『排除と抵抗の郊外  フランス集住地域の形成と変容』

森千香子著 『排除と抵抗の郊外  フランス<移民>集住地域の形成と変容』





「日本人は本当のアメリカを知らない」といった物言いがなされることがある。日本に限らず多くの地域の人々が、「アメリカ合衆国」と聞けばニューヨークに代表される東海岸、ロサンゼルスやサンフランシスコに代表される西海岸、あるいはハワイなどのことがまず思い浮かぶであろうし、これらがいずれも先の大統領選挙でヒラリー・クリントンが大勝した(つまりトランプが惨敗した)場所であることを考えると、これはあながち大げさではないのかもしれない。

ではフランスについてはどうだろうか。まず思い浮かぶの「おしゃれ」なパリの中心街であろうし、あるいは陽光降り注ぐ南仏の農村の光景が広がるという人もいるだろう。それだけであれば、「本当のフランスを知らない」ということになるのかもしれない。

サブタイトルからもわかるように本書はフランスの郊外の形成とその変化を扱ったものであり、とりわけ近年のフランス社会・政治を考えるうえで様々な示唆を与えてくれるものになっている。

フランスにおける「郊外」は、多くの国とはいささか異なるものかもしれない。アメリカ合衆国では白人を中心とする中産階級が郊外へと引っ越すことによって、都市の中心部が「ゲットー」化する、あるいはゲットー化した中心部を嫌って中産階級が郊外へと引っ越すという現象が起こった。日本でも郊外といえば中産階級のベッドタウンというイメージが強いであろう(近年の少子高齢化や都市回帰による人口流出などを考えると、これは最早古いイメージなのかもしれないが)。しかしフランスではパリ中心部は富裕層のものであり、郊外は移民とその二世三世、あるいは貧しい人々(もちろんこの両者は重なってもいる)が住む荒廃した地域となりがちである。

乱暴に単純化すると、フランスにおける郊外は二つの性格を持って開発された。一つは都市機能にとって必要不可欠なものでありながら、裕福な人々が目にいれたくない施設などを移す場所としてであり、もう一つが劣悪な住宅環境を改善するために集合住宅が林立する場所としてである。

当初は電気、ガス、水道、さらにシャワーまで完備された最新式の団地は中産階級にとっても憧れの住まいであった。これは日本における団地も同様であろう。しかし次第に設備は老朽化し、金銭的に余裕のある人は団地から移るようになっていく。こうして貧しい人々が取り残される、あるいは集まることになっていき、これによって中産階級の流出が加速していく。

状況をさらに悪化させたのが、フランスの場当たり的な移民政策だ。当初はヨーロッパからの移民が中心であったが、ヨーロッパ各国も経済成長し安価な労働力の確保が難しくなると、北アフリカやサブサハラから多くの移民を受け入れるようになった。しかしこういった人々は安価な労働力として消費されるばかりで、言語習得をはじめとする各種の支援がおろそかにされるばかりか、「フランス人」から隔離するかのような扱いまでされていた。失業が深刻化するようになると、まず切り捨てられたのが誰なのかは言うまでもないだろう。

失業と貧困にあえぐ郊外に住む移民とその子孫たちは社会保障受給者が多いことから、移民が福祉を食い散らかすと攻撃対象にされる。一方で移民とその子孫たちは、都合のいい時だけ散々利用しておきながらのこの扱いに憤りを深めていく。この負の感情の連鎖は深まるばかりになっている。

かつて郊外は政治的には左翼が強かった。その郊外での近年の極右の伸長について、左翼支持であった労働者階級者が郊外の荒廃などをうけて極右に転じたという分析がなされることが多い。しかしある研究者は、最も多い政治傾向は極右ではなく「棄権」だとする。これは移民二世三世も同じで、彼らは左翼を含め政治全般に失望しきっている。さらには、左翼の政治家ばかりか反差別団体などの社会運動に対しても不信感をつのらせているケースも多いようだ。

2002年の大統領選挙でのルペンの決選投票進出や、極右同然の移民攻撃を繰り広げるサルコジの登場などを受けて、やはり投票という形での政治参加なくしてはこの流れを変えることはできないという問題意識も生まれつつあるようだが、その前途は多難なようにも映る。


郊外を論じるうえで文化現象を参照するというのは多く見られる手法であるが、本書でもラップが扱われている。すべてを剥ぎ取られたかのような生活を強いられている人々がラップに可能性を見出すというのも、アメリカをはじめ多くの地域に見られる現象である。またラップの攻撃性が問題視され、当局から弾圧されるというのもよく見られるものであるが、フランスの場合これが訴追にまで発展することが珍しくないようだ。2015年に発生したテロ事件の後、SNSへの書き込みまでがテロを賛美していると捜査対象にされたことは日本でも報じられ、フランスではそんなことになっているのかと驚いた人も多かったかもしれないが、実はラッパーがそのリリックによって訴追されるというのはすでに90年代から起こっていたことであり、その延長線上にあった出来事でもあった。


フランスでは、共和国の理念を受け入れればフランス人であるという建前があるため、人種に言及することはタブーとして受け取られている。しかし人種への言及をタブー視した結果、「出自」といったような差別的言説がまかり通るといった倒錯したことも起きているようである。

極右やその支持者は「フランス的価値観に同化する気のない移民は出ていけ」と言うのであるが、世俗主義をはじめとするフランス的価値観の中で生きる移民二世三世のほうが、かえってコミュニティとの紐帯が断ち切られ孤立化しやすく、こういった人々こそが過激派に勧誘されやすいという構造は、フランスの抱える矛盾と欺瞞を端的に表すものだろう。


本書を読んでいて思い出した映画が二つある。
『パリ20区、僕たちのクラス』は、タイトルを見ると金八先生的な作品を思い浮かべてしまうしそういう要素もあるものの、実際には教師と学生、保護者の間で最早コミュニケーションすら成立しづらくなっているという徒労感に覆われるものとなっている。

『ディーパンの闘い』はフランス郊外を舞台に21世紀版『タクシードライバー』とでもいったような趣になっているが、本書と直接的に結びつく作品でもある。荒れ果てた団地。職もなく昼間からたむろするしかない若者たちはラップを大音量で聞いている。難民や移民の苦難とともに、ドラッグの売買で成り上がるか、そのおこぼれにあずかるかしか道がないかのようなフランス郊外の絶望的な現実があぶりだされている。

このように近年のフランス文化について考えるうえでも「郊外」は重要であるし、そしてもちろん、現在のフランス政治について考えるうえでも、「郊外」というファクターは欠かすことができないものであろう。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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