『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その1

田原洋著 『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』






1982年刊行の『関東大震災と王希天』に加筆・改題し文庫化したもの。

1981年春、著者は元陸軍中将遠藤三郎の元を訪れていた。遠藤はすでに米寿をむかえていたが、記憶はしっかりしていた。関東大震災の話題となると、遠藤は自分が「当時「第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・大尉として、東京・江東区警備の第一線にいたと語った」。

「大杉栄が殺されましたね」と著者が会話のつなぎのつもりで言うと、遠藤は「大杉どころじゃない。もっと大変な(虐殺)事件があったんだ」と言い出した。「オーキテンという支那人労働者の親玉を、私の部隊のヤツが殺ってしまった。朝鮮人とちがって、相手は外国人だから、国際問題になりそうなところを、ようやくのことで隠蔽したんだ」。

遠藤は『甘粕大尉』を書いた角田房子にもこの話をしたと言った。「オーキテン」なる人物が何者なのか知らなかった著者は調査を開始する。そしてわかったのは、『甘粕大尉』に記された遠藤の話を基にした記述には誤りが多数含まれていたことだった。角田の主眼は甘粕にあったので、遠藤が唐突に言い出した王希天事件についてはしっかり裏をとらなかったのだろう。

著者は調べたことを手に遠藤を再訪する。遠藤の証言が歴史的に極めて重要であり、『甘粕大尉』では角田が遠藤のミスリードをそのまま文章化してしまっていると指摘した。「頭脳明晰で知られる遠藤の表情が、引き締まっていくのが見てとれた」。

遠藤は自分も王について誤認していたことがあったのを認めた。王を社会主義者だと考えており、だからといって殺していいわけではないが、隠蔽にたずさわったことを深刻に反省したことがなかったのだと言う。そしてこう続けた。「実は惨殺した犯人も知っておる……おそらく、まだ生きておるだろう……うーん、田原さん、オレはいま心の整理がついた。これは、事実をきちんと書き残すべき(事件)だな。知っていることはすべて話すから、あなたも、もっと調べてほしい」。

「生き残りの元職業軍人から、戦前・戦中の証言を集めているジャーナリスト」、そう名乗って著者は垣内八洲夫を訪ねた。遠藤は姓しか覚えていなかったが、垣内にたどり着くのは難しくなかった。難病で寝たきりとなった妻の介護に追われている垣内は、困惑したような、おびえたような表情で著者を家に迎えた。

二日間、延べ六時間ほど話を聞いたところで、気心が通じたと感じた著者はついに本題を切り出した。「王希天という名の中国人留学生が殺されたことをおぼえておられますか」。
垣内は動揺し、ごまかすようなことを口にしたが、しばらくしてショック状態から抜けると、事件について話し始めた。著者には「彼が長年の心のつかえをおろす機会を得て、安堵感にひたり始めているようにさえ見えた」。

「あのね、私は後ろから一刀浴びせただけです。そのまま(隊に)帰りましたから、王希天が死んだかどうか確認はしとらんです」。
垣内は佐々木兵吉中隊長が「一人殺る」と言っていたので見に行っただけだ、「そのつもりだった……」と語った。

1923(大正12)年は3月に「普選法案否決」、6月に「第一次共産党員(根こそぎ)検挙」、9月に「大震災と引き続く不当弾圧・虐殺諸事件」、12月に「難波大助による摂政宮暗殺未遂事件(虎ノ門事件)」が起こる。
「こう並べたうえで、九月の虐殺諸事件のなかに、中国人虐殺が集中した大島町事件・王希天事件の二つを加えると、大正一二年の全体図が、より明確に浮かび上がってくるようだ」。こうして著者は遠藤の日誌や垣内の証言、さらに70年代以降新たに発見された資料を元に、王希天事件のさらなる調査を続ける。


1923年9月9日、王希天は周囲の制止を振り切って大島町へと向かった。すでに留学生仲間の王兆澄が朝鮮人と間違われて暴行を受けていた。「いま日本人はおかしくなっている。刺激すべきじゃない。もうちょっとほとぼりをさましてからでもいいじゃないか」。王希天の友人の中国人留学生はこの「冒険」をなんとかやめさせようとした。しかし王は、「共済会のことが心配だ。ちょっと行って見てくるよ」と言った。朝鮮人に加え、中国人も虐殺されているという噂が耳に入っていた。これが事実なら一刻も早く対策をとらねばならない、そのためには事実を確認しなくてはと考えたのであった。

王は親しく交際していた救世軍の指導者、山室軍平に身分証明書を書いてもらうことにした。王は高級靴や銀側の腕時計など裕福な「若い紳士の夏向きダテ姿」となり、早大生用のWと刻印されたバックルのバンドをして、まだ珍しかった「大塚一三三八」のナンバーの自転車に乗った。これなら自警団に目をつけられるリスクは低くなる。

山室もやはり王の計画に反対した。山室は王に、「アメリカの神学校に入って献身する決意をしているなら、なおさら、自分を大切になさい。万が一ということがある」と言った。「だが、キリストの教えに従う者として、同胞のためにあえて危険をおかそうとする若い同志の情熱は、よく理解できた」。翻意が難しいとわかると、山室は快く私製の身分証明書を書いてくれた。「これが通行証のかわりになると思うが、もし万一それでも怪しまれたときは、ここへ照会するように言いなさい。私か救世軍士官の誰かが必ず助けにいきます」。
これが山室が王に会った最後であった。


王については資料の不足から不詳な点も多いが、1915年頃に日本に留学生としてやって来たとみられる。日本滞在中だった周恩来とも交遊が生まれたようだ。周は74年に王を「革命烈士」にしている。「革命烈士の遺族には、国家的な優遇措置があり、事実、王振折一家の暮らしは、各段レベルアップした模様だ。/したがって、革命運動のなかで斃れたのではない王希天に革命烈士の称号が与えられたのは、周総理との在日時代の濃密な親友関係なしには考えられないような気がする」。

1917年に一高に入学。同級生によると王は「大きな鉱山主の子供」と名乗っており、実際かなりの仕送りを受けていたようだ。「本当は冶金学でもやらねばならないが、自分には向いていない」と言っていた。留学生であったので寮に入る必要はなかったが、王は寮生活を送る。「王の積極性・好奇心・日本語への自信(または習得意欲)・順応性を物語っていよう」。

「一高予科時代の王は、ブルジョワ育ちらしいおうようさと、熱心なクリスチャンぶりを友人の印象に残している」。同時に、寮生活において日本人の中国人に対する差別に直面することもあった。

他の中国人留学生と同様、王も政治に深い関心を寄せており、北京での五・四運動に「呼応して立ち上がった留学生間のリーダーの一人」になったが、親しい日本人の同級生にもこのことは話していなかった。
一高の同級生で後にメソジスト教会牧師になる酒井瞭吉は、王との別れの日に一高のグラウンドの芝に寝そべって別れを惜しんだ。この時王から「日本人は、もどかしい、もどかしい人種だね」と言われたことを覚えている。これは日本人一般に対してであるとともに、「政治オンチ」であった自分に対しての言葉であったのかもしれないと振り返っている。王がウィークデーもしょっちゅう酒井の父の教会に出入りしており、父からは「王君は立派だ、きっと中国を背負って立つ人間になるよ」と聞かされていた。王と父は「政治的なことも話し合っていたのかもしれ」ないが、「政治オンチ」であった息子はそのことをまるで知らなかった。

当然がら当局の関心も呼び、行動調査がなされていたが、名古屋の八高に移ったのを中国に帰国したと誤認していたように、王を極度に警戒していたというのではないだろう。王が危険視されるようになったのは、八高を事実上中退し、東京で僑日共済会を設立してからのようだ。

東京中華美以美(メソジスト)教会は東京教会牧師が帰国した後開店休業状態となっていた。留日中華YMCAの幹事でもあった王は、教会をYMCA内に移し、代理牧師となることで教会の再建を図った。警視庁は東京に戻った王が排日運動や左翼の「秘密結社」に出入りするようになったとマークするようになったが、極めて杜撰な調査によるものだったようだ。王は確かに社会主義運動家とも接触を持ったが、彼の政治的立場はキリスト教に基づく人道主義的社会主義といったもので、著者は日本でいえば加賀豊彦や阿部磯雄の考えに近かったのではないかとしている。


大島町は「豊富な水路を利して、はしけによる物資集散の一中心地になっていた」。1910年代前半は人手がいくらあっても足りないほどであったが、10年代後半に入ると「腕に職のない朝鮮人や中国人出稼ぎ労働者が、多数集中」するようになり、ダブつきはじめた。朝鮮人や中国人出稼ぎ労働者は日本人とは比べ物にならないほどの低賃金で仕事を引き受けたため、農村などからの日本人出稼ぎ労働者の恨みを買った。さらに第一次大戦後に景気が後退し始めると、その鬱憤を一手に背負わされることとなる。中国人労働者は劣悪な環境の木賃宿に集団で住まわされたが、これによって周囲の日本人からはさらに蔑視を浴び、不気味な集団と見なされるようになっていた。

日本政府はといえば、失業対策の名のもとに中国人労働者排斥に加担していく。中国人の居住・営業は許可制であったが明治以来事実上黙認されていた。しかし1919年からこれ次第に厳しく運用し始める。摘発者数は19年が323人、20年が438年であったのが、21年には1912人、震災の前年の22年には3703人が無許可営業で摘発されている。さらに22年からは「国外退去命令」も出されるようになる。同時期にアメリカ西海岸では「ほぼ同じ経済的理由で、排日気運がもり上がっていたが、米政府は「国外退去」などという政策までは打ち出してこなかった」。

こうした状況下に立ち上がったのが王希天であった。王は中華YMCA幹事、中華メソジスト教会代理牧師として福祉活動に力を注いでおり、「同胞が集中的に住み、働いている大島地区にセツルメントを作る」という構想を持った。「要注意」人物であった王の行動は警視庁に記録されていた。22年9月に大島にセツルメントを設立、翌年2月には大阪を訪れているが、これは大阪に支部を作るという構想もあったためのようだ。それだけ中国人からの支持を集めていたのだろう。

王は事業目的として、中国人労働者向けに「衛生状況を改善する」、「不正(法)行為を禁止、絶滅する」、「失業者や病災にあった者を扶助する」、「日本語習得、職業訓練、道徳教育などを行う」とし、外部に向けては「職業あっせん・照会に応ずる」、「会員の契約ごとを代行する」、「会員の一切の交渉ごとを代行する」、「会員の利益となる事業を行う」とした。

共済会にまず怒りをたぎらせたのが人夫差配人であった。「中国人労働者に「組織と指導者」ができたため、うまい汁を吸う余地が少なくなった」のであった。彼らは仕事にあぶれた日本人労働者が不平を言うと、「支那人が横取りするんだ。とくに共済会の王が悪いヤツだ」と吹き込んだ。

また亀戸署の特高、公安刑事は、大島町は労働者が急増している地域として目を光らせていたところに、渡辺政之輔による南葛労働協会の設立とほぼ同時期に共済会が設立されたため、これがより「過激」なものと映っていたのだろう。「共済会の事業目的にある「契約、交渉ごとの代行」は、日本でもようやく目立ちはじめた社会主義理論による労働組合の手法を連想させた。おまけに、王は〝仮想敵国〟支那の得体の知れぬインテリ」だと見えていた。

震災後、大島町では惨劇が起こる。おそらくは数百の中国人が殺害されたばかりでなく、中国人に宿所を提供していた日本人も殺された。「朝鮮人暴動」のデマに踊らされたばかりでなく、混乱に乗じて鬱憤をはらすために中国人労働者や彼らと関係があった日本人を狙って殺したことは明らかだろう。

さらに火に油を注いだのが亀戸署長の古森繁高であった。古森は「朝鮮人暴動」のデマが流れてくると、大量の身柄拘束を開始する。ピークであった4日には1300人以上を検束したが、これは署の収容可能人員を遥かに超えるもので、演武場、小使室、事務室まで仮留置場としなければならなかった。署員230人あまりでこれだけの人数を拘束したことは、署員に大きな心理的影響を与えたことだろう。
「若い兵士や警官が完全に興奮して「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と口走る姿が、後に報告されるほどだった」。

3日午後には「首都警備の頂点に立つ一人」であった第一師団司令官石光真臣が「鮮人ハ必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」という通達を出した。石光はこの混乱に乗ずる日本人に警戒せよとしたのだが、まさにこれを「悪用」したのが古森であった。亀戸署は3日午後に労働運動家の川合義虎、平沢計ら10人を、「理由も何もなく、狙い撃ちで検束」する。

4日夜、自警団員4人が逮捕された。通りかかった警官から検問をやめるよう勧告されると、怒って日本刀で斬りかかってきたのだった。「本人たちは官憲に協力しているつもりだから、不本意であったろう」。当人たちは不当逮捕であると信じているので、留置場で騒ぎ立てた。警察と軍隊への悪口を述べ、「さあ殺せ」とわめくと、古森はその言葉通り、この4人を刺殺させた。

これによって留置場内はさらに騒然とする。このころには「非日本人」の虐殺への反省も始まり、警視庁や戒厳司令部から視察官もやって来るようになった。古森の「失態」は明らかであり、これを告発するおそれのある川合や平沢らの存在は邪魔であった。5日午前3時、古森は川合ら10人を騎兵13連隊安東中尉に引き渡し、10人はそのまま殺された。亀戸事件の被害者の死体は、「こっそり大島町八丁目に運ばれ、多くの虐殺死体にまぎれて焼却された」。

この状況の中、亀戸署にやって来たのが王がだった。
王はまず共済会に行ったが、そこには誰もいなかった。虐殺の噂が事実であるか確かめようとしたのか、王は亀戸署に向かう。応対した刑事は「支鮮人は陸軍の習志野廠舎に保護のため送っている。軍隊に行って聞いてみろ」と言った。王は憲兵の臨時派出所に行くが、これは「飛んで火にいる夏の虫」であった。「法律に基づかなければ行動できない警察に比べ、自由裁量権は(戒厳令下にあるだけなおさら)大きかった。消えた中国人労働者の行方を尋ねる不審者として、あっという間に身柄を拘束された」。

遠藤三郎は、「この地区の警備部隊を統括する野重第三旅団司令部」で参謀格として多忙を極めていた。遠藤は野重第一連隊第三中隊長であるが、旅団長金子直が「陸大優等の遠藤を手元に置きたがった」。遠藤は5日以降「ほとんど中隊に帰らずに、司令部にはりついでいた」。

「朝鮮人・中国人殺害、自警団の行きすぎを未然に防ぐこと、戒厳司令部(本部)との連絡」が遠藤の参謀格としての仕事だった。6日に始まった「朝鮮・中国人保護収容のために習志野を開放すること、護送には総武線(現JR)列車に特別の車輌を連結することなどを提案し、段取りをつけたのは遠藤だった」。

遠藤のもとには「支那人がどうも言うことを聞かなくて困る。朝鮮人と一緒に扱うな、我々は外国人である、何を根拠に拘束するのか、どこへ護送するというのか、そこで何があるんだ――とうるさいったらないよ」といった苦情が寄せられていた。遠藤は「外国人は丁重に」と指示を出しつつ、この状況をどうしたらいいものかと考えた。そこに「華工の親玉を捕まえた」との情報が入る。遠藤は「身柄を拘束する必要はないぞ。敵の大将なら相応に扱え。そのかわり、護送事務を手伝ってもらうんだ」と命じた。

遠藤は王に、「安心して習志野へ行け」と中国文で説得ビラを作ってもらい、「本人には助手として自由に助言・説得をしてもら」おうと考えた。王は受領所で手伝っている時は「自由」になり、その後はまた「拘束」されるのを繰り返した。王はこの時いったいなにを考えていたのだろうか。著者は「彼の狙いは同胞大虐殺の真相をさぐることにあった。そのために時間をかせごうとしていたのではあるまいか」と推測している。

実はこのころ、王希天を探しに危険をおかして王兆澄が亀戸にやってきていた。王兆澄はたらいまわしにされたあげく警官からは王希天は習志野に行ったのではないかとすっとぼけられ帰されるのだが、目と鼻の先に王希天はいたのであった。二人は二度と顔を合わせることはなかった。

11日には王も習志野に同行する様子であったが、調べたいことがあるので千葉には行かないと申し出ると、これがなぜか認めら、釈放されたかのようであった。この前日、王の処遇をめぐって戒厳司令部では議論が起こっていた。処刑を主張する声に、参謀長阿部信行は遠藤に策を丸投げした。遠藤は王を習志野に送るのが妥当とし、これが了承されていた。

釈放されたかに見えた王だが、すぐに亀戸署に再び身柄を拘束される。この間の経緯は不明な点が多いが、これは後に隠蔽工作が行われたせいもあろう。亀戸署の刑事の中にはもともと王に対して敵愾心を向ける者が多かった。そして警察も軍も司法手続きもなく日本人を刺殺した亀戸事件の露見をおそれ、これについて王が何かを掴んでいるのかもしれないと恐れた。何よりも、社会主義者、そして中国人への危険視と蔑視が蔓延していた。警察も軍も、王を殺害する動機を持っていたのであった。

周敏書は11日午後に三河島の友人の安否を尋ねに大島にやってきて検束されていた。12日午前3時ごろ、周は「押し殺したような叱咤の声と、それに反抗するような哀願するような若い男の声で、目をさました」。
「そんなにしばらなくても……、い、いたい。兵隊さん、逃げませんから、しばるのはやめて下さい」。その声の主は「王希天にまちがいなかった」。

習志野に収容した中国人が騒いで困っている、それをしずめてもらうために習志野に行ってくれということのようだが、周は留置場に入れられている自分がいましめを解かれているにも関わらず、協力を要請されている王がしばりあげられるとはどういうことかといぶかったが、彼にはどうすることもできなかった。

亀戸署の所長室では、当直主任と王を連行するためにきた下士官との間で、受領証をめぐってのやりとりがあった。受領証の署名は旅団長の金子のものではなかった。下士官は「出してしまえば警察には何の責任もありません」と言った。緊急に受領の必要が生じたので、佐々木中隊長がいまさっきこれを書いたのだと言うと、当直主任は声を出さずに笑った。

この前日の11日午後、第七連隊長中岡弥高と第六中隊長佐々木平吉が野重砲第三司令部に現れていた。「中岡は旅団内で、朝鮮人、中国人を保護検束する仕事の責任者」だった。陸大卒でフランス留学経験もあるエリートである中岡の「旅団内での発言権は、温厚型の金子をしのぐほどであった」。

「これは無罪放免とはいきませんよ」、中岡は古森から王の調書を新たに入手したと言い出した。王は「相当の大物」であり、YMCAやメソジストを通じてアメリカのスパイとも接触していると主張した。「こういう過激思想の持主を野放しにしていては、軍の引き揚げたあとは、どうなるか心配です」。そして中岡は「我が旅団の責任において処断すべきです。皇都の治安を守るためにも、禍根を絶っておくべきです」と続けた。

金子は王の処置は遠藤がもう決めており、参謀長の了承も得ているとした。中岡はそれでも折れず、警察はわれわれが調書をどういう目的で要求したかはわかっている、「いまさら習志野送りにしたら、腰抜けと思われる。支那過激思想団の禍根を一気に絶つ好機ではありませんか」と言った。そして佐々木が王の身柄は自分の隊が拘留していると言うと、中岡は一任を求めた。金子ははっきりとした言質は与えなかったが、事実上命令を撤回したも同然であった。

10日に佐々木は中岡に呼び出され、「王処刑の企図を打ち明けられ」ていた。「佐々木は必ずしも、王処刑に乗りきではなかった。九日からわずか数日間のつきあいではあったが、いかにも育ちのよさそうな、明朗な性格と、受領事務を手伝ったさいのテキパキした働きぶりに好感さえ抱いていた。だが、一方では、若い軍人としての功名心も十分に持ち合わせていた」。

中岡は佐々木に、「遠藤がお先走って、戒厳令に飛んでい」って王の身柄を守ろうとしているが、そうはさせないと言った。王は五・四運動以来の闘士であり、秘密党員かもしれない、アメリカとも連絡のある得体の知れない奴だと吹き込んだ。

「あいつをやれば、手柄だぞ」と言われた佐々木は、「遠藤」という名前とともにこれに反応した。遠藤は陸軍幼年学校では佐々木の一年後輩で、かつては制裁を加えたこともあった。「しかし遠藤は幼陸、陸士、砲工学校とすべて主席を通し、陸大でも恩賜の軍刀(成績六位まで)をもら」っていた。一方佐々木の成績は平凡なものだった。時は流れ二人は同じ連隊に属するが、同じ大尉といっても周囲の扱いはまるで違っていた。遠藤が泥まみれの第一線から早々と引き揚げられ旅団長の知恵袋の役を果たしているというのに、佐々木は来る日も来る日も炎天下で「支鮮人の受領、護送」を行っていた。

遠藤への嫉妬心に加え、中岡は必ず師団長になる人物だ、「この人に認められるのは悪くないとの計算も働かせた」。では誰にやらせようか。佐々木の心を見透かすように、中岡は言った。「心配するな佐々木クン。王をやりたがっているヤツははいて捨てるほどいる。金鵄勲章だといえば、みんな喜んでやりたがる」。

中岡には意中の人物がいた。垣内八洲夫は素直な明るい性格の若い将校で、中岡ら旅団の先輩から可愛がられていた。垣内は砲兵科将校としては可もなく不可もなくといったところだが、剣術の腕は旅団随一であった。大震災発生のとき休暇をとっていた垣内は、最繁忙期に隊に戻ることができなかった。帰隊してみると、同年配の下士官クラスが「鮮人を何人斬った、支那人を殲滅した」などと自慢しあっていた。親しくしていた岩波清貞少尉の手柄話には、「心からの羨望を禁じ得なかった」。岩波は「三日昼、大島で二〇〇人やった」と吹聴し、彼には金鵄勲章が出るようだと噂された。垣内は「こんど「支鮮人」を鎮圧すべき事態が発生したら、ぜひ自分を隊長に指名してほしい」と中岡ら上官に頼みこんでいた。

佐々木中隊が「支那人」を一人やるそうだ、大物だから何があるかわからん、中隊では腕の立つヤツに声をかけているらしい、中岡の意を受けたものがそれとなく垣内に伝えた。垣内は「自分に声のかかったことがうれしかった」。
「「処刑」される「支那人」が何者で、どういう罪によるのか考えようともしなかった。いったん床についたが、興奮でまんじりともしなかった。午前二時には、旅団司令部の仮眠所を置きだして、徒歩で逆井橋へ向かった」。
垣内が「現場」に着くと、佐々木中隊の兵卒から「間もなく来るはずです。こちらで隠れてお待ちください」と言われた。

佐々木は亀戸署に近い路上で王を待っていた。「この夜は新月であった。日の出まで地上の出来事を照らすのは、かすかな星の光だけであった。公明正大に行えないことを実行するのにふさわしく、人が通る恐れのない時間。それがこの時間帯であった」。

佐々木は王に、緊急の連絡が入り習志野に行くことになった、小松川まで行けば車があると言った。「王を先に歩かせ、自分は後からついていった」。十分ほどで逆井橋にさしかかると、王を後ろでに縛った綱を持つ兵士は、それを引っ張り王に土手に降りるよう言った。一行は垣内が待機しているコンクリート柱へと近づいていく。「ちょっと一服しよう」と佐々木は王に言った。「王はコンクリート柱に背を向け、佐々木に対面する形で立った。この瞬間、垣内が音もなく現れて、すでに抜き放っていた日本刀で後ろから斬りかけた。王は首から背中にかけて大きく切り裂かれ、ゆっくり崩れるようにうつ伏せの姿勢に倒れた。さすがというか、即死であった。垣内は、眼だけで佐々木に合図して、黙って立ち去った」。

王の死体をどう処理したのか、遠藤は佐々木らが「身元がわからぬよう処理して中川に投げ込んだ」と記憶している。


……これでまだ本書の半分ほど。この後さらにおぞましい事態が続くことになるが、長くなったのでその2に続く。



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