『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』

『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』





村上は「これまでやってきた翻訳の仕事について、なんらかの形で本としてまとめておきたい、一冊一冊について少しばかり語っておきたい」というのがしばらく前から頭にあったそうだ。しかしどのタイミングで「区切り」をつければいいのだろうと思っていたのだが、最初の翻訳書の刊行からおよそ35年を経たということで「思い切ってこのような本を編むことになった」。

単行本としての翻訳第一作のフィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティ』から最新のジョン・ニコルズの『卵を産めない郭公』までほぼ網羅的にコメントをつけている「翻訳作品クロニクル」と、「翻訳の師匠役」である柴田元幸との対談「翻訳について語るときに僕たちの語ること」がメインコンテンツで、村上の初めて活字になった翻訳である「サヴォイでストンプ」も再録されている。


「翻訳作品クロニクル」は訳すきっかけや裏話などが満載で、まさに僕がそうなのだが、村上の訳書を数多く手にしている読者は楽しめるだろう。おなじみの話もありつつも初めて知った話も結構あった。

作家にまつわる面白い話としてはこんなものがある。
ポール・セローと個人的に交友するようになって知ったのは、『ワールズ・エンド』の「緑したたる島」はセローの実体験を基にしており、恋人を妊娠させて駆け落ちしたというのは本当にあったことなのだそうだ。結局子どもは養子に出し、女性とも別れてしまったのだが、セローが最近ケープゴットで知り合った男と話していると、なんと彼がその息子であったことがわかったという。株か何かで大儲けして40歳手前で引退して悠々自適の生活を送ってるそうで、生物学上の父親としてはほっと一安心したことだろう。セローは何らかの形でこれを書きそうな気がするが、まさに「事実は小説より奇なり」、小説の続編として書いたらいくらなんでも……と思われそうだが、実話だったら仕方がない。




ル・グウィンの『空飛び猫』シリーズはある読者から「こんな面白い絵本があるけれど、村上さんが訳したらいかがですか?」と本が送られてきて、これが面白いので訳すことになったのだが、「その読者というのは実はポスドク時代の福岡伸一さんだった」。このエピソードどこかで読んだ気がするのだが、どこでだったか。




村上が訳している作家の中で僕が個人的に最も思い入れがあるのは誰かときかれたら、それはティム・オブライエンかもしれない。個々の作品の質がどうこうではなく、オブライエンは僕にとって大切な、特別な作家であり続けている。村上がオブライエンに同志的感情を持っていると繰り返し書いていることはうれしいのだが、最後に訳した『世界のすべての七月』でのコメントが「オブライエンの新作に期待がかかるのだが」で締めくくられているのが哀しい。頑張って書いておくれよ、ティム。





『卵を産めない郭公』は60年代半ばのアメリカの大学を描いたものだが、学生たちのスラングにわからないものが多かったことから村上と同年齢であるテッド・グーセンに訊いてみると、「ひとつ前の世代の言葉だからわからない。この人たちは酒ばかり飲んでいるけど、僕らのころはみんなマリファナをやっていたからことばもちょっとちがう」とのことだったそうだ。

翻訳アンソロジーとして編んだ『バースデイ・ストーリーズ』に村上が書いた「バースデイ・ガール」は教科書に使われることが多く、高校生だった姪から「おじさんが書いた小説、学校で読まされたよ」と言われたそうだが、この姪っ子の世代からしたら60年代半ばも後半も同じようにしか見えないだろうが、「ひとつ前の世代」といっても実際にはほんの数年のこととはいえ、しかしこの世代はほんの数年で文化も言葉もがらっと変わっているもので、当時を知る人間だからこそかえって別世代に思えてしまうのかもしれない。






今回改めてまとめてみて、「そのあまりの数の多さに自分でもいささかたじろいでしまった」そうだが、村上春樹が翻訳を出すと聞いても日本では驚く人はいないが、これは世界的に見ても稀有とまでは言い過ぎかもしれないが、かなり珍しい例だろう。このあたりについては「翻訳について語るときに僕たちの語ること」でたっぷり触れられている。

村上春樹と同世代、あるいは同時期のデビューでいうと、村上龍、高橋源一郎、田中康夫といったあたりは(どこまで本人がやったかはともかく)若いころに訳書を出しているが、ほんのわずかでそれっきりとなっている。池澤夏樹はもともと翻訳もやっていた人というのもあるのだろうし、アンゲロプロスの字幕を含めその数は比較的多いが、それでも春樹と比べることはできない。古井由吉をはじめ外国文学の研究者から作家になった人はたくさんいるが、こちらも研究者時代に訳書を出していても、作家としての地位を確立した後はやめてしまうか、数がぐっと減る人がほとんどだ。対談でも触れられているように、ポール・オースターも若いころはかなり翻訳をやったが、こちらも作家として成功するとやらなくなった。オースターの元妻のリディア・デイヴィスは現在進行形で翻訳を行っているが、作家が継続的に翻訳を行い続けるといった例はやはり少数派のようだ。

村上はなぜこれほど翻訳を数多く行うのだろうか。それは当人も語っているように、村上には文学上の「師」と呼べるような存在や文学的同志というのがいなかったが、翻訳という作業を通して先人から学び、同世代の精神的仲間を発見できたというのが大きかったのであろう。それよりも何よりも、繰り返し書いているように、やはり翻訳を行うということ自体が好きだというのが最大の理由なのだろう。村上といえばマラソン好きであるが、こうしてコツコツと、毎日一歩一歩を重ねていくという作業が性に合うのだろう。翻訳をやめてしまう作家たちは、「自分で書けるんだからそんなことに時間と労力を取られたくない」ということなのかもしれないし、このあたりは小説家としての方法論がどうというよりは、まさに好みの問題とすべきなのかもしれない。

明治といえば翻訳の時代でもあったが、夏目漱石は若い頃にちょろっとやっただけであとは行っていない。晩年(といっても40代後半だが)になってもかなり貪欲に英語、ドイツ語で洋書を読み漁っていたので、外国文学に関心を失ったのではなく、翻訳することに気が向かなかったということなのだろう。

これと対照的なのが森鴎外で、「手に入ったものはなんでも、どんどん訳しているという感じ」で、翻訳ジャンキーとすらいっていいような存在であった。
村上は「それはもうキャラクターですかね。使命感というよりは」と言っている。啓蒙という意図もなかったわけではないだろうが、それでは説明のつかないようなことまで鴎外は行っている。

柴田はこれに関連してこれを受けてこう言っている。「キャラクターですね。翻訳もそうだし、岩波文庫で出ている『椋鳥通信』、あれはようするにシベリア鉄道経由でドイツから新聞を取り寄せて、こんな記事があった、あんな記事があったというのを、ただただツイッターみたいに書いている。それも匿名でやっていて、当時の「スバル」に載っていたけど、人気もそんなになかったらしいんですよね。だれも喜ばない。だけどやっている。そういう取り込んでは出す、というのを、ちょっと異様なくらいにできる人だったんですね」。

太宰治にツイッターなんぞをやらせたらヤバ過ぎるというのはよく言われるが、鴎外もツイッター的なツールを手にしていたら、匿名のサブアカで鬼のようにひたすらつぶやきまくる「ツイ廃人」にでもなっていたのかもしれない。匿名での連載が人気もないし「だれも喜ばない。だけどやっている」というのには思わず笑ってしまう。

これと一緒にしていいのかはわからないが、村上も80年代にはアメリカの雑誌を読んで面白そうな記事をピックアップするという連載をしていて、『THE SCRAP 懐かしの一九八〇年代』という本になっている。この本は今パラパラ見ても(今見てます)引っ越しの途中の古新聞のようについ読みふけってしまうのだが、こういった感じのちょっと肩の力を抜いて海外の最新文化やらゴシップやらを独自の角度と関心で紹介するコラムってすっかりなくなってしまったような気がする。それこそSNSで探せばそういうことをしている人は今でもたくさんいるのだろうけど。





ポーの『モルグ街の殺人』を『病院横町の殺人犯』として訳しているが、名訳とされるアンデルセンを含め鴎外の翻訳はすべてドイツ語からで、時代のせいもあったのだろうが、重訳はいっさい気にしなかった。

村上は訳す側であるとともに訳される側でもあり、重訳の問題についても意識せざるをえないので、そのあたりにも触れられている。訳される側の立場についても語られていて、ジェイ・ルービンの本にもあるように、村上は翻訳者に気遣いをするタイプの作家である。一方で口うるさいといえばサリンジャーのそれは有名で、ここでもいろいろなエピソードがある。村上は『キャッチャー』を訳したときにダメ元でサリンジャーにインタビューを申し込んだが、もちろん断られたそうだ。初めて知ったのがフィリップ・ロスについてで、ロスは「訳者あとがき」を英訳して送ってくれだとか、日英両方できる人間に訳をチェックさせてリポートを書けといった要求をしてきたのだそうだ。別に悪意があってやっているのではなく、「自分の作品がどう訳されるかをすごくきちんと考える人」であるが故の(行き過ぎた?)熱心さによるものとすべきなのだろうが、ロスは重要さの割に未邦訳の作品が多い作家であるが、もしかしてこういうことも影響してたりして。





サリンジャーといえば、やっぱり野崎孝訳一択という人は今でもかなりいそうだが、村上は『キャッチャー』を訳した時に野崎訳を読み返してみたら「すごく正確」であったとしている。柴田もこれに同意して、「インターネットのない時代に、どうやってここまで調べたんだろうってくらいに」としている。

ご存じの通り、庄司薫の『赤ずきんちゃん気をつけて』はサリンジャーその人というよりも野崎訳サリンジャーの強い影響下にある。野崎孝の仕事とその影響というのはきちんと論じられ、もっと顕彰されるべきだというのが僕の昔からの勝手な持論なのだが、誰かやってくれないだろうか。





やってほしいものといえば、こんなやりとりがある。
「柴田さんは前に、高校生向けの英文和訳の本を出したいって言ってましたよね」。
「ええ、高校生にも「読める易しさの、読んで面白い小説やエッセイが並んでいて、詳しい注釈があって文法的なこともひとおり学べて……という画期的な本を作って未来の村上春樹に読んでもらいた(笑)」。

いや、「(笑)」ではなくてこれすぐにでも実現してほしいと思っている人は多いはずですよ、柴田先生! と声を大にして言いたい。高校生に限らず、もう一度英語をやり直して原書にチャレンジしたいという需要もそれなりにあるだろうし。昔は『トリストラム・シャンディ』の訳者としても有名な英文学者の朱牟田夏雄が英文読解の本を出していたり、こういうのは結構あったのだが、近年は英文学者による英語教育というのに否定的な風潮が広まったせいか、絶滅したわけではないがあまりみかけなくなってしまった。






柴田はある時期に英文解釈の問題集を訳すのが楽しくてしょうがないといった感じになったとして、こう続けている。「高校二年か三年かなあ。翻訳に開眼したのはそのときですね。日比谷高校で、生徒のほうはともかく、いい先生がまだいっぱいいた時代でしたから、英語の授業はよかったですよ」。
日比谷高校といえば昔の一中であるが、このあたりは旧制中学・高校の残り香があったのだろう。

村上はこれを受けてこう言っている。「僕は神戸の公立高校だったけど、灘高の生徒と同じバスに乗り合わせたりすると、難しそうな原書を抱えていたりして、「ふん、なまいきなやつらだな」よく思いました。僕らは普通の公立高校だからぜんぜんそういう雰囲気はなくて、英語で本を読んでいる生徒なんて誰もいなかったです」。
村上も相当な進学校である神戸高校出身なので「普通の公立高校」としていいのかとは思うが(村上の自分は勉強できなかった話は割り引いて聞く必要がある)、こちらには旧制中・高校的エートスは残っていなかったということなのかもしれない。

もちろんごく一部であろうが、当時「難しそうな原書」を抱えた高校生がいたということは朱牟田のような学者の手掛けた英文解釈本に需要があったはずである。灘高校といえば、灘で高橋源一郎と、東大で内田樹と友人で、その早熟な知性が鮮烈な印象を与えたという竹信悦夫がいるが、『ワンコイン悦楽堂』での高橋と内田の回想を読むと、昔はすごい人がいたものだと思ってしまう。浅田彰は高校生の時に蓮見重彦に誤訳を指摘する手紙を送っていたなんて有名な逸話もあるが、浅田あたりの世代が最後で、今ではこういったタイプの驚異的な秀才は……というか、今の高校生については何も知らないので、実際には今でもどっこいやはりそういう高校生はしっかりといて、竹信と同じように表に出ていないだけかもしれない。





日本では旧制高校に代表される教養主義というのが(かつての実態はともかく)すったりすたれてしまい、それを危惧してアメリカの名門大学のリベラル・アーツ教育を見習えなんて声も近年はよく聞こえる。しかし、英語圏において翻訳者の地位が低いというのはよく聞く話であるが、とりわけアメリカの大学では翻訳を積極的にやっていると、「アカデミックな世界ではあいつら翻訳ばかりやって」と見られてしまい、「若手は翻訳をやらない方がいいとアドバイスされたり、ペンネームで訳したりする。テニュア(終身在職権)を取るまでは、翻訳ばっかりやってるやつというふうには見られないほうがいいと考えられているみたいです」なんてのを読むと、アメリカの大学もそれはそれで何やっとんじゃいというところでもある。日本でも昔はミステリーなどエンタメ系の小説をペンネームで訳していた研究者はいたが、アメリカでは研究者による翻訳は純文学系でも若手は後ろ指さされるのを覚悟するか、裏稼業のようにこそこそやらなくてはならないのか。


村上春樹と柴田元幸の出会いのきっかけは、村上がアーヴィングの『熊を放つ』を訳すときに、これまでやっていない長編の翻訳だから自信がなく、「ちゃんと英語のできる人に洗ってもらいたい」と担当編集者だった安原顕に相談したところ、安原が5人のチームを集めて、その中に柴田も含まれていたのだった。
村上は「不思議なのは、英語がそんなにできない人も入っていたことですよね」としているが、国文学が専門の武藤康史は「日本語の達人」として声がかかり、「この日本語、合ってる?」とお伺いをたてられていたのだそうだ。こんなことをしてれば当然経費はすさまじく嵩むわけで、今ではとてもできないと振り返っている。バブルの直前の時代で、とりわけ雑誌は高騰する広告料で相当に儲かっており、出版社にうなるほどカネがあったからできたことであったし、そんな時代でなければ二人は出会わなかったのかもしれない(なんて書き方をするとまるで夫婦にでもなったかのようだが)。

村上と安原の間にはその後あれこれ起こるわけだが、この対談を読むとわかるが、デビュー間もない作家にやりたいことをじゃんじゃんやらせてくれて支援も惜しまなかった安原のような編集者なくしては、村上がこれほど翻訳にのめり込むことはなかったかもしれない。あの一件の後では村上は安原の名前など目にするのも嫌だとタブー化してもおかしくないのだろうが、ここでも積極的に名前をあげているように、そうはしないのは村上なりに感謝の念を捧げているということなのだろう。没後に表沙汰にしたことには批判もあったが、村上なりのフェアな態度を貫いているともできる。





このようにいろいろと時の流れというのも感じさせる本でもあり、カバーに使われている本棚の写真に、外国文学にまじってフジモトマサルの本があるのも、早世したフジモトへのオマージュとしてだろう。




それにしてもこの本棚、基本的にはテーマ別、作家別に分類しているのであるが、カーヴァーのコーナーにバーセルミの原書が一冊まじりつつ、ちょっと離れた、見切れる寸前の左っ側には『死父』の訳書がある。スペースの関係で収まりがいいから分離されているのかもしれないが(ぴったり収まっている)、なまじそれなりに整理分類されているだけに、こういうのを見せられるとどうも落ち着かない。写っているのは全体のごく一部で、家の本棚全てを見せろとはいわないが、せめてこの一面だけでも全体を確認させて欲しい……



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR