『パディントン』と若年層の政治性

ようやく『パディントン』を。





ほぼ予備知識がなかったもので(原作の絵本も読んでいなかった)、「難民問題にもさりげなく目配せしたものらしい」みたいなイメージだったのが、実際に見てみるとそうではなかった。さりげなく目配せどころか、ど真ん中に直球を投げ込むかのような作品であった。

伯爵……じゃなくってパパの言う、関わり合いになるとロクなことにならない、同情を引こうとしてウソをついている、可哀そうに思うかもしれないが住む世界が違うんだ、といったことはそのまま今日の難民に浴びせられる視線そのものだ。

『パディントン』の素晴らしいところは、ストレートな正しいメッセージと、子ども向け作品という本分を踏み外さない良質なエンターテイメント性とが無理なく両立していることだ。「実は大人も楽しめる」という言い訳によって子どもを置き去りにすることもなく、また子ども向けなんだからこんなもんでいいだろうといった安易さとも無縁である。

動物擬人化はなんだかんだいってやはり可愛いし、セロハンテープぐるぐる巻きのパディントンといったスラップスティック調、耳垢たっぷりの歯ブラシのような子どもが大好きな「下ネタ」、複線とその回収もわかりやすいがあざといというほどではなく、『ミッション・インポッシブル』などの映画のパロディも、大人向けというよりは元ネタを知らなくても子どもでも楽しめるもので、様々な笑いに満ちたきらびやかなフルコースといった感じだ。

大まかに分けると同じカテゴリーに入れていいであろう『ズートピア』がアメリカでは作られたが、英米でのこのような流れをどう考えたらいいのだろうか。

イギリスのEU離脱を問う国民投票では、若年層は世論調査では残留派が圧倒的であったが、投票率は低かった。アメリカ大統領選では、白人に限定しても若年層はクリントン支持が上回っていたが、こちらも投票率は低かった。あるいは英米の若年層にとっては、多文化主義をはじめとする社会の変化の流れはすでに決したもので、積極的に守り、育んでいかねばならぬのだという感覚さえない自明なものであり、そのせいで逆に投票率が低かったということもあったのかもしれない。

このたびのイギリスの総選挙では、労働党は勝利したとはとてもいえないが、それでも事前の予想を覆し党勢のある程度の回復に成功した。その要因の一つが若年層の投票率が高く、その多くが労働党へと票を投じたことである。保守党(というかメイ個人)の自滅という要素も大きかったとはいえ、「ブリグジット」の衝撃が若者を動かしたという面もあったのかもしれない。来年の中間選挙、また次の大統領選挙でアメリカの若年層がどういった政治行動を取るのかは、こういった観点からも注目できるだろう。


『パディントン』の監督は僕と同世代であるが、残念ながら日本のこの世代のクリエーターに『パディントン』や『ズートピア』のような作品を作ろうという気概のある人がどれだけいるかといえば、胸を張れそうにはない(単なる僕の無知ゆえの偏見であって、実際にはそういう流れはすでに生じているということであればいいのだが)。

多くの国で右傾化が生じているが、その担い手は基本的には中高年(さらに付け加えると男性)である。韓国の大統領選挙を見ると、保守的な中高年層と進歩的な若年層のグラデーションは一目瞭然だ。ところが日本の場合、世界的に見てかなり稀どころか、一応は民主主義とされる国においては唯一無二かもしれないほど若年層に保守的な傾向が強い。「選択肢がない」というだけではこの現象に説明をつけることは難しいように思える。

この若年層の政治的傾向の違いは、正しさへの感覚に表れているだろう。日本では公正さや公平さ、普遍的正義への感覚が希薄で、最も強い「イデオロギー」(あえてこう言おう)は「長いものには巻かれよ」であるかのように映る。日本の若者はある角度から見ればすごく「いい子」であるが、また別の角度から見れば個性に乏しく、権威・権力に「従順」である。

学生運動というと大学と反射的に考えてしまうかもしれないが、『高校紛争』(小林哲夫著)にも描かれているように、60年代末から70年代初頭にかけては高校でも学園闘争が行われた。同書にあるように村上龍の『シックスティナイン』は、69年の龍自身の高校時代の経験を描いたものである。

一部の学校では学生の自治といった果実が実ったが、大方の高校の「解決策」が高校生の政治活動の禁止であった。政治への忌避感を植え付けることで、高校生の側でも政治に関心を持つのは変な人、権力に逆らうのは愚かな振る舞いという価値観が内面化されていったとも考えられるし、その過程を過小評価することはできないだろう。

先日話題になった都立高校の「地毛証明書」の提出であるが、これは黒髪直毛のみが「正しい」もので、それ以外は逸脱と見なしている点で管理教育云々という以前に明らかな差別であるが、どこかの高校の生徒会がこれに抗議したり問題化したという話は聞かない(表に出ていないだけであったのかもしれないが)。教育問題においても被害妄想にかられている日本の右派であるが、実態としては教育において右派は一方的な勝利を収めたし、これもその結果であろう。

社会を支配する「コード」を疑い、あるいはクリティカルに分析するのではなく、その「コード」があるのならとりあえず従っておけばいいし、それが正しいのか否かを問うなどというのは愚かしいことで、そこからはみ出る存在は社会から不可視化されてそれでおしまいとなる。どう振る舞えば自分が一番損をしないか、その「賢さ」こそが日本の若年層の「保守化」の正体かもしれない。

「近頃の若いのは」と言い出したら年を取った証拠とされるが、言い訳をさせてもらうと日本の若年層の政治的傾向の特異さはすでに書いたように主観に基づくものではなく、国際的なデータの比較をしてやはり突出したものだろう。とはいえ、若年層だけの問題なのかといえば、もちろんそうではない。

東芝の経営陣の不正行為に気づいていた人間は内部のみならず監査法人等の外部も含めて相当数に及ぶはずだが(もちろんほとんどが中高年)、ほぼ全員がこれと正面から対峙することなく、問題を放置し、取返しのつかないところにまで悪化させた。余計なことをして目をつけられるような真似はしたくないという、個人として「損をしない」選択を重なった結果、企業としてとてつもない損失を出し、会社自体が風前の灯火となりかけている。さらにいえば、東芝がここに至ってまだ「生き残って」いるのは、この巨額の損失と不正が「国策」である原発事業の結果であるためだろう。そもそもがこのレールを引いたのが経産省である疑いは濃厚であり、「国策」であるゆえに不正が看過されている疑いもまた濃厚である。

実体としての権力というよりも、抽象化された権力、権威の顔色を窺い、ご機嫌を損ねないよう振る舞うのが「賢い」ことだというのが、あらゆる層に浸透しているのが現在の日本社会であろう。

さらなる卑近な例を出せば、「プレミアムフライデー」なるものがある。うまくいかなかったことに驚いている人がいたら驚きであるほど、馬鹿らしいとしかいいようのない企画であるが、民間企業が勝手に始めたのなら「ご勝手に」というところであるが、音頭を取ったのは政府であり、おそらくは少なくない額の税金が広告代理店などに投入されているのであろうが、これが検証されることはないのだろう。どこぞの愚かな人間が政策に影響力を持ってしまい、その愚かな人間による馬鹿げた発案が現実化しようとしても誰もこれを止められず、大手民間企業も主要メディアもおそらくは本音では馬鹿らしいと思いながらもこれに唯々諾々と協力をした。

そんなに消費を増やしたいのであれば、行政がやるべきは違法な長時間労働等をきっちり取り締まることであり、民間企業がやるべきは有給の消化を妨げるような体質を改めることであり、政治がやるべきは最低賃金の引き上げや非正規労働者への賃金をはじめとする差別待遇を解消するなどして、誰もが尊厳ある暮らしができるようにすることであるが、この馬鹿げたイベントが決まった際に正面切って批判した主要メディアは皆無であったし、「王様は裸だ!」と叫ぶべきコメディアンが「プレミアムフライデー」にまともな「突っ込み」を入れたという例も寡聞にして知らない。現在の日本の「お笑い」は本来ならそれを揺さぶる役割であるはずが、むしろ抑圧のコードを内面化するのに貢献してしまっている。

「長いものには巻かれよ」と批評精神の欠如こそが日本のテレビ(とりわけバラエティ)の惨状をなによりも表すものであろうし、これが平然と受け入れられている限りは『パディントン』や『ズートピア』のような作品は若い世代からは生まれないのではないかとも思えてしまう。

もちろんこれは隣の芝が青く見えてしまっているだけなのであるが、それを承知しつつも、『パディントン』を大いに楽しんだからこそ、暗い気持ちにもさせられてしまったもので(酔った勢いで)与太をついダラダラと。




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佐藤太郎(仮)

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