『ダウントン・アビー』完走

『ダウントン・アビー』を結局最後まで見てしまった。NHKの地上波の海外ドラマってちょっと人気がなくなるとすぐに打ち切られてしまうのだが(『Glee』はどうなった)、ラストシーズンまできっちり放送されたということは日本でも人気が高かったことの証だろう。





1912年のタイタニック号沈没から25年まで、第一次世界大戦や労働党のなど時代の変化とともにある伯爵家の姿が描かれる。最後は(いささかとってつけたかのような)ハッピーエンドとなっているが、作者のジュリアン・フェロウズの言わんとしたのは、『山猫』から拝借すると「変らずに生きてゆくためには、自分が変らねばならない」というものだろう。フェロウズは政治的にも保守であり、明らかに貴族にシンパシーを抱いているが(使用人との関係は現実にはあんなふうにはいかないだろうし、このドラマにはまった人はバランスを取るために労働者階級の視点から20世紀イギリスを見つめなおした『ザ・ピープル』あたりも併せて読んでもらいたい)、同時に失われた貴族文化への哀惜というトーンはそれほど強くない。おそらくここが、イギリスのみならず世界各地で受け入れられた最大の理由だろう。

グランサム伯爵の妻はアメリカ人であるが、当時のイギリス貴族は富裕なアメリカ人を妻に迎えることでなんとか貴族の伝統的生活を維持したという例が多数あった(チャーチルの母もアメリカ人である)。伯爵は物語開始後も数度にわたって資産を溶かしそうになるが、これは貴族が時代の変化に適応できていないことの隠喩であろう。もし伯爵が時代の変化についていけずに意固地に伝統に固執していたなら、ドラマに登場する少なからぬ他の貴族と同様に屋敷を手放し、かつての生活と完全に縁を切らねばならなくなったことだろう。

伯爵は娘が運転手と結婚するのを許し、妻が働くことも受け入れるようになる。このように、抵抗を抱きつつも時代の変化を受け入れ、適応したからこそハッピーエンドが訪れることになる。変化の到来を表すのに一目瞭然なのがファッションで、とりわけ女性のそれは短期間でこれほどまでにと感じられるほど急速に変わっていった。これは正しいか否かではなく、押しとどめようのない事実としてあるのであり、旧弊なファッションに固執したところで失笑を買うだけであり、貴族の生活様式にしてもまたそうである。

そしてこれは現在の社会の変化をも反映しているところもあろう。影の主役(?)として人気を集めたのが、すがすがしいほどのクズっぷりをみせる陰湿な使用人のトーマスであるが、彼はゲイである。トーマスが見境なく陰湿な行動に出るのは明らかに自分のセクシャリティに対する過剰な防衛反応であり、後半にいくにしたがってそれは前景化され、彼は苦悩し始める。ふた昔前の保守的なドラマなら彼には現実的に、あるいは象徴的に「罰」が下るか、あるいは社会から受け入れられずに退場するか、受け入れられるにしてもそれは異性愛者となるといった形がとられたことだろう。しかし、風呂場でのあの出来事は明らかに再洗礼の隠喩であり、新たな生を得たトーマスは希望に満ちた再出発を迎える。

とはいえ、憑き物が落ちたかのような「きれいなトーマス」はルドヴィコ療法でも受けたかのようにも思えてしまい、どうにも物足りなくもある。結局は変化を受け入れた伯爵家の温情によって救われるとも解釈でき、彼は自分自身であり続けることができたのかといえば疑問にも思える。このあたりは保守的な人間であるフェロウズの限界ともできるだろう。


ではこのような結末を当初から計算していたのかといえば、そうではないだろう。長く続くドラマにつきものなのが、イメージの固定化を嫌った俳優の降板だ。『ダウントン』でもシビル、マシューという主役級を消さざるを得なくなった。ここで失速するか否かが優れたドラマとして記憶されるかどうかの分かれ目であるが、これをうまく乗り切ることができた(シビルの後継キャラであるローズ役のリリー・ジェームズがここまで売れたのは、スケジュールを切るうえで制作陣にとっては誤算だったかもしれないが)。

シーズン1では、高慢な長女メアリー、いじけた次女のイーディス、姉たちに似ずに天使のような三女シビルというキャラ設定であったが、シビルの退場により姉二人の造形は変化を余儀なくされたのだろうが、これがプラスに転じていったように思える。もっともそのせいで、長く続くドラマに付き物の、あの事を忘れたんかいなとか、あの人の性格変わりすぎといったことにもなる。とりわけトムの性格はあまりにもご都合主義的に変化しすぎだろ、ともなってしまうが、まあそこはドラマならではのご愛敬ということで。

結果としてプライド高く身分に固執するメアリーに変化が生じ、いじけていたイーディスも自己実現を果たしていくことになるが、シビルがいたらまた違う展開になっていたかもしれない。個人的にはシーズン1の殺伐とした展開も捨てがたいし、ラストシーズンでのメアリーのクズっぷりはそれを彷彿とさせたが、さすがにそのまま終わりにするわけにはいかなかった。

ある人物がドイツでナチスの手にかかって死亡したり、ある人物がユダヤ人と結婚するといったあたりはさらにドラマが長期化するのに備えた仕込みのようにも感じられたが、続編としてドラマではなく映画が製作されるということになったようだ。なんだかんだいって、基本的には恋愛や嫉妬を軸とした「昼ドラ」の豪華版といえばまあそうであるが、だからこそこれだけ引き付けることもできたのだろう。つまりドラマという形式こそがふさわしかっただけに、はたしてどうなるのかというところでもある。一見さんお断りのファン感謝にあえて徹するか、逆にドラマのファンを切り捨てでも映画として優れたものを作ろうとするのか、このあたりが中途半端になると目も当てられないことにもなりかねないし、伝えられるマギー・スミスの出演拒否はそこらへの警告といった意味も込められているのかもしれない。


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佐藤太郎(仮)

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