンラッドもジョイスもこの時点では日本では本格的に論じられておらず、芥川のその目敏さに注目できる。

芥川が購入した2冊のジョイスの本のタイトルは記されていないが、うち一冊が『若き日の芸術家の肖像』であったことは確実だ。芥川はこの1年後にエッセイで『若き日の芸術家の肖像』について触れていて、「冒頭の章の特質を見事に言い当てているのはさすがというほかはない」。

芥川は余程この作品が気に入ったのか、これからさらに2年後には、「「ディイダラス」という題で第一章のさわりの部分を置き換えてさえいる」。

ただこの翻訳には不思議な欠落部分があり、例えば「クレヨン」が欠字になっているそうだが、当時の辞書になくてよくわからなかったということなのだろうか。「しかしもっと不可解なのは、主人公の意識に焦点を当てたこの部分で、その「彼」に「(ダンテ)」と補っている点である。芥川はどうやら主人公(スティーヴン)、フレミング(級友)、ダンテという、ここで話題になる人物たちの関係を十分に把握していないようなのだ」。

一高東大を出て英語教師にもなった、秀才の誉れ高かった芥川ですらきちんと読めていないのだから当時の日本の知識人の英語力は……と思われる人もいるかもしれないが、著者はこう書いている。「いずれにしろ私はまず芥川がわざわざこの部分を選んで抄訳していることに敬服する。冒頭の部分から一部を選ぶとすれば、六歳のスティーヴンの世界認識の特性をグラフィックに描いたこの部分以外からは考えられないからである」。このように、むしろ芥川の批評眼を讃えるべきかもしれない。


芥川が当時日本ではほとんど知られていなかったコンラッドやジョイスの名前をどうやって知ったのかはわからないが、おそらくは丸善の出していた雑誌『学燈』を通してであったことは、そこに両者の記事があったことから推測できる。そして『学燈』にジョイスの紹介を書いたのが、詩人のヨネ野口こと野口米次郎だった。野口はアメリカ生活を切り上げた後ロンドンの渡り、ここでエズラ・パウンドらとのネットワークを築く。パウンドは後に日本について関心を抱くことになるが、まだそれ以前のことであった。

「文壇興行師」パウンドはジョイスの才能を認め、そのプロデューサー的役割を務めた。野口はロンドンで知り合ったパウンドやその周辺人脈を通してジョイスを日本に紹介することになった。野口はここでH・G・ウェルズのジョイス評を引用しているのだが、これは「驚くべき誤訳が飛び出してくる」代物であるようだ。またウェルズの皮肉や当てこすりも理解できていないという。英語で詩作をしていた野口にしてこの有様かとも思えるが、何よりも目を引くのが、野口のその異様とも思える文体である。野口は「二重国籍者の詩」において、「僕は日本語にも英語にも自信が無い」と書くことになるが、これはあながち詩的隠喩ではなく率直な本音であったのかもしれない。その後の野口の歩みを考えると、このコンプレックスがかなり作用したのではないかと思えてくる。

『ユリシーズ』は雑誌連載中から様々な騒動を引き起こし、英米では出版できずにフランスのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店(もともと本屋として出発していたが、ジョイスのために出版をてがけることになった)からようやく刊行される。このスキャンダラスな書について『英語青年』誌上において最初に日本に紹介したのが、当時シカゴに滞在していた杉田未来こと高垣松雄だった。杉田はここで「英語で書かれたもっとも早い時期の『ユリシーズ』批判のひとつ」であるアーノルド・ベネットによる批判を紹介しているが、以外な人物がこの評を読んでいた。「後藤新平の娘婿」(とされているが、鶴見俊輔の父親とした方が通りがいいかもしれない)の鶴見佑輔である。鶴見は「朝鮮沖、船中にて、紅茶の後」でベネットのエッセイ集を読んでいることを書いているが、感想は記していないそうだ。

この後しばらくは堀口大學をはじめ間接的な紹介が多かったが、その中で異彩を放つのが、杉田がシカゴからジョイスの記事を送ろうとしていた頃にボストンに向けて出発した土居光知だった。当時42歳の土居は「じつに行き届いた論文」である「ヂヨイスのユリシイズ」を書くことになる。まだ二十代だった伊藤整らの「稚拙な受容ぶり」とは異なる、「年季の入った」研究の成果を見せている。この論文を有意義なものにしているのは、何よりも土居による試訳である。第五挿話では「ほぼ順当な翻訳」が行われ、ブルームの「意識の流れあるいは内的独白も書き留められている」。土居は日本の読者にわかりやすくするためこの部分を括弧に括って処理しており、この手法は「伊藤整や川端康成ら初期の「実験小説」の書法にも影響を与えている」。しかし第六挿話などでは「かなりの誤解」が見られることになるのだが、まあこれはやむを得ないだろう。

時間が前後するが、伊藤整は『ユリシーズ』に入れ込み、後についには全訳をすることになるが、しかしその伊藤の熱を嘲笑うかのように、小林秀雄は痛烈に批判している。ここでの土居の論文は原文を読み込み、試訳まで数多く行い、伊藤のような「稚拙」さや小林のような「ただフランス語の翻訳で読んだだけ」といったいい加減さとは一線を画するものとなっている。

土居は最終挿話のモリーの独白も訳出していて、この訳業は大きな影響を与えることになる。しかし、土居はこの論文の結論部ではジョイスに好意的であったが、後に『英文学の感覚』として単行本に収録される際にはここを書き改め、『ユリシーズ』を「未完成」とし、「長く愛読されるべき傑作ではなく」、「やがて忘れられるべき運命をもつてゐる」と、一転して否定的になっている。


「新心理主義」の立場から『ユリシーズ』を高く評価した伊藤整であるが、小林秀雄にこっぴどくやっつけられた(もっとも丸谷才一が「飛躍と逆説による散文詩的恫喝の方法」としているように、小林による批判は本質的なものではなく、伊藤もこれにめげずに『ユリシーズ』の全訳に取り組み続けた)。しかしその翻訳は、「総じて伊藤(たち)は口語的文章に特に弱い。これは当然ながらこれは意識の流れの理解には致命的になる」のであるが、当然ながら当時の辞書等の限界もあり、このあたりにはやはり同情的になってしまう。

その後も西脇順三郎による、「伊藤整たちの「メトオド」中心の受容とは明らかに一線を画した、いま読んでも、われわれが『ユリシーズ』に関して大きな忘れ物をしてきたことをいまさらのように思い出させる、気持ちのいい文章」である「ヂエイムズ・ヂオイス」が書かれるなど、『ユリシーズ』は当時の日本でも広く論じられていた。

そして原著刊行から10年たった1932年、ついに『ユリシーズ』(の一部)の翻訳が刊行されることになるのだが、岩波文庫と第一書房とから二種類の訳が出ることで、「翻訳合戦」となった。なおこの情報を掴んだジョイス側は日本の「海賊版」を取り締まろうとするが、当時はヨーロッパの版権の保護期間が10年とされていた法律が日本にあったため利益を得損ね、ジョイスは「小額の版権料」を「怒りにまかせて突っ返した」のだが、これが岩波版なのか第一書房版なのかはわからない。

第一書房版は伊藤整らによる訳で、岩波版は「森田草平以下五人が訳者として名を連ねている」。『父・夏目漱石』にも描かれていたように、森田の英語力は少々というか、かなり怪しいところがあり、この難解な『ユリシーズ』を訳すことができたのだろうか。結論からいえば森田は名義貸しで、それも元々はやはり漱石門下の野上豊一郎のところに話があったのだが諸般の事情で同じく法政大学にいた森田にお鉢が回ってきたということのようだ。実際に翻訳にあたったのは名原広三郎、瀧口直太郎、小野健人、安藤一郎、村山英太郎の法政関係者を中心とするグループだった。森田はといえば「若い友人たち」が困難な訳業に挑んでいる最中に『ユリシーズ』について「性に合はない」とまで書いている。森田はここではなぜか中心人物であるブルームについては一切触れていないが、おそらくは、「『ユリシーズ』の冒頭の数章を読んだだけで、ブルームの登場する挿話は読んでいないのかもしれない」という有様だったようだ。

