『ある夢想者の肖像』

スティーヴン・ミルハウザー著 『ある夢想者の肖像』




思春期を扱った小説というと、どういったものを思い浮かべるだろうか。幼い頃の、イノセンスな完璧な世界が現実に侵食され脅かされていき、その経験を通じて主人公が成長していくという教養小説であろうか。また自らの肉体もこの世界も瑞々しく、そのはちきれんばかりの喜びが溢れ出る青春小説だろうか。あるいは自らが苦境にあり、この世界も災厄に満ちたものとしか思えず、鬱屈した思いを抱え続けるといった物語だろうか。

『ある夢想者の肖像』は、主人公が自らの幼少期から思春期の経験までを語るという形式になっているが、そのようなカテゴリーにはなかなかあてはめることが難しいものかもしれない。

語り手のアーサーは、幼少期にはまるで大人の分析力を持って生まれてきたかのような、子どもらしからぬ意識を持っているかのようだ。しかしそのいささか大仰な言葉使いの端々から、子どもっぽい舌っ足らずな姿も垣間見えるようでもある。

「扇風機事件」について、このように語り始める。

扇風機は小型でスタンドが付いていて金網の丸いケージに覆われているタイプで、暑い夏の日に母さんはよくそれを自分に向けて回していた。金網の中に指を入れないようにと僕は警告されていたし、あれでもし、なぜどこを見ても扇風機が目に入るなんてことがなければ何の誘惑も生じなかっただろう。羽根の作るぼやけを、流しの横の緑のカウンターの上、ぴかぴか光る白いレンジの上、ダイニングルームの食器棚の上、今の窓の下のガラステーブルの上で目にしているうちに僕は、もし何か不測の偶然が生じて指が突然一本ケージに入り込んだらどうなるか思案せずにいられなかった。青っぽい灰色のぼやけは僕の好奇心をそそった。大きな平らなライマメのような形をした固形の羽根四枚の堅固な明瞭さに比べて、それはきわめて柔かい、実体に乏しいものに見えた。ほとんど靄のよう、ティーポットから出る湯気のようで、あそこに指を入れたところで、冬に出来る白い息の雲に指を入れるのと同じくらい無害ではないなだなんて信じがたかった。

と、ミルハウザーの面目躍如といった精密な描写と執拗な自己分析とが始まるのであるが、要は扇風機を見ていたら指を入れてみたくなったという、子どものころに誰もが経験したであろうあの気持ちを、この調子で延々と3ページに渡って語るのである。それでいてこれが何か重大な事件を引き起こすのかといえばそうではない。この語り口こそがある種のパロディのようで、プルースト的というよりは、『トリストラム・シャンディ』的なもののような、滑稽な響きをまとっている。

冒頭でアーサーはこんな記憶に触れている。洗濯物を干している母親から、「洗濯バサミを渡すことを許されていた」(この表現自体があまりに大仰なものである)。洗濯バサミは二種類あった。「片方にはバネがついていて開けたり閉めたりできるけれど、もう一方は硬くて人間みたいな頭が付いていた」。母親はどちらでもいいと繰り返し言うのだが、アーサーはなかなか渡さない。そして母親が洗濯物をロープに止めているすきに、スカートの裾にバネの付いた方の洗濯バサミをいくつもくっつける。すると母親は「かわいそぉぉぉぉなあたし。自分のことマーサ・グラムだと思ってたけど、実はただの、木からぶら下がった物干しロープだったのね」と言って、「ぐすっと鼻をすすり、額を皺だらけにして僕を見て、涙を拭い去るふりをした」。

なんとも微笑ましい、イノセンスな記憶であるし、幼少期は「夢想家」のアーサーのちょっぴり変わった幸福な日々が綴られているようにも読める。しかしそこには不気味な影も差している。アーサーは「退屈」を感じる。これからずっと、彼はこの「退屈」から逃れることができない。そしてアーサーは「禁じられたものに惹かれ」るのである。それは扇風機に指を突っこむことであり、また死ぬことを禁じられたので、自殺も試みることともなる。しかし幼少期には、これらはむしろ滑稽な出来事であるかのようだ。

しかし思春期に入ると、作品の雰囲気も変わり始める。
タイトルの「夢想家」とはdreamerではなくromanticである。アーサーは常に退屈を感じている。彼にとって世界は気だるく憂鬱で暗いものだ。これは裏を返せば、自分は特別な人間であるという根拠のない思い込みによるものでもあろう。偉大なる自分にこの環境はまるでふさわしくない、自分にはここではないどこかに、もっとふさわしい場所があるはずだ。そしてこのような思いにかられる思春期の少年/少女がそうであるように、アーサーもエキセントリックなものへの憧憬を強めていく。

アーサーが知的に秀でていることは、幼少期にはそのギャップから微笑ましく思えるのだが、思春期になるとそのギャップが埋まり、歯車が負の方向に噛み合ってしまったかのようだ。早すぎる「老成」を迎えてしまった天才少年や、特別な存在になりたい、エキセントリックになりたいという願望からとんちんかんな方向に行ってしまうような、そういった愉快な青春の失敗の一コマとしてではなく、救いようもない閉塞した世界に自閉する形を取っていく。

「僕自身の母、僕自身を歌う」というこの作品の書き出しはもちろんホイットマンをふまえている。そしてこの作品を支配するのは、なんといってもポーである。アーサーの「親友」の名前は、ある作品を想起させる。ホイットマンの明るさと、ポーのゴシック調とが溶け合い、なんとも不思議なテイストの作品へと生成していくのである。


長編小説としての完成度が高いかといえば、少々留保をつけざるを得ないかもしれない。この作品は1977年に発表された、ミルハウザーのデビュー二作目である。本作は連作短編のような形をとったふがしっくりいったかもしれない。あるいはもっと刈り込んで、とりわけ後半は中編あたりにとどめておいた方が効果的だったようにも思える。そういった点ではミルハウザーにとっては過渡期的な作品なのかもしれない。

しかしこの、ねじれて分裂しているような展開や、繰り返しの多い饒舌にして細部への執着心というのは、まさにアーサーという人物の思春期を表すことになっている。僕も、もちろんアーサーとイコールではないが、こういった「退屈」や「倦怠」のようなものに捉われていたことがあった。すでに書いたように、これは「自分は特別な人間なのではないか、いや、そうであるはずだ」という思いと表裏一体のものだったのだろう。アーサーは秀才ではあったのだろうが、「天才」といえるほどだったのかというと疑わしいようにも思える。また彼は誰もが注目せざるをえないような強烈な個性を持つ人間であるのかといえば、これも疑問だ。クラスで1,2番目に頭がいいことはいいが、その程度といえばその程度で、全体としては地味でとりたててこれという印象もない人物であるのかもしれない。そうであるからこそ、本当の自分を理解できない、しようとしない世界への恨みをつのらせ、道を外れることへと惹かれていくのであるが、果たしてアーサーのような人物にそのようなことができるのだろうか。そのような人物は、「夢」の中へと逃げ込んでいくことしかできないのかもしれない、と自分のことを考えてもそう思えてきてしまう。

アメリカ文学の伝統のパロディであり、また文学的仕掛けにも満ちた作品でもあるのだが、アーサーのような思いに捉われたことのある経験を持つ人間にとっては、傷ましくも迫真性を持った青春小説として、心に響くことになる。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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