『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』

ロベルト・ゲルヴァルト著 『ヒトラーの絞首人ハイドリヒ』





「ラインハルト・ハイドリヒは、二十世紀最悪の犯罪者の一人として、ナチ・エリートの中でさえとりわけ忌まわしい人物として、広く認められている」。

ハイドリヒは死亡時38歳の若さにして、「SS(親衛隊)諜報機関たるSD(SS保安部)」等が合体して1939年に発足していた「ナチの巨大な政治警察組織」であるRSHD(国家保安本部」の長官として「ゲシュタポ、SDの将校からなる大規模な影の軍隊を指揮下に置いていた」。また彼は「オーストリア、チャコスロヴァキア、ポーランドそしてソヴィエト連邦への侵攻の際、悪名を轟かせたSS移動殺戮部隊、アイザングルッペンの責任者」でもあった。「ヒトラーによってボヘミア・モラヴィア保護領の総督代理に任命され」、「プラハでの彼の統治、そして彼の暗殺に伴なう凄惨な諸事件」が起こった8か月間は「現代チェコ史最暗黒の時期として今も記憶されている」。そして1941年7月にはゲーリングから、「ヨーロッパにおける「ユダヤ人問題の全面的解決」策を策定し実行するよう指示」され、これは「ヨーロッパ・ユダヤ人の組織的な無差別殺戮となって頂点に達することになる」。

1931年9月の選挙の頃にはハイドリヒは「殴り込み部隊のリーダーとして急速に確かな悪名を獲得し、ハンブルクの共産党員からは「金髪の野獣」と呼ばれるようになった」。1942年6月に暗殺されると、トーマス・マンはその翌日のBBCの放送で彼をヒトラーの「絞首人」と呼んだ。

ハイドリヒが暗殺されるとナチスは犯人の捜索と復讐のため残虐行為をさらに押し進め、リディツェの村では虐殺と破壊とが行われた。43年にはトーマスの兄ハインリッヒ・マンが亡命先のカリフォルニアで小説『リディツェ』を書き、同年にハンフリー・イェニングスは映画『沈黙の村』を撮っている。これもやはり43年に、ドイツからの亡命者でもあるベルトルト・ブレヒトとフリッツ・ラングは『死刑執行人もまた死す』を制作する。75年には映画『暁の七人』が公開され、近年でもローラン・ビネがハイドリヒ暗殺を描く(のを描く)小説『HHhH』を書いている。

このように存命中から悪名をはせ、現在に至るまで継続的に関心がもたれ続けているハイドリヒであるが、意外なことに学術的な伝記は2011年に原著が刊行された本書が初めてなのだという。これまでジャーナリストなどによって伝記はいくつも書かれているが、信頼性はかなり薄いものであったようだ。ハイドリヒはヒムラーやゲッベルスと違い日記をつけておらず、手紙もごく一部しか現存していない。このあたりも信頼に足る伝記が書かれなかった理由であろう。著者はヨーロッパ各国の文書館で調査を重ね、「ハイドリヒの生涯に関する資料は、かつて考えられていたよりは多い」ことが明らかとなり、「これらに基づいて、彼の日々の行動や意思決定過程を、細部に至るまで再構築することはかなりの程度可能」であるとしている。

なお増田好純の解説によると、本書のうちボヘミア・モラヴィア保護領総督代理としてのハイドリヒの描写について「主にドイツをフィールドとする歴史家が「ハイドリヒの総督代理としての政策を巧みに描き出した」と肯定的に評価する一方、中東欧に足掛かりを持つ研究者らは分析の基礎に置かれてしかるべき重要な史料に漏れがあると批判」しているという。チェコ語の史料は翻訳に依拠せざるをえなかったところもあったようで、このあたりが影響しているのだろう。このように本書はハイドリヒについての研究の決定版とまではいかないのかもしれないが、この恐るべき人物の全体像が明らかとなる貴重な伝記であることは間違いない。


ラインハルトの祖父カール・ユリウス・ラインホルト・ハイドリヒは37歳で結核で死亡した。妻のエルネスティネ・ヴィルヘルミネには6人の子どもと経済的困窮が残された。その3年後、エルネスティネは13歳年下の錠前職人と結婚する。長男のブルーノとの年の差はわずか9歳だった。この再婚相手の名前が「ズュース」とユダヤ人を連想させる名前であったため、ハイドリヒの先祖が「非アーリア系」であるという噂が付きまとうことになる。戦後もハイドリヒにはユダヤ人の血が流れていてそれを否定するために躍起になって残虐行為を行ったとされることもあったが、著者は明確にこの噂を否定している。

ブルーノは貧しい暮らしにもめげずに音楽家として身を立てることを決意し、苦労しながらそれに成功する。ブルーノが手掛けたオペラ『アーメン』によって経済的にも安定し、恩師の娘エリーザベトと結婚する。『アーメン』の主人公ラインハルトは「ドイツ的ヒーローであって、抜群の道徳性、知性、肉体的能力を備えている」。作中でラインハルトは「社会民主主義の忌まわしい台頭を象徴する」、足の悪い農民指導者トーマスの「背後からの残酷な一突き」によって命を落とす。ブルーノは長男にこのオペラの主人公の名前をつけた。

ラインハルトは音楽学校経営をするようになった両親から音楽の英才教育を受け、その才能を引き継いでいた。当時ギムナジウムへ進学できるのはわずか6パーセントほどの特権であったが、両親はラインハルトをギムナジウムに入れる。ラインハルトの成績は平均以上で、とりわけ理系に秀で、将来化学者になることも考えた。またこのころには英米の探偵小説も読みふけった。

ハイドリヒ一家の運命を大きく変えたのが第一次世界大戦の勃発だった。戦争の長期化によって音楽学校の経営は徐々に悪化していく。一方ラインハルトは、まだ戦場に赴くには年少であり、同年代の多くの子どもと同じように安っぽい愛国小説によって、戦争を「冒険」であるかのように見なし、「その冒険の果てに、不可避的宿命のようにドイツ人が勝利者としてあらわれる」ことを夢見ていたのだろう。

また戦時中にちょっとした事件が起こる。新しく刊行された音楽事典にブルーノがとりあげられたのだが、ここに彼がユダヤ系であるかのようなほのめかしが載っていたのだった。ブルーノはこれを中傷であると訴えた。これはブルーノを逆恨みしたかつての教え子の仕業と判明し、第二版からは訂正された。しかしこの噂は消えることはなく、さらにブルーノの義弟がユダヤ人がと結婚したため、ラインハルトは「イジ」「イジドール」とからかわれた。ハイドリヒ家では戦時中この噂の火を消してまわるのが仕事となり、「しつこく言いふらす者には告訴で対抗した」。ブルーノはとりたてて反ユダヤ主義者というわけではなかったが、「ユダヤ人」であるとされることは「中傷」であると受け止め、実際彼を嫌う人間はその意図でこの噂を広めたのであった。これは当時のドイツで反ユダヤ主義がいかに一般的であったかを示すものだろう。

ハイドリヒは勝利を信じて疑わなかったが、ドイツは敗北を喫する。さらにドイツ各地で革命の火の手があがり、武力衝突が繰り広げられた。予想外の戦争での敗北、革命の恐怖と武力鎮圧、こういった出来事は十代半ばであったハイドリヒにとって大きな影響を与えたであろうし、この世代で後にナチスに惹かれていく人々も同様であっただろう。

1922年にハイドリヒは優秀な成績でアビトゥーア(大学入学資格証書)を取得するが、音楽家になって学校を引き継いでほしいという両親の願いに反して、海軍士官の道を選ぶ。学校の経営は悪化の一途をたどっており、最早魅力的な選択肢ではなくなっていた。

士官候補生としてのハイドリヒは目立つような成績でもなく、かといって落第生というわけでもなかったが、孤立しがちであったことは確かなようだ。当時海軍は右翼の巣窟と化していたが、ハイドリヒはその中でむしろ非政治的な人間とみられていた。士官になった後に一般の水平や下士官などに横柄な態度をとって暴動寸前にまでいたったということからも彼が権威主義的であったことは確かだろうが、それは現実政治への関心には結びついていなかった。1930年、リナ・フォン・オステンとの出会いによってハイドリヒは大きく変わることになる。

学校経営者だったオステン家はもとはデンマーク貴族の出であるが、没落を重ね、すっかり零落していた。まだ女性教師が珍しかった時代であったが、リナは教職を目指していた。「ハイドリヒは、自信に溢れた美しい十九歳の金髪女性にたちまち心を奪われ」、リナもまた彼に惹かれた。

オステン家の面々はすでに極右となっており、リナの兄は28年にはナチ党に接触をはじめ、リナ自身もラインハルトと出会ったときすでに「確信的ナチ党支持者であり、猛烈な反ユダヤ主義者だった」。リナは29年にナチ党大会に参加しており、黒い制服姿のSSに魅了されていた。彼女がハインリヒに惹かれたのも、彼が金髪碧眼にして海軍の制服を着ていたせいなのかもしれない。二人が出会ったときもハイドリヒは政党には無関心で、それどころか「ボヘミアの伍長」や「片足の短い」ゲッベルスについて冗談すら飛ばしたと、リナは後に振り返っている。

この時、ハイドリヒの人生を変えるもう一つの出来事が起こる。彼がリナとの婚姻前告知を行うと、かつて逢瀬を重ねていた女性がこれを見て神経症になってしまった。この女性が何者であったのかはわからないが、彼女の父親は海軍上層部にコネを持っていたようだ。ハイドリヒは軍事名誉法廷に召喚され、婚約不履行について説明を求められた。ここで殊勝な態度をとっていれば譴責程度で済んだかもしれないが、彼は傲慢な態度を取り、それが不興を買い罷免されてしまうのであった。1931年、大不況の真っただ中で、年金受給資格にも足りないまま、ハイドリヒは失業してしまう。追い打ちをかけるように学校もトラブルに見舞われており、実家を頼れるはずもなかった。

追い詰められたハイドリヒのために動いたのが母エリーザベトだった。家族ぐるみで付き合いのあったエバーシュタイン男爵に「息子の職業的不運」について相談すると、男爵は息子のカールと連絡を取った。カールは20年代半ばにナチ党員となり、SAの幹部となっていた。

当時SSはSA指導部に従属する小さな組織にすぎなかった。ハイドリヒは名前を聞いたこともなかったSSに入るためにナチ党に入党した。必要だった二通の推薦状のうち一通はエバーシュタインが書いたが、彼はハイドリヒの軍歴について無知だったゆえか、あるいは彼を応援するためか、そこにハイドリヒが「情報専門家」として働いていたことがあったと書いた。ヒムラーはちょうど情報機関を設立しようとしていたところだった。ハイドリヒがヒムラーに会った1931年6月14日を、35年後にリナは「私の人生の、私たちの人生の、最大の瞬間でした」と書くことになる。

ヒトラーやヒムラー、ゲッベルスなど、ナチスの幹部の多くが彼らが掲げる理想の外見からは程遠かった。一方ハイドリヒは長身で金髪碧眼、理想の「アーリア人」に近かった。求めていた諜報の素養があるの人間(実際にはハイドリヒにはそのようなものはなく、かつて読みふけった探偵小説などからの知識からでっちあげたのだが、ヒムラーはそのことに気が付かなかった)であっただけでなく、彼の外見もその採用に影響したことだろう。
ハイドリヒの方もすぐにナチスに順応し、ヒトラーやヒムラーへの忠誠心とその大胆不敵な行動により、たちまち頭角を現すことになる。

こうしてヒムラーに重用されるのみならず、30年代遅くまでにはヒトラーも「ハイドリヒの忠誠と「才能」を深く信頼し、自らの本心に最も近い政治的に敏感な問題――対ユダヤ戦争――の責任を彼に委ねるのである。ハイドリヒとヒトラーは社交的レベルでは稀にしか接触しなかったが、「任務上」の関係は密接だった。ハイドリヒはヒトラーに対し、総統への絶対的忠誠を示し、ヒトラーは、ナチ体制のますます暴力的になりゆく諸政策を最も過激な形で実行するハイドリヒの能力に全幅の信頼を置いたのだった」。
ナチ党員としてのハイドリヒの歩みは、ほぼそのままナチスの蛮行の歩みと重なることになる。


本書を読んでいてとりわけ印象深いのが、非政治的であったはずのハイドリヒが、ナチス入党からエスカレートする一方である蛮行の数々において中心的な役割を果たすようになるまで、葛藤らしきものが一切ないことである。これは日記等の内面を表す史料が欠けているためにそう映るのではないく、おそらくは実際に躊躇いや逡巡を持たなかったのだろう。

ハイドリヒが海軍を追われたとき、SSよりも実入りのいい仕事も紹介されていた。よい給料とはとてもいえない仕事をわざわざ選んだのは、妻とその実家への配慮もあったのだろうが、やはり「制服」への固執があったのだろう。ハイドリヒは単に暴力的なだけでなく、ヒトラーが信頼を置いたように能力の高いテクノクラートでもあった。当時社会ダーウィニズムもまた広く信じられていたが、それだけに能力に見合った地位を得ることができないというフラストレーションはよりつのったであろうし、それがもともと彼に潜んでいた権威主義や反ユダヤ主義を最悪な形で強化していったのかもしれない。SSや、残虐行為で悪名高いアイザングルッペンには博士号取得者を含め高学歴の者が多かった。こういった鬱屈を抱えた人間を受け止めてくれたのがナチス、なかんずくSSであったのだろう。

