『最底辺  トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』

ギュンター・ヴァルラフ著 『最底辺  トルコ人に変身して見た祖国・西ドイツ』





「頑丈な体格の外国人、職を求む。重労働、汚れ仕事、低賃金でも可」

1983年3月、ヴァルラフはこのような広告を新聞に出した。
彼は「極薄で黒みがかった色付きのコンタクトレンズ」を専門家に作ってもらい、「客はふつう青い目しか希望しない」と驚かれる。これで「南欧人みたいにするどい目つき」だというお墨付きをもらった。少々心持たなくなっていた頭に黒髪のかつらをつけると、実年齢の43歳ではなく20代後半だと言い張っても通用しそうだ。一番不安だったのは言葉の問題で、「外国なまりのドイツ語」、つまり自然な片言のドイツ語(という言い方も変かもしれないが)がうまく再現できるか自信はなかった。「一度でもこの国に住んでいるトルコ人やギリシア人が話すのに耳を傾ける努力をした者なら、私のことをちょっとおかしい、と気がつかなくてはならないはずだった」。しかしこれも杞憂だった。ということはつまり、ほとんどのドイツ人が彼らの話をまともに聞いていないということだ。
こうしてヴァルラフはトルコ人のアリとなり、潜入調査を開始する。


果たして自分の変装は通用するのか。ヴァルラフは、コール率いるキリスト教民主同盟が選挙で勝利し、政権を奪還したことを喜ぶ政財界人が集まる場を「ゲネプロ」に選んだ。ヴァルラフは「トルコ・ファシズムで主導的役割を演じている政治家テュルスからの使者だといって自己紹介」すると、誰もそれを疑わなかった。セキュリティ担当の警官も大勢いたが、変装した人物が混じっているとは彼らも全く気付いていないようで、コールまで手を伸ばせば届きそうなところまで近づくことができたほどだった。

ドイツ対トルコのサッカーの試合でネオナチの観客の一画に入り込んだり(ドイツが勝ったからいいようなものの、もしトルコが勝利を収めていたら無事であった保証はなかった)、極右政党のキリスト教社会同盟の集会にこれまたトルコのファシストを装って参加したり、カトリック教会に押しかけ洗礼を希望したりして人々の本音を引き出すのは、サシャ・バロン・コーエンが本書を読んでいたのかは知らないが(そういえばコーエンにはアリ・Gというキャラもある)、『ボラット』などを連想してしまう。トルコ人を公然と差別しながら奇妙な連帯感も示す極右や、グダグダ言って洗礼を避けようとする神父。アスベスト工場で働いていたために気管支と肺の末期がんになったという設定で自分の遺体をどうやって送還するのかを葬儀屋に相談にいくと、女主人は「何らかの同情を寄せたりは、したくないらし」く、「その代わり話題はすぐ商売に移った」といったあたりはそのままコーエンの映画の一幕のようだ。

しかし本書は笑えるものではない。ここで暴露されるのは、あまりに陰鬱な現実である。
「私は確かに本当のトルコ人ではなかった。しかし社会の仮面を剥ぐためには変装しなくてはならず、真実を探りあてるには欺き、偽装しなくてはならない」。こうして明らかになったのは、広く蔓延る差別であり、外国人労働者を食い物にして利益を稼ぐ人々だった。「毎日身にうけている屈辱、敵意、憎悪を外国人たちがどうやって耐えしのんでいるのか、私には今になっても分からない。だが、外国人がどんなことに耐えなくてはならないか、この国の人間軽視がどの程度まで進みうるものかは分かった」。

「ボラット」や「ブルーノ」のような架空のキャラクターではなく、生身の人間たちが日々劣悪な環境下で、蔑まれ、傷つけられ、搾取されていたのである。「我々のいる真只中で――この民主主義国家で――かなりの人種差別[アパルトヘイト]がなされている。私が体験したことは、予想をはるかに上回るものだった。否定的な意味においてである。ドイツ連邦共和国の真只中で、ふつうだったら十九世紀についての歴史書でしか記述されないような状況を体験した」。

ある農家では、「暖かく清潔な部屋もいくつか空き室のまま」であったにも関わらず、古く錆びついた車か家畜小屋か工事が中断されたまま鍵もかからないドアがあるだけの石くずだらけの部屋のどこに住むのかを選ばされた。工事途中の部屋はトイレもなく、バケツで用を足さねばならない。さらにはこの農家は「トルコ農場」と陰口をたたかれないように、アリの存在を隠していた。そして文字通りに「家畜のように扱われ」たのである。
こういった例は極端なものではなく、トルコ人のアリは次々と信じがたいような環境下で働くことになる。


マルクスの『資本論』は19世紀資本主義残酷物語の優れたルポルタージュとしても読めるが、1883年のマルクスの死からちょうど100年後の、1980年代半ばの西ドイツの外国人労働者たちも、それと大差ないかのような労働環境にあった。
地下鉄の工事に従事していたある労働者は72時間働き通し(睡眠は休憩時間に30分ほど眠り込むような形で取っていた)、またある運転手は36時間ぶっ続けで運転させられた。危険な工事現場でもマニュアルは守られず安全対策はおろそかにされる。そして外国人労働者たちは、職を失うことを恐れ、劣悪な労働環境や低賃金に抗議することすらできない。

儲けるのはもっぱら人材派遣会社だ。アリが勤務することになる人材派遣会社の社長のアードラーは、自分の会社を「レメルトのような大企業にしたい」という夢を持っている。違法上等で極限までコストをカットすることが売りである、ヤクザが経営する悪徳口入屋のようなアードラーの会社と大企業のレメルトとの差は、「たとえて言うなら、暗黒街と売春婦の世界の差のようなものだ。アードラーは、労働者を一切、当局の許可なしに売却するが、レメルトの方は、少なくとも時々、合法的なこともする」。外国人労働者たちを「昔のガレー船の奴隷」のように酷使し、使い捨てして富を築いたのがレメルトであり、アードラーは自分の会社もそうなることを夢みている。


このような状況は当時の西ドイツに限られたことではないだろう。西ヨーロッパの多くの国が、使い捨てできる安価な労働力として外国人を連れてきて、必要なくなればお払い箱にした。日本にも様々な形で、事実上多くの外国人労働者がすでにいるが、「外国人実習生」の例を見れば明らかなように、弱い立場にある人を低賃金で劣悪な労働環境で酷使することは横行している。

そしてこういった外国人労働者に涎を垂らしながら食指を伸ばしている人材派遣会社パソナの会長である竹中平蔵が、政府の「規制改革」に「経済学者」として影響力を持ち続けていることのグロテスクさはいくら強調してもし過ぎることはない。ちなみにアードラーも政治家(よりにもよって社民党)と深く結びついているようだ。


「今になってみんなさっさと忘れちまっているのは、ヒットラーが誰にでもパンと仕事を与えたってことさ」とアードラーはアリに言う。「あと一〇〇万か二〇〇万失業者が増えれば、またヒットラーのような人物が出てくるぞ」。
「うん、そうなるとオレたちの番だ。オレたちユダヤ人になるんだ」とアリが不安がると、アードラーは「心配するこたあない。すぐにガス室に入れたりゃしないさ」と言い、ユダヤ人への偏見をまくしたてる。

アードラーは外国人労働者をこき使うことで稼いでいながら、西ドイツが外国人労働者を受け入れすぎたのが失敗だったとする。その一方でこうも語るのである。「でもな、トルコ人が全員いなくなったって――今、二三〇万失業者がいるわけだが――ほんの少ししか失業者は減らないって、オレは確信してるんだ。このこたあ、トルコ人とは直接関係ないわな。全員出てったとする、そううりゃあほんの少しだけ失業者が減る。二二〇万になるかもしれない。でも何の足しにもならん、焼石に見ずだわな」。
安く使い倒せる労働力は欲しいが、まともな賃金を払わなければならない労働者はいらないということなのだろう。

アードラーとアリとの会話は経済相が告訴されたというラジオのニュースで中断される。
「この経済相、刑務所入る?」
「いや絶対、そんなこたあない。そうなりゃ政府の半分がムショ入りだ。そうはいかないじゃないか」
「何十億マルク儲けて、もっと欲しい、言う」
「そりゃそうよ。オマエだっていつも、オレから金を欲しがるじゃないか。そりゃあ人間の本性ってもんよ、そうじゃないかい?」


