『ミズーラ  名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』

ジョン・クラカワー著 『ミズーラ  名門大学を揺るがしたレイプ事件と司法制度』





モンタナ州第二の都市、人口七万人ほどのミズーラ。保守的な政治風土に浮島のごとくある大学のリベラルな雰囲気は、大学関係者以外の住民からは必ずしも歓迎されていない。しかし例外がある。それがミズーラ大学のアメフト部、グリズリーズだ。グリズリーズは市民の誇りとなっており、収容人数二万人を超えるスタジアムは毎試合ほぼ満席となるほどの人気っぷりであった。2010年から12年にかけて、そのグリズリーズの選手たちからレイプされたという告発が相次いだ。クラカワーは本書で二つの裁判を軸に、大学における、そしてアメリカ合衆国におけるレイプやそれをとりまく環境を描き出す。


ある調査によると、「米国で発生する強制レイプのうち、警察に届け出があるのは五パーセントから二十パーセントにすぎない。訴追されるのはわずか〇.四パーセントから五.四パーセントで、当該の暴行の罪での禁固を含む有罪判決が下されるのは〇.二パーセントから二.八パーセント。この数字はこのように考えることもできる。つまり、この国でレイプ事件が起きたとき、九十パーセント以上の確立で加害者は刑罰を逃れるのだ」。

グリズリーズの選手たちが起こした事件は特異な例ではない。体育会系のみならず、大学全般で性暴力が蔓延している。そして無論大学のみならず、一般社会でも依然として性暴力は蔓延り、加害者たちの多くが訴追すらされていない。なぜこのようなことになっているのかにはいくつかの理由があるが、最も大きな要因は「レイプ神話」が根強くあるからだろう。

被害者たちが警察に訴えるのをためらうのは、それ自体がさらなる心の傷となるからであるのは容易に想像がつく。病院で証拠採取のための検査を受けていると、そこで再びレイプされたかのような気分にさせられたという証言がある。そればかりでなく、いざ告発を決心しても様々な嫌がらせに合うことになる。

警察や周囲からまず疑われるのは、それが虚偽の訴えではないかということだ。実際にはレイプの虚偽の告発というのは極めて稀なのであるが、その数は実体よりも多くイメージされている。もちろん数少ないことは皆無だというのではなく、本書にも虚偽の告発によって有罪判決を受けた例に触れられているし、どのような事件であれ慎重な捜査と公正な裁判が求められることは言うまでもないが、レイプ事件に関しては他の犯罪よりも、むしろ被害を訴え出た側に疑いの目がまず向けられてしまう傾向が強い。

またレイプというと「スキーマスクをかぶり、ナイフを振りかざし、女性を茂みに引きずり込むやつだという共通認識がある」が、実際にはレイプの85パーセントが顔見知りの犯行によるものであり、本書で主として扱われるのもまさにこのケースである。

顔見知りで、しかも合意の上で酒席をともにしたり家で二人きりになれば、それが性行為にまで合意を与えたものだと解釈されかねず、多くの裁判ではそこが争点とされる。

被害者はレイプされる危険を感じれば泣き叫び、力の限り抵抗するものだという思い込みがあるが、これもそうとは限らない。力づくで性行為を求めてくる相手だけに、被害者はここで抵抗すればさらなる危険にさらされるのではないかという恐怖心に襲われる。またパニックに陥って身動きできなくなることもある。しかし抵抗しなかったことは同意の印と見なされてしまいがちであり、さらには苦痛や恐怖であげたうめき声を「あえぎ声」だとしてこれを合意の印だとする法廷戦術がよく取られる。

クラカワーがことわりをいれているように本書の描写にはショッキングな箇所もあり、僕も読むのがつらくなるところも多々あった。読んでいるだけでこうなのだから、実際にレイプの被害にあった人が負うことになる心の傷はすさまじいものであろう。しかし、実際にはレイプ被害を矮小化され、とりわけ名門大学の学生や有望スポーツ選手が加害者となると、「前途ある若者の将来を奪っていいのか」といったような加害者への同情論が巻き起こることとなる。

レイプという犯罪に実態に基づかない誤った固定観念を抱き、さらにその被害を矮小化する数々の「レイプ神話」によって、被害者は告発が困難となり、裁判でもさらなる苦難に見舞われることになるのである。

日本の性犯罪発生率は世界的に見て少ないということが言われる。確かに統計上はそうなのであるが、悪名高き痴漢の横行などを考えると、これを鵜呑みにしていいのだろうかという気分になってくる。本書で被害者たちは様々なセカンドレイプにさらされることが描かれるが、日本では被害者へ向けられる視線はさらに厳しいものだろう。つまり性犯罪の発生数が少ないのではなく、被害者がそれだけ訴えづらい状況に追い込まれているだけなのではないかという疑念を抱かざるを得ない。いずれにせよ、日本でも「レイプ神話」は蔓延っており、それを打破するためにも本書は日本でも広く読まれるべきものであろう。


