『若い詩人の肖像』

伊藤整著 『若い詩人の肖像』





1956年に刊行された、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)入学から東京商科大学本科(現・一橋大学)時代までを扱った伊藤整の自伝小説。

伊藤は小樽商高卒業後に、新設された市立小樽中学校の英語教師となった。ここに小坂英次郎という中年の教師が赴任してきた。小坂は苦労人だけあって肝が据わっているようで、たくわえている髭について教頭がはやしていないのだから剃るようにという圧力もどこ吹く風で、「わしの髭は、苦学して納豆を売って歩いた時代にも剃らなかったのだから、たまたまこの学校の教頭に髭がないからと言って剃るわけには行かん」と、「彼は真剣な顔で言った」。

小学校の校長を務めたこともあり、こういったときの小坂の表情は威厳のあるもので、「うかつにからかうことのできないような風格があった」。
しかし小坂は「にやっと顔を崩」すと、こう言うのだった。
「うちの教頭はどうも朝鮮の系統じゃないかな? 古来裏日本は大陸方面との交通が頻繁であったというのは、歴史の証明するところなんだから」。

こういうのを読むと、気に入らない人間を「在日認定」するというのは日本の「伝統」を引き継いでいるのだなあと嘆息してしまう。
それにしてもぞっとするのは、小坂はこの二重の差別を冗談として口にし、教員たち「皆を笑わせ」るのに成功していることだ。伊藤も(少なくともこの作品の中では)小坂の発言に不快感を持ったという描写はなく、むしろこの時点では大胆不敵な小坂に好感すら抱いている。さらに暗澹たる気分にさせるのは、これが関東大震災からわずか数年後であるということだ。

商高在学中に関東大震災の一報を目にすると、伊藤は「いつか自分がそこへ行く予定になっていた幻のような大都市が、美と悪徳と誇りを持ったまま、バビロンのほろびた時のように、人間の予見できない大きい力に打ちのめされて滅びたのだ、と思った。私は、その幻のような都会を見ないうちに、それが滅びたことを残念に思った。そしてその時にはじめて、私は、自分が東京へ行くことを長い間夢想していたことに気がついた」。

しばらくすると、「内地の郷里に帰っていた同級生のうち、関東地方出身者の語る体験談、震災のときに流布された朝鮮人襲撃騒ぎの噂の恐怖などが、しばらく話題になった。殺された社会主義者大杉栄のことや、無実の理由で斬られた朝鮮人や、池の中で焼かれた吉原の娼妓の話などが珍しがられなくなった頃、この町にまた秋がやって来た」。

この書き方から、伊藤が数多くの朝鮮人がデマを基に虐殺されたのを認識していたこと、そしてその事実にそう強い衝撃を受けなかったことが推察できるし、これは伊藤のみではなかったのだろう。だからこのわずか数年後に小坂はあのような軽口を叩き、同僚の教師たちも諫めるどころか一緒になって笑うことになる。

この作品の影の主役ともいえる存在が小林多喜二である。伊藤は中学時代にすでに、小林の存在を認識していた。伊藤は商高に進むと某教授を攻撃する学校新聞を目にし、軍事教練反対運動を思い出した。「自分もまたその騒ぎの中に引き込まれるのではないかという、怖れとも期待とも分からない胸騒ぎ」を感じた。そして学校で小林とすれ違ったとき、「あの新聞で教師攻撃をしているのは小林の仲間にちがいない、と直感的に悟った」。小林のほうは伊藤の表情を見て、「見知らぬ他人に自分を覚えられている人間のする、あの「オレは小林だが、オレは君を知らないよ」という表情」を浮かべた。

その後小林も伊藤を認識するようになり、互いに一目置いていたようではあるが、文字通りにしょっちゅうすれ違っていた二人であったが、結局交わることはなかった。関東大震災後の憲兵による大杉や伊藤野枝らの殺害は、後の特高による小林の殺害を予告するものでもあるが、伊藤はここでそれへの目くばせを行っていない。アナーキストである大杉を「社会主義者」と書いていることからもわかるように、同年代、同郷である小林の辿った道は伊藤のそれとは大きく離れたものとなっていく。小坂による差別発言とそれへの抵抗のなさをあえて記したのは、この後に生じることになる隔たりを象徴しようとしたものかもしれない、とまでするのはさすがにうがちすぎか。


小林をめぐってはこんなエピソードもある。商高の図書館は館長をしていたある教師の影響からか、文学書が多かった。伊藤は図書館に通い詰めるが、「すると私は、それ等の本のどれもが、私が借りる前に、あの顔の蒼白い小林多喜二に読まれていることを、自然に意識した」。

伊藤は「外の教師や生徒たち」ならばいくら読まれていようが気にならなかったが、これが小林では、「あいつが読んだ後では、私は自分の読んでいる本の中身がもう抜き去られているような気がした」のだった。小林の関心は主に小説にあり、彼が小説を書いていることを知っていた。小説よりも詩に関心を持っていた伊藤は、「詩ならともかく、小説を読んでいる時は、私には分からないカンジンの所を、小林の方が分かっていて、それをみんな吸収してしまっているに違い」ないと感じたが、「私が小説を嫌ったのも、この気持ちのせいであったのかもしれない」。

高校、大学などに進んで図書館の本を漁るようになると、常にある人物が先回りするようにすでにその本を読んでいることを発見し焦燥感にかられるというのは、ある時期までの小説や回想によく出てくるエピソードである。

『耳をすませば』のようなことを妄想してしまうのは、あまり図書館通いをしない人なのかもしれない。個人的には自分が借りた本の履歴を他人が把握していると想像すると、ありえない話であるが、たとえ相手がどんぴしゃの好みの女性でありその結果として自分に好意を寄せてくれるようになるのだとしても、勘弁してほしいと思ってしまう。今ではほとんどの図書館で手書きカードで貸出を管理することはなくなったのでこういったことは起こりえなくなった。何かとアナログにノスタルジーを抱きがちな傾向にあるのだが、こればかりはデジタル化されてほんとによかったと思う。もっとも、近年のツタヤ図書館など見ていると、そのうちに「あなたの貸し出し履歴からおすすめ本です」なんて広告メールが送られてくるようにもなりかねないという危機感も大袈裟なものではないし、改めてパブリックなものの重要性について考えてしまう。


パブリックといえば、こんなエピソードにも注目できる。
新設の市立小樽中学はしばらく校長不在であったが、熊本県立第一高等女学校の校長だった吉田惟孝が転任してきた。吉田は外遊経験があり、複数の著作も刊行している、「中等学校長としては古手の著名な人物」であった。吉田は五十代半ばほどで、「ダルトン・プランの理論家」であった。

伊藤は「生まれてからこれまで遭った人間のうちで、この男が一番偉いかもしれないという、妙なことを考えた。学問とか地位とかいうものと別な、人間としての確かさとか、人間を見定める力の確かさとか言うべきものが、彼のその大工の棟梁じみた風貌に漂っていた」。

21歳だった伊藤は、近代イギリス詩や世紀末フランス詩、それらに影響をうけた日本の近代詩を読みふけっていたことから「古風な道徳意識に対する信頼を失っていた」。しかし吉田には「何か物を言い出す度に道徳主義の仮面をかぶるという古い教育家のようなところがなく、また教育を技術や事務として片づける技術家の性格も見えなかった」。

英語の専門家でもあった吉田は「一年生には簡単な英会話を繰り返して教えるのがよいと私たちに言い、英会話のレコードを売っている所をさがして蓄音機とレコードを註文」させた。
「ハロルド・パーマアという発音学の専門家がイギリスから招かれて、全国の英語教育の指導をしている時であったから、レコードはパーマアの吹き込んだもの」だった。

今でこそ外国語の音声教材など無尽蔵といっていいほど山のように簡単に手に入るが、1920年代はこれが手一杯だったことだろうし、苦労がしのばれる。こうして伊藤ら中学の英語教師は会話の練習を半ば強要されることになる。

吉田の指導方針はオーラル・メソッド、あるいはダイレクト・メソッド的発想であろうが、1クラス50人であったことを考えるとこのやり方はあまり現実的でないように思えてしまうが、吉田が机上の空論に固執する教育家であったのかといえば、むしろ逆であったようだ。

吉田は生徒の家庭訪問を行うが、イギリスで買った古ぼけた帽子と、「ゴムがすっかり伸びてみっともなくなった靴」といういで立ちだった。この靴は簡単に脱げ容易に履けるので「日本の生活に適しているというのが彼の意見であった」。
「彼は日本の知識人のように、洋服の型に合わせた身のこなしをする、という気配が全く無く、ハッピ型、股引型に洋服を無造作に身につけている、という風で、便利だから着ているという気持ちがはっきりしていた」。
背広を固く着込んでいた伊藤は、吉田を軽蔑したいと思ったが、逆に「どうしても彼を尊敬しないでいるわけにはいかなかった」。

家庭訪問など小学校の教師のすることで、ましてや中学の校長がするなどという話は聞いたことがなかったが、吉田はこれを熱心に続け、それでいて「私たち教師に訓戒じみたことは言わなかった」。吉田は毎日教員室の隅の応接用テーブルで教師たちと一緒に弁当を食べ、一軒一軒の家庭訪問の様子や「この土地の人々の気風や特色」について語り、「それだけで私たちは、完全にこの校長に支配されてしまったことを感じた」。

熱心にして実務型、やり手の校長であった吉田は、さらなる授業の「改革」に乗り出す。それまで50人ずつ2クラスであった2年生を、30人ずつ3クラスに再編し、A組に「最も出来る子」、B組に「普通の子」、C組に「出来の悪い子」と振り分けるというのだ。「C組には教科書を普通より緩慢に、繰り返し教え」、B組は「普通の速度で教え」、A組は「その他に課外の授業をして、出来るだけその学力を高めてゆく、というやり方であった」。

吉田は「現在のやり方は、公平でなく、秀才と出来ない子と両方にとって不幸」であり、こうすることで「どの子にも納得の行く、無駄のない教育をすることになる」と言った。しかし伊藤は「冷酷なことをするものだ」と思い、吉田の奉じる「ダルトン・プランなるものが一種の秀才教育であることを、私は理解した」。

教頭は父兄から苦情が出るのではないかと懸念したが、吉田は「よく話せば分かることじゃ」と言い、父兄会では「秀才教育だという感じを与えないように、鈍才に重きを置く方法だという印象を与えるように説明した」。吉田は「黙り込んだ父親や母親の前で、ゆっくりとした口調で、念を入れるように説明した」。

「出来る子の父母は、上の学校に入るのに自分の子が有利になることをすぐさま理解し、出来ない子の父母は、悲しみをもって諦めた」。
まだ若く経験も浅い伊藤ですらこれが「冷酷」な「秀才教育」であると感じたのだから、父母たちもすぐにそれを悟ったのであろう。

伊藤はこれによって「以前のようにどこに分からない子がおり、どこかに退屈している子がいるという、いやな気持から抜け出すことができた」としている。「出来るクラスの二年生に馬鹿にされないように、英語の作文や英会話を準備した。また出来ないクラスに出た時は、その子供たちを哀れに思う気持ちが自然に湧くので、その感情に従って、念を押し、繰り返し、ほんの少しの事を生徒が覚えると、本当にうれしいと思うようになり、結局熱心な教師として働いた」。

伊藤は英語教師として吉田の改革に適応したのであるが、はたしてこれを美談としていいものであろうか。
ふと思ったのが、いわゆる「ゆとり教育」についてだ。寺脇研など一部の文部官僚は「善意」でこれを推進したのかもしれないが、三浦朱門が自らゲロっているように、教育行政に影響力を持っていた右派文化人にとってはこれは一部のエリートとそれ以外とを峻別する手段に外ならず、教育に資本を割ける層と日々の生活で手一杯の層との、階層の固定化を狙ったものであった。

とりわけ外国語学習は、「合理的」に割り切れば習熟度別クラス編成の方が「効率的」で、学力は向上しやすいであろう。しかし公立学校がこのような教育でいいのだろうか、学力の向上さえ図れれば、何かを犠牲にしてもいいのだろうか、という問いを置き去りにしてはならないだろう。

吉田がいかに綺麗ごとを並べようとも、「出来ない子」の親は正しくもその狙いを見抜いたのであるが、「悲しみをもって諦め」るより他なかった。親ですらこうなのだから、当事者である子どもたちにとっては重いスティグマであり、屈辱感もあっただろう。たまたま伊藤のような熱心な教師にあたればいいが、「出来の悪い子」になど何を教えても無駄だとぞんざいな授業をする教師も出てくるだろうし、学習のモチベーションをあえてそぐような挙にまで及びかねない危険性もある。「出来の悪い子」にとっては「運」によって左右される要素がさらに高まってしまう。

小規模の新設校であったことから吉田はここを自分の教育の理想に近づける場だと思っていたのかもしれない。
「若し日本の中等教育が公立や官立の形をとらず、私立寄宿学校の形式で行われ、その資金を手に入れることが出来れば、吉田惟孝は私立学校を経営したに違いなかった。五十歳を幾つか過ぎた彼は、この学校を、そのダルトン・プランの系統の理想教育を実現し得る場所として選んだのであった」、と、吉田の赴任後間もなくに伊藤は考えた。

ここにあるように、吉田が理想としたのはおそらくは寄宿舎制度によるイギリスのパブリック・スクール的なものであろう。「パブリック・スクール」は「パブリック」という言葉とは裏腹に公立学校ではない。吉田のようなやり方は一部の特権階級が通う私立学校においては「効果的」であるのかもしれないが、公立学校にふさわしい形式であるかといえば、疑問を抱かざるをえない。

ある意味で面白いのは、明治大好きであるはずの右派文化人や自民党文教族のほとんどが、パブリック・スクールからの影響も受けた旧制高校制度へのノスタルジーを一切持っていないことだ。彼らにとっての「エリート教育」とは一部の特権階級が享受するものであるか、特権階級へ奉仕する人間を育てる場にすぎないのだろう。右派財界人の代表格であるJR東海葛西の肝いりで作られた某学校が、旧制高校とは似ても似つかないものになっているのは象徴的だ。教養主義の色彩が強い旧制高校など、むしろ目障りな存在となるのだろう。「近代」的システムの認識という点でも現在の右派界隈というのは明治時代の制度設計者以下であり、これは教育以外の面でも顕わとなっている。

個人的には「秀才教育」(つまりエリート教育)を全否定しようとまでは思わないが、それが貧しかったり、「出来の悪い子」を犠牲にする形でしか実現し得ないのであれば、絶対に反対である。パブリックなものにはパブリックな役割があるし、それは損得や効率だけで測れるものではない。

明治政府とは疑似王政復古と疑似近代化とのキメラであり、その結果としてあのファナティシズムが生まれることになった。パブリックなものを担う市民を育てるのではなく、権威・権力への服従という形でしかコントロールしようとしなかったことがあの破局へとつながっていった。日本人のパブリックなものに対する感覚の弱さは戦後も克服できなかったどころか、近年むしろ悪化しているかのようの思えてしまう。これは日本に限ったことではなく、パブリックなものを攻撃し、それをプライヴェタイズ(民営化/私営化=私物化)していくというのは「新自由主義」の一つの特色であり、世界各国で起こっている現象でもある。右派と机上の空論を弄ぶ経済学者とによって押し進められる「バウチャー制度」をはじめ、教育もその標的とされる。民営化されたインフラ企業であるJR各社の経営陣が右翼の巣窟となっており、「エリート校」を目指すという旗印で創設された学校があのようになってしまうというのは偶然ではないとすべきだろう。


と、『若い詩人の肖像』からは脱線してしまったが、本筋とは必ずしも言えない部分にも、現在読むとかえって注目できる点が多い作品なのかもしれない。


プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR