『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著 『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』




フェミニズム。社会運動やそのバックグラウンドとなる思想は世に数多くあれど、これほどの悪罵を投げかけられるものもそうはないだろう。アディーチェは本書で、あたかもフェミニズムをよく知らないが勝手なイメージで反感を抱いている日本の人々への応答として語りかけているように思えてきてしまうが、それはアディーチェが生まれ育ったナイジェリアでも、大学教育を受けたアメリカ合衆国でも、そして世界の多くの地域でも同じような罵詈雑言がフェミニストに投げかけられているせいなのだろう。

本書はTEDトーク、We should all be feministsに加筆をしたものである。TEDらしく、簡潔でわかりやすく、実体験に基づく身近な例がユーモアをふまえて語られている。フェミニズムに漠然と関心がある、あるいはよくわからんがなんかムカつくといった人々は、まず動画を見てみるなり、本書を手にとってみるといいかもしれない。







アディーチェには兄のように慕っていた親友がいた。なんでも「本気で話のできる相手」だった。アディーチェが14歳くらいのとき、この親友が「おまえってフェミニストだな」といった。お世辞ではない。その口調はまるで「おまえはテロリズムの支持者だ」というかのようだった。

その後アディーチェが作家となり、ナイジェリアでプロモーションをしていると、「善意に満ちた、すてきな人」が、「絶対に自分のことをフェミニストといわないほうがいい、なぜならフェミニストというのは夫を見つけられない不幸せ[アンハッピー]な女性のことだから」と「忠告」をしてきた。
また別のナイジェリア女性は、「フェミニズムは非アフリカ的で、西欧の書物から影響を受け」ているだけなのだといった。
これまた別の親しい友人は、「自分をフェミニストと呼ぶのはわたしが男嫌いだってことだ」といった。

こういうことがあるたびに、アディーチェは自分を「ハッピー・フェミニスト」と呼び、「ハッピーなアフリカ的フェミニスト」と名乗ろうと思った。そしてついに「男嫌いではなく、男性のためではなく自分のためにリップグロスを塗ってハイヒールを履く、ハッピーなアフリカ的フェミニスト」にまでふくらんでしまった。

「もちろんこれは皮肉をこめた冗談ですが、これは「フェミニスト」という語がどれほど重たい荷物を背負わされているか、それもネガティヴな重荷をせいわされているかを表しています」。

「男嫌いで、ブラが嫌いで、アフリカの文化が嫌いで、いつも女がなんとかしなければと考え、化粧もしないし、毛も剃らないし、いつも怒っていて、ユーモアのセンスがなくて、デオドランドもつかわない、というわけです」。
アフリカを日本に置き換えれば、そのまま日本のフェミニズム嫌いの人が持つフェミニストのイメージであろうし、これは世界各地にあてはめることができるのだろう。

フェミニズムとは何か。アディーチェの定義はシンプルだ。「わたし自身の、フェミニストの定義は、男性であれ女性であれ、「そう、ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」という人です」。

これは必ずしもすべてのフェミニストが受け入れる定義ではないかもしれないが、まずはここを入り口にいろいろと考えてみることができる。アディーチェはこの場の性格もふまえ、あえて理論的なことは持ち出さずに誰にでも起こり得る例で説明しているのも、それを意識してのことだろう。

ここで重要なのは「男性であれ女性であれ」というところだ。ナイジェリアで男性と車に乗っていて、アディーチェが駐車場係にチップを渡すと、その人は同乗していた男性に礼を述べた。金を稼いでいるのは男性で、女性は男性から金をもらっているにすぎないと思ったのだろう。レストランに行っても、接客は男性中心で女性は添え物のように扱われる。高級ホテルに一人で入っていくと、警備員から止められて不愉快な質問をされた。男性が一人で入ったところで何事も起こらないが、女性が一人でホテルに入るとセックスワーカーだと思われる。女性には支払い能力がないはずだという前提があるのだ。

こういったことはナイジェリア特有の現象ではないだろう。そして裏を返せば、男性は稼がねばならない、女性の面倒を見なければならない、そうできない男は一人前の男ではないというプレッシャーに結び付く。
「私たちは男らしさを「とても」狭い意味に考えています。男らしさが堅い小さな檻になって、この檻のなかに男の子を閉じ込めるのです。/男の子には、恐怖や弱さや脆さを見せるな、と教えます。本当の自分に仮面を被せろと教えます」。

女性に「女らしさ」を求めることは男性に「男らしさ」を求めることであり、女性が抑圧され続けているように男性はプレッシャーにさらされ続けている。ジェンダーに対する固定概念から逃れることは、男性を解放することでもある。

もちろん歴史的にみれば人類は男性優位の社会が圧倒的で、男性と女性が同じ苦しみを味わってきたとすることはできない。ナイジェリアの大学で、一人の若い女性が男性に集団でレイプされるという事件が起こった。このときの反応が、「男も女もそろって「確かにレイプは悪いけれど、一人の女の子が四人の男の子とひとつの部屋で何をしていたの?」というもの」だったそうだ。クラカウアーの『ミズーラ』を読めばわかるように、女性が性暴力の被害に合っても悪いのは女性の方とされてしまう(それも少なからぬ女性たちまでもがそう思ってしまう)のもまた世界的に共通の現象だろう。

単に心理的抑圧のみならず、女性はこうして暴力や、あるいは仕事における賃金格差、昇進差別等の具体的不利益に男性よりもさらされていることをないがしろにしてはならない。


本書を読んでいて思い浮かんだのがタナハシ・コーツの『世界と僕のあいだに』のこんな箇所だ。コーツはここで、黒人は白人の「二倍行儀よくしなさい」と教え込まれるとしている。つまり、黒人は白人の半分で我慢しろということだ。出過ぎた存在になり、白人に目をつけられれば、それは身の危険に結びつく。

アディーチェが書いた記事について、「ある知人から、あれは怒っている記事だった、そんなにかっかすべきではない」といわれた。その通り、怒っている記事だった。不当なことになぜ怒ってはいけないのだろうか。それは女性だからだ。女性は男性に好かれなければならない、と教え込まれる。女性が「怒りを顔に出したり、攻撃的になったり、賛成できないと声に出す」のはとんでもないことなのだ。「男の子からどう思われるのかを気遣いなさい、と女の子に教えることに私たちはあまりに多くの時間を割いています」。

アメリカ合衆国の黒人が白人からの視線を常に気にしていなければならないように、世界中の女性は男性からの視線を気にしなければない。


一方で、ジェンダーの問題は確かにある、しかしもっと優先的に取り組むべきことがあるのではないかと思う人もいるだろう。さらには、性差別の問題と人種差別の問題を同列であるかのように語るのはさすがに行き過ぎなのではないか、と思う人も。

「そう、貧しい男性にもまた厳しい時代だ」という人がいる。アディーチェは「その通りです」という。同時に、「でも、それはここで話題にしていることではありません。ジェンダーと階級は別の問題です」ともいう。
また「黒人男性としての自分の経験について」、「しょっちゅう口にする人」からは「なぜあなたが女性としてでなければならないの? なぜ人間としてではないの?」といわれた。

「この種の質問はある人の具体的な経験を沈黙させる方便です。もちろんわたしは人間ですが、この世界にはわたしが女性であるがゆえに起こる個別の出来事があるのです」。

アディーチェの発言のこの部分の危うさを指摘することもできる。「ピンクウォッシュ」という言葉がある。イスラエルをはじめとする国家、あるいは企業などがセクシャルマイノリティーにフレンドリーなことをアピールして、その裏で行われている人権侵害から目をそらさせるという手法である。

日本ではこんな例がある。ホームレスにやさしい自治体などあろうはずもないが、渋谷区はその中でもとりわけ悪評高く、様々な嫌がらせを行ってホームレスを追い出すことに血道をあげている。一方で渋谷区は「同性婚」の証明書を発行するなど、この点では「先進的」な区であることをアピールしている。そのため、一部とはいえLGBTの権利擁護の運動をしている人の中に、渋谷区の動きを擁護しようとするあまり、ホームレス支援を行っている人々を中傷する人まで現れた。また人権など歯牙にもかけない稲田朋美のような右翼政治家がイメージ戦略としてLGBTフレンドリーであることをアピールしようとしているし、この裏には広告代理店の暗躍も見え隠れしている(ちなみに現渋谷区長も広告代理店出身でもある)。世界的に見ても、セクシャルマイノリティーでありまた極右であるというのは珍しい存在ではない。

「個別」の「具体的な経験」にのみ寄りかかると、貧しい人がいる? 人種差別を被っている人がいる? でもそんなことはわたしには関係ない、という発想になってしまいかねない。しかしまた、その逆も起こり得る。貧困に苦しんでいる人がいる、人種差別で迫害されている人がいる、なのにジェンダーの問題ごときがなんだ、といった具合に。

大切なのは、「この種の質問」によって「沈黙」を強いらないということだろう。これはゼロサムゲームではないはずだ。人によって関心の持ち方や優先順位が異なるのは当然である。しかし、だからといってどれか一つを選ばなければならないというものではない。「〇〇をないがしろにすることは許さない」というのは一見するともっともらしいのであるが、だからこそ、そこに裏の意図がないかどうかを見極めなければならない。

アメリカ合衆国において「苦境に追いやられた白人労働者の声を聞け」というのはまったくその通りだ。しかし「リベラルはアイデンティティポリティクスになどかまけていないで経済問題にのみ勢力を傾注すればいい」というのはどうだろうか。白人(男性)労働者が苦境に追いやられているのなら、マイノリティの労働者はなおのこと苦しんでいることだろう。つまりこれは「リベラル」は白人票が欲しければ差別や不公正に目を閉ざせといっているにも等しい。アイデンティティポリティクス批判はリベラルや左派の内部からも上がることがあるが、保守派がリベラルの「欺瞞」を揶揄する目的で行っていることにも注意しなくてはならない。

フェミニストに対しての「男性の弱者はどうでもいいのか」といういいがかりもこれと同根である。とりわけジェンダー問題は、それを問題だと感じていない人にとっては不可視化される率が高いので、このような難癖をもっともらしく感じてしまう人が少なからず出てしまう。


ジェンダー問題というと何やら難しく感じるかもしれないが、誰もが素朴な疑問を抱いたことがあるはずだ。「女の子なんだから料理くらいできないと」、子どものころにそういわれて台所に立たされた女性は少なくないだろう。そういう機会がなく大人になると、「女のくせに料理もできないのか」と蔑まれる。でも、三ツ星料理店などの一流シェフが男性ばかりなのはどいうことなのだろう。「料理は女のもの」とされているのに、仕事になって高収入を得られたり、社会的地位が認められるようなら「男のもの」にされてしまうのである。

女性が結婚するまで処女でいることを求められる社会で、男性も結婚するまで童貞であるべきだと考える人はどれだけいるだろうか。若い女性が男性を求めて積極的な行動をとると眉を顰められる。そのくせある年齢以上になって独身でいると、「不幸せな女」、そう、まるで「フェミニスト」のようだと後ろ指さされることになる。

アディーチェには、夫とおなじ学位をとり、おなじ仕事に就いた女性の知り合いがいる。仕事から帰ると、家事のほとんどをやるのは女性だ。さらに「わたしが強い印象を受けたのは、夫が赤ちゃんのおむつを替えるたびに、妻が彼に「ありがとう」といったことです。もしも夫が育児を分担するのはごく普通の、当たり前のことだと妻が考えたらどうでしょう?」

女はおしとやかでいるのが当たり前。家事料理育児を女が中心的に担うのは当たり前。気にくわないかもしれないが、ずっとそうだったんだから仕方がないじゃないか。
でもこれってほんとうに当たり前のことなのだろうか。そして変えることは不可能であったり、するべきではないのだろうか。

「文化は絶えず変化します。わたしには十五歳の美しい双子の姪がいます。もし彼女たちが百年前に生まれていたら、連れ去られて殺されていたでしょう。なぜなら百年前のイボ文化では、双子が生まれることは邪悪な徴だと考えられていたからです。現代ではどんなイボ人にしろ、そんなことをするとは思えません」。
同時に、イボ文化は今でも男性優位であり、「一族の重要事項が決定される集会」に出られるのは依然として男性だけなのである。


僕は男性であるが、やはり「ジェンダーについては今日だって問題があるよね、だから改善しなきゃね、もっと良くしなきゃ」と考えている。では自分が固定概念から完全に逃れられているかといえば、そうとはとても思えない。僕自身セクシズム的発想についつい立ってしまうことも少なくないし、さらにはそうとは気づかずにそのような行動を取っていることも多いだろう。だから自分のことをフェミニストであるとは自称しない。でもそれは居直ることではない。世の中そういうものだと開き直ったり、頑なに耳を閉ざすことは避けねばと思っている。それってほんとに当たり前のことなの? これっておかしくない? 自分ではそうは感じていなかったことにそのような指摘があった時は、立ち止まって謙虚にしっかり考えるようにする。フェミニズムに限らず、まずはそこから始めることは誰にもできるのだから。


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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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