『アメリカーナ』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著 『アメリカーナ』





イフェメルは「夏でも臭いがな」いプリンストンの街を気に入っていた。「でも、髪を編むためにトレントンまで行かなければならないのは好きではなかった」。プリンストンで見かける黒人は「みんな肌の色がとても薄くて細い髪をしていたから、髪をブレーズに編むとは思えなかった」。

ナイジェリアからアメリ合州国にやって来たイフェメルは「レイスティース(人種の歯)、あるいは非アメリカ黒人によるアメリカ黒人(以前はニグロとして知られていた人たち)についての様々な考察」というブログを始めて注目を集め、経済的にも成功し、プリンストン大学のフェローにまでなっていた。行きつけのヘア・サロンが閉店してしまったため、アフリカン・ヘアを結ってくれる店を探し、初めてその店を訪れようとしている。ここでいささか居心地の悪い思いをしながら、成功へ導いてくれたブログを閉じてナイジェリアへ帰るという自信の決断を反芻しつつ、ナイジェリアでの恋人だったオビンゼ、そしてアメリカでの日々やここでできた恋人たちの思い出がさざ波のごとく寄せては引いていく。


プリンストンに住む黒人女性がアフリカン・ヘアに髪を結いに行くという冒頭部分で、この小説が人種やジェンダーを扱ったものだということはすぐにわかるだろう。さらにイフェメルがナイジェリア出身であるように、差別をはじめとする社会問題への視線は多層化されており、TEDトークの「シングルストーリーの危険性」でも有名なアディーチェの面目躍如といった作品となっている。


この作品が発表されたのは2013年で、作中にはバラク・オバマの大統領選への出馬とそれに伴う様々な観点からの議論も描かれている。本作の刊行から3年後にトランプ大統領が登場するということをアディーチェが予感として抱いていたかはともかく、本作にはそれを予言するかのような場面もある。

ドレッドヘアにしている白人の男性は人種問題に理解あるものだと思っていると、彼は人種問題はもう終わった、今あるのは階級問題だと言う。また別の男性の「白人特権階級なんてナンセンス。どうして僕が特権階級なんですか? ウェスト・ヴァージニア州でめっちゃ貧しく育ったんです。アパラチアの田舎っぺですよ。僕の家族は福祉に頼ってました」という言葉から、イフェメルはこの問題について考察するブログをアップしている。近年アメリカの白人の中に、人種問題はもう過去のことだと片づけようとしたり、被害者意識がより強く形成されるようになっていったことはここからもうかがえる。

イフェメルはこれに対し「貧しいホワイトなのは気の毒だけれど、貧しいノンホワイトの身にもなってみて」と書いている。例えば同じような経済状況にある白人と黒人が麻薬所持で逮捕されたとしたらどうだろうか。白人は病院に送られるが、黒人は刑務所に送られることになる。

まさにアパラチアなどの白人コミュニティではドラッグの蔓延は深刻化しており、荒廃したコミュニティへの不満のはけ口としてトランプ支持者が増加したという見方もある。一方で、とりわけレーガン政権以降、クリントン政権も含めドラッグを含む犯罪の厳罰化が進められたが、ここで狙い撃ちされたのは黒人であり、その結果黒人コミュニティはボロボロになってしまったのであるが(クリントンは近年その政策が誤りであったことを認めている)、被害者意識にかられる白人たちの目にはそれは入らない。そして貧しき者、虐げられた者同士で連帯しようとなるのではなく、むしろ真逆の政治的反応を示してしまっている傾向にある。


「なんでいっつも人種のことを話さなければいけないんですか? われわれはただの人間ってことになれないんですか?」と、アパラチア出身のこの白人は問いかける。ある大学教授は「それがまさに白人特権階級なんだよ、そういえることが。人種がきみにとって現実に存在しないのは、それが障害になったことがないからなんだ。黒人にとって選択肢はない」と答える。
黒人がタクシーをつかまえようと思ったら? 車を運転していて警官に止められたら? 黒人たちは現実の不利益と、そしていつ現実化するかわからない不安と常に背中合わせであり、たとえ社会的、経済的に成功しようともそこから逃れることはできない。


アディーチェはこれもTedトークをもとにした『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』でも知られているが、これはジェンダーの問題もまさにそうだろう。

ミシェル・オバマがもし髪をストレートにせずナチュラルなままであったらバラク・オバマの人気はいかなるものになったかという考察をイフェメルは行うし、彼女自身就職の面接のために髪をストレートにする。アメリカにおいて、そうしなければ黒人女性は果たしてまともな職にありつけるだろうか。この問題はもしかすると、黒人男性からもあまり認識されていないかもしれない。

イフェメルはアメリカに来て初めて自分が「黒人」であることに気づいた。これは女性が性差別が軽い社会からごりごりにまかり通っている社会に移ったことを想像すればよくわかるだろう。ボーヴォワールのあまりに有名な「人女に生まれるのではない、女になるのだ」は、人種についてもいえることだ。タナハシ・コーツは『世界と僕のあいだでに』で、「人種は人種主義の子どもであって、その父親ではないんだ」と書いている。そしてもちろんこれも、アメリカ合州国だけの話ではない。


アディーチェらしいのは、この作品を異なる社会から来た者の目を通してある社会の真の姿をあぶりだすといった単純な構造に落とし込んでいないことだ。
「ところでなぜイフェメルがあのブログを書けるか知ってる? (……)理由は彼女がアフリカ人だからよ」とある人物から言われる。「もし彼女がアフリカン・アメリカンだったら、怒ってるだけってレッテルを貼られて敬遠されるだけよ」。
明らかに陰湿な意図を込められた発言であるのだが、アフリカン・アメリカンの女性からのこの言葉が真実の一端をとらえていることをイフェメルも認めざるを得ない。アフリカン・アメリカンが人種問題を口にすることは「怒れる黒人」というステレオタイプにはめられることを覚悟しなくてはならないが、アフリカ人であるイフェメルはそこから逃れられるので、あのようなブログを書くことができる。

イフェメルはアメリカ社会を批判的に見ているようで、話し方がアメリカ人みたいだと「褒められる」と、ついうれしく感じてしまったことがあった。アメリカ人の使う英語がどれほどめちゃくちゃなものであるかにあきれていたというのに。
このように「黒人」といっても当然ながら様々な属性が絡み合い、複雑な関係が構成される。同じ「黒人」移民でも、アフリカから来たのかカリブ海周辺から来たのかによって意識の違いが生まれる。イフェメルはアメリカに来て何年になるのかと訊かれると、箔をつけるためサバを読んで多く答えてしまう。「黒人」の移民同士においてもこういったマウントの取り合いのようなことがが日々行われている。

さらにこの物語はアメリカ合州国にとどまらない。イフェメルのかつての恋人オビンゼはわずかなチャンスに賭けてイギリスに渡る。しかしそこで待っていたのは劣悪な環境での労働であり、希望を食い物にする人々であり、また移民に向けられる敵意だった。
「イギリス諸島を吹き渡る風は亡命希望者の恐怖でふんぷんたる悪臭を放ち、だれもが差し迫った運命にパニック状態」になっているかのようだ。「かつて英国がでっちあげた国々から黒色や茶色の肌の人間が英国にどっと押し寄せることが、歴史の当然の成り行きであるとは微塵も思わないようだ」。オビンゼはここに来て、「こんなに孤独を感じたことはなかった」。

ではイフェメルやオビンセの出身国のナイジェリアはどうだろうか。アフリカ屈指の大都市であるラゴスは、物質的には近代化の道を確実に歩んでいるようだが、その裏では旧態依然たる支配体制が温存されている。「ビッグマン」と呼ばれる実力者や成金は贅の限りを尽くした生活を送り、その富をさらに増やし続けるが、社会問題は放置されている。イフェメルをはじめとするアメリカ滞在経験のある人々は、ナイジェリアに帰国しながらアメリカの生活を懐かしむ。アメリカに滞在しそこにかぶれた「アメリカーナ」は、ナイジェリア人から冷ややかに見られている。

このように、本作は単にアメリカ合州国社会を告発したものではないし、またアフリカの後進性を嘆いたり、逆に様々な問題に目をつむってアフリカを過度に理想化するものでもない。あらゆる社会が様々な問題を抱えている。理想郷をでっち上げたところで問題は解決しないし、また異なる立場からの視点を拒否して社会の現実を糊塗しようとすれば、さらに解決は遠のく。唯一無二の解決策がすぐに提示できるのではないし、それができるという幻想を抱くべきでもない。いくつものレイヤーのある多様な社会を、多様な視点で見つめなおしていくことからしか始めることはできない。

……と、こうまとめてしまうとこの作品がしかつめらしい顔をして読まねばならない生真面目で重苦しいものであるように思われるかもしれないが、読者の受け取る肌触りはそのようなものとは大きく異なる。

本作はミステリーでいうところの倒叙型になっている。ナイジェリアでイフェメルとオビンゼはいかなる関係にあったのか。彼女だけアメリカにやって来たのはなぜなのか。いかにしてブログを開設し、プリンストン大学のフェローにまでなったのか。そしてその間オビンゼはどのように過ごし、ビッグマンに上り詰めたのか。こういった謎が時間軸をバラしながら少しずつ明らかにされていくことで読者をドライヴしていく。

アディーチェはあるインタビューで「弁解の余地のないオールド・ファッションなラブストーリーを書きたかった」と語っているそうだ。この言葉は刊行時に「100パーセントの恋愛小説」が謳われた村上春樹の『ノルウェイの森』を想起してしまう。『ノルウェイの森』も単にあらすじをまとめるだけだと「なんじゃそれ」という話になってしまうように、本作も、とりわけ最終盤の展開に対する好みは分かれるかもしれない。僕は村上が『ノルウェイの森』を書いたのはあえての「蛮勇」であったと肯定的に受け止めているが、『アメリカーナ』もまた「オールド・ファッション」であることを恐れないあえての「蛮勇」であるともできるだろう。人種をめぐって、ジェンダーをめぐって、そして現在の世界各地で起こっている数々の問題についてアップデートされた今日的視点を持ちつつ、「オールド・ファッションなラブストーリー」によって読者を牽引していくのがこの物語である。


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佐藤太郎(仮)

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