『人生の段階』

ジュリアン・バーンズ著 『人生の段階』




2008年、バーンズは30年間連れ添った妻に先立たれた。脳腫瘍の診断からわずか37日だった。その妻の死から5年後に刊行されたのが本書である。3部構成となっており、「高さの罪」では19世紀の熱気球と写真の歴史が述べられ、「地表で」では実在の人物である、共に気球に乗った経験を持つフランス人の女優ベルナールとイギリスの軍人バーナビーとの架空の恋がフィクションとして描かれ、「深さの喪失」で妻を失ったバーンズ自身の心理が綴られる。


「組み合わせたことのないものを二つ、組み合わせてみる。それで世界は変わる。誰もそのとき気づいていなくてもかまわない。世界は確実に変わっている」。

「これまで組み合わせたことのないものを、二つ、組み合わせてみる。うまくいくこともあれば、そうでないこともある」。

「これまで一緒だったことのない者が、二人、一緒になる。結果はときに大失敗となる。たとえば水素気球と熱気球を初めてつなぎ合わせたときのように、墜落して炎上したり、炎上して墜落したり。だが、ときに成功して、そこから新しい何かが生まれ、世界を変えることもある。ただ、その場合もいずれは――遅かれ早かれ――あれやこれやの理由で一人が連れ去られる。そのとき失われるものは、それまであった二人の合計より大きい。そんなことは数学的にはありえないかもしれないが、感情的にはありうる」。

これはそれぞれのパートの冒頭部分からの引用であるが、一見すると愛する者の死とは無関係に思える熱気球の歴史が語られるのはなぜなのかは、ここからわかるだろう。

気球は人間の認識をも変えた。鳥以外の存在が、空から地表を眺めることができるようになった。しかしこれはある認識の死をももたらしたのかもしれない。人間を見下ろすという神の特権は消えた。かつて人間は、失われた人に会いにいくために、地下へと、冥府を下った。しかし今や、地下とは文字通りの地下でしかなくなってしまった。

妻を失い、その喪失感の中でバーンズはいくつかの発見をする。かつてはまったく興味を引かれなかったオペラに魅了されるようになった。嘘っぽい、ご都合主義のように思えたオペラの筋書きだが、「登場人物の一人一人をできるだけ早く適切な場面に連れていき、そこでそれぞれのもっとも深い感情を歌わせる」ものであったと感じるようになった。「オペラは、他のどれよりもあからさまに、見る者の心を砕こうとする芸術形式だ。私の新しい社会リアリズムがそこにあった」。
冥府下りを描いたグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』を「見くびって」いたが、「悲しみにうちひしがれている人をピンポイントで狙い撃つ」作品だと思えた。

現代風にアレンジされた『オルフェオ』を見たが、オペラの魔力は健在でも、「昔ながらのメタファーは失われ、新しいメタファーが必要となる。私たちはオルフェオが下ったようには下れない。別の方法で下り、別の方法で連れ戻さねばならない。私たちにできるのは夢で下ること、そして記憶の中で下ることだ」。

バーンズは夢で妻と会う。とはいっても現実と夢を混同することはない。夢で妻と出会いたくて、その願い通りに夢の中に妻が現れるのはバーンズの内部に由来することで、「それ以外の何かであるなどとは一瞬も思ったことがない」。それでもバーンズは妻の夢を見続ける。より直接的に、記憶を掘り進み、下りもする。しかし、記憶はある一定のポイント以上を遡ることがどうしてもできない。現実の後悔や自責のために、「自己満足のための夢」を見るのだろうし、「記憶をたどろうとして挫折するのも、同じ理由からだと思う」。

「グリーフ・ワークとは、喪の作業、癒しの作業のことだ。明確に定まった概念のように聞こえるが、実際は液体のようにとらえどころがなく、変化しやすい。時間が経過し痛みが消えるのを待つという受け身の作業だったり、死と損失と愛する人に意識を集中するという能動的な作業だったり、つまらないサッカーの試合を見たりオペラに圧倒されたりという必然的な気散じの作業だったりする。ほとんどの人には初めての作業だ。ボランティア作業ではないが無報酬で、監督者がいないのに厳しさが要求され、修行の機会などないのに技がいる。それに、進歩しているのかどうかがわからず、進歩するために何が必要か教えてくれる人もいない」。


テクノロジーによって神は死に、冥府下りの道は閉ざされたかのようであるが、バーンズがそうであったように、人間にはやはり神話や物語を必要とする。人間が持つ神話や物語には共通の鋳型があるかのように、全く異なる地域のそれでもいくつかの「型」に分類が可能だ。

バーンズがここで行っている「喪の作業」は独創性に溢れたものではない。
「一方が死んだあとの最初の一年間は、二人が慣れ親しんできた一年一年の陰画のようになる。カレンダー上に行事がちりばめられてられていても、その日に何かが行われることはない(……)恐怖に見舞われた日、初めて妻が倒れた日、入院した日、退院した日、死んだ日、埋葬した日……」。

ジョーン・ディディオンの『悲しみにある者』は、夫を突然失ってからの一年間の思索の記録であるが、同じような心理になったことが書かれている。

「死はありふれていながら、一つ一つが唯一無二だ」として、E・M・フォースターの言葉が引用されている。「一つの死はそれ自身を説明できても、別の死の理解には役立たない」。バーンズのある知人は、夫が癌で長い闘病を繰り広げ、避け難い死が迫っていたことから、これに「十分準備しておける」と願い、「死別をあつかっている古典的な著作を集めた」が、その時がくると、「リストは何の役にも立たなかった」。

これはその著作が見当はずれのものであったからではないだろう。むしろその悲しみとそこからの回復への試みをありありと描いたものであったはずだ。しかしどれだけ迫真のものであろうが、それは「準備」にはならない。死者にとってその死は初めてなら、送る者にとってもその死は初めてのことであり、その唯一無二の出来事がいかなるものかは、実際にそれが訪れるまでわからない。

バーンズは自ら命を絶とうかとも考えた。しかしある瞬間が訪れ、「私が自殺に走る可能性は低くなった」。
こう自問自答した。「いま妻が生きているとすれば、どこにいるか」。それは「私の記憶の中だ」。そして「主たる記憶者は私」であり、「もし私が自殺すれば、それは妻をも殺すことになる。だから自殺はできない」。そして「私は、妻が私に臨んだはずの生き方をしなければならない」と思う。

溢れんばかりの知性を誇る技巧的作家が至った境地にしては凡庸なものに思えるかもしれないが、むしろそれゆえに切実なものと映る。しかしまた、毎日とめどなく流れていた涙がやんで、集中力が戻り、ロビー恐怖症が消え、所有物の処分ができるようになっても、「背後には多くの失敗とぶり返しが隠れている」。

「悲しみ・苦しみ・悼みにおける「成功」とは、達成なのか新しい所与なのか。なぜというに、ここには自由意志という観念の入り込む余地がないからだ。目的と成果を持ち出すのは、グリーフ・ワークが報いられるものという前提に立っていて、場違いな感じがする」。これを行えば悲しみを軽減できるといった方法論や、これを超えれば悲しみは乗り越えられたという瞬間などはない。行きつ戻りつし、人によっては闇の中を延々と彷徨うことになるのかもしれない。その時に何が起こるのかは、それが訪れてみないとわからない。


「もともと雲を呼び起こしたのは人間ではない。それを吹き散らす力も人間にはない。どこかから――あるいは無から――思いがけず風が湧き起こり、気がつけば、私たちはまた動いている」。



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佐藤太郎(仮)

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