『完全版 1★9★3★7』

辺見庸著 『完全版 1★9★3★7』






一九三七年、盧溝橋事件があり南京大虐殺があった年であり、翌三八年には「国家総動員法」が、「国会では法案に多少の批判的質疑はあったものの、なんのことはない、全会一致で採択」されることになる。

辺見は二〇一六年末に刊行された「過去のなかの未来――角川文庫の「序」にかえて」でこう書いている。

「戦争と侵略の遂行に不可欠なこの基本法には、もともと市民への強制や罰則条項を(治安維持法があったからとはいえ)ふくまなかったのである。それはなにを意味したか? 戦争と「侵略へのコクミンの自発的協力が前提され、期待され、非協力や反戦運動の可能性など、はなから想定もうたがわれもしなかったのだ。その時代に、わたしの祖父母が生き、両親たちもニッポン・コクミンとして生活し、父は、他の人びとと同様に、まったく無抵抗に応招し、中国に征った。そのなりゆきまかせと没主体性について、死ぬまでにいちどはほじくっておきたいとわたしはおもっていた」。

「二〇一六年現在のナゾをとくヒントは過去にこそあるとおもいいたった。すなわち、人間の想像力をこえる、酸鼻をきわめる風景の祖型は一九三七年に、つとにあったのである」。


盧溝橋事件以前から日本は中国への侵略を開始していた。では「1★9★3★1」や、あるいは「1★9★4★1」ではいけないのか。「べつにいけないということはない」としつつ、辺見はこう書く。「こう言うのが許されるならば、わたしは一九三七年に正直惹かれつづけ、そうこうするうちに一九三七年はわたしのなかで他からぬきんでた「1★9★3★7」(「イクミナ」または「征くみな」)という謎めく表象となり、わたしを悩ませ、苦しめつづけた。それはたんに「一九三七年」と事務的に記すだけではもったいないほどに、ニッポンとニッポンジンの出自、来歴、属性、深層心理を考えるうえでどうしても欠かすことのできないできごとが目まぐるしく撞着しあいながらあいついだ年であったのだ」。

「ニッポンジン」はもちろん一九三七年の前から「ニッポンジン」であり、二〇一七年もいまだ同じ「ニッポンジン」であり続けている。それが煮詰めた形で露出したのが一九三七年であった。辺見は南京大虐殺を中国人の目を借りて描いた堀田善衛の『時間』や、中国での日本兵の残虐行為を、おそらくは自身の実体験をふまえて書かれた武田泰淳の『汝の母を!』を中心に、小津安二郎、丸山眞男のような従軍経験者の回想などの、「その細部[ディテール]についてぶつぶつかた」っていくのが本書である。

何よりも辺見がこだわるのが、自身の父についてだ。中国に兵士として赴いた父は、おそらくは中国人を殺したことがあると辺見は考えていた。殺したことがあるどころか、さらなる残虐行為にすら手を染めたのではないかという疑いも持っていた。癌に冒され、余命いくばくもなくなった父に、これについて質問しようと準備までしていたが、結局訊くことはできなかった。何を行ったのかを語ることがなかった父。何があったのかを訊くことができなかった息子。これこそが、「ニッポンジン」が八〇年前と変わることなく「ニッポンジン」であり続けさせているものかもしれない。

「墓をあばくことで結果するかもしれない驚愕と狼狽を、いまさらみたくもないという気持ちもあった。いや、わたしじしんいまさら絶句したり、うろたえたりしたくはないという、これはいかにも奇妙なことばだが、<じぶんじしんへの忖度>によって墓穴をのぞきこみることを避けてきたのである。うらをかえせば、いったん墓あらしをすればこの湿土の暗がりからなにかがあらわれてくるのかについて、一九四四年生まれのわたしには、幼年期から小耳にはさんでいたことも少なからずあるので、うすうす見当がついていたともいえる。それは陽の光に晒されるべきではないと権力者たちだけではなく世間のみなに配慮されて、じっさい大っぴらに晒されてこなかった、目も耳もうたがうほどのグロテスクであり、それとうらはらの秩序と統制、そして、細かい網の目状の管理と「おもいやり」と自己規制と相互監視と無関心にうらうちされた、壮大な沈黙と忘却である。それらは敗戦とともにかんぜんに清算され消失したニッポンの心的機制なのではなく、敗戦後もほとんど無傷で生きのこり、表面はじんじょうをよそおいながらも、まったくじんじょうならざるげんざいと未来を形づくっている古くからのメカニズムでもある。である以上、いまといまの行く末を知るために記憶の墓があばかれなければならない」(上 pp.26-27)。


辺見が行うのは「墓あばき」だけではない。「じぶんじしんへの忖度」とは問いかけることを忌避することであり、自分にも刃を向けなければならない。一九三七年の日本にいたら、中国との戦争を侵略と認識したのだろうか。そうできたとしたら、召集令状がきたときにどう対応すべきだったのか、何ができたのだろうか。中国で捕虜の殺害を度胸試しとして命じられたら、周囲の兵士が中国人女性たちを漁り、強姦を繰り返していたら、いったい何ができたのだろうか。
父(の世代)に対して問わなかったことと、「じぶんじしんへの忖度」として己への問いかけを行わなかったことはコインの表裏だろう。殺された中国人たちは集合的な数字としてあったのではなく、一人一人の人間であった。そして凶行に及んだ日本兵もまた、一人一人の人間であった。


辺見の父は敗戦後、放心したかのように玉の出ないパチンコを延々とやったり、妻や子どもたちに暴力を加えた。典型的なPTSDの症状のようにも思えるが、一方でかつての上官が訪ねてきたときの異様な敬礼の光景や、酔って朝鮮人への差別を口にするなど、「戦争の被害者」としてのみで済ませることはできない部分も息子は見ていた。父は戦後も天皇誕生日には、日の丸を掲げ続けたのである。

地方紙の記者となった父は、勤務先でペンネームを使って当時の回想を連載したことがあった。ようやくこれと向き合うことができた辺見は、この連載の文章の奇妙さに気づかされる。自分の小隊が拷問を行った記述には、「文法的におかしなところがある」。「受動態と能動態が不自然にいりまじり、明示すべき主語がはぶかれたりする」。「だれの意志でもなく、自然発生的にぜんたいがそういうことになったとでもいうのか」。

辺見の父は分遣隊の隊長だった。つまり、「拷問の責任は、形式的にもじっしつ的にも、分遣隊の隊長だった父にあったはずである。じぶんが命じておきながら、あるいは拷問を承認しながら、「哀れ」だの「残虐極まる」だのと老人に同情していたかのように記述し、非道の責任を明記せず、悪のせいを「拷問には慣れているらしい上等兵」に、さりげなく負わせている。卑怯ではないか」。
父の文章からは、「コノオドロクベキジタイハナニヲイミスルカ?」という問いがすっぽり抜けていた。

元日本兵による中国での残虐行為の証言は多いが、自身がそれに加担したことを認めた例はそう多くない。辺見が例外的存在としてあげるのが武田泰淳であるが、日本兵による残虐行為を正面から見据えた武田の『汝の母を!』への反応が今一つであったように、この作品は兵役につかなかった人間にとってすら居心地の悪いもので、戦後もこれから目をそらし続けたのは日本社会全体の「じぶんじしんへの忖度」とすべきであろう。

「責任主体をはっきりさせるのではなく、ぎゃくに、責任をかぎりなくかくさんさせ、ついには無化していく無意識」は、辺見が書くように父に特有のものではなく、「ニッポンジン」全体に見られたものであり、現在も見られるものである。

堀田善衛は『方丈記私記』に、東京大空襲の八日後、「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車の中から、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た」のに出くわしたことを書いている。ここで堀田は「廃墟での奇怪な儀式のようなものが開始された」のを目にする。「まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて」、かなりの人数が集まると、「涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第であります」といったことを小声で呟いて、土下座をしたのである。

戦争を開始し、敗色濃厚になってもなお戦争をやめようとしない天皇への批判の言葉はいっさい出なかった。堀田はこう書く。「私は本当におどろいてしまった。私にはピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちら眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあるということになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こり得るのか!」。

真に恐るべきは、この光景を冷ややかに、さらには憤りをもって見ていたはずの堀田が続けてこう書いていることだろう。「とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでいわゆる大義に生きることの、戦慄を伴った、ある種のさわやかさというのもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた、せめぎ合っていたのである」。

辺見の父が「明示すべき主語」をはぶき、「受動態と能動態が不自然にいりまじ」った文章を書いて責任の所在をぼかしたことと、戦後に天皇の責任が問われることがなかったのは、相互に支え合った結果だ。責任を問われたくないから責任を問わないし、責任を問わないことで責任から逃れようとした。またこれは、父の世代に対して「じぶんじしんへの忖度」から、問いかけを行わなかった子どもの世代、さらにその下の世代にも関わるものである。

一九三三年に小林多喜二は特高に虐殺された。自白を引き出すための拷問ではなく、はじめから殺すことが目的の、あまりに凄惨な暴力であった。新聞各紙は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死で逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」という「警視庁特高課のコメントをうのみにした」記事を掲載したが、「これを信じた読者は少なかっただろう」。

さらに「一九六七年一月に国会で虐殺のじじつかくにんをもとめられた当時の稲葉修法相は、「答弁いたしたくない」とつっぱねている。公知のじじつなのに答弁したくないという「答弁」が公的にまかりとおり、メディアもとくにさわぎはしなかった。

一九三六年には「共産党潰滅の功労者に恩遇」が与えられ、「叙勲・賜杯」が行われたが、その中に多喜二虐殺に関わった特高が含まれていたにも関わらず、「わたしの知るかぎり、この「栄典」は戦後も公式に撤回されていない。撤回し反省すべきだというマスコミの論調も寡聞にして知らない」。

小林多喜二が殺されたということは皆わかっていたが、これは「スルー」された。そして戦後になってもなお続ける居直った答弁もまた「スルー」された。
「解説」で徐京植は、二〇一三年にオリンピック招致のため安倍晋三が原発を「アンダーコントロール」であると「厚顔無恥な虚言」をしたにもかかわらずこれを「歓迎し喝采」した人々を見て、「日清、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争当時から、おそらく人々はこうであったのだろう」と思ったとしている。、戦中の日本人は政府や軍部に「ダマされていた」のではない。「ダマされたのではなく、それをみずから望んだのだ。自己の利害や保身のために、多かれ少なかれ国家や軍部と共犯関係(辺見庸のいう「黙契」)を結んだのである」。

辺見はこう書く。
「ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて「自由なる主体となった」か。ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符が打たれたのか。超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されてしまったのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ)」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者やつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、いま、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言をひかえ、知らずにはすまされないはずのものを知らずにすませ、けっきょく、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか」(下 p.222)。


辺見庸と村上春樹。早稲田出身という以外にはさして共通点のなさそうな二人であるが、二人の父はともに兵士として中国に赴き、そして息子たちはそこで何があったのか、何を見聞きしたのかを、父に最後まで問うことができなかった。

村上のデビュー作『風の歌を聴け』には中国とそこでの戦争のイメージがすでに存在している。そして南京虐殺が登場する最新作の『騎士団長殺し』にいたるまで、この関心は繰り返し作品に表れている。

一九四四年生まれの辺見と四九年生まれの村上を同世代としてもいいのかもしれないが、一方で戦後生まれの村上と、まだ見ぬ息子の写真を中国から所望する父の手紙が残っている辺見とでは世代的に隔絶があるとも考えられる。

この二人の類似と差異はこの『1★9★3★7』と川上未映子による村上へのインタビューである『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中からもうかがえる。

村上はこう言っている。
「日本人は自分たちだって戦争の被害者だという意識が強いから、自分たちが加害者であるという認識がどうしても後回しになってしまう。そして細部の事実がどうこうというところに逃げ込んでしまう。そういうのも「悪しき物語」の一つの、なんというのかな、後遺症じゃないかと僕は思います。結局、自分たちも騙されたんだというところで話が終わっちゃうところがある。天皇も悪くない、国民も悪くない、悪いのは軍部だ、みたいなところで。それが集合無意識の怖いところです」(p.97)。

『ねじまき鳥クロニクル』の中の「動物園襲撃」については、村上はこう語っている。
「虐殺の話。日本兵が動物園の動物を殺したり、脱走兵を殺したりする。あれ、たしかバットで殴るんですよね。その行為自体はもちろん「悪」ではあるんだけど、その個人レベルの「悪」を引き出しているのは軍隊というシステムです。国家というシステムが、軍隊という下部システムを作り、そういう個人レベルの「悪」を抽出しているわけです。じゃあ、そのシステムは何かというと、結局のところわれわれが築き上げたものじゃないですか。そのシステムの連鎖の中では、誰が加害者で誰が被害者か定かにはわからなくなってしまう。そういう二重三重性みたいなのは、常に感じています」(p.89)。

「悪」を抽出システムは「結局のところわれわれが築き上げた」というのは、「わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべき」という辺見の問題意識と重なっているだろう。

辺見の父も、村上の父も、志願して好き好んで戦地に赴いたのではない。そういう点では戦争の被害者であるが、その被害者が国家というシステム、軍部という下部システムに飲み込まれて加害者となるし、そのシステム自体はそもそもが「われわれが築き上げた」という点ではやはりその加害者性を見逃してはならない。村上の視点はそこが強いだろう。一方で辺見は、父が何をしたのか、そして父がなぜそれを戦後も語らなかったのか、自分はなぜそれを訊けなかったのかにこだわる。それこそが天皇をはじめとする支配層の戦争責任を問えなかったことにもつながっているのではないかとする点では、辺見と村上の意識は微妙に異なっているようにも考えられる。

いずれにせよ、兵士の息子の世代によるこの問いかけが孫の世代(これは僕がまさにそうである)にまで受け継がれているかといえば悲観的にならざるをえず、だからこそ今このタイミングで辺見や村上の世代がこのように語っているのだろう。問われているのは「「わたし(たち)」の世代でもあり、それは問い続けることができるのか、という問いである。



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