MONKEY vol.12

MONKEY vol.12





特集は「翻訳は嫌い?」。
柴田元幸による「日本翻訳史 明治篇」に加え、『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』刊行記念イベントでの村上・柴田による「翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう」、そして「(ひとまずの)総括」としての村上・柴田対談「翻訳の不思議」と、『翻訳(ほとんど)全仕事』の補遺的なものともなっている。

「翻訳講座 本当の翻訳の話をしよう」ではチャンドラー、フィッツジェラルド、カポーティの訳し比べがなされており、村上・柴田それぞれの翻訳家としての個性がうかがえる。文字通り一目瞭然なのは、村上の訳文の方が分量が多くなっていることだ。柴田は自らの訳が「僕は割と単語レベルで考えている」のに対し、村上訳は「どこがこの単語に対応するというのではなく、フレーズ全体の本質を大づかみに捉えて訳されている気がします」と分析している。もちろんこれは村上が「英語はフィーリング」とばかりにいい加減なことをやっているという意味ではなく、「ある段階で英語を隠して、日本語を自分の文章だと思って直していくんです。固い言葉があると少しずつ開いていく。だからどうしても柴田さんの訳より、僕のほうが長くなっちゃう」結果である。もちろんこういう作業はどの翻訳家もやっているが、村上の場合一歩踏み込む要素が強いのだろう。


訳し比べでは、チャンドラーの『プレイバック』から清水俊二訳であまりに有名な「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」のあの箇所がとりあげられている。

これについて柴田は原文の「hardは「無情」「非常」という完全に否定的な意味ですが、日本語の「タフ」はそうではない。だから、もしhardを「タフ」と訳すと、彼女の最初の問が成り立たなくなる。Hardな人間がgentle(優しい)という逆説に彼女は驚いているわけだから。タフ=強い人間が優しくなるというのは全然逆説ではない」としている。

原文ではチャンドラー独特の比喩に連なる逆説表現であったのだが、清水訳ではこのニュアンスは消えてしまっている。ここを二人がどう訳したのかは各自確かめてもらいたいが、村上は「でも、僕の訳も柴田さんの訳も口には出しにくいですね。有名なタフでなければ……」のほうが覚えやすい」としている。

清水がこのあたりをどう意識して訳したのかはわからないが、「肝」ともいえるこのセリフを、清水は「肝」にふさわしい印象的なフレーズに仕上げたとすることもできる。この大胆さは清水が字幕翻訳家でもあるということも関係しているのかもしれない。清水訳を誤訳とまでしていいかは意見が分かれるだろうし、また「正確」さをどう捉えるかについては、字幕翻訳家のほうがより大胆さを持てることだろう。とりわけ文芸翻訳というのは唯一無二の正解はないだけに、清水訳の圧倒的インパクトを前にこれをどう評価すべきかは難しいところでもある。






「翻訳の不思議」では、『翻訳(ほとんど)全仕事』に続いて、翻訳をほとんど行わなかった夏目漱石とやりまくった森鴎外との対比にまた触れられている。

村上はこれについてこう言っている。「文体に対する提案といえば漱石が浮かびますが、漱石は漢文の知識と英文の知識、江戸時代の語りみたいな話芸を頭の中で一緒にして、観念的なハイブリッドがなされていたと思うんです。だから漱石は翻訳をする必要がなかった。鴎外は、僕はあまり読んでいないからわからないんですけど。(……)[鴎外は]文体に対する提案はないですよね。漱石にはそれがあった」。

これを受けて柴田はこう続けている。「鴎外と漱石の違いで面白いなと思うのは、鴎外は翻訳をしまくったわけですけど、漱石はほとんどやっていない。自分の作品が英訳されるという話にもすごく懐疑的だったみたいです。それは文体の意識が強いということと根はひとつのような気がします。文体は意味とは別で、翻訳できるものは意味だから」。

漱石研究において、翻訳をほとんどしなかった漱石という部分がどう論じられているのかはわからないが、単に気分の問題だったで済ませるべきではないテーマなのかもしれない。一方鴎外の異様なまでの翻訳癖は、これはこれでまた論じられるべきことかもしれないが、こっちはそれこそ気分の問題とした方がいいような気もしなくもない。


少々脱線。奇書扱いされることもある漱石の東大での講義録である『文学論』とその続編の『文学評論』であるが、両者ともに英語文献からの膨大な引用がなされている。亀井俊介が指摘しているように、『文学論』は講義においても次第に変化していったし、本にまとめる過程でさらに変化していった。そして『文学評論』は『文学論』の反省を活かした、比較的とっつきやすいものになっているが、こちらでは漱石は気合を入れたものというより暫定的なものではあるが、引用にところどころ訳もつけている。このあたりもきちんと分析するといろいろ見えてくるものもあるのだろう。

ちなみに今パラパラ見返しているのだが、とりわけ『文学評論』はイギリス文化史にもきちんと目配りしたもので、大衆文化やメディア環境への言及も多く、「文化史家」夏目金之助という側面も見えてくるし、何よりこういう部分が楽しい本であったりもする。こういった経験は小説家としての創作にもつながっているのであろうが(漱石は新聞小説を連載するにあたって最新の風俗などを積極的に取り入れている)、この方面での著述も続けていてくれたらなあとも思ってしまう。鴎外の『椋鳥通信』の漱石版があればかなり興味深いものになっただろうが、そこをやらないのもまた漱石といえばそうかもしれないが。






閑話休題。
村上は好きな訳として村上博基による、ジョン・ル・カレの『スクールボーイ閣下』をあげている。「ジョン・ル・カレはぐしゃぐしゃとした変な文章を書く人なんですが、そのぐしゃぐしゃ性を突き抜けると、すごく感じるものがある。そのぐしゃぐしゃ性を村上さんはすごく理解していて、ジョン・ル・カレに対する愛情が満ちている。だから好きなんです」。

「妙に読み易くなっているとかではなく?」と訊かれると、「むしろ読みにくいんです。何言っているかわからないんですけど、それを掻き分けていくと、ああそうか、と」している。原文と比べてみても忠実で、村上博基訳は「端折ってないですね。作ってもないです。英語でよんでもぐしゃぐしゃしているし」。

実は、ル・カレの小説はいくつか読んでいるもののどれも今一つ頭に入ってこず、ひょっとして訳に問題が……という疑念が頭を過ったこともあったのだけれど、原文からしてそうなのかとちょっと安心したというかなんというか。僕がル・カレを読むにあたって「突き抜け」ていないということであるが、読み続けていればそのうちに突き抜けるものなのか、はたまた相性が悪くてどうにもならないものなのか(ル・カレに限らず、名作とされているものであろうとも、苦手なものは苦手である)。そのうちにル・カレの自伝は読んでみるつもりだが、こちらはどうなのだろう。





「翻訳というテーマに通じるところ大」ということで、小沢健二の「日本語と英語のあいだで」も収録されている。

日本人の父とイギリス人の母を持つ小沢の息子は独特の言語感覚を身に着けているようだ。さらに似たような環境にある息子の友だちのある少女は、「牛乳、あるない」といった言い方をする。「これはおそらく、英語の「BE動詞を否定する」というパターンから来ている」。

「ない」というのは存在が「ない」ということなのか、ないという状態が「ある」ということなのか、これは考えようによっては哲学的な問いともなるが、「この「あるない」のエピソードに最も強く反応してくださったのはタモリさんでした」とのことである。

「子どもを見ていると、言葉というのは第一に、音、と痛感する」。
子どもは「音で似顔絵を描く」。例えば、子どもがWaterの似顔絵を描くと、「それは「ウォーター」には、絶対にならない。ショックなことに、その似顔絵は、/「ワドォ」/日本語で書くと、ワ、ド、そして小さいォ。ワドォ」になる。
「子どもの世界では、空中に浮かんだ音が、そのまま見える」。

ではこのような童心をこそ重視すべきなのだろうか。別の企画で本号にはピーター・バラカンも文章を寄せているが、バラカンは『猿はマンキお金はマニ 日本人のための英語発音ルール』という英語の発音についての本も書いているが、僕は未読であるが、これは「似顔絵」をそのまま受け取るべきというものなのだろう。では小沢はこれについてどう考えているのだろうか。

かつて日本では会議室という意味で「コンファレンス・ルーム」と言っていたが、これが「カンファレンス」になり、さらには「カンファランス」へと移り変わってきている例もあるようだ。
「音の似顔絵は似てきているような気はする」。「でも、それ、どこまで続けるんだろう、と思う」。

「ボディー」を「バディー」にするように、「母音のオをアに変えると、アメリカっぽくなる」とされる。ではこれの法則を「ホット」にあてはめると、「ホットな話題」は「ハットな話題」になるし、さらに押し進めると「ハッな話題」になる。「アイポッド」は「アイパッド」になり、そのしわ寄せで「アイパッド」は「アイペー」になるのだろうか。
「「母音のオをアに変えて、それっぽくする」というパンドラの箱を開けたら、過剰反応が始まって、日本語全体が崩壊するだろう」。「その崩壊は、ホットをハットに直した日に、始まると思う」。


bluesは「ブルーズ」であって「ブルース」ではないとネイティブの人が気持ち悪く感じるのは、英語に入り込んだ日本語が奇妙なアクセントで発音される居心地の悪さを思い浮かべればわからなくはない。しかしkimonoと着物がイコールではないように(どう見たって浴衣だよ! というものや、欧米人からはなんとなくアジアっぽく映っているのであろう謎の柄のガウンもまたkimonoなのである)、「ブルース」はbluesそのものを指すではなく、カタカナ表記された時点で日本語化されたものと考えたほうがいいだろう(淡谷のり子の「ブルース」はやはりbluesではないだろう)。

そもそもが英語と日本語では母音の種類も異なるので、カタカナによる正確な再現は不可能であるし、原理主義的な人でもどこかで妥協しなくてはならないことは認めざるをえないだろう。

ではレディオヘッドはラジオヘッドでいいじゃないかといわれると「むむむ」となってしまうし、一方で「固いこと言うなよ」ですべて済ませてしまうのは一歩間違うと「日本流」がなんでも正しいという自文化中心主義にも結びつきかねない。英語を聞いていて理解できず、確認してみたら実は簡単な単語であったという経験をしたことのある人は多いだろう。カタカナ化された日本語によるなんちゃって英語風味が染みついてしまったがゆえにかえって英語の理解が困難になってしまうという例もある(バラカンが危惧しているのはまさにこれだろう)。とはいえどこまで原音の再現を目指すべきか、「日本語」として定着したものを改めるべきか否かといえば、まあ月並みな結論になるが、なんでも杓子定規に一律に答えを出せばいいというものではないといったあたりに落ち着くことになろうか。

最後は「苦労は同じ」というキャプションで、「自然と新鮮な 食材で作られて 健康的な選択」という看板があるsushi店の写真で締めくくられている。






本号で最も楽しみにしていて、期待にたがわぬ面白さであったのがリディア・デイヴィスの「ノルウェー語を学ぶ」だ。村上春樹が英語からの重訳でノルウェーを代表する作家であるダーグ・ソールスターの『ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン』を出しているが、デイヴィスはそのソールスターの作品を、ノルウェー語がほとんどできないにも関わらず辞書を使わずに原語で読むということを試み、その体験を綴ったものである。

翻訳家でもあるデイヴィスは、「外国に行けば当地の言語に好奇心をかき立てられる」。ノルウェーの文芸フェスティバルに招かれると、運営者にノルウェー語のレッスンを所望した。紹介されたのは当然のことながら、デイヴィス作品の訳者のヨハンネだった。彼女は絵本を使ってレッスンを始め、デイヴィスは漫画を読むなどしてノルウェー語を学んだ。といってもこれは二週間程度、ちょっとした体験で終わるはずだった。

アメリカに戻るとノルウェー語のレッスンは続けなかったのだが、思わぬ形でこれを再開することになる。ヨハンネがアメリカに訪ねてくると、デイヴィスは「自分の祖先数世代を扱った作品の執筆が難航していることを彼女に打ちあけた」。するとヨハンネはソールスターのある作品を勧めた。まさにこの作品は、ソールスターの祖先を扱ったものであった。デイヴィスはソールスターの作品をすでに英訳でいくつか読んでいたが、この作品は英訳されることはないだろうと思った。というのも、ノルウェーでも賛否両論に分かれ、否定派からは「退屈」「読めない」と言われ、「電話帳」と揶揄されるような、長大にして独特の手法を取ったものであったからだ。

こうしてデイヴィスはソールスターの「テレマルク小説」(正確なタイトルは「おそろしく長い」のでノルウェーでもこの通称で呼ばれているのだという)を読み始める。しかしそこはデイヴィス、いくつか縛りをかけ(といっても緩いもので破りもするのだが)、その縛りの一つが辞書を使わないということなのであった。

デイヴィスは辞書を使わない理由として、始終辞書を手にするのがわずらわしいこと、「言葉の意味を解明しようと努めるのは、刺激的な、心底夢中になれる作業」であること、「自分で割り出した意味の方がずっとよく覚えていられる」ことを挙げている。

また、「ほぼゼロから、ほとんど誰の助けも借りず、対象に没入することを主たる方法」として言語を学ぶという、「乳児期から幼年期にかけて、自分の言語である習得した過程」や、幼少期に一年間オーストリアに滞在しドイツ語を身に付けたのを追体験したいということでもあった。

つまり、日本の読者は、デイヴィスは英語が母語で、幼少期にドイツ語を身に付け、フランス語からの優れた翻訳家であり、さらに過去にスペイン語で『トム・ソーヤーの冒険』を、オランダ語でミステリー小説を辞書を使わずに読んだという経験を持っていたということに注意を払わなくてはいけない。ノルウェー語はゲルマン語系であるので、ドイツ語、オランダ語からの類推が大いに役に立つし、またヨーロッパの言葉であるから当然ラテン語経由の単語も多く、フランス語、スペイン語の知識も活かせる。つまり英語を母語とする人が日本語や中国語などの印欧語以外の言語を学ぶというのとは意味合いが異なるのである。デイヴィスが辞書を引かずにノルウェー語を学ぶのを例に、日本語を母語とする人が英語を学ぶのに辞書は必要ないだとか、「赤ちゃんが言葉を学ぶようにひたすら聞き流せばいい」といった某英語教材のような学習方法が「正しい」と考えるのはやめた方がいいだろう。

ではこのエッセイは外国語学習に何の役にも立たないのかといえば、そうではないところもある。「私の単語の意味解明法」として、「語根、接頭辞、接尾辞」といったように「語を構成要素に分解する」ことをあげている。例えばuvhegoghetはu-av-heng-hetに分解できる。そしてここから「ぶら下がっていない状態」、つまり「独立」であると導き出すことができる。「考えてみれば、英語の〝independence〝もほぼ同じように分割できる」。
また語源の知識も非常に役に立つことになるし、複数の欧語を身に着けているデイヴィスにとってこれはお手の物の作業である。

英語学習本のコーナーに行けば語源等で語彙力強化を謳う本が山のようにあるが、まさにこうして語源、語根、接頭辞、接尾辞などを手掛かりに類推を働かせながら単語力を増やしていくことをデイヴィスは行っている。もっとも、日本語にしてもそうだが、語源というのはしばしば怪しいものも入り込むもので、デイヴィスも語源をとり違えたり、あるいは分割の仕方を間違えたりして誤った推測をしてしまったこともあったことを書いているように、参考書選びには慎重さも必要であろうが。

もちろん、このエッセイの最大の魅力は外国語習得のハウツー的部分にあるのではない。私的な事情から学習が滞ったり、方針を微妙に修正したりしながら、行きつ戻りつしつつ読み進む過程、それ自体が面白くもある。さらに言葉を探りながら、類推を働かせでいく過程は知的にスリリングでもある。美しい装丁の本に惚れ惚れとして、これに書き込みをするのを躊躇しつつ、それを振り払うが、しかしまた罪悪感も甦ってもくるというのは、本好きなら経験した人も多いだろう。

何よりも、ソールスターのこの作品がはたして小説と呼ぶべきものなのかと議論を呼んだことをふまえると、このデイヴィスのエッセイは、むしろ小説と呼ぶべきものなのではないかとすら思えてくる。ジャンル分けにこだわらなくとも、これを読むことで得られる喜びは小説を読む体験に近い。小説を書く過程を小説にするというのは、とりわけポストモダン以降よくみられるものだが、小説を読む過程や外国語を学ぶ過程もまた小説に、それも面白い小説になり得るのである。

「この本を読んで、なにがしかのノルウェー語を学ぶことによって、私の使う英語の単語はより奇妙に、かつ豊かになった」。
「自分の母語であっても、全然知らないし永久に出遭わないかもしれない言葉、意味、ニュアンスはたくさんある」。デイヴィスはアメリカの小説を読んでいて、最近見つけたが意味を調べていない未知の英単語としてtemulentとsuccedaeumをあげているが、これはそれぞれ「酩酊した」と「代用物の」を意味している。デイヴィスにとって本当にこの単語が未知のもので、意味を調べていないのかは疑わしくもあるし、こういった点もやはりデイヴィスらしいとも思えてくる。


蛇足ながら付け加えるとデイヴィスの元夫はポール・オースターである。今号にはオースターのインタビューも収録されており、『内面からの報告書』執筆過程にふれたところでデイヴィスの名前も登場し、図らずも(?)元夫婦共演となっている。そういえば、オースターの現在の妻はシリ・ハストヴェットはノルウェー系であり、こちらに書いたようにオースターはクッツェーとの往復書簡集でノルウェー語についてもちょっと触れていたりもするのだが、これを元夫婦が互いに意識していたということはあるのだろうか。






またオースターがらみではこんなものもある。「ニューヨークで見つけた本」として、柴田先生はフェリックス・ハー(Felix Harr)の詩集All-Star Breakを紹介している。この「フェリックス・ハーは謎の人で、僕は2015年にこの人のイベントを見にブルックリンの小さな書店に行ったことがあるが、なぜか本人は現れず代わりにポール・オースターが登場した」とのことであるが、これってひょっとして……? と思ってしまった。

この詩集は「テニスマッチシリーズ」の第3弾で、Frank Church vs. Shirley Temple(教会対寺院)やEric Idle vs. Steve Jobs(失業対仕事)のように、「ひたすら名前を愉快に組みあわせただけのケッタイなシリーズ」なのだそうで、下らないといえばそうだが、これだけでつい笑ってしまうし、モンティ・パイソン的である。最新作は「メジャーリーガーの名前限定」だそうだが、オースターは野球好きだよね……ということで検索してみたら、ハーは実在しているようでした。オースターに詩を送ってフックアップしてもらったようで、趣味が重なるのは当然か。

それにしてもPhil Roof vs. Mike Leake (屋根対雨漏り)などは、しょうもない親父ギャグといえばそうだが、やはり下らなくて笑えてしまう。

ハーの詩集はこちらのサイトから購入できる。
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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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