『みみずくは黄昏に飛びたつ』

村上春樹語る 川上未映子訊く 『みみずくは黄昏に飛びたつ』





村上は「作家同士の対談というのがもともとあまり好きではない」としている。「しかしインタビューという形式で他の作家と話しをするのはなかなか悪くないと思っている。インタビューするのも、インタビューされるのも、相手次第でかなり興味深いものになるはずだと考えている。インタビューというフォーマットにおいては、インタビュアーの責任と、インタビューの責任とがはっきり区分されているからだ」ともしている。
ということで本書は対談ではなく、あくまで川上による村上へのロング・インタビューとなっている。

第一章は2015年7月に行われ「MONKEY vol.7」に掲載されたもので、これについてはすでにこちらに書いた。残りは2017年1月から2月にかけて行われ、『騎士団長殺し』脱稿直後ということでこの作品を中心に村上の創作についての態度や考え、方法論などが語られている。『騎士団長殺し』についてはこちらに。


一般論として作家や、あるいは創作者の言葉をどこまで正直に受け止めるかは慎重であるべきだろう。べつに嘘をついたり煙に巻いたりするつもりはなくとも、作者だから「正解」を知っていると読者は考えるべきではない。作品はそれが発表された時点で、作者からも独立している。

村上は読者の読みを限定したり誘導したりすることには禁欲的なタイプの作家であるため(ある解釈を示してしまった後で「これは作者のというよりは、あくまで僕の個人的意見ですが(笑)」と冗談めかしているが、これは小説家の態度としては極めて正しい)、本書においてもすっとぼけているように映ったり、暖簾に腕押しといった感じに受け止める人もいるかもしれない。村上春樹初心者が「村上春樹による村上春樹入門」というのを期待すると少々肩透かしをくらうことだろう。

村上は自分の作品がリーダブルであることに自信と誇りを持っているが、実際は近年の村上作品は過去作との対照なくしては理解が難しくもなっており(作品単体では意味不明ということではなく、なぜこのようなことをしようとしているのかという意図においてということ)、これを個人的には「大江健三郎化」と呼んでいるが、こういう文脈をふまえている読者にとっては行間からにじみ出るものを興味深くすくいあげることもできる。


川上は「騎士団長」が自らがそうであると名乗る「イデア」について質問するが(プラトンによればイデアというのは本質的に善であり、悪のイデアというのはそもそも原理的に存在しない)、村上は有名な比喩だが「中身はよく知らないけど」と返す。「イデア」という言葉を使う以上調べたり、整理しておこうとは考えないんですか、と訊くと、「ぜんぜん考えない」といった調子である。川上は「それは本当ですか」と何度も訊くが、答えは変わらない。

これをどう受け止めるべきか。調べもせず何も考えていないのに書けるなんてすごい、というのも、いい加減に書きやがって、となるのもピントがズレているだろう。別の個所で、「やっぱり出産のイメージを引き寄せますよね」と訊かれ、「たしかに」と答えつつ、村上はこう続ける。

「書きながら、そういう考えは浮かぶ。でも、「これは出産のメタファーだな」とか考え出したりしたら最後だから。(……)「これは出産であり再生である」みたいなことを書き手が考え出したら、もう最後です。頭を使って考えるのは他の人にまかせておけばいい。それは僕の仕事じゃない」。

おそらくこの部分は率直な本音だろう。イデアについてまったく調べていないというのは真に受けるべきではないと思うが、イデアとは哲学史においてかくなるものであり、従ってここで「イデア」という言葉をあえて使うのはかくかくしかじかの意味がこめられていて、といったことを意識して書いてしまっては負けになる。

村上の作品は(『騎士団長殺し』がまさにそうであるように)冥府下りをはじめとして各地に見られる普遍的な神話や古典との関連性で語られる。

村上はこう語っている。「あらゆる国のあらゆる民族の神話には、たくさんの共通するものがあります。そういう神話性が各民族の集合無意識として、時代を超えて脈打っていて、それが地域を超えて世界中でつながっている。だから、僕の小説がいろんな国で読まれているとしたら、それはそういう人々の地下部分にあたる意識に、物語がダイレクトに訴えかけるところがあるからじゃないかなと考えています」

