『イエスの幼子時代』

J・M・クッツェー著 『イエスの幼子時代』




シモンは苦労して覚えたスペイン語で「わたしたちは先ほど着いたところです」と言った。「働き口と、それから住むところを探しています(……)子ども連れです」
「お孫さんですか?」
「いや、孫でも息子でもありませんが、私が面倒を見ています」

シモンとダビードというスペイン語の名を、二人はベルスターでもらっていた。5歳ほどのダビードは、一人で乗っていた船で持っていた手紙をなくしてしまっていた。シモンは母親を見つけると約束し、この子を連れてきたのだった。こうして新天地で擬似親子の新しい生活が始まるのだが、その船出はというと、割り当てられた部屋の鍵が見当たらず、管理人のセニョーラ・ヴァイスとはいつまでたっても出会うことができないという多難なものであった。


タイトルからして、新約聖書で語られるイエスの物語の前日譚を予想するだろうし、この作品をそうするのが間違いだとは言えない。ダビードが奇術師になりたいと言い出すのは、イエスが起こすことになる奇跡を予告するかのようであり、その他にも新約聖書で起こる出来事をふまえたエピソードが数多くある。またダビードという名前からして、当然ダビデが響くこととなり、ゲームの中でとはいえ王として振る舞うダビードの姿はダビデ王と重ねられてもいる。このように、ひとまずはタイトル通り聖書的世界の語り直しとすることはできる。

「代父」となるシモンは天使というにはあまりに人間臭く、彼はイエスの「父」であるヨセフに重ねられているのだろう。そして処女とおぼしきイネスを母として見出すというのは(この点ではシモンは天使的なのかもしれないが)、もちろん処女懐胎を表している。

とはいえ、この作品は聖書を語り直した作品だという観点でのみ論じられるべきではないだろう。ジョイスの『ユリシーズ』は『オデュッセイア』を下敷きにしたものだが、ナボコフが警鐘を鳴らすように、『ユリシーズ』を『オデュッセイア』との対照関係にのみ焦点を当てて語ることはなんとももったいない。『イエスの幼子時代』も聖書を下敷きにしつつ、様々な文学的隠喩に富んだ作品となっている。

鴻巣友季子による「訳者あとがき」でも触れられているように、そもそも語りのレベルからして奇妙な設定となっている。クッツェーはこの小説を英語で書いているのだが、作中人物はスペイン語を話しているということになっており、ダビードとシモンが耳にしたドイツ語を英語だと勘違いするという場面まである。ではこれはスペイン、あるいはスペイン語が公用語となっている国を舞台にしているのかというと、現実の国や社会というよりも抽象化された、架空の社会となっている。ではなぜスペイン語なのかというと、その答えは示されない。登場時からシモンとダビードは難民であるかのように描かれているが、2013年に発表されたこの作品が近年の世界情勢を反映した、直接的なメッセージを込めた作品なのかというと、いささかためらわれる。このように一筋縄ではいかない、いくつもの仕掛けがほどこされた作品となっている。


冒頭で、いつまでたってもヴァイスと出会えず翻弄されていくというのは『城』をはじめとするカフカの作品を連想せずにはいられないが、作品全体を覆うのは重苦しさというよりも滑稽さである。

シモンらが当初出会うのは、善良であることには間違いないのだろうが、生気を欠いた人々だ(ジョイス・キャロル・オーツは書評で「慈善的ゾンビ」と表したそうだが、秀逸な表現だ)。「人はパンのみに生きるのではない」とはまさに聖書の言葉であるが、ここで人々は文字通りにパンのみで生きている。シモンは食事を味気ないと思うし、ダビードの健康にも良くないのではないかと懸念する。

シモンは荷役の仕事にありつくが、非効率が支配しているようで苛立つ。しかしそもそもが、この仕事は不可欠な作業というよりも、多くの人に仕事を与えるためにあえて行われているようでもある。物質的には苦労しないのであるが、生きがいがない。不足はないが正体不明の存在に徹底的に管理されているというディストピアを描いたものともとれるが、やはりここでも恐怖よりもおかしさが漂うことになる。この閉塞を打ち破るべき存在にも思えるシモンであるが、彼は女性を見ると性的に興奮できるかどうかばかりを考え、しかもセックスをしたいということを女性との距離をつめる前に口にしてしまうような男である。性欲を処理する施設も用意されているのであるが、ここでもカフカ的まちぼうけをくらい、シモンからは小市民的悲しみとでもいったものが漂ってくる。


聖書と並んで特権的な位置にあるのが『ドン・キホーテ』だ。ダビードに読み書きを覚えさせようとして、シモンは図書館で『ドン・キホーテ』を借りてくる。ダビードは物語に夢中になっているようでいて、読み書きを覚えるのを拒否して、挿絵に頼って勝手に物語を作っているようでもある。

ダビードはこう言う。「ドン・キホーテとサンチョの冒険じゃないよ、これ。ドン・キホーテの冒険だよ」。ダビードはサンチョの視点ではなく、ドン・キホーテの視点でこの物語を理解しようとする。したがってダビードにも、風車が巨人に思えてしまう。

これは『イエスの幼子時代』がいかなるものかを暗示しているようでもある。普通読者は無条件にサンチョの視点を持つのであるが、一度ドン・キホーテの視点を内面化すれば、その世界の見え方はそれとは決定的に異なるものとなる。それは滑稽であるばかりか、わざとひねくれてへそを曲げているのではないかという印象すら与えることにもなる。見たままの世界をそのまま受け入れているとも、わざとそのような振る舞いをしているとも、どちらにも思えてしまう。

ダビードは聡明な子でありながら(覚えたてのチェスで大人を負かすほどだ)、読み書きや算数が苦手で、学校ではトラブルメーカーとなってしまう。苦手というより、受け容れ難いとしたほうがいいだろう。算数の問題におけるお約束事が飲み込めずに、何か深遠な哲学的問いであるかのように受け止め、フリーズしてしまう。このようなお約束が飲み込めないダビードの姿と(現代の読者ならアスペルガー症候群などを想起せずにはいられないだろう)、それに対処しようとする学校や行政と「親」であるシモンやイネスが対立していくくだりは、精神医学や児童心理学といったものへのクッツェーのシニカルな視線があるようにも感じられる。このように現在の社会を切り取った寓話的作品として間違いはないのだが、またそれだけではこの作品の魅力を取り逃がしてしまうだろう。

前半部分でのダビードの姿は『ナイン・ストーリーズ』に収録されているサリンジャーの「テディ」を思わせなくもない。テディはシーモアの原型であり、明らかに仏陀を意識して造型されている。しかしテディに潜む、人間を超えたかのような存在であることによる苦悩はダビードにはない。年齢不相応なほど聞き分けの良かったダビードは赤ちゃん帰りをしていくようでもある。サリンジャーはテディ/シーモアをやがて文字通りに聖人としていき、そして作家として行き詰ってしまう。クッツェーはしかつめらしく聖書の語り直しに挑むのではなく、むしろ軽やかに、シニカルに、本歌取りを行っているかのようだ。サリンジャー的というよりはフィリップ・ロス的なようでもあるこの感覚は何かに似ていると思ったのだが、小島信夫の「馬」あたりの、あの奇妙な肌触りが一番近いかもしれない。


切実さ、シリアスな問題意識というのも当然見え隠れしているが、クッツェーの近年の作品らしい奔放なユーモアこそが、何よりも魅力になっている。なんといってもダビードは可愛らしいし、その可愛いダビードがああなっていくというのも、子育てにつきまとうものかもしれない。そういった点では、癖のある物語でありつつも普遍的なものともなっている。

「聖人伝」を書いてしまったがゆえに行き詰ったサリンジャーと違い、クッツェーはますます意気軒昂で、本作の続編『イエスの学校時代』も待っているという。



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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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