『10:04』

ベン・ラーナー著 『10:04』





33歳の詩人にして小説家である「僕」は、第一長編小説が高い評価を受け、続いて書いた短編が「ニューヨーカー」誌に高く売れ、この短編を組み込んだ長編を書くという「真剣だけれども曖昧な企画書」により「六桁強」の前払い印税を受け取れることになった。

ニューヨークには巨大ハリケーン「アイリーン」が迫っている。「僕」には動脈瘤性拡張らしきものが見つかり、たいていは幼少期に発見されるはずのマルファン症候群が疑われ、これを気に病んでいた。大学時代からの友人のアレックスからあなたの精子で妊娠したいと言われるが、それは結婚はおろか恋人関係になろうというのでもなく、精子を提供してもらって子宮内人工受精をしたいということだった。「あなたとセックスするのは変な感じだから」。恩師と仰いでいる、驚異の知性を誇るバーナードとナタリの老夫妻からは遺著管理人になることを依頼されていたが、バーナードが転倒して首の骨を折ったという連絡が入る。

2011年8月にやって来た「アイリーン」が過ぎ去り、翌年10月の巨大ハリケーン「サンディ」の襲来まで、「僕」の生活が繊細に、滑稽に綴られていき、「僕」は契約をした長編小説の構想を紆余曲折しながら進めていく。


アッパーミドルの知的なニューヨーカーの生態を自虐風味で描くということではウディ・アレンを連想してしまう。
「僕」が病院で精子の採取を行う際、看護師から「とにかく手はきれいに洗って、菌が付いていそうなものには手を触れないでください」と注意される。ポルノDVDのリモコンやらヘッドフォンやらに触れるたびにパニックに襲われ、ジーンズをずり下したままの姿でぴょんぴょん跳びはねて移動して何度も手を洗うはめになる。バイアグラを処方されていたが、これは飲まなかった。ちょっと後悔したが、精子が汚染されたらどうするんだ、血管拡張が起こったらどうなるんだと医者に怒りが湧いてくる。そして「二十分の自己汚染の後、自慰室を出て「できませんでした」」と言うはめになったら……。と、このあたりの自意識過剰さや心気症からくるスラップスティック調はまさしくウディ・アレン的だろう。

しかし全体的な趣は必ずしもこれに統一されているのではない。『10:04』という奇妙なタイトルは、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』でマーティーが1955年の世界から85年に戻る時間から来ている。アメリカの精神を体現するかのようなウォルト・ホイットマンの詩とともに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は全編に通奏低音として流れる。このように本作の最大のテーマは時間であり、記憶であり、またニューヨーカーという規定にとどまらないアメリカ人であるということもその射程に入っている。

ハリケーン「アイリーン」が迫り、ニューヨークが厳戒態勢となる中、「僕」はアレックスのアパートで『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を音を消して観始めた。「僕」が非常用ラジオにつないだ「イヤホンを左耳に差して気象情報を聞く間に、マーティーは一九五五年に旅をした――それはちなみに、原子力発電によって初めて町の光が灯された年だ。アイダホ州アルコ。一九六一年に初めてメルトダウン事故が起きた場所でもある。マーティーはその後、一九八五年に戻る。それは僕が六歳だった年。ビデオで見る限りホルヘ・オータは明らかに一塁でアウトなのに、とんでもない誤審のせいでワールドシリーズが第七戦までもつれ込んだ結果、カンザスシティ・ロイヤルズが優勝した年でもある。映画の中では、自動車型タイムマシンの動力となるプルトニウムがなくて困るというのに、現実の世界では、プルトニウムが福島の土壌に染み込んでいる。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は時代に先んじていた。僕は音のない映画を観ながら、上流にあるインディアンポイント原子炉のことが心配になり始めた」。

過去は未来によって作られる。そして、未来は過去によって作られる。過去、現在、未来を行き来し、歴史を変え、歴史を戻し、「未来に逆戻り」する『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、まさに時代に先んじていた。ノートパソコンでで古い映画を見ながら、過去を作り上げ、未来を作り上げていく。エピグラムにはこの言葉が引用されている。「全ては今と変わらない――ただほんの少し違うだけで」。

「僕」は七歳の時、学校でクリス・マコーリフに手紙を書いていた。「わずか二か月後に迫るチャレンジャー号のミッション成功を祈る大げさな筆記体の手紙」を。教師であったマコーリフは「普通の人」の代表だった。工作の授業で隣の席にいるダニエルは「次の春にはゼリービーンズを――あきれたことに――鼻の奥まで吸い込んで救急搬送された。中学に入ってからは同級生の誰より先にたばこを吸うことになるが、この時代にはスティックシュガーをこっそり食べていることが知られていた。どんな込み入った理由があるにしろ、一九歳のとき実家の地下室で首吊り自殺をするのを知っている少年と一緒に未来のジオラマを創るのは悲しい作業だ」。

「僕」がマコーリフに手紙を書いていた時には、この二か月後にチャレンジャー号が爆発するなどとは想像もしていなかった。でも、最早今では、チャレンジャー号の事故を抜きにあの記憶を思い出すことはできない。翌春にゼリービーンズを吸い込んで病院に運ばれることになるダニエルが、首を吊ったという未来/過去を抜きに、発砲スチロールで惑星のジオラマを一緒に作ったあの日を思い出せないように。プルトニウムの奪い合いは、チェルノブイリや福島での事故を経た「今」となっては、無邪気に見ることはできない。そして『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には、マーティーが「チャック・ベリーにロックンロールの演奏を教え」る、いわくつきの場面がある。「それはつまり、マーティーが未来に戻ったときには、ロックを発明したのは白人だ――白人が黒人のロックを盗用したのではない――という歴史が出来上がっていることを意味する」。
「現在」が「過去」を変え、その「過去」が「未来」を作るのである。「全ては今と変わらない――ただほんの少し違うだけ」の未来を。


「過去」は容易に変転を遂げる。チャレンジャー号の爆発の瞬間をテレビで生で観ていたと記憶するアメリカ人は多いことだろう。しかし実際には、事故の瞬間を地上波のテレビ局は生中継をしておらず、当時はCNNを観ていた人もまだ少なかったはずだ。

でも「僕」はあの瞬間をテレビで生で観ていた。というのも、いくつかの学校ではNASAが衛星放送を使ったミッションのテレビ中継を行っていたからだ。「僕」はそのことを覚えている。「グレイナー先生の目に涙が浮かんだこと、子供たちがしばらく事態を飲み込めなかったこと、ぎこちない笑いが漏れ聞こえた」ことを。

「ところが実は、僕も兄も生で観ていません。トピーカにあるランドルフ小学校は生中継先に指定されていませんでした。だから、たまたまCNNを観ていたか、特別に選ばれた教室にいたかでない限り、あの事故を現在時制で観た人はいないのです」。多くの人は、直後から繰り返し放送された録画を観ていたのだろう。

多くの人が生で観たのは、その夜に行われたレーガンの演説だった。これはレーガン嫌いの「僕」の両親の心さえ動かすものだった。七歳だった「僕」は「神の御顔に触れ」や「険悪[サーリー]な地上の束縛を逃れた」という部分が「頭の中ばかりか体の中にまで入ってきた」。詩というものの持つ力に、この時目覚めた。

この演説はレーガンが書いたのではなくスピーチライターの手によるもので、さらにこの部分は有名な詩からの引用であった。「遠回しな、控えめな言い方」をするとこれには「発想の源」があった。もしこれを学生が書いてきたら、「一種のコラージュか盗作と判断する」ようなものだったのである。「でも僕はこうした事実を、恥ずべきというより、素晴らしいと思います。個々人の身体と時間を貫く重ね書き風の羊皮紙的剽窃として。または単一の起源を持たない集合的な歌、あるいは起源を消去された歌として。既に実体は消滅しているのに光だけが残され、私たちの地球からいまだに見えている星のように」。

この部分は「僕」による講演であるのだが、「作家になると決意した――それが決意したと呼べるものだとしての話ですが――瞬間が存在するという考え方、あるいは作家は自分がなぜ作家になったか、いかにしてなったかを知っているはずだという考え方は、要するに過去に何かを投影しているのです」と語り始められていたものだ。


「僕」の経歴はほぼそのままラーナーと重なる。本作は小説を書く過程を小説化した私小説風作品とすることもできる。同時に、「僕」は過去を偽造することで未来に影響を与えようというアイデアを思いつくが、訳者あとがきで木原善彦が指摘しているように、「ベン」という名前は削除されることになる。このように作者とは誰か、小説とは何かを問うポストモダン的作品ともなる。時間と記憶の関係がそうであるように、創作もまたその複雑な因果から逃れられない。

「嵐は天使を、彼が背を向けている未来の方へ、不可抗敵に運んでいく」、ベンヤミンのあまりに有名で、かつ多様な解釈が誘発される言葉が引用されている。「全ては今と変わらない――ただほんの少し違うだけで」。エピグラムに引用されるこの言葉をラーナーはアガンベンの『到来する共同体』の中から見つけたが、この「大元の出どころはヴァルター・ベンヤミンとされることが多い」と謝辞に書いている。

70年代後半生まれ、ニューヨーク在住、アッパーミドルといった、様々な世代意識、土地意識、階級意識といったものが絡み合う中で紡がれた小説となっている。個人的には、著者と同年代なものでいろいろと「この感覚、この肌触りはわかるなあ」というところも多かった(もっともこちとらアッパーミドルなんぞではないので階級はまるで違うが)。読者の世代を選ぶ作品ではないが、ラーナーと同じ70年代後半生まれの人はより一層楽しめるものかもしれない。

なお作中に登場するクリスチャン・マークレーの『ザ・クロック』は、映画、テレビの中に登場する時計や時間を表す箇所をつなぎ合わせて24時間を引用の時計にするという作品だそうで、なかなか面白そう。これが常に劇場でかかっていたりしたらふらりと入ってみたいが、そう考える人は多いのか作中では常に行列ができて順番待ちをしなくてはならないことになっている。『ザ・クロック』についてラーナーが参考にしたという、「ニューヨーカー」に載ったこの作品についてのダニエル・ザレフスキーの「時間」はこちら





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