40年後の『反=日本語論』

久しぶりに蓮実重彦の『反=日本語論』を引っ張り出してみた。

「あとがき」にあるように、本書はいくつかの雑誌に掲載された文章を集めたもので、「一冊の著作にまとめようよする気持ちはなかった」という。しかし雑多な寄せ集めというよりは、まとまったものという印象が強いものとなっている。というのも、本書を貫くのはタイトルからもわかるように「言語」をめぐって書かれたもので統一されているからだ。

「ちくま学芸文庫版あとがき」にはさらに、「わたくしの書いたものとしてはごく稀なことだが、『反=日本語論』は著者自身の予想を遥かに超えて、多くの方々に読んでいただくことができた書物である」としてある。

文学、哲学、言語学といったジャンルを例のあの文体で論じているものだけに、内容的には必ずしもとっつきやすいものではないかもしれない。しかし、にもかかわらず本書が広く読まれたのは、蓮実がとっかかりとして身近なところから話題を集めてきており、そういった身辺雑記的な部分が寄与するところ大であろう。日本語がそれほど得意ではないフラン人の妻と、日仏のバイリンガルとして育ちつつある息子との生活をユーモラスに綴ったものとしても楽しむことができる。


妻は、「夫のまわりに群がっている仲間や友人の名前など、とても一どきにはおぼえられない。そこで、その多くがフランス文学の教師である彼らが研究したり翻訳している作家の名前でまず記憶する。だからわれわれの家庭での対話は、きわめてスケールが大きいのだ。今日はビュトールに逢ったとか、サルトルと打ち合わせがあるとか、ル・クレジオの妹さんがたずねてくるとか、スタンダールに電話しなければならないといったありさまなのである」。

息子は「二歳のはじめの六カ月と、四歳から五歳にかけての一年間をフランスで過ごしたほかは、ほぼ二年に一度のわりで繰り返される夏休みのヨーロッパ滞在をのぞいて、日本の首府に定住している。家庭では、原則としてフランス語のみを使用する。それは、たまたま日本人の父親の話すフランス語がフランス人の母親の話す日本語より流暢であったからという理由によるものだ」という環境で育つ。

息子はフランスで「シノワ(中国人)」と呼ばれたことへの「国粋的な反撃」として母親を「ガイジーン!」と指さし、父親にはフランス語で悪態をつくようになる。

息子は怒られると、母親がフランス語で口にする「母親に向かって、その口のきき方はなんですか」を「そっくり頂戴して」、フランス語で「自分の子どもに向かって、そんな口のきき方がありますか?」と言い返す。母は「苦笑しながら、つい追及の姿勢を崩して」しまい、「そして父親は、かたわらで笑いをこらえるのに懸命になって」しまう。

父親に「あなた」と呼びかけ、母を迎えにいくというのをフランス語を直訳して「ママをさがしに行こう」とせきたて、日本語の「この前さあ」というのを今度はフランス語に直訳してしまうこの息子は、日本に暮らしながらフランス語ができてしまう己の運命を呪うかのようなことを口にしつつ、久しぶりにテレビのニュースを見るのを許されると(蓮実家では普段はわずかな番組を除いて基本的にテレビは見ない)、器用にフランス語に訳してみせて、母親を感動させたりする。


『反=日本語論』が最初に刊行されたのは1977年なので、2017年でちょうど40年ということになる。久しぶりに読み返してみたのは、9歳の少年として登場していた、音楽家となったこの息子、蓮実重臣が、今年49歳で亡くなったからだ。

息子のエピソードも満載なこの原稿を本にまとめるとき、蓮実はこの40年後に息子を看取ることになるとは想像もしなかったことだろうし、息子の方も、親に看取られることになるとは思わなかったことだろう。

蓮実重臣は僕とはほぼ10歳違いであり、30代の終わりに、あと10年後に死ぬのがわかったら、いったい何をするのだろうかなんてことを読み返しながらつい考えてしまう。それよりも、『反=日本語論』刊行時の蓮実の年に近づいてきているせいか、僕には子どもはいないものの、子どもを見送らねばならなかった親の辛さ(それはおそらくは僕の想像を遥かに超える悲しみなのだろうが)というのに思いがいってしまう。

ああ、この子はもういないのだなと、40年前に書かれた本を読みながらいろいろな感情が湧いてきてしまった。


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佐藤太郎(仮)

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