アイヒマンもまさにそういったタイプの人間であり、あれだけの巨大組織を30代にして動かせるというのは、その高い「能力」があってのことだ(アレントの「凡庸な悪」という言葉が先行して誤解されがちであるが、アイヒマンの担った役割はしがない中間管理職的なものなどではなく国務大臣クラスだった)。こういったタイプの人間が何のためらいもなく一線を越え、おそるべき残虐行為に進んで手を染めるというのは当時のドイツに限ったことではなく、いつでも、どこでも起こりうると肝に銘じておくべきだろう。


またヒムラーは1940年5月に占領地域の住民の教育は「せいぜい五〇〇までの数が数えられ、自分の名前が書けて、ドイツ人に従い、正直で勤勉で善良であることが神の掟なのであるという教義」に限定されるべきだと語った。42年2月にハイドリヒはこれと軌を一にして、「チェコ教育界は「反対勢力の訓練所」となっている。自分は教育界中心部に「強烈な打撃を加える」つもりである。チェコの中等学校の数も大幅に減らさなければならない。チェコの若者たちは、あまりに長い間、「きわめて愛国主義的な教師」に誤った指導を受けてきた……」と表明した。

これを受けて新聞各紙は「教育はチェコ住民にとっては不必要な贅沢だ、との大合唱を始めた」。広く読まれていた『チェスケー・スロヴォ』紙は「われわれが現在七万の中等学校生徒を抱えているという事実は経済的観点からして耐えがたいことである」とし、「これらの生徒は直ちに実務に入れるよう職業訓練校に移るべきだ、と提唱した」。
イギリスの諜報レポートはこのような施策が目指しているのはチェコ青年を「支配民族体制が求める奴隷人種に変える」ことだと分析した。

このあたりも、現在の世界と無縁であるのだろうかとも考えてしまう。


さて、ハイドリヒ暗殺後に残された家族はどうなったのであろうか。夫が暗殺されたときリナは31歳で、第四子妊娠中の臨月であり、ショックでベルリンで行われた夫の葬儀に参列すらできなかった。ヒトラーはリナに「ユングファーン・ブレシャンの屋敷を、ハイドリヒ家永遠の財産として贈った」。ヒムラーはリナが「ボヘミアの田園生活を快適に送れるよう」に、ユダヤ人の強制労働従事者を30人ほど彼女の屋敷で働かせた。戦後の証言によれば、リナはしばしばベランダから望遠鏡で働きぶりを監視し、「緩慢な動きをしている者には鞭打ちを食らわせた」。囚人たちが虐待されているのを見ても「何らの感情も示さなかった。44年1月には強制労働させられていたユダヤ人たちは絶滅収容所に送られ(つまりそこで殺され)、その代わりにこれも迫害され収容所に入れられていたエホバの証人の女囚15人を働かせた。

45年4月には赤軍が迫り、抑圧されてきた非ドイツ人民衆の復讐から逃れるため、リナらは民族ドイツ人難民の群れに加わった。「着の身着のままの逃避行だったが、リナは、亡夫の血に染まったSS大将の制服だけは後生大事に持っていた。それは今も息子ハイダーのもとに保存されている」。

息子の死後リナと行動を共にしてきたエリーザベトは義理の娘と別れドレスデンにたどり着いたが、ここで餓死することになる。一方リナは実家であるバルト海沿岸フェーマルン島にたどり着くことに成功した。この一帯はイギリス占領地区であり、戦後に冷戦がはじまっていたため、47年にチェコスロヴァキアからの身柄引き渡し要求は拒絶された。イギリスは西ドイツとの友好関係を重視し、「ドイツ当局もリナに過酷な態度はとらなかった。リナは奴隷労働虐待で裁かれることはなく、終戦直後にイギリス軍に押収されていた金融資産やフェーマルン島の別荘の所有権を彼女に認めた。リナはこの別荘を改装して「インブリア・パルヴァ」という小さなペンション兼レストランを開き、「やがてそこはかつてのSS将校がしばしばつどって「古き良き時代」の思い出を語り合う場となった」。

リナは56年と59年には年金受給をめぐって訴訟を起こし、「ハイドリヒがホロコーストにおいて果たした役割について膨大な証拠があるにも関わらず、連邦共和国は、彼女に、戦没した将軍の場合の寡婦年金を払わざるを得なくなった。ドイツの納税者たちの援助の上に安住しつつ、リナは夫の行為について一度たりとも後悔や自責の念を表明したことはなかった」。

リナは「年金訴訟の判決を批判した検察側や左派系新聞をあざ笑うかのように、一九七〇年代に、『戦争犯罪人とともに生きて』と題する回想録を出版した。偉大なるドイツという大義のため自分の家族の払った犠牲を認めようとしない社会への嫌悪を隠そうとしないまま、一九八五年八月に死去した」のであった。


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佐藤太郎(仮)

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