また本書でもちらっと言及されるように、英語圏ではしばしば『源氏物語』をはじめとする日本の古典文学と重ねて論じられる。蓮見重彦はかつて『小説から遠く離れて』で村上作品(を含む近年の日本文学の多く)は定型的な構造をなぞっているだけだとしてその「凡庸」さを厳しく評価したが、「普遍性」と「凡庸」さは紙一重でもある。これを作者の側で意識して、凡庸さから逃れようと「勉強」をはじめてしまえば、それは「知的」なものになるかもしれないが、物語が本来的に持っている力強さは色褪せてしまいかねない。『オデュッセイア』を換骨奪胎したジョイスの『ユリシーズ』は奥深い多層的な作品であり知的興奮をもたらすものであるが、では『オデュッセイア』にあったような、誰もが没頭できるプリミティブな物語の力強さを持っているかといえば躊躇せざるをえない。村上は当人の弁とは異なり、おそらくはかなりの「勉強」を実はしているとおぼしき形跡は多々あるが、いざ小説を書くという際にはそれを出来る限りシャットアウトしようとしているといったあたりが実態ではないだろうか。

同じモチーフを繰り返し使うことについては「でもそんなこと言ったら、ブルーズシンガーは同じコード進行で毎日歌っているわけじゃないですか。しょうがないじゃん、ねえ(笑)。と思うしかない」とする。
「これは前と同じだ、まずいな、変えよう、みたいな気持ちにならない?」と訊かれると、「僕の場合、昔書いたことってほとんど忘れちゃってるから、そんなに気にならないというところはあります」と返している。

これも「忘れようとしている、気にしないようにしている」と考えたほうがいいだろう。
村上はそれが「凡庸」だと知的な人間から蔑まれようとも、物語の強さを信じているし、だからこそ凡庸さから逃れようという欲求を抑え込もうとしている。


繰り返し書いているが、『海辺のカフカ』以降の作品は過去作の「語り直し」という要素が非常に強い。それを物語を生み出す能力の枯渇、ただの自己模倣と見なす人もいるだろう。
村上はボルヘスのあるエピソードを引き、「僕らは結局、五つか六つのパターンを死ぬまで繰り返しているだけなのかもしれない」としつつ、「ただ、それを何年かおきに繰り返しているうちに、そのかたちや質はどんどん変わっていきます。広さや深みも違ってきます」と付け加えている。

「それでも前進していると感じられるのは、どういうところで感じられるのでしょう」という問いには、「文章です」と簡潔に答えている。「僕にとって文章がすべてなんです。物語の仕掛けとか登場人物とか構造とか、小説にはもちろんいろいろな要素がありますけど、結局のところ最後は文章に帰結します」。

一人称から三人称への移行、村上の言葉を借りれば新しいヴィークル(乗り物)を手にしたことで、かつて語った物語がまたどのように転がっていくのかを試す、そういったことをおそらくは確信的に行っている。

『騎士団長殺し』は再び一人称に回帰した。村上は繰り返し「悪」の物語に対し「善き物語を書こう」という意志を持っているとしている。当人はこの意志はもとからあったもので、80年代までの作品でもそういうところはあるとしているのだが、やはりこれは、それだけに帰するべきではないが、オウム真理教事件を受けてから強く意識するようになったものだとすべきだろう。村上は語り直しによって、かつての物語を「善き物語」へと仕立てなおそうとした。『騎士団長殺し』は三人称によって試みられたことを、一人称というかつてのフォーマットで行おうとした、逆輸入的作品であるとすることができる。

川上はかつて使っていた「僕」という一人称について、「その「僕」だけに可能なモラトリアムや甘えの構造も含んだ、切なさとしか言いようのないものが表現されているじゃないですか。(……)その切なさみたいなものを、読者は懐かしんだり、初期のほうがいいね、とかみんな言うわけです。時代は関係なく、それが一九九〇年代でも、二〇〇〇年代でも、その時々にのっぽきならない「切なさ」を生きている人たちにダイレクトに響く」として、またあのような手法で書きたいとは思わないかと訊くと、村上はあっさりと「思わない」と答えている。