第一書房に出版で先を越された岩波はライバル心むきだしで宣伝に努めた。そして第一冊が出ると『ユリシーズ』出版記念会が開かれ、『新英米文学」」によると、これには「文壇、英学会の知名士百数十名」が参加した。ここに面白い名前が載っている。「当時東京高等師範学校と東京理科大学で教鞭をとっていた「ウヰリアム・エンプソン」」である。「のちにニュー・クリティシズムの聖典として崇められる」、『曖昧の七つの型』などで知られるエンプソンは、避妊具を持っていたことが発覚してケンブリッジを追われ、三年契約の東京での教職に飛びついたのだった。当時25歳だったエンプソンは、来日早々に新聞の三面記事をにぎわせる。深夜に投宿先のステーションホテルに戻ると一階の窓から侵入しようとして強盗に間違われて通報されてしまったのである。1931年9月1日の朝日新聞の「強盗にあらず実は大学教授/戸惑ひ英国人が今暁東京駅宿直室に侵入」という見出しの記事にある「ダブリユ・エンプ」とはエンプソンのことであった。

後に「かなり癖のある」『ユリシーズ』論を書くことになるエンプソンであるが、着任後一年に満たないエンプソンが、岩波の『ユリシーズ』出版記念会になぜ出席し、どんな振る舞いをしたかはわからない」そうだ。当時この会に出席した人の中で、エンプソンが後に超大物になるなどと想像した人がいただろうか。

第一書房版と岩波版の翻訳の比較が行われている。もちろん今の水準から見れば限界があるのだが、むしろよくここまで訳せたものだとも思えてしまう。『ユリシーズ』は「二〇世紀最大の小説」とされるとともに「二〇世紀の最も偉大な読まれない小説」ともされるように、英語圏の人にとっても予備知識なしにきちんと読んで理解することは困難であろう。文法的な破格や大胆極まりない省略、複数のセンテンスを一つにまとめてしまうなど、研究の蓄積があってようやく意味がとれるようになるような箇所も多々あり、これを読みこなすには英語力だけが問題となるのではない。


第一書房版も岩波版も完訳が出されるまではかなり遅れ、岩波など最終の第五冊が出たのは第一冊の出版の三年後のことであった。この遅れの最大の理由が、英米でも問題になった「猥褻」の問題で、日本でもどちらも伏字だらけで出版されることになったのだが、また猥褻の問題だけでもなかったようだ。岩波版では「そのおとこの名をいつてごらん。だれです? いつてごらん。だれです? ××××ですか?」という箇所があるのだが、これはなんと「(独逸)皇帝」が伏字にされていたのであった。「ドイツ皇帝への不敬罪を配慮したものであろうか」。

こうして苦労を重ねて完訳が出たのであるが、その反応といえば訳者たちが期待したようなものではなかった。

伊藤整は戦後になってロレンスの『チャタレー夫人の恋人』でわいせつ罪に問われる。そしてこの「チャタレー裁判」では、なんとあの土居光知が検事側の証人として法廷に立つことになるのであった。二人は「形の上では初対面であるが、実質的には、伊藤にとては久しぶりにまみえるジョイス紹介の先達であった」。

伊藤はここでの土居について辛辣に書くことになるが、著者が注目するのは、土居が「ある時期から、「ロレンスとかジョイスの様な文学的の現象」に関心を失い、批判的な姿勢を持つようになったらしいこと」だ。土居は論文執筆時と単行本収録時でジョイスの評価を変えたが、土居のこの「ハイ・モダニズムの作家」に対する評価の変化は、「わが国における『ユリシーズ』退潮の時期と奇妙に重なっているのである」。

この「チャタレー裁判」の影響は『ユリシーズ』にも及び、新潮社が企画していた伊藤の新訳『ユリシーズ』では問題の箇所は英語原文を挿入するという形となり、岩波文庫を踏襲した三笠書房版でも同じ形がとられる。「伏字なしの完全版は、昭和三六年の丸谷才一らによる河出書房版まで待たなければならなかった」。


ユリシーズを燃やせ』は『ユリシーズ』という小説の伝記であったが、本書は日本での『ユリシーズ』受容史であり、また1920年代から40年代あたりまでの日本の文学的潮流を追うこともできるものとなっている。


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佐藤太郎(仮)

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