『サブミッション』

エイミー・ウォルドマン著 『サブミッション』





会議は紛糾していた。投票をしても規定数まで達せず、また話し合い。そして投票を繰り返していた。グラウンド・ゼロに建てるモニュメントは一般公募され、二作品まで絞られている。彫刻家のアリアナが「虚空」案を押すのに対し、遺族代表として選考委員になっているクレアは「庭園」案を主張し、両者譲らなかった。それでも、なんとか「庭園」案にまとまる。公平のため候補作の作者は完全に匿名とされていた。「庭園」案の作者の名前がわかると、委員会のメンバーは凍り付いた。モハマド・カーン。典型的なイスラム教徒の名前だった。表に出る前に差し替えようとする動きに敢然と立ちはだかったのがクレアであったが……


クレアが十代半ばの時、父は借金を残して亡くなった。彼女はこれに発奮して勉強に身を入れ、アイヴィーリーグの大学に進み弁護士となる。クレアは富裕な名門一族出身のキャルと出会う。彼は元芸術家志望で、その道を諦めた後も芸術品蒐集に余念がなかった。キャルはかつてクラブの人種差別に抗議してそこを退会したり、慈善団体に多額の寄付を行うなど、リベラルな政治観の持主でもあった。しかしクレアが妊娠すると、キャルは彼女が専業主婦となることを強く望む。クレアは弁護士としてのキャリアを諦め、自分が家庭に縛りつけられることにフラストレーションを抱えていた。そんな時に9・11が起こり、キャルを失う。

モハマドはアメリカ生まれのアメリカ育ち。インドからの移民である両親は名前の通りイスラム教徒であるが、彼は世俗的に育ち、酒も飲めば豚肉も口にしていた。名門大学を卒業し優秀な建築家となるが、9・11の直後、名前のみを理由に空港で執拗な嫌がらせを受けるなどして、次第に心境に変化が生じてくる。

ショーンは道を踏み誤り、家族からも疎んじられていた。消防士であった兄が9・11で死亡すると、その遺族会の活動を通じてクレアと知り合い、彼女に強引にキスをするなど思いを寄せていた。モハメドの名を知ると、反イスラム団体と手を組んで「庭園」反対運動にのめり込んでいく。

ポールは成功した元銀行家。リベラル寄りではあるが、ゲイである息子の生き方にとまどいを感じるなど、社会の移り変わりにはなじめないところもあった。名誉職のつもりで選考委員長を引き受けたがこの騒動に直面し、穏便に事をすませようとしてかえって火に油を注いでしまう。

ポールを選考委員長に指名したのは、かねてより彼の支援を受けていたニューヨーク州知事のジェラルディンだった。彼女は民主党員でありながら平気で右に飛ぶこともできる政治家だ。ピンチとなりそうなこの事態を受け、むしろこれを奇貨として女性初の大統領にのし上がるのに利用しようと考える。

アリッサは野心的なジャーナリストであるが、自分がニューヨーク・タイムズのような一流紙の記者になれるようなタイプではないこともわかっている。「庭園」案の情報を掴むと、当事者たちの感情を踏みにじるような取材を行い、煽情的な記事を書き立て、この騒動を拡大させていく。

アスマの夫はバングラデシュで大学を卒業していたが、そこではまともな職は見つからず、二人でアメリカに来ていた。夫は清掃の仕事に就いていたが、9・11によって死亡する。ここでアスマはジレンマにかられる。二人は不法移民だった。犠牲者として名乗り出れば強制送還されるかもしれない。アメリカで生まれた子どもはアメリカ国籍を得ていたが、自分は送還されれば二度とアメリカには行けないかもしれない。結局約百万ドルの補償金を受け取ることができたが、アスマはこの金のことが知られれば様々なトラブルに巻き込まれるかもしれないと考え、じっと身を潜めてアメリカで引き続き生きていくことにする。しかしモハマドへの仕打ちを見て、憤りをつのらせていく。


このように主要登場人物を見ていくと、少々ステレオタイプ的な印象を受けてしまうだろう。クレアに代表されるように、この小説に登場するリベラルは富裕層(それもかなり度外れの)のみである。一方ショーンのように、保守派はブルーカラーの非インテリで、階級的にはロウワーミドルかそれより下の存在として登場する。

リベラル派はクレアの矛盾を含めた揺れ動く感情を汲み取ることができず、「正しさ」にのみ捉われ彼女を追い詰めていく。このあたりは保守派による戯画化されたリベラル像であろう。ショーンが手を組む反イスラム団代の中年女性は、イスラム教徒を挑発するためにシースルーのブルカの下にビキニを来た写真をブログにアップするなど、承認欲求を肥大化させた下品な人物で、しかも大義を名目にして集めた支援金を子どもの学費などに流用しようとする。このあたりはリベラルがイメージするところの戯画化された保守の姿であろう。モハマドはイスラムの権利擁護団体に支援を求めるが、自分が利用されているだけなのではないかと、距離を感じるばかりである。

リベラルも保守もイスラムの権利擁護団体も、机上の空論や組織の主張ばかりを優先させ、個人はそれに振り回されていくばかりであるというのは、政治に忌避感を抱く人が「活動家」に抱く不信感であろう。

特定の政治的立場に立たずに全方位的に各陣営の欠点を炙り出しているといえばそうとも取れるが、個人的にはその分ステレオタイプ化が少々強くなりすぎたのではないかと感じられてしまい、文学的奥行きが狭まってしまっているように思えてしまった。

一方で、ステレオタイプ的キャラクター設定を恐れなかった結果として、アメリカの「今」の空気というのがよりダイレクトに伝わってくることにもなっている。互いに全く言葉が通じなくなってしまったリベラルと保守の政治的対立、それをより悪化させるメディアなど、現代アメリカ社会について考えるうえで示唆してくれるものは多いだろう。

また、クレアが注目を浴びるきっかけとなったのが、記者から「あなた方の特権意識にうんざりしている人たち、あなた方のことを貪欲だと思っている人たちがいます」と問われたのに毅然と反論したことだったように、同情が過ぎ去るとバッシングが被害者やその遺族に向けられるというのは日本でよく見られるケースであるが、アメリカでも、そしてその他多くの社会で観られる現象なのだろう。このように、もし似たような事態が日本で発生したらといったことを頭に置きながらも読める。


作中でも言及されているように、この作品にはモチーフになった出来事がある。マヤ・リンは中国系アメリカ人の建築家で、イェール大学在学中にベトナム戦争戦没者慰霊碑のコンテストに応募し、最優秀賞に選ばれた(この経歴の多くがモハマドと重なっている)。保守派はこれに猛反発したという歴史があった。

このようにウォルドマンは過去の出来事からインスピレーションを得てアメリカの今を描き出そうとしたのだが、さらにこの小説を執筆中に現実がフィクションを模倣するかのような出来事が起こる。

「ワールドトレードセンターの跡地にモスクが建てられる」。そんな噂をかつて日本でも聞いたことのある人はいるだろう。これは「実際には二ブロック離れたところにイスラム教徒のコミュニティセンターを作るという案であり、運動施設やレストランなどと共に「祈りの場」が置かれるだけ」なのであったが、反イスラム団体などが大騒ぎを始める(訳者あとがきから)。

もちろん法的には何の問題もなく、正規の手続きを経ての計画であったが、リベラル派の中には日和る者が出てくる。権利としては確かに問題ない、しかし反対派の感情に配慮してはどうかというのだ。この小説内にもまさにこういった反応を示すリベラルが登場する。

保守派はしばしば、リベラル派を人の感情を置き去りにして自分たちの「正しさ」にばかり固執すると批判する。逆にいえば、現代の保守はアメリカに限らず、感情を動員することで勢力拡大を図っているとすることができる。移民問題に典型的なように、それがたとえ「正しく」なかろうとも(経済的な「実利」のみに基づいても移民排斥は不合理なものである)、そう感じてしまう人間の感情を尊重すべしというのだが、それに従えば、動員される感情によってもたらさられる暴力や迫害は不可視化されることになる。
感情は強い。そしてマジョリティに感情的に訴えがなされ、世論の流れが大きく傾くと、政治家、そして大手メディアはこのような圧力に弱い。

ウォルドマンはニューデリー支局での勤務経験もあるジャーナリストで、9・11発生当時はニューヨーク・タイムズの記者としてニューヨークで取材にあたっている。周知のとおりニューヨーク・タイムズは9・11以降、アフガン侵攻、イラク戦争へと向かっていくブッシュ政権に掉さし、戦争の旗振り役を務めることになる。多数派が「正しさ」を置き去りにして感情によって動員されたとき、政治家やメディアはいかに踏ん張ることができるのか、これもアメリカだけの問題ではない。

クレアは当初、モハマドのバックグラウンドを理由にした質問がなされること自体が差別であるとして、彼にこの手の質問を行うこと自体を拒否する。モハマドもまた、問いかけを隠れ蓑にした差別に毅然とした態度を貫く。しかしクレアはバッシングにさらされ孤立感を深める中で、モハマドの頑なにも見える態度に擦り切れていく。テロを非難すると、過激主義を認めないと、なぜその一言がいえないのか。「庭園」案はコーランの「楽園」を密輸しようとしたものだという批判になぜ反論しないのか。もちろん、キリスト教の狂信者が信仰の名のもとに凶悪行為を行ったからといって、アメリカでキリスト教徒がいちいちそれについて態度表明を迫られることはない。イスラム教徒にだけ沈黙は支持も同然だと、いちいち態度表明を強いるのは明らかに差別である。そうはわかっているが、「感情」に「配慮」を見せてもいいのではないか、クレアはそう感じ始めてしまう。彼の頑なな態度によって「味方」であるはずの人たちまでもが攻撃にさらされ、苦しんでいるではないか。なぜほんの少しの妥協を拒むのか。
こういったクレアの揺れや、彼女を追い詰めていく社会の反応も、アメリカだけに限られた現象ではないだろう。

同時に、クレアがこれだけ苦しむのも、あるいはモハマドへの支援が広がるのも、アメリカにおいて「正しさ」を守らねばならないという人々が一定の強さを持っているからとすることもできる。もしこれが日本ならば、感情の奔流にクレアもモハマドも瞬く間に一掃されてしまい、苦悩や葛藤が表に出ることすらなく葬り去られてしまうだろう。


本作にはもう一つ、モチーフとなっている作品がある。訳者あとがきでも指摘されており、作中にもこれまた言及があるトム・ウルフの『虚栄のかがり火』である。確かに作品の構造として類似点が多い。本作はもちろん作品の性格上、単純なハッピーエンドにはなりえない。ある謎が解明されるものの、きれいに大団円を迎えるのではない。しかし『虚栄のかがり火』がカオスへと向かっていくのと比べれば、いくらかのポジティブな救いは感じさせる。作者のスタンスの違いもあるのだろうが、またこの茨が敷き詰められたかのような現実世界では、容易に解決策を見出すことはできないものの、それでもいくらかの希望を信じないことには、この世界を保つことができない時代になってしまったということの表れのようにも感じられた。カオスを弄ぶことは、もう許されない時代になってしまったのだという。



プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR