『世界と僕のあいだに』

タナハシ・コーツ著 『世界と僕のあいだに』





タナハシ・コーツは詩人でブロガーでジャーナリスト、本書のタイトルもリチャード・ライトの詩から取られている。本書は高い評価を受けベストセラーともなり、全米図書賞を受賞。その他にも全米批評家賞、ピューリッツァー賞のような大きな賞で最終リストにも残った。さらにコーツには、5年間で50万ドルという巨額さと、トマス・ピンチョン、スーザン・ソンタグ、リディア・デイヴィス、ジュノ・ディアスなど過去に錚々たる面々が受けていることから「天才助成金」という異名を取るマッカーサー賞が与えられている。
トニ・モリソンが「ジェームズ・ボールドウィンの再来」と激賞したことからも、いかに高い評価を受け、また今後が期待される作家であるかがわかるだろう(都甲幸治の解説と池田年穂の訳者あとがきから)。


「僕は一五歳になろうとするお前にこの手紙を書いている。なぜかと言えば、今年エリック・ガーナーがタバコを売ったために窒息死させられたのをお前が見たからだ」。

このように、本書は40歳になろうとしているコーツが15歳になるのを目前にした息子に手紙を通して語りかけるという形になっている。ご存知の通り、近年のアメリカ合衆国では、コーツがここでいくつもの例をあげているように、黒人が警官に殺害されるという事件が頻発し、Black lives matterというムーヴメントが起こることになる。本書はその真っただ中で執筆、発表されたものだ。

ブラック・パンサーの支部長にしてコーツにとって「メッカ」であったハワード大学の学術司書でもあった父親、必死で働き向学心に燃えていた母親、暴力とドラッグに溢れた街で育つこと、妻との出会い、そして自身が父親になったことなどを息子に語りかけていく。

こう聞くと、多くの人が本書が「希望」を伝えるものだと期待することだろう。アメリカには確かに差別や暴力や不公正がある、でもこの国は確実に前進しているし、諦めてはならないといったような希望に満ちた、明るい、楽観的なメッセージを。本書の冒頭はまさにそのような「希望」に応えようとするものではないというエピソードから始められる。

あるテレビのニュース番組で、コーツは彼が書いた「僕の肉体を失う」とは何を意味しているのかと質問された。このキャスターが訊きたかったのは「なぜ白人のアメリカ――厳密には自分は白人だと信じているアメリカ――の進歩が略奪と暴力の上に成り立っていると僕が感じるのか」であった。

「この質問を聞きながら、昔からの言うに言われぬ悲しみが自分のなかにこみあげてくるのがわかった。この質問に対する答えは、自分は白人だと信じている者たちの来し方にある。答えは、アメリカの歴史なんだ」。

コーツはそれを文書にしたため回答とした。しかしそのコーナーの最後に映されたのは、黒人少年が泣きながら白人警官を抱きしめている有名な写真だった。そしてキャスターは「僕に「希望」について尋ねた。そのとき、僕は自分が失敗したことを悟った。そして、自分は失敗することを予期していたんだ、と思い出した。それから僕はもう一度、自分の中にこみ上げる、言うに言われぬ悲しみについて考えた」。

コーツがここで息子に語りかけるのは安易な「希望」ではない。そのような「希望」こそが、この状況を継続させている要因の一つなのだ。コーツはむしろ現実を直視することを望む。

「こうした惨状を認めることは、ずっとそうだと自身が言い張ってきたアメリカの晴れがましい姿から目を背け、うさんくさく、得体の知れない何ものかと向き合うことだ。ほとんどのアメリカ人にとって、そうすることはいまでもすごく難しいことなんだよ。だけど、それをやるのがお前の仕事だ。自分の魂の尊厳を守りたいからというだけでも、やらなきゃならないお前の仕事なんだよ」(p.115)。

コーツが本書で闘わなければならない相手としているのが「ドリーム」だ。「僕はお前を自分だけの夢に閉じこもらせはしない。僕はお前を、この恐ろしくも美しい世界で、目覚めた市民にしてみせるよ」(p.125)。

「ドリーム」とは現実を糊塗し、虐げられ続けた人々を飼い馴らす手段である。「ドリーム」といえば、まず「アメリカン・ドリーム」という概念が浮かぶだろう。その生まれに関わらず、才覚と努力によって成功への道は誰にでも開けている、それがアメリカン・ドリームだ。しかしほんとうにそうなのだろうか。むしろこれは、現状を肯定し、支配と被支配関係を固定化しようというイデオロギーともなっているのではないか。誰でも成功できるのであれば、金持ちはその機会を逃さなかっただけであり、貧乏人はそれを逃しただけだ。金持ちを恨むのではなく、己の怠惰さを呪え、といったように。

コーツは触れていないが、それを最もよく表しているのがスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であろう。この作品はまさにこのアメリカン・ドリームの欺瞞をあぶりだしている。貧しい生まれのジェイムズ・ギャッツは上流階級の金持ちの娘に恋をした。彼は怪しげな方法で財を築き、ジェイ・ギャッツビーとなって彼女のもとに再び現れる。しかしこの身の程知らずの越境者は特権階級による罰を受けることになる。特権階級は犯罪行為をしても罪に問われることすらない。越境者はあまりにみじめで哀れな寂しい葬式に送られるだけだ。ギャッツ/ギャツビーのような「白人」ですらこうなのであるから、「黒人」がどのような状況に置かれ続けているかは言うまでもない。

さらには、「ドリーム」という響きからは、当然キング牧師の「I have a dream」が残響する。コーツが若い頃に夢中になったのはキングではなくマルコムXだった。「僕がマルコムを愛したのは、学校やその上っ面だけの道徳とも、ストリートやその空威張りとも、「ドリーマー」の世界とも違っていて、マルコムが絶対に嘘をつかなかったためだ」。

念のために付け加えておけば、暗殺の直前にキングはマルコムに、マルコムはキングにそれぞれ近づいている。もし二人が暗殺されなければと思わずにはいられない。


「ドリーム」は人を微睡ます。現実から目を背け、夢へと逃避させる役割を果たしている。コーツがあの番組で「悲しみ」を感じたのは、「僕ら黒人は「ドリーム」を持てないんだとわかったから」だった。だから彼は「キャスターのために悲しみ、あのすべての家族連れのために悲しみ、自分の国のために悲しんだが、何よりもあの瞬間、僕はお前のために悲しんだのだった」。

「人種は人種主義の子どもであって、その父親ではないんだ」とコーツは語りかける。
かつては「カトリック、コルシカ人、ウェールズ人、メノー派、ユダヤ人」だった人々が、「異なるいくつもの種族を洗って白くする」ことによって「白人」となった。それは「お前や僕の「自分たちの肉体を守り支配する権利」を否定しようとして行われた。「生命・自由・労働・土地の略奪、背中をむち打つこと、手足を鎖でつなぐこと、反逆者の絞首、家族の解体、母親たちの凌辱、子どもたちの売却」といった様々な手段によって。

かつてヴァージニアには「血の一滴」ルールがあった。黒人の血が一滴でも流れていればその人は「黒人」となる。つまり白人奴隷主が黒人奴隷の女性をレイプして産ませた子どもは「黒人」であり、その子孫もまた「黒人」であるということになる。「白人」と「黒人」の線引きがいかに恣意的であるかを表すとともに、奴隷という「資産」を「守る」ため、拡大するためというグロテスクな事実を忘れてはならない。アメリカにおいては「白人」が作られ、「黒人」が作られた。そして黒人は「肉体を失う」という状態に落とし込まれた。なのに、「ドリーム」は「黒人」に、自分たちも「白人」になれるのだという微睡を与えようとするのである。


アメリカにおいて、黒人が親になることは喜びであるとともに呪いでもある。自分の子どもが、いつ何時、理不尽にも命を奪われるのかわからないという不安に苛まれ続け、恐怖から逃れることができない。

ニューヨークに越してきたコーツはこんな体験をした。まだ幼かった息子とアッパーウェストサイドに『ハウルの動く城』を見に行った帰りだった。息子はまだエスカレーターにうまく乗れなかった。イラついた白人女性が「ほら急いで!」と息子を押した。コーツは「まず、見知らぬ人間が自分の息子の肉体に手を置いたときにどんな親でも示す反応をとった。それから、お前の黒い肉体を守る自分の力への不安がよぎった。それだけじゃなく、女が場所を考えて強気に出ているのも感じられた。だとえば、ここがフラットブッシュの僕の家の近所なら、女は黒人の子どもを押しやったりはしないはずだとわかっていた」。

コーツが「目の前の事態と自分のこれまでの人生とで頭が沸騰し、口調が熱く」なったまま白人女性に言葉をかけると、彼女はたじろいだ。すると近くにいた「白人の男が女を擁護して大声を出した」。そして周囲の白人たちもその男に加勢を始めた。コーツは男を突き飛ばした。するとその男は「お前を逮捕させてもいいんだぞ!」と言った。コーツがなんとか怒りを抑えたのは、すぐ近くで息子がこの光景を見ていたからだ。

コーツの行動は過剰反応のように思われるかもしれない。しかし、アメリカでは黒人たちは暴力にさらされ続けており、その不安と恐怖とがこうさせたとすべきだろう。「お前を逮捕させてもいいんだぞ!」という言葉は、「俺はお前の肉体を奪えるんだぞ!」という意味だと、コーツは考えた。

コーツは暴力的な人間ではない。このようなことが起こると、「粗野なコミュニケーション手段をとるところまで自分を貶めてしまったなあと、必ず気分が悪くなった」。「正当防衛や正当な暴力に伴うとされる誇りを感じたこともない」。

「マルコムが僕にとって意義があったのは、暴力を愛する気持ちからじゃなかったんだよ。「黒人歴史月間」に取り上げられる公民権運動の殉教者たちほど、僕に、催涙ガスを浴びるのが解放につながるんだと認識するようにさせてくれたものはこれまでなかったからだったんだよ」。
「僕が実際に手を出したことについて何よりも恥ずかしいと感じたのは、いちばん悔いが残ったのは……お前をなんとか守ろうとしながら、その実、お前を危険に晒してしまったことだったんだ」。


コーツは、あるいは黒人たちは、被害妄想からこのような過剰防衛的心理に陥っているのだろうか。そうではない。現実に、黒人たちは日々恐怖にさらされ、そればかりか、実際に命を奪われることすらある。

二十代半ばだったコーツは、車を運転していて警官に止められた。白人であれば、面倒くさい思いをさせられたり時間を取られることにうんざりするだけかもしれない。しかし黒人にとっては、ここで命が奪われるかもしれないという、とてつもない恐怖にさらされることになる。そして黒人が正当な理由もなく殺されようとも、警察は適当な理由をでっちあげて、殺人者である警官はそのまま逃げおおせるのである。

コーツの大学の同窓生だったプリンス・ジョーンズもこうして殺された。さらに「吐き気をもよおさせ」たのは、ジョーンズを殺した警官は証拠の捏造を行って処分を受けたことのあるような札付きの人物でありながら、当然とすべきか、ジョーンズ殺しの責任を問われることなく復職したことだ。そして、この警官は黒人だったのである。「この警官に人殺しの権限を与えた政治家どもも黒人だった」。彼らは「ドリーム」を見ていたのだろう。自分たちも「白人」になれるのだという。

この件を取材し、そして心に残り続けていたコーツはその後、ジョーンズの母親と会う。母親はゲーテッドコミュニティに住むほど成功した医者だった。彼女は4歳のとき、バスでのある出来事ではっきりわかった。ルイジアナ郊外出身で、「先祖はその地域で奴隷だったわ、奴隷だった結果として自分の世代までずーっと恐怖が谺してるのよ」ということが。

それでも、彼女は「アクセルを思いっきり踏」み続けた。全額給付金付き奨学生としてルイジアナ州立大学で学び、海軍に勤務し、放射線医となった。「当時ほかに黒人の放射線医を彼女は知らなかった」。

「僕はそれを辛かっただろうと推測したが、彼女はそれを侮辱ととった。彼女は何にせよ黒人ゆえに不快なことがあったとは認めなかったし、また自分を図抜けた人間として語ることもしなかった。なぜかっていうと、そうすることはたいへんな譲歩になってしまうからだよ。意味を持つ唯一の期待はメイブル・ジョーンズ個人への評価に根ざしていなければならないというのに、黒人という種族への期待が尊重されるべきものになってしまうからね」。

