『普通の人びと  ホロコーストと第101警察予備大隊』

クリストファー・ブラウニング著 『普通の人びと  ホロコーストと第101警察予備大隊』




「一九四二年七月一三日の夜明け前、ポーランドのビウゴライの町で、第一〇一警察予備大隊の隊員たちは、兵舎として使われていた大きな煉瓦造りの校舎のなかで眠りから覚まされた。彼らは、中年の所帯持ちで、ハンブルク市の労働者階級ないし下層中産階級出身であった。軍務につくには年をとりすぎていたので、代わりに通常警察に召集されたのである」。

「各々の隊員には通常装備を超える弾薬が与えられ、さらに追加の弾薬箱もトラックに積み込まれた。彼らはこれから何が起こるか知らされていなかったけれど、実は最初の重要な戦闘に向かっていたのである」。

隊を率いるのは「トラップ親父」と親しまれていた、五三歳になる職業警官のトラップ少佐だった。ユゼフスの村に着くと、トラップの顔は「青ざめ、落ち着きを失」い、「息苦しそうな声で目に涙を浮かべて話はじめた」。トラップはドイツでは女性や子供たちの頭上に爆弾が降りそそいでいることを思いださせようとした。そしてユダヤ人がドイツを苦しめたアメリカによる不買運動を扇動してきたのであり、ユセフの村にはユダヤ人のパルチザンが住んでいると説明した。

大隊はこの村のユダヤ人を駆り集める命令を受けていた。働くことができるユダヤ人男性は強制労働の収容所に送ることになっている。そして残りの女性、子供、老人は、「この場所で本隊によって射殺されねばならないのである」。
トラップはこの任務を説明すると、一五〇〇人のユダヤ人の射殺を命ずる前に「通常では考えられない提案をした。すなわち、隊員のうち年配の者で、与えられた任務に耐えられそうにないものは、任務からはずれてもよい」というのだった。この提案を受けて、「切迫した大量虐殺への関与を免除」してもらったのは、「約五〇〇人の隊員のうち僅か一ダースほど」にすぎなかった。つまり隊の圧倒的多数が、逃れられる機会がありながらその機会を使わずに、凄惨な殺戮に手を染めたのであった。


タイトルにあるように、第一〇一警察予備大隊の隊員たちは「普通の人びと」であった。すでに中年を迎えていた彼らはナチス時代以前に教育を受けていた。ハンブルクは比較的ナチが弱く、また彼らの社会階層を考えると社会民主党や共産党を支持していた者も少なからず含まれていたはずだった。「普通」の暮らしを送っていた人びとが虐殺を実行し、戦後はまた「普通」の暮らしへと帰っていたのである。

第一〇一警察予備大隊の血塗られた活動を追いながら、なぜ「普通の人びと」がこれほどの残虐行為を実行に移せたのかを探っていくのが本書である。


トラップは第一次世界大戦では勲章をもらっている軍人出身で、三二年にナチスに加わった比較的古参の党員であった。しかし親衛隊には迎え入れられなかったように、ナチスにおいてはエリートでないばかりか、むしろ落ちこぼれ的な立場にいた。隊には約三割強のナチ党員がおり、その中にはサディスティックな狂信者も含まれてはいたが、すべてがそうであったのではない。もちろんナチに入党するぐらいであるからある程度の反ユダヤ主義を内面化していたことは間違いないし、これは入党しなかったドイツ人の中にも少なからず共有されていたことだろう。同時に、かねてよりユダヤ人の絶滅までをも考えていたのかといえば、そうではなかったはずだ。ナチス指導層も、もともとはドイツやドイツ支配地域からの追放を意図していたが、これが「最終的解決」、つまりユダヤ人を絶滅することへと変質していったのであった。

トラップが「おお、神よ、なぜ私にこうした命令が下されたのでしょうか」と苦悩しているのが目撃されており、彼が涙を流していたという証言もある。しかしまた、彼はこの命令を拒否することはなかった。そして多くの隊員も、この命令を拒むことはなかった。

