『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その2

田原洋著 『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』




その1の続き。


王希天殺害の前日、遠藤三郎は久しぶりに国府台の連隊本部に戻り、配下の下士・兵と交歓していた。「部下たちは一週間ぶりに会う遠藤中隊長を大歓迎してくれたので、遠藤はいい気持ちになり、夜遅くまで国府台で過ごした」。

明け方近くに馬で亀戸に戻ると、遠藤は当番将校から王希天殺害を知らされ、「とび上がらんばかりに驚いた」。
「遠藤はどんなに疲れていても、その日のうちに日誌をつける習慣だった」。保存されている日誌を見ると、9月11日の日誌にはスミで消されている部分があり、その横に赤インクで「王奇天」と書き込みがしてある。
遠藤はスミを入れたのは10月3日だったろうと振り返っている。消された部分に「王希天と佐々木、垣内らのことを書いたのは間違いない」としている。北京政府に凶行が露見し、憲兵が連隊に捜索に来るのを警戒してのことだった。インクの文字は遠藤が戦後になって著作のために日誌を読み返したさいに備忘として書き入れたものだった。

明け方近くに王希天殺害を知ると、遠藤は「一眠りしただけで、とび起きて事情聴取と、善後策協議、戒厳司令部への報告づくりに追われた。自慢顔で「王希天成敗」を報告する佐々木、垣内らを、思わず遠藤は怒鳴りつけた」。

旅団の幹部会報では、遠藤は命令違反を血相を変えて追及した。しかし金子は「やれとは言ったが、殺せとは言っていない」と逃げをうち、佐々木、垣内らは金子、中岡ら上官の命令でやったと主張。中岡は第七連隊長である自分が所属する隊の違う「佐々木、垣内に命令する立場にないとシラを切った」。

「客観的、法理論的にいえば、これは立派な国際刑事事件であった。刑事事件の犯人を軍がかくまうわけにはいかない」。
しかし組織の理論ではそうはいかなかった。「幹部将校たちは、旅団の若い将校・下士・兵卒がとてつもない多数の朝鮮人・中国人を殺したことを知っていた」。しかも、やったのはウチだけではないという意識もあった。騎兵には「足」があったので「思う存分暴れたはずだ」。王を殺害した佐々木と垣内を自首させて他を不問にするのは不公平だ。さらに佐々木らを裁こうとすれば上に類が及ぶことになるかもしれない。「ほおかむりするのが最上策だ」という流れができあがった。

苦力と違って王の殺害は必ず国際問題になるだろう、徹底した緘口令をしかなければならない、隠蔽はかえって問題を大きくするかもしれない、それでも、「当旅団の意見は、すべての事件について徹底的に隠蔽する、どういう事態があっても部内から刑事犯人は出させない」、それでいいのですねと遠藤は念を押した。

二日前に命を救おうとした中国人が殺されると、遠藤は今度はその殺害犯を救うために奔走することになる。司令部に行くと参謀たちは遠藤を冷ややかに迎えた。処罰論に傾いたが、遠藤に同情的だったのが参謀長阿部に続く高級参謀武田額三だった。「貴様の策を述べてみよ。大切な陛下の赤子を犯罪人にしないですむ方法があるなら、それでいこうじゃないか」。

遠藤は日誌に武田を「流石ニ武士的ナリ」と書いている。不法行為に裁きを加えよという意見に対し、隠蔽工作がうまくいくのならそちらでいいではないかと人物を「武士的」だと感じたのが、この当時の遠藤であった。
60年後にこの日のことを振り返り、遠藤は同僚や後輩が罪に問われ、自分の属した部隊が汚名にまみれるのを防ぎたかった、社会主義者や中国人を蔑む意識があり、同僚を救うほうが正しい選択だと錯覚した、それができるのは自分だという自負があり、国際問題に発展するかもしれない火中の栗を拾うのには覚悟がいったとする。
「だが、非を認めるときに認めない、謝罪すべきときにそうしない(とくに中国をはじめとするアジア諸民族とその主権侵害に関して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になったといえるだろう。軍隊の独善の論理に、すっかり染まっていたんだなあ」と述懐している。

9月18日に「大杉夫妻行方不明、憲兵が連行」という特ダネが報知新聞に掲載される。16日にすでに大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥っ子の橘宗一は殺害されていた。メディアは軍法会議で初公判が行われた10月8日以降、判決の出るまで2か月に渡ってセンセーショナルに報じるが、全体として甘粕に同情的であった。この一件が話題を集めることは当局にとって望むところでもあった。亀戸事件の報道解禁が10月10日、朝鮮人虐殺報道の解禁は同月20日であったが、このインパクトは弱められた。王希天の「行方不明」も17日から20日にかけて報道されたが、殺害をにおわすような記述は厳重にチェックされ排除されたので、関係者以外にはすぐに忘れられた。

著者は、有名人であった大杉らの殺害は隠蔽が不可能であったため、これを先手を打って発表し、「陸軍は「非は非」と厳正さを保持していると宣伝」し、それによって虐殺事件から目をそらせようとしたのではないかと推測している。本書では触れられていないが、甘粕らに対して形ばかりとは言え「迅速」な裁判が行われた背景には、橘宗一がアメリカ生まれでアメリカ国籍を持っていたことから、これを隠蔽しようとして外交問題に発展することをおそれたというのも要因として考えられよう。

隠蔽を図った王希天事件は遠藤の予想通り外交問題に発展する。「日韓併合」により韓国を植民地化したことで、朝鮮人虐殺は日本の「国内問題」だと突っぱねることができた。それに対し、王は中国籍を持った外国人であった。中国では21か条要求以降、王も呼応した五・四運動が起こるなど排日気運が高まっていた。しかし大震災発生の報を受けると、同情が広がり、中国各地では募金が行われていた。

9月15日に、日本政府は罹災した中国人の無料送還を開始していた。旅費を無料にしたうえに、見舞金まで支給した。日本政府は中国人から同胞が殺されたのではないかという問い合わせが殺到したことに音を上げており、虐殺を恐れる中国人にとっても渡りに船であった。日本政府のこの対応は中国国内でも好意的に受け止められてた。排日運動は中休みとなり、「日災救済」が合言葉となるが、これも日本から帰国した人々から虐殺の事実が語られるまでのことであった。

王兆澄は王希天を探し続けていた。しかし大島町にも習志野にも王希天はいない。警察も知らぬ存ぜぬを通す。9月下旬には自分に尾行がついていることに気付いた。身の危険も感じるようになり、中国に帰国して世論に訴えるために帰国を決める。官憲の目をかいくぐり帰国した王兆澄は、日本で吹き荒れた虐殺の実態を明らかにした。

前述したように、10月3日に遠藤は日誌にスミをいれている。この日遠藤は武田から呼び出された。警察から証拠がそろいすぎている王希天殺しを放置するわけにはいかない、中国が問題にする前に処理すべきだと言われたというのだった。遠藤が佐々木と垣内を差し出すのかと問うと、今さらそうするわけにもいかない、これを認めるとこの一件のみならず責任追及がどこまで広がるかわからないと武田は言った。「熱心にかぎまわっていた支那人留学生(王兆澄)の尾行に失敗して、行方をくらまされたらしい。そいつに帰国されたら、相当のことは暴かれると見なければならん。それに先手を打とうというんだ。それにしても警察の失敗はまずかったな」。

遠藤は警視庁に向かい、ある男と対面する。正力松太郎だった。正力は佐々木が書いた受領証や王の自転車をすでに押さえてあると言った。王の自転車を「戦利品」と称して使っているなど、軍の犯行は杜撰であちこちに証拠を残しまくっていた。しかし正力は、「あなた(軍)のほうで行方不明と主張されるかぎり、こちらがどうこうするつもりはありません」と、「予想外に〝話のわかる〟態度であった」。
「朝鮮人暴動」のデマを拡散した張本人の一人である正力は、王希天事件の真相を知りながら隠蔽に加担した人物でもあった。