上記の会話も現代日本のそれのようにすら思えてしまうが、日本との関連でいえば本書でも原発の問題が取り上げられている。当時の西ドイツの原発では、「常勤スタッフを比較的少数にとどめ」、「割合危険の多い仕事には、下請け企業を通して何度も短期間の新規採用をして」いた。
「その人々は、ほんの数時間、あるいは数日で、いや時にはほんの数秒間で、五〇〇〇ミリレムという一年間の放射線被曝最高限度に達してしまうことがよくある」。これが外国人労働者であれば、追跡調査などなされず、将来健康被害が出ようが責任を問われることはない。

原発で働いていたある人物はこう証言する。
「故障の時は普通、トルコ人が動員されてたな。"飛び入り助太刀"として危険な汚染地域に送り込まれて、年間許容量の五〇〇〇ミリレムを浴びちまうまで、ずっとそこで辛抱しなけりゃならないんだ。その量に達するまで何時間もかかることもあるけど、極端な場合、数分、いや数秒のときもあるんだ。仲間うちじゃこのことを"空動員"なんて呼んでたもんよ」。
基準を超えればその人はもう原発で働けなるのだが、「だけど他のトコで仕事を続けられる手だてはあるよ」とも語っている。

「うちの下請け会社には大体二五〇〇人いるんだ。そのうち少なくとも一五〇〇人が外国人よ。そいつらは短期間の仕事をそこでしてて原発の検査が終わるとまた解雇されるんだ。だいたいが数週間しかいないんだ。/そういう連中が一番危険な仕事に動員させられてるな。一定の放射線をそこで浴びちまうってわけよ」。

覚悟を持って働いている人もいるかもしれない。しかしユーゴスラヴィア人の労働者はこう語る。
「雇われたとき会社側じゃあ、放射線の危険についてなんか一言も話さなかった。ただ三カ月の許容量二五〇〇ミリレム、年間五〇〇〇って言われただけだ。それ以上何も言わなかった。どんなに危険か、一体危険なことなのか、なんて誰も言わなかった」。

線量計をロッカーに入れっぱなしにすることでごまかしたり、事故に合ったにもかかわらず被曝量が記載されているはずの放射パスに数字が何も記載されていなかったなど、これもあたかも日本の原発のそれのようであり、各国の原発のおそまつな安全管理はどれも共通している。日本でも以前から外国人労働者が使われていたという証言は多くあり、さらに福島での事故後は除染作業等にリスクを説明されないまま外国人が従事させられたという事例もあった。

当時の西ドイツに限らず、その国の歪みというのは弱い立場にある労働者の労働環境という形で表れるのかもしれないし、原発というものはさらにそれを最悪の形で煮詰めたようなものにならざるをえないのだろう。


救いといっていいのかはわからないが、訳者あとがきによれば原著は1985年に出版されると240万部の大ベストセラーとなり、普段はこのような本を手にしない労働者にも広く読まれ、学校で教材として使われたり討論会が開かれたりしたという。また外国人の同僚に声をかけて家に招待するようになったドイツ人も多くなったそうだ。現在のドイツが周辺国と比べて排外主義の高まりが比較的抑えられているのは、失業をはじめとする経済状況が大きく作用していることは確かだろう。しかしそれだけではなく、こうして自らの問題点に真摯に向き合う姿勢を持っていたということも今につながっているのかもしれない。また本書は18カ国語に翻訳され、ヴァルラフが扮したトルコ人にも読まれ、「自分たちにも拒否する権利があるのだと気づくようになった」のだという。

潜入ルポといえば日本でも鎌田慧の『自動車絶望工場』や横田増生によるアマゾンやユニクロへの潜入ルポなどがあるが、社会への大きなインパクトになったのかといえばそこまでとはいえないかもしれない。そして、とりわけ外国人労働者の労働環境や人権への関心は一般には極めて低いままだ。今の日本で本書を読むとあたかも「予言の書」とも思えてきてしまう。だからこそ、今読まれるべきであろうし、何らかの形で復刊してくれることを希望する。



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佐藤太郎(仮)

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