「彼女の人生に対する気構えは、エリートのアスリートのものだった。彼らは、対戦相手は汚く、レフェリーは賄賂をもらっているとわかっているが、同時にあと一勝で優勝に手が届くのもわかっているんだ」。

息子のプリンスは「パーティで会えば愉快になれ、友だちに「あいつはいいブラザーだよ」と言える類の男」に育った。

成績優秀だった彼に、母はハーヴァードなどのアイヴィーリーグの大学に進むことを望んだ。彼は数学に秀でており、成績優秀者が集まり大学の単位の取得が可能な高校に通ったプリンスには十分に可能だったはずだ。しかし彼はアイヴィーリーグの大学に願書すら出さなかった。高校では、プリンスはただ一人の黒人だった。彼は「黒人の代表を務めなきゃならないのに飽き飽きしていた」。そこでハワード大学を選ぶ。コーツが「メッカ」と呼ぶハワード大学は「ジム・クロウ法の時代に黒人の才能をほぼ独占していた」名門大学だった。ここには三分の一ほどの「ジャッキー・ロビンソン型のエリートの子弟」が通っていた。「彼らの両親は、ゲットーを抜け出したりシェアクロッパーの境遇を抜け出したりして郊外族になったものの、そこでもしょせん自分の身に押された烙印は消えないし、逃げ場もないと知ってしまったんだ。実際に成功を収めた人も多かったけど、そうであってさえ、選別され、見本とされ、多様性の例として美化されたんだ」。
プリンス・ジョーンズは「当たり前の存在になりたくてハワード大学に入った」のだろう。「そこで、「黒人の当たり前」がどれほど幅広いかを知ることになったんだよ」。

別の個所で、コーツは息子にこう語りかけている。「お前は他の黒人の肉体が起こす最悪の行動にも責任をもたされるはめになる。どういうわけか、そんなことさえ、いつでもお前のせいにされるからだ」。
黒人が暴力をふるえば、それは個人のものとは見なされずに黒人全体に跳ね返るようになっている。そして黒人が成功すれば、それは「見本とされ、多様性の例として美化され」、黒人の代表という重荷を背負わされる。自分が自分であるという、「当たり前の存在」になることすら難しいのである。

「ジョーンズ医師は助けを求めて国にすがることもできなかった。プリンスの件では、国は最善というやつを尽くした――彼女の息子のことを忘れたのさ。忘れるのはこの国の習慣で、「ドリーム」のもうひとつの必須の要素なんだ。連中は、奴隷制の中で自分たちを富ませた窃盗の規模をもう忘れている。一世紀にわたって黒人から投票権を盗ませていた彼らの恐怖をもう忘れている。郊外を作らせた分離主義の政策をもう忘れている。連中はもう忘れている。覚えていたら、麗しの「ドリーム」から転げ落ち、僕ら黒人と一緒に世界の底辺で生きなきゃならなくなるだろうからね。僕には確信があるよ。「ドリーマー」――少なくとも今日の「ドリーマー」――は、自由に生きるよりも白人として生きることを望んでいるんだ、とね。「ドリーム」の中でなら、連中はバック・ロジャースやアラルゴン二世、スカイウォーカー一族でいられる。連中の目を覚まさせることは、連中の帝国が人間の築いたものであり、人間の築いたいかなる帝国の例に洩れず肉体の破壊の上に建っているのを暴露することになる。そうなったら、連中の高貴さを汚すものとなるし、連中のことを、脆く、過ちを免れられぬ、破壊しやすい連中にしてしまうことになるんだよ」(p.163)。

ジョーンズ医師は、ソロモン・ノーサップの『12イヤーズ・ア・スレーブ』(映画『それでも夜は明ける』の原作)の話をした。
「彼には資産があった。家族があった。人間らしく生きていた。でも人種主義的行為が一回あっただけで、ノーサップは奴隷に戻された。私の場合も同じよ。長年かけてキャリアを築き、資産を手に入れ、責任ある地位に就いた。そこに、人種主義的行為が一回あった。その一回でじゅうぶんだったわけね」。

「「ドリーマー」の連中を夢から覚まさせたい」、「運動は昔も今も、こんな希望を持ちだがるんだろうね」。でもそこにあるのは、「彼らの白人でなくちゃならない、白人らしく話さなきゃならない、自分たちを白人だと考えなきゃならない」ということだったのかもしれない。

黒人の親はよく子どもを「二倍行儀よくしなさい」としつけた。
「要するに「半分で満足しなさい」と言って聞かせるのを、僕は何度も耳にしてきた。その言い回しは、まるでそれが言葉にされない品性や知られざる勇気を証しているとでも言うように、うわべは宗教的な気高さをもって口にされるんだよ。実際にはその言い回しが証しているのは、僕らの頭に突きつけられる銃口や、ポケットに突っ込まれる手だってのにね。こうやって、僕らはやさしさを失っていく。こうやって、連中は僕らの微笑む権利をかすめ取る」(p.106)。

もちろんコーツは、自分が「ドリーム」と無縁だと言っているのではない。例えば大学時代、コーツが使っていた男性同性愛者を表す言葉は「ファゴット」(男性同性愛者への蔑称)だけだった。「僕は黒人で、今まで略奪されてきたし、自分の肉体を失ってきた。だけど、おそらく僕にも、略奪する能力が備わっていて、もしかしたらほかの人間の肉体を奪うことでコミュニティ内における自分自身の立場を確認するかもしれない」。
「白人である」という「ドリーム」を見ている人間がいるように、「男らしさ」という「ドリーム」を見ていた自分がいた。「僕たちは憎まれている異分子を名指しし、それによって仲間のあいだで承認を得」ていた。


コーツは息子にニヒリズムを教え、憎悪を煽り暴力を賛美し自暴自棄になれと言っているのでは、もちろんない。そうならないように、今この時代にあって、なお蔓延る暴力を目の前にした息子に語りかけている。

「だけどお前は、そうした希望と、「ドリーマー」の連中が意識に目覚めるというわずかな可能性にすがって人生を送ることはできない。僕らの瞬間はあまりにも短い。僕らの肉体はどこまでもかけがえがない。そしてお前は今ここにいるし、お前は生きなきゃならない――しかも世界には、ほかの誰かの国だけじゃなくお前自身の故国にも生き甲斐がいっぱいあるんだよ。僕を「メッカ」に導き、プリンス・ジョーンズをたぐり寄せた「ダークエナジー」の温もり、僕らのこの特別な世界の温もりは、いかに短く破壊されやすいものであっても、素晴らしいものなんだよ」(p.167)。


コーツは大学を中退すると、「地元のオルタナティブ系新聞で音楽評や記事やエッセイを書く」ことからキャリアを始めた。75年生まれのコーツにとって最もリアルな音楽はヒップホップだろう。Black lives matterもケンドリック・ラマーをはじめとするラッパーたちが大きな役割を担った。本書には「ドリーム」をはじめとする概念について抽象的すぎるという批判もあったようだが、言葉を変えれば詩的に綴られたということもできるだろうし、それはラッパーのリリック的な魅力を持っているということでもある。アメリカ社会の現状はもちろん、ヒップホップに関心がある人にとっても必読の一冊だろう。

なお邦訳は註を付けない方針がとられているのだが、確かに固有名詞の知識がなくとも文脈から何を言わんとしているのかはわかるようになっているものの、文化史的な側面を持つ本でもあるだけに、個人的にはしっかり註を付けてほしかったかな、とも思う。


上の引用にも『バック・ロジャース』(1930年代後半にドラマ化され70年代後半にリメイクされたスペースオペラ)やアルゴラン二世(『指輪物語』の登場人物)、そしてこれは説明不要であろうスカイウォーカー一族への言及があった。もちろん黒人の子どもたちもこういった物語に夢中になったと同時に、これらが「ドリーム」を植え付ける役割をも果たしたとすることもできるだろう。コーツが向かう先はこちらでもある。本書刊行後にマーヴェルコミックのリブートされた、その名も『ブラック・パンサー』のライターを務め、この作品は2016年で最も売れたコミックとなった。




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