ブラウニングはミルグラム実験をはじめとする、戦後に行われた様々な実験や調査の検討を重ね、いったいなにがそうさせたのかを探る。むろん一つの理論に回収されるものではなく、複雑な要因が絡み合った複合的な積み重ねが虐殺を実行させたとすべきだろうが、「決定的な要因」として挙げているのが「集団への順応」である。

「大隊はユダヤ人を殺害するように命令を受けた。しかし個々人はそうではなかった。しかし八〇パーセントから九〇パーセントの隊員が、ほとんどは――少なくとも最初は――自分たちのしていることに恐怖を感じ、嫌悪感を催したが、にもかかわらず殺戮を遂行したのであった。列を離れ、一歩前に出ること、はっきりと非順応の行動を取ることは、多くの隊員の理解をまったく超えていたのであった。彼らにとっては、射殺するほうが容易であったのである」。

命令を拒否することは「汚れ仕事」を戦友に委ねることであり、「射殺を拒絶することは、組織として為さねばならない不快な義務の持ち分を拒絶すること」であり、「それは結果的に、仲間に対して自己中心的な行動をとることを意味した」。

「撃たなかった者たちは、孤立、拒絶、追放の危険を冒すことになった。――非順応者は、堅固に組織された部隊のなかで、きわめて不快な生活を送る覚悟をしなければならなかったのである。しかも部隊は敵意に満ちた住民に取り囲まれた外国に駐留しているのだから、個々人は、支持や社会的関係を求めて帰るところはなかったのであった」。

さらには、「列を離れることは、戦友に対する道徳的非難だと見られかねなかった」。撃たないという選択を行う者は、「自分が「あまりに善良」だからそうしたことはできない、と暗に示唆していることになりかねなかったのだ」。そこで撃たないという選択をした者は、「そのことによって生じかねない戦友への批判を和らげようとした。彼らは、自分たちが「あまりに善良」だからではなく、「弱すぎて」殺せないのだと主張したのである」。
こうすれば戦友を道徳的に批判することなく、むしろ「それは「頑強さ」を優等な素質として正当化し、是認することになった」。

このあたりの心理はそのまま学校などにおける「いじめ」のメカニズムとしても通用するように思える。だからこそ、他人事や遠い過去の終わった出来事としてではなく、「普通」の人びとが虐殺に加わったことの重みは、現在でも受け止めなければならない。


もちろんこれだけに帰することもできない。
日本軍は大量虐殺や残虐行為を各地で繰り返したが、本書でジョン・ダワーの『容赦なき戦争』が取り上げられているように、アメリカ軍にも残虐行為が見られた。米軍においてこのような行為は推奨されないまでも、ほとんどが多めに見られた。
「「我々」と「彼ら」、戦友と敵という二分法は、もちろん、戦争の基準であ」り、そしてここから「敵」を非人間化するようになる。「彼ら」はただの敵であり、人間ではないのだから、残虐行為を躊躇する必要はないのだという発想へとつながる。ある特定の民族が先天的に残虐性を有しているなどということはあろうはずもなく、状況によって人間というものはそのような心理に容易になり得る存在なのである。

では残虐行為に手を染める人間は平然とそれを行うのかといえば、必ずしもそうとはいえない。
ガス室での大量虐殺という異様な殺害方法が実行に移されたのは、銃殺などの手段による兵士への心理的影響への配慮という面があったことが知られている。つまり親衛隊員などであっても、目の前のいる人間を自らの手で大量に殺すという行為には抵抗感があった。第一〇一警察予備大隊のような「普通の人びと」であればなおさらだろう。ある隊員は「もう一度これをやらなければならないとしたら、私は気が狂ってしまうだろう」と上官に訴えていた。

ヒムラーは「この種の人間的弱さを寛容に見ることを認めていた」。「一九四三年一〇月四日のポーゼンでの悪名高き演説」で、「服従をすべての親衛隊員の鍵となる美徳の一つとして賛美する一方で、ヒムラーは明らかに一つの例外に言及した。すなわち、「神経がズタズタになった者、心弱き者、彼らに対してこう言うことができる。もうよい、行って君の年金を受け取るのだ」。
ここから二つのことが読み取れる。第一〇一警察予備大隊の隊員がそうであったように、彼らには選択肢が与えられていた。それを拒否することは不可能ではなかったが、多くがそこに残ることを選んだ。そして、それでも精神を病む「心弱き者」もまた存在していたということだ。

そこで第一〇一警察予備大隊には二つの方策がとられることになった。一つは「以後のほとんどの作戦は、ゲットーの浄化と強制移送に向けられ、その場でのあからさまな虐殺はなくなった」。そしてもう一つが「汚れ仕事」を「親衛隊に訓練されたソビエト領土内の外人部隊」である「トラヴニキ」に外注したのである。この「二重の分担」により、「殺戮作業の大部分は絶滅収容所に移され、現場での「汚れ仕事」の最も厭な部分はトラヴニキたちに割り当てられたのである」。

絶滅収容所の看守にはウクライナ人が多く、また映画『サウルの息子』で描かれていたように、収容所では最も酸鼻を極める仕事はユダヤ人の「ゾンダーコマンド」にさせていた。このようにしてドイツ人は守られていたのであった。

しかし、殺戮の数が減らされたとはいえ皆無になったのではなかった。それでも第一〇一警察予備大隊に発狂者が続出することがなかったのはなぜか。それは「他の多くのことと同様、殺人も人が慣れることのできるものなのであった」。
これこそが人間の最も恐るべき性質かもしれない。


では逆に、少数ながら存在していた虐殺を拒んだのはどういった人だったのだろうか。
こういった人は自分が「弱虫」と侮辱され、「男らしくない」と見なされることを恐れなかった。彼らに共通していたのが、出世への関心の欠如である。共産党員や社民党員であったという政治的背景や反ユダヤ主義への嫌悪もあったが、はなから出世が望めないし望まないということにもつながった。そして彼らは孤立をしてもなお命令を拒むという選択を行うことができた。

見方を変えれば、自分の出世に、その後の地位に響くという判断から意に沿わない命令に多くが従ったということでもある。すでに書いたように、隊長であるトラップは明らかに虐殺に嫌悪感を抱いており、凄惨な現場から逃げ出すかのようなことすらしている。それでも彼は命令を拒まなかった。

「ホフマン大尉の奇妙な健康状態」という章がある。第一〇一警察予備大隊第三中隊を率いていたホフマンは、残虐行為が起こりそうになると決まって体調を崩した。「ホフマンは「いわゆる」腹痛の発作を起こすとベッドで安静にしていなければならなかったが、それは何時も決まって、中隊が不快な、あるいは危険な行動に参加するかもしれない時、起こるのであった。隊員たちは晩に翌日の行動を聞くと、中隊長はきっと朝までにはベッドから起きられない状態になるだろうと予測したが、それはいつものことだった」。

ホフマンは部下からまったく慕われないタイプの人間だった。「典型的な「利己的将校」」で、部下には服従を要求した。「彼の表情に浮かぶ紛れもない小心さは、今や偽善の極みと映り、部下は彼をナチ少年団員といって嘲笑った」。

ホフマンのような者ですら虐殺に心理的抵抗を覚え、それへの拒否感が奇妙な「腹痛」という形で表れた。そしてここまで抵抗感を抱きながら、彼はこの任務に固執したのであった。
ホフマンはその地位に恋々とし、トラップによって解任されるとこれに強く抗議した。ホフマンは隊を離れたが、この抗議の甲斐あってか、「汚名を雪ぐ機会が与えられて然るべき」とされ他の警察大隊に転任した。そして彼は、ソ連との闘いで前線に出て二等鉄十字勲章を得て、さらに出世を重ねて終戦時は「ポズナニの警察長官の主席参謀将校」にまでなっている。このような人物ですら虐殺に心理的抵抗を抱き、かつ出世欲から任務に固執し続けたのであった。


ブラウニングはプリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』の「グレイ・ゾーン」という章に触れている。レーヴィは「物事をはっきりと二分して理解したいというわれわれの自然な欲求にもかかわらず、収容所の歴史は、「犠牲者と犯行者という二つのブロックに還元されるものではなかった」」とする。

「大隊には、グレイ・ゾーンの「極限」に近かった隊員がいたことは確かであった。グナーデ少尉は、最初は殺戮に巻き込まれないように、部下を連れて慌ててミンスクから戻ってきたのであったが、後には、殺戮を楽しむことを学んだのであった。同様に、ユゼフ郊外の森の中で震えあがった警察予備隊員の多くは、その後、数多くの銃殺部隊や「ユダヤ人狩り」に無頓着に志願するようになったのである。彼らは、ムースフェルトと同様、一瞬の「本能的哀れみ」を感じたようだが、そのことによって免罪されるものではない。最も目立った、誰はばかることなく大隊の血なまぐさい行動を批判していたブッフマン少尉でさえ、少なくとも一度は、グレイ・ゾーンの境界で決心が揺らいだことがあった。保護者であったトラップ少佐が不在であった時、ウークフの地方保安警察からの命令に直面して、彼もまた隊員を処刑場に連れて行ったのであった。ブッフマンがハンブルクへ転任になる直前のことである。そして、こうした犯行者のグレイ・ゾーンのまさしく中心に、トラップ自身の哀れな姿がある。彼は「子供のように泣きながら」、部下をユダヤ人殺害に送り出したのであった。さらにそこには、意に反して、恐ろしい行動に体が拒絶反応し、ベッドから動けなくなったホフマン大尉がいた」(p.268)。

ある隊員は「私は努力し、子供たちだけは撃てるようになったのです」と語った。母親はすでに別の隊員に撃たれて死んでいる、「母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけない」、そう自分を納得させた。「いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです」。

ここでreleaseと英語に訳されているドイツ語erlösenは「宗教的意味に用いられると、「救済する(redeem)」あるいは「救い出す(save)」ことを意味する」。つまり、「「苦しみから解放する」者は救済者(Erlöser)――救世主(the savior)ないし救い主(Redeemer)、なのである!」
なんとも倒錯的な自己正当化であるが、そうとでも思わないことにはやっていけなかったとも考えられるし、あるいはこのような無茶苦茶な発想に頼ってまでも、虐殺を実行しようとしたとすることもできる。

こういった発想は、こういった行為は、自分とは絶対に無縁だと言い切れるだろうか。もしあの時あの状況に身を置くことになったなら、自分はいったい何を考え、行うことになったのだろうか。

そして日本人として押さえておかなければならないのが、ブラウニングが本書を執筆するにあたって依拠した史料の一つが、「疑いなく連邦共和国内で、ナチ犯罪に対する最も勤勉で権限を与えられた訴追機関の一つ」であるハンブルク連邦検察庁に指揮された、一九六二年から一〇年に及ぶ長い訴訟の法廷記録であることだ。
もちろんすべてではないとはいえ、西ドイツでは外国で行われた約二十年前の蛮行が裁かれたのであるが、日本ではそれに類する公的な動きは一切ないまま現在に至っている。

「説明は弁明でないし、理解は許しではない」とブラウニングは書いている。説明も理解も拒み、ひたすら忘却の欲求に身をゆだねる欲求にかられているかのようにすら映ってしまう日本の「普通の人びと」もまた、本書の重みと向き合わなければならない。


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佐藤太郎(仮)

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