しかし同時に、とりわけ日本でこれを読む際には少々注意を要するところもある。
キング群で長く性的暴行捜査班を指揮していたレベッカ・ローは「ダブルスタンダードがあるんです」と言う。「裁判官は弁護人よりも検察官に高いレベルの真実性を求める傾向があります」とし、「検察官が法廷で真実でない発言をし、被告人が有罪となった場合、弁護側は上訴し、有罪判決を覆すことができます。しかし、弁護人が真実でない発言をしたとき、それに相当する抑止力はありません。被告人が無罪となると、検察側は上訴できないのです」と語っている。

日本では裁判官はむしろ検察よりも弁護人に「高いレベルの真実性」を求める傾向にあるし、また無罪判決が出ても検察側は上訴することができる。これらは冤罪が発生する可能性を高めているという指摘は多い。

もちろんレイプ事件に限って検察側により高い真実性を求めるといったことが行われているのであればそれは是正されるべきであるが、クラカワーはそこからさらに踏み込むかのような書き方までしており、推定無罪の原則や弁護人の正当な弁護活動にまで結びつけるかのような部分は危うさもある。もちろん裁判の勝ち負けにだけしか関心がなく、醜悪な言動を取る弁護士が多数いることは事実であろうし、とりわけアメリカでは富裕な被告人がスター弁護士を雇って陪審員から不可解とも思える評決を引き出すのに成功するということは頻繁に起こっており、憤りを覚えることもわからないではないのだが、同時にアメリカでも冤罪は少なくないことも押さえておかなくてはならないだろう。

レイプ犯の多くが顔見知りであり、本書で大きく取り扱われるのもそのケースである。性行為が行われたことに疑いがなければ、争点は同意の有無になる。当然ながら文書等の物的証拠が残っているはずもなく、証言の信憑性が最大のポイントとなる。強いショックにさらされることで、事件後に被害者が、傍から見れば奇妙とも思える言動を取ることはしばしばある。また証言が揺れたり、虚偽の訴えだと疑われたくないと思うあまり曖昧であったり矛盾した証言を行えば、弁護人はそれらを徹底的に突いてくる。弁護人は原告や原告側の証人が信頼に足る人物ではないという印象を陪審員に与えようとし、それに成功すれば裁判の流れは決まったも同然となる。

本書で描かれる裁判の模様を読むと、弁護人に強い不快感を覚える読者がほとんどであろう。陪審員の一人も、無罪の評決を出しながらも弁護人の悪辣といっていいほどの、容赦ない尋問に不快感を持ったと言っている。

弁護人は法廷において「レイプ神話」を徹底的に利用する。そして陪審員はその戦略に乗せられてしまう。「レイプ神話」の虚構が喝破され、被害者を貶めることに傾注するようなえげつない法廷戦略をとればそれが陪審員の心象にマイナスに働くようになれば、弁護人も戦略を変えざるを得なくなるかもしれない。最大の敵は誤った固定観念を与える「レイプ神話」であり、これを打ち破ることこそが多くの被害者が告発を行えるようになり、裁判で公正な判決が得られるようになり、レイプを減らすことにもつながるはずだ。

悠長なきれいごとといえばそうかもしれないが、日本によくいる、普段は冤罪問題になど何の関心も払っていない、それどころか冤罪問題に取り組む人権派弁護士などを冷笑していたはずなのに、こと性犯罪に関してだけは突如態度を変えるといった人間を見ると、かえって原則論から踏み外すような危うさには慎重であらねばと思えてくる。ここをおろそかにしてしまうと、それこそ恣意的な裁判や、あるいはバックラッシュや陰謀論が蔓延してしまうことにもなりかねないだろう。


なお本書では連邦司法省がミズーラの件に関心を寄せ、地元の右派が反発するというアメリカでは起こりがちな事態にも発展したことも描かれている。オバマ政権は大学内での性犯罪の蔓延にも熱心に取り組んでいたのだが、こういった試みはトランプ政権の誕生によってご破算になってしまうことだろう。トランプはその過去が暴露されるばかりか、選挙期間中も女性に対して醜悪な言動を公然と繰り返したが、それにも関わらず当選したというよりも、それゆえに当選したとすることもできる。これは人種問題と同じで、それだけトランプのような人物が大統領に当選してしまったというのは深刻なことであるのだが、少なからぬ日本人がその深刻さをきちんと理解していなかった(あるいは今でもその本質について理解していない)のは、日本社会における人権への無関心やそれへの侮蔑の蔓延という形で表れている。


もう一つ付け加えると、本書には18歳の加害者が、性についての知識をもっぱらポルノから得ており、「潮吹かせ」たかったと説明したという事例が登場する。「それまでに見たポルノの影響で、スミス[加害者の男性]は、膣の潮吹きが女性の性的快楽の至上の表現であり、指を膣や肛門に猛烈に突っ込むことでその反応を引き出せると信じていた」。

ポルノでの描写を「普通のセックス」だと思い込んでそれを再現しようとするというのは日本でも聞く話であり(というか、日本製ポルノが世界的にどう受け取られているのかを合わせて考えると、日本でこそ深刻に受け止めるべきだ)、きちんとした性教育の必要性を痛感させられる。近年日本では性感染症が増加しているという調査もあるが、これは日本の性教育が全く機能していないことを表すものだろう。そして十数年前に安倍晋三をはじめ自民党右派が派手に暴れ回ったことで日本の性教育をさらに委縮させたという事実は、いくら強調してもしすぎることはない。

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佐藤太郎(仮)

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