警視庁の行った隠蔽工作にはこんなものがある。「目撃者が多すぎるというなら、彼らを黙らせる方法がある」。警視庁は刑事を派遣し、中国人殺しの捜査を開始する。知っていることは何でも教えてくれと聞き込みを開始した。すると「オレは何人殺った」「いや、オレのほうがたくさん殺った」と自慢しあっていた人々が、途端に口をつぐみはじめた。自分や知人が訴追されるのをおそれ、「聞き込みが真剣味をおびればいびるほど人々はしゃべらなくなった」。

10月5日には陸軍は王希天事件について最終態度を決めるため、佐々木を法務部に呼び出した。しかし金子は佐々木ではボロがでかねないと、遠藤に付き添いをさせ、事件の調査をした遠藤が細部を答えるという作戦をとった。事情聴取の前には、参謀長阿部が直々に二人に念を押した。
戦争末期に航空兵器総局長として遠藤がラジオに登場すると、佐々木は「遠藤さんにはお世話になった。生命の恩人だよ」と語っていたと、佐々木の子どもは記憶している。それはこのときのことを指すのだろう。

10月中旬には中国の世論は沸騰していた。日本の警察が証拠がありすぎるとしたように、北京政府も早い段階で佐々木の名をつかんでいた。しかし北京政府は様々な弱みを抱えていた。公使館と留学生たちは反目しあっており、留学生のリーダー的存在であった王希天は駐日公使から憎しみを買っていた。また北京政府は中央政権という体をなしておらず、財政難に苦しんでもいた。日本語と英語に堪能な外交官、政治家の王正延を団長とする調査団を派遣するが、随員は経済実務者が多かった。王正延には様々な借款や資金誘致の申し入れという裏の目的があった。「王正延は、虐殺真相追求より、各種借金交渉でペコペコ頭を下げるつもりだった」。

虎ノ門事件で山本内閣が倒れるなど、日本側の政治も混乱していた。23年5月10日の選挙では「護憲三派」の勝利によって政権交代が確実になったが、「死に体」となった清浦内閣は退陣を10日後に控えた27日に、「支那人傷害事件慰謝金支出」を閣議決定する。前内閣からの引き継ぎを4か月以上放置したあげくなぜこのタイミングであったのは不明である。23年6月には「日本商船の荷役仕事などに従事しようとしていた中国人労働者を、日貨ボイコット・旅大回収のスローガンを掲げたデモ隊が阻止したことに端を発する」、「長沙事件」が起こった。日本は強硬な姿勢を譲らず、北京政府もデモを苦々しく思いつつも主権侵害に抗議を続けた。日本側には「日災」と「長沙」との「相殺」論が唱えられ、北京政府も「コブシのおろしどき」を考えた。しかし、中国の政情はさらに不安定化していき、北京政府の正当性が急速に失われていく。クーデターを敢行した直隷派が日本の支援を仰ぐなど混迷が続くなかで、「長沙事件も震災被害賠償問題もうやむやのうちに、歴史の袋小路に入ってしまった」。
こうして王は「行方不明」とされたまま、王希天事件は闇へと葬られてしまった。


これだけ証拠や目撃証言が残っているのだから、もちろん軍や警察関係者以外にも王希天事件の真相に近づいていた人はいた。23年11月7日の読売新聞朝刊は、鉛版を削り取るという荒っぽい方法で一部が白紙になっていた。この部分は小村俊三郎が、「期するところあって、ある〝過激な〟記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って「鉛版」をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった」ということだったのではないかと著者は推測している。しかしかすかに、「王希天」という文字が読み取れる。小村は記事は削除されてもその内容が読者に見当がつくように、「ここだけ削り残してくれ」と耳打ちしたのかもしれない。この7日には、ついに王希天事件隠蔽が閣議決定されるが、これは少部数ながら小村の記事が流通してしまったことが影響したようだ。

小村は北京留学経験もあり、外務省で一等通訳官まで務めた後に退官、ジャーナリズムの世界に入っていた。当時の読売は「硬派路線」であったが部数は低迷、年が明けて24年となると経営危機が表面化した。財界や後藤新平から70万円の軍資金を託されそこに乗り込んできたのが、前年12月の虎の門事件によって警視庁を懲戒免職になっていた正力であった。「反政府的な『読売』の論調を支えてきた名物記者の何人かが、「この前まで検閲の元締めだった男の下では働けないといって辞表を出した。小村俊三郎がその中にいたのは、いうまでもない」。

同時に小村には限界もあった。記事を削除された直後の11月半ば、中国から事件の調査も兼ねた民間使節団が、外務省職員や亀戸署員同行のもと大島町で調査を行い、そこに小村も参加した。ここで小村は真相に接近するある証言を得ていた可能性があるが、それを中国人調査団に伝えることなく、また表にしたり書き残すこともなかった。外務省出身である小村にはやはり「国益優先」の発想が身についていたためだったのかもしれない。

陸奥宗光の息子陸奥広吉は駐英公使も務めた外交官だった。彼は無宗教であったが救世軍に好意的で、寄付や援助を行っており、その縁で王のアメリカ留学の相談にも乗っていた。12月20日に救世軍によって行われた王の追悼式に出席、英語でつけていた日記に「the funeral service of O-Ki-Ten alleged to be killed on sept. 12th last.」とある。

第二次大戦敗戦後、軍や官僚は「戦争犯罪摘発の資料となる文書や、国益を損なう恐れのある文書」を大量に焼却したが、それを逃れ、アメリカが回収し保存していた資料に「大島町事件其ノ外支那人殺傷事件」がある。著者は、これは事件当時亜細亜一課長であった守島伍郎の個人用ファイルであったのではないかと推測している。守島は「事件の性格から見て、「真相」そのものを書き残すことはできなかった。しかし、何かに備えて個人的なファイルをまとめていたのではないだろうか」。守島は戦後自由党の国会議員を務めたが、「オレは社会党から出てもおかしくない」とも言っていたそうだ。晩年は東南アジアからの留学生用に建てられた善隣学生会館理事長を務めた。

このように王希天事件に心を痛めたり、あるいは関心を持っていた日本人は官僚を含めていたし、その人たちは王が行方不明になったのではなく殺されたのだとわかっていたのだろう。しかし、戦後になっても王希天事件が長く忘却されたままであったというのは、そのような当時としては比較的良識的であった人々の限界を示すようでもある。

一高で王と同級生だった、最高裁判事も務めることになる横田正俊は1971年に同窓会誌に寄せた文章の中で、王が「朝鮮人と間違えられて殺されるという悲運にまであわれた」としてる。まだ王希天事件の真相が明らかとなる前だが、横田は王が行方不明になったのではなく殺されたのだと考えていた。しかし「朝鮮人と間違えられ」たせいだというのは誤りであり、横田のような立場にいた人ですら、真相からは遠かったのでもある。

著者が王の八高時代の同級生に取材を試みると、「中国人留学生が殺されたことを、いまごろ暴きたてて、いったい何になる。キミはどんな利益を得るのか」と言い放った「元秀才」もいたそうだ。

亀戸署の跡地には雑居ビルが建ち、「この地区を管轄する城東署幹部」は、「亀戸署跡を即答できなかった」。虐殺が行われた現場は高層住宅群になっているが、ここの住民で、この場所で惨劇が繰り広げられたことをどれだけの人が知っていたのだろうか。戦後日本社会が忘却の上に築かれたことは、ここにも表れている。


王希点事件隠蔽の「実質責任者」であった阿部信行はその後大将に昇進、36年に予備役に入る。39年に首相になるがわずか5カ月で退陣。「陸軍内人事争いの〝リング外〟にいる無色透明派だったためで」、首相の「器ではな」かった。

亀戸署長・古森繁高はその後も複数の警察署で署長を務める。「たたき上げでは異例の出世」だった。32年に退官後の消息は不明。

遠藤に助け舟を出す形で隠蔽を決定づけた武田額三は参謀本部欧米課長を経て仏大使館付き武官となるが28年にパリで客死、死後に少将に任ぜられる。

その武田の後任の仏大使館付武官となったのが中岡弥高だった。中岡は32年に中将になり、砲工学校長などを務め、35年に予備役に入る。

武田の客死から中岡着任までの空白期間を埋めたのが、フランス陸軍大学に留学中だった遠藤三郎であった。ちょうどこの時期、甘粕正彦は刑期を大幅に短縮され出所し、軍の金で夫婦でフランスに滞在していた。「遠藤は、フランス語のできない甘粕のために国内やスペイン旅行のお伴をしたという」。

遠藤は「旧陸軍有数のエリート軍人」であったが、戦後は「軍備亡国論者・世界連邦主義者」となった。自ら口を開いたということは王希天事件にひっかかりを持ち続けてはいたのだろうが、同時にその遠藤ですら戦後も真相を打ちあけようとも究明しようともしなかったことに、この事件を日本人がどう受け止めたのかが見えてくるようでもある。

佐々木平吉は35年に自らの意志で軍を辞した。「「中国に勝てるわけがない。日本人はバカだ」「イバッったやつは嫌い」といい、太平洋戦争中に家族の前で作戦批判もした。内向的平和主義者になっていた形跡がある」。
佐々木は40年に応召、中佐として兵器行政部に勤務した。43年に、首相東条英機とともに読売新聞社長正力松太郎が、読売新聞主催の「昭和軍刀展」に現れた。この展示会の担当者は佐々木で、東条、正力と一枚の写真におさまっている。この時いったい何を考えていたのだろうか。佐々木は48年に病死。「病床ではなぜか、ラジオの中国語・英語講座を聴いていたという」。

垣内八洲夫は30年には台湾・基隆重砲大隊で「霧社事件」討伐隊に加わっている。「日中戦争では満州・阿城に出陣、四三年八月から敗戦まで津島要塞司令官(大佐)であった。冬の寒さがこたえるくらいで、敵が攻めてくる心配はまずなかった。戦後は、農地解放で多くを献上したといっても、残された農地や山林からの収入があり、生活に困ったことはない」。

「垣内の本家筋は一四世紀まで祖先をたどり得る名門であり、この姻戚に連なる有吉佐和子が書いた小説『助左衛門四代記』は、垣内八洲夫にとっても共通の先祖物語である。/地方豪族家に生まれ、疑問を持たず軍人となり、明朗で剣術好きな青年将校がどうして、命令もされないのに王を斬る〝役〟を引き受けたのであろうか」。


要約というにはあまりに長くダラダラと書いてしまったが、それは王希天事件から学ぶべきことが、今だからこそたくさんあるように思えてしまったからだ。まず第一に、近年日本では、日本人の手によって行われた過去の蛮行の忘却への欲求が高まっているというのがある。そして、王希天殺害前後の状況を見ると、現在に生きるわれわれとこれは無縁の出来事なのであろうかという問いを避けることはできなくなる。

人手不足の折には安価に使い倒せる労働力として外国人労働者に頼りながら、景気が後退するとあの手この手で追い出そうとするばかりか、それを正当化するために差別感情を煽るというのは、現在でも世界の多くで見られることであり、無論日本も例外ではない。

当時の中国人労働者が飲酒や賭博等によってトラブルを起こしがちであったことは確かであり、王はその点でも啓発事業を行おうとしていた。しかし考えてみれば、言葉も通じず文化も違う異国の地で低賃金で働かされていて、たまの休みにいったい何ができるだろうか。そのような想像力も持たずに、中国語で会話を交わし集団生活を送る中国人労働者を「不気味」な存在だと見なしていたのだが、その裏に人夫差配人が自らに類が及ばないよう差別心を煽ることで労働者同士を反目させていたことも重要だ。

アメリカ西海岸では、中国人労働者を排斥したもののやはり安価な労働力が欲しいということで日本人労働者を受けれたが、日本人移民は英語を覚えようとせず日本人同士で固まり、日本での生活習慣に固執しているとして非難されていた。それでいて、二世三世が同化しようとしたで、アジア人がアメリカ人になることはできないとされてしまう。そして長年に渡ってふりまかれた偏見によって、日米戦が始まると日系人強制収容所がつくられることとなる。

ストロベリー・デイズ』(デヴィッド・A・ナイワート著)にあるように、日本人移民、日系人への批判は利害関係者から意図的に広められていたものもある。日本やアメリカに限らずどの社会においても、移民労働者への偏見の蔓延は「自然発生的」なものでもあるが、また私欲に眼がくらんだり、自己保身から人為的に広められるということもおさえておかなくてはならない。

「普通」のドイツ人が虐殺の実行者となったメカニズムを描いたのが『普通の人びと』(クリストファー・ブラウニング著)である。ここで少数ながら存在していた、虐殺を命じられながらそれを拒否した人の特徴として、「出世への関心の欠如」があげられていた。つまり、言葉を変えると、人は出世欲によって残虐行為を行い、それを正当化するということだ。

垣内は震災時に休暇をとっていたことから出遅れたとあせりを感じていた。これを取り返すにはどうしたらいいのかを考え、自らが「討伐隊」を率いれるようアピールをしていた。垣内のとった行動は、彼の中にあった朝鮮人、中国人への蔑視もさることながら、出世欲なくしては考えられないだろう。

自らの命令が守られれず王が殺害されたことを知って泡を食った遠藤は、これが国際問題に発展することを正しく見抜き、激怒した。しかしその遠藤も、隠蔽の方針が決まるとこれに抗することなく、渋々どころか「自負心」を持って積極的に加担した。これもやはり出世欲のなせる業であろうし、垣内も遠藤もその後順調に出世していった。

では参謀からすでに了承を得ていた命令を破った中岡はどうだったのだろうか。彼は出世など眼中になかったのか。『複合戦争と総力戦の断層』(山室信一著)を読むと、違法行為や上官の命令を無視してでも既成事実を作り上げればあとはどうにでもなるし、それはむしろ後に評価されるはずだという日本軍の体質はすでに第一次大戦時に見られたという。張作霖殺害事件、柳条湖事件などはまさにこの軍内部の「下剋上」の空気なくしては起こりえなかったし、日本はこれにより泥沼の日中戦争に進んでいく。

中岡の取った行動はまさにこの軍の体質を表すものであった。陸大卒のエリートである中岡にはこれが軍の命令違反であり、法的にも問題になるということくらい重々わかっていただろう。それでも「大物」である王を殺せば、後に評価されると考えたのだろう。そして金子を抑え込む決定打として使ったのが、警察から弱腰と見られていいのかという恫喝であった。中岡は王を殺害するために、おそらくは虚偽の調書を古森から出させた。古森の側では当然軍が王を殺す気だというのがわかっただろう。今さら引き返せるかと金子に迫ったのであった。

このように日本以外の国で起こった蛮行との類似点も多数あるが、また日本独特のメカニズムも働いていた。
日本軍には、一方で出世欲から適法であるか否かよりも上の決定に従うことが重視され、他方でこれと矛盾するようだが、やはり出世欲とセクト主義から違法であろうが国際問題を引き起こそうが結果としてうまくいくのなら上官の命令に背いても構わないという体質にも染まっていた。東条英機は軍人というより官僚的人間であったと評されるが、官僚全般にもこのような空気は存在していたのだろう。そして現在も日本の官僚がこのような体質と無縁であるとは思えないし、官僚のみならず日本社会全体が同様であるとしていいだろう。
100年近く前にこの蛮行を引き起こした日本社会は果たしてその後変わったのだろうか、改めてそう問いかけざるをえないのが、日本社会の現状なのである。


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佐藤太郎(仮)

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