「僕にはそういう懐かしいという感じはないから」とし、昔の作品も「読み返さないね」とつれない。これは、橋はすでに焼き切ったのでもう戻れないということなのだろう。

もちろんそれがうまくいっているかどうかはまた別に問われなければならない。『ねじまき鳥クロニクル』は移行期の危ういバランスの上に奇跡のように成立したものであり、これ以降の作品については村上の試みがうまくいっているかといえば、個人的にはそうであると手放しに思うことはできないし、とりわけ80年代までの村上作品に深くなじんだ読者であるほど、同意見の人は多いかもしれない。


このインタビューでは基本的には訊かれたくないであろうことや、厳しい質問はなされていないし、そのあたりに物足りなさを覚える人もいるだろう。『1Q84』や『騎士団長殺し』を読めば、村上と父との関係について訊きたくなるのは当然のことだろうが、これは遠回しに触れられるだけだ。

しかし『騎士団長殺し』の「私」をはじめ近年の主人公の趣味嗜好がかつてよりアッパークラス化していて、「三十代の主人公の目が、年相応よりも肥えてきている感じがするんですよね」というのは、川上が嫌みを言っているように聞こえなくもない。「だんだん富裕層の雰囲気が出てきています」という指摘に村上は「そう言われればそうかもしれない」としている。村上作品の主要登場人物はそれなりになんとなく金を持っているのが多いのであるが、これが近年上ぶれしていっていることに無自覚であるのはまずいだろう。

村上は36歳だったことが、あるいは15歳だったことがあるので、自分が経験したことのない年齢と違い「普通に書けてしまう」としているのだが、同じ36歳といっても当然ながら時代が違えばそのあり方は異なることになる。村上は実年齢である80年代の36歳と、作中の主人公の年齢である2000年代の36歳との置かれた社会環境の変化などにいささか無頓着すぎるように思えるし、それが作品の質にも悪影響を及ぼしているという印象は否めない。

さらに直接的なのは、おそらくはフェミニストとしてこれだけはしっかり訊いておかねばということであろう、村上作品における女性のあり方についてだ。
川上は「女性であることの性的な役割を担わされ過ぎている」と感じる読者も結構いるとし、「物語とか、井戸とか、そういったものに対しては、ものすごく惜しみなく注がれている想像力が、女の人との関係においては発揮されていない」のではないかとする。村上がピンときていないようなのでさらに、『ねじまき鳥』や『1Q84』において「男性側の役割が、無意識の領域で戦う」ことであり、「そうか、今回もまた女性が男性の自己実現のために、血を流して犠牲になるのか」と読まれてしまうと続ける。

こう問われてもやはりすれ違っているように思えるやりとりが続く。こういう言い方をしてしまえばそれまでよということになるが、考えてみれば村上と川上ではまさに親子ほど年齢が違うわけで、川上と同世代の僕が自分の親の世代のことを考えると、まあ仕方がないよな……ともなってしまう。それで済ませてはいけないんだろうけど。

ではそんな川上がなぜ村上作品を読み続けるのか。川上は「眠り」を取り上げる。「「眠り」でお書きになった主人公のような女性は、今まで一度もお目にかかったことがありません。これは本当に驚くべきことです」。
村上はこの作品が英訳され「ニューヨーカー」に載ると、当時無名だったこともあってハルキ・ムラカミを女性作家だと思い込んで「女の人から「よく書いてくれた」ってファンレターが何通も来」たと振り返っている。

もちろんこれは、村上がフェミニズム的意識から女性の置かれている立場や不安を描き出そうとしたのではなく、結果としてそうなったとすべきだろう。作者の「意図」を超えて、フェミニストである川上ともこれで「信用取引」が成立したように、これこそが物語というものの強さを表すエピソードだとすることができよう。


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佐藤太郎(仮)

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