『『諸君!』『正論』の研究  保守言論はどう変容してきたのか』

上丸洋一著 『『諸君!』『正論』の研究  保守言論はどう変容してきたのか』





著者は朝日新聞の編集員。2002年から05年にかけて雑誌『論座』の編集長を務めた経験から『諸君!』や『正論』に関心を持ち、「そもそも『諸君!』『正論』は、いかなる思想的土壌から生まれ出てきたのか。/米ソ冷戦期において、両誌は何をどう主張していたのか。/それは冷戦の終結によって変わったのか、変わらなかったのか。変わったとしたら、どう変わったのか」を研究することとなる。

序章は2010年2月11日の「建国記念の日奉祝中央式典」から始まる。神話上の人物である神武天皇の即位の地とされる橿原神宮への遥拝に始まり、『諸君!』『正論』にしばしば登場する小田村四郎によって当時の民主党政権や「左派リベラル」への批判決議が読み上げられ採択され、ゲストとして登壇した当時の自民党総裁、谷垣禎一に決議文が渡される。そしてこれまた『諸君!』や『正論』でお馴染みの渡部昇一の講演が行われた。


保守派や右派は敗戦後間もなくから70年代あたりまでを左派優勢の時代としているが、僕から見ればこれは被害妄想もいいところのように思えてしまう。確かにアカデミズムやジャーナリズムの世界では左派寄りが比較的優勢であったとすることができるかもしれないが、かといって、しばしば右寄りの人が恨み節をこめて語るほど左翼にあらずんば人にあらずといった状況であったかは疑わしく、実際に右派のアカデミシャンや論壇人も数多く存在していた。

何よりも、戦後ほぼ一貫して保守・右派によって権力は担われてきており、また歴史学者などから批判を浴びながらも紀元節の「復活」が大きな抵抗もなく実現してしまったように、多くの日本国民も保守的な感覚を持ち続けていたとすることができるだろう。
このように、戦後の日本社会というのは戦前・戦中との断絶のうえに成立したというよりも、連続性のうえ成り立っていると考えられる。しかし同時に、とりわけ近年の右派組織による、自民党を中心とする右派政治家への浸透を見ると、これまでとは違う現象が起きているのではないかという気にさせられてくるところもある。
本書はこういった政治や右派論壇の連続性と変質とを考えるうえで貴重なものとなっている。


結論から書くと、ある時期を境に『諸君!』や『正論』から多様性が完全に消えたのであった。もちろん両誌はその創刊時の意図からして反左翼であり、執筆者は保守・右派が中心を占めていた。しかし昭和天皇の戦争責任や靖国神社へのA級戦犯の合祀、「大東亜戦争」が侵略であったか否かをめぐって、90年代半ばまでは保守・右派の内部においても論戦が行われていた。

もっとも、かつての右派論壇誌が最低限の良識を持っていたとするのも早計だろう。

藤岡信勝は96年刊行の著書で「渡部〔昇一〕は日本がおこなった戦争のもつ侵略性を一度として認めたことはない」としているが、実際には渡部は『諸君!』82年10月号で「日本がアジアの大陸や諸島を侵略したことは確かである」、「日本が大陸に侵入し、侵略したことには一点の疑念もない」としていたことがあった。渡部はこのわずか数ヵ月後、『正論』83年2月号での小堀桂一郎との対談において、「極東裁判否定というのを公の場で出さなきゃいかんと思うんですがね」と今度は侵略であったことを否定する立場に「転向」している。このように右派論壇における知的不誠実さというのは、かつてから現在にいたるまでおなじみのものだとしていいだろう。

また87年5月3日に朝日新聞阪神支局が襲撃され、記者一人が死亡、一人が負傷した事件では、激烈な言葉で朝日批判を繰返していた『諸君!』誌上において、徳岡孝夫は匿名コラムで朝日を「自己への批判を許さない」、「権力の府」だとしたうえで、「朝日阪神支局の襲撃は宥すべからずものだが、それをもってファシズムがいよいよ暴力に訴え日本に暗い時代が来ると騒ぐが如きは、一人の娘の襲われたのを見て海千山千の女が女性全体の貞操の危機を叫ぶに似たものではないか」と、二重三重にひどい暴言を書き散らしている。
このように下劣極まりない文章が平然と掲載されていたのも昔からのことであった。

このように、現在と比較してかつての右派論壇誌が良識的なものであったとすることは躊躇われる。とはいえ、それでもかつての右派論壇誌は現在とは違う姿であったとすることもできる。

『諸君!』の創刊の中心的人物であった池島信平は東大教授の林健太郎と親しかった。林は68年、東大文学部長を務めており、学生から173時間に渡って「軟禁」されたものの、一切の妥協を拒み三島由紀夫などから称賛された保守派であった。『諸君!』においても常連の執筆者となったが、猪木正道などと並び先の戦争の侵略性を否定することはなく、植民地支配も含め加害責任を認める立場であり続けた。

むろん『諸君!』や『正論』には侵略性や加害責任を否定する論考が数多く掲載されていたが、同時にまた林のように保守の立場からそれらを率直に認める論考も掲載されてもいた。しかし徐々に前者の立場が強まっていき、89年にはベルリンの壁崩壊を言祝いでいたはずの林は、90年代に入ると侵略性や加害責任を否定する勢力との論争に入ることになる。つまり論敵が左から右へと移り変わったのである。

そしてついに、渡部昇一は『諸君!』2002年11月号での岡崎久彦との対談で、林や猪木といった「『諸君!』『正論』の創刊以来、長く両誌を支えてきた保守言論のリーダーを」、「「おかしなことを言う人」と呼び、事実上「左翼」のレッテルをはった」のであった。

右派論壇誌の変質を示すのは「反日」という言葉にあるのかもしれない。著者の集計によると、『諸君!』と『正論』がタイトルに「反日」という言葉を使った記事は80年代まではごく稀であったが、90年代に入ると増え始め、とりわけ『正論』は2005年以降は爆発的に増えている。90年代後半以降は日本の加害性を認める論考はほぼ消え、かつてはそれを認めていたはずの論者も意見を修正していくのであった。

『諸君!』は2009年に休刊した。歴代の編集長にも取材してあるが、初代編集長で文藝春秋の社長も務めた田中健五はタイトルの付け方などを「これはいかがなものか」と感じていたとし、また77年から79年にかけて編集長を務めた竹内修司は文藝春秋は「アンチ左翼ではあっても右翼ではなかった」が、左翼が影響力を失うにつれ自家中毒になっていったのではとしている。

著者もそうであるように、『正論』が「ガチ」なのに対して『諸君!』はいわば「ネタ」的であるという印象を持っていた人は少なくないだろう。『諸君!』休刊の直前に極右化する右派論壇をたしなめるような論考が掲載されたのもそれを表しているとすることができるのかもしれない。しかし『諸君!』休刊以降『文藝春秋』が『諸君!』化していることを考えると、はたしてそうだったのかとも思ってしまう。

林や猪木のような立場は90年代後半以降の『諸君!』にはとうてい受け入れられなかったであろうし、田中や竹内が嘆くようにこの雑誌の性格が変質したとすることもできるのかもしれない。しかしすでに書いたように、80年代であっても目を疑うような異様とすら思えるような文章が平然と掲載されてもいた。個人的には『諸君!』や『正論』は日本社会全体がそうであるように、「変質」したというよりも連続性が強いように思える。結局は「保守」を名乗る人々は単に左に厳しく右に甘いだけで、左翼(あるいは朝日新聞や岩波書店、そして朝日岩波文化人)批判さえしてくれれば何でも有りという発想があったがゆえに、譲ってはならない一線というものを持ち合わせず、この事態を招いたとすることもできるだろう。

僕は世界各地の出版事情に通じているわけではないが、文芸春秋社に限らず、純文学や学術書や辞書も刊行する一流とされる出版社(新潮社や小学館などなど)が、学術的には全く話にならない歴史修正主義としか言いようのない本や、差別を煽動する出版物を公然と刊行するというのはかなり特異なことなのではないだろうか。そしてこういった現象が異様なものとして批判されるのではなく、それこそ左翼的とされる人を含めてなんとなく容認されてしまってきたことこそが、日本の現在の状況に繋がっているとも思える。こういった点も合わせて考えると、現状を単に「保守」の堕落のみに帰することもできないしすべきでもない。日本の独特の出版業界の有り方を含め、日本社会全体が、敗戦後から現在に至るまで極右的なものに対して一貫して異様なまでの「寛容」さを持っているということに、この社会の実相が表れているとすべきだ。その歪みを最もグロテスクな形で体現しているのが「保守言論」なのであろう。


『彼女のひたむきな12ヶ月』

アンヌ・ヴィアゼムスキー著 『彼女のひたむきな12ヶ月』




『少女』でロベール・ブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』の主演に抜擢された顛末を描いたアンヌ・ヴィアゼムスキーが、本作では『少女』においてちらっと顔をのぞかせていたジャン=リュック・ゴダールとの出会い、恋愛、そしてこれもヴィアゼムスキーが主演を務める『中国女』の撮影の模様を描き、二人の結婚と映画の完成までを語る。

「自伝的小説」ということになるのだろうが、読み始めた読者は本書をそうカテゴライズしていいものだろうかと迷ってしまうことだろう。というのも、『少女』に引き続いてヴィアゼムスキー当人はもちろん、ゴダール、ブレッソン、フランシス・ジャンセン、フランソワ・トリュフォー等々がいずれも実名で登場する。「小説」というよりも「回想」とすべきではないか、読み始めはそうとも感じられるかもしれないが、読み進むうちにやはりこの作品は「小説」とするのにふさわしいと思てくる。

ここに描かれるのは、後光が差した神話的存在としてのゴダールだろうか。むしろ彼は俗物然とした姿で描かれる。では本作は偶像破壊的な物語なのか。ゴダールについてある程度知識がある人なら、ここで描かれるゴダールに驚きひっくり返るようなことはないだろう。多くの人に知られている、あのゴダールがここにいる。

あるいはこれはありきたりの話なのだろうか。30代半ばの中年男が娘といっていいほど年の離れたハイティーンの少女に入れ揚げる。男は自分好みの女にしようと「教育」を始める。そして女にとっては、少女から女へと変わり始める時期、ここではないどこかへと連れて行ってくれる知識と財力を持つ男の存在はその実像以上に魅力的に写ることだろう。しかし、なにせゴダールとヴィアゼムスキーの関係を描くのであるから、この物語はありきたりのものにはならない。

映画『17歳の肖像』などに代表されるように、この手の物語は、少女が現実に復讐される形で男に幻滅をし、この経験によって少女から女へと成長していくといったあたりになっていくのが常套である。しかし本作は、むしろ「信頼できない語り手」の系譜に連なるとしてもいいのかもしれない。少なからぬ読者は、ヴィアゼムスキーの語りをどこまで字義通りに捉えていいのか、いささか躊躇いを持つだろう。

ノーベル文学賞受賞者であるフランソワ・モーリヤックが祖父であること、ガリマール社の御曹司であるガストン・ガリマールが幼馴染であること、上流家庭での生活が当然のごとく内面化されていることなどがさらっと書いてある。そして冒頭近くで早くも、ジャンセンに哲学の個人教授を頼むと友人から「君は本当に年寄りにしか興味がないんだね!」とからかわれ、このからかいは反復される。

ゴダールと初めて結ばれると、彼から「そんな知識どこで憶えたんだ?」と「疑り深」い質問をされる。ゴダールはヴィアゼムスキーがブレッソンとは愛人関係にあったのではないかと疑い、ジャンセンに嫉妬する。中年男が少女に入れ揚げた際に、男は徐々に実は弄ばれているのは自分の方なのではないかという猜疑にかられることだろう。しかしこの物語では、ゴダールは初っ端から不安と猜疑に襲われることになる。

総革張りのシートのアルファ・ロメオを自慢げに見せつけるゴダール。しかしヴィアゼムスキーはきょとんとして「私、車のことは何も知らなくて」と言う。「少女らしい」無垢さともとれる一方で、上流階級育ちの女性に財力を見せつけようとするゴダールをせせら笑っているように見えなくもない。実際にはそのような描写はなく、ヴィアゼムスキーは本当に車に興味がなくいったい何を自慢しているのか理解できないとしてあるのだが、これをそのまま受け取っていいのだろうか。少なくとも、熱烈に彼女に迫るゴダールとの駆け引きであることは疑わせる。

このように、ある意味では読者に肩透かしをくらわせながら物語は進んでいく。嫉妬深く独占欲が強く自己中心的で横暴で時には粗暴にすらなるゴダールの姿は不吉な予感を与えるが、少なくともここで破局的な展開とはならない。ジャンセンやゴダールの「教育」によって成長していくヴィアゼムスキーであるが、中年男たちの手からするりと抜け出ていくか、あるいはその圧力に擦り切れていくといったことにもならない。中年男と少女の妄想のラインを外れることなく進んでいく。

もちろんこれは、ヴィアゼムスキーが話しをでっちあげているというのではない。ジャンセンが『中国女』に登場する顛末をはじめ、散々語られてきた有名なエピソードも多く、おそらく本書で描かれることのほとんどが実際にあったのだろう。

言葉は悪いが、ヴィアゼムスキーは「中間」の女性として扱われがちだ。ゴダールのミューズとして誰もがまず思い浮かべるのはなんといってもアンナ・カリーナであり、70年代半ば以降はアンヌ=マリー・ミエヴィルとパートナーとなり現在に至っている。

ゴダールにとっても、そしてヴィアゼムスキーにとっても、ちょうどこの1967年というのは過渡期であった。一つ間違えれば成金趣味とも映りかねないゴダールの金銭感覚(実際はゴダールもかなりいいとこのお坊ちゃんであるのだが)。ヴィアゼムスキーが「良家の子女」であることが、熱烈な恋心と無関係であっただろうか(後にゴダールは袂をわかったかつての親友トリュフォーが大手映画会社の経営者の娘と結婚したことにネチネチと粘着しまくることになるのだが、これは自分の体験があればこそだったのかもしれない)。一方でゴダールの左傾化はすでに始まっており、まさに『中国女』はそれを高らかに宣言したもので、この後には極左化していくことになる。ヴィアゼムスキーは祖父であるモーリヤックに否定されながらも大学で哲学を学ぶことを決め、ヴァカロレアのためにジャンセンに個人教授まで頼む。しかしゴダールと出会い、映画に魅了され、いくらかためらいがちながらも女優へと傾いていき、大学はあっさりと辞めてしまう。ゴダールの名を捨てたゴダール作品に付き合いつつ、パゾリーニなどの作品に出演をするが、女優からも離れていき作家となっていく。
本作はゴダールとヴィアゼムスキーの物語だけにありきたりのものとなるわけにはいかず、そしてこの時期の二人がいかなる状況であったのかが、作品を通して語られているかのようだ。


ペンディングされたかのようなこの物語には、当然ながら後日談が欠かせないことになる。ヴィアゼムスキーはUn an apresという続編を書いている。
そして本作は映画化され、なかなかの評判であるようだ。日本には来るのだろうか。





『パリ・レヴュー・インタビュー  作家はどうやって小説を書くのか、たっぷり聞いてみよう!』

『パリ・レヴュー・インタビュー  作家はどうやって小説を書くのか、たっぷり聞いてみよう!』





1953年春(正確には52年の冬とのこと)に創刊された「パリ・レヴュー」の名物企画である作家へのインタビュー集。

収録されているのはⅠがイサク・ディネセン、トルーマン・カポーティ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ジャック・ケルアック、ジョン・チーヴァー、ポール・ボウルズ、レイモンド・カーヴァー、ジェームズ・ボールドウィン、トニ・モリソン、アリス・マンロー、イアン・マキューアン、Ⅱにはドロシー・パーカー、アーネスト・ヘミングウェイ、アイザック・バシェヴィス・シンガー、ジョン・アップダイク、カート・ヴォネガット、ガブリエル・ガルシア=マルケス、フィリップ・ロス、エリザベス・ハードウィック、ジョン・アーヴィング、スーザン・ソンタグ、サルマン・ラシュディと、50年代から2000年代まで、錚々たる面子のインタビューが読める。

ただこれを「インタビュー」としていいかどうかはいささか迷うところではある。青山南が「訳者解説」で「パリ・レヴュー」のインタビューの手法について触れている。創刊時はまだテープレコーダーも普及しておらず、また他の雑誌でも作家へのロングインタビューなどは行われていなかった。そのせいもあってか、一般的な意味でのインタビューとは異なる手法で行われている。一回のインタビューをそのまま記事にするということはまずなく、数回、時には数年に渡って行われ、さらには作家自身に思う存分に手を入れさせている。例えばヴォネガットのインタビューは十年間に渡って行われた四回のインタビューを合成し、「本人によって徹底的に書き直された」ものだという。

三代目編集長のゴーレイヴィッチは、「ジャーナリズムにおいては、レポーターの正確さは一にも二にも、取材対象からきびしく独立しているかどうかによる」とし、「パリ・レヴュー」のこのプロセスについて「ジャーナリズムではまず絶対にありえないことだ」としている。青山は「できあがったインタビューは、いわばインタビュアーと作家の共同作品のようなものになる」としているように、インタビューという形式を借りたエッセイとして受け止めた方がいいかもしれない。そのために、作家が訊かれたくないことを突っ込まれて険悪な雰囲気になったり、意外な素顔をのぞかせるといったものにはなっていないが、作家の考えや姿勢、その時に言いたかったことがより直接的に表れているとすることもできる。


まず第一に、それぞれの作家のファンは興味深い話の数々を読むことができる。

ボルヘスは「あなたの小説は冷たくて人間味がな」いと考える者もいるがそれは意図してのことかと訊かれるとこう答えている。「もしもそうなっているとしたら、たんにこっちの書き方が下手だからです。(中略)まあ、変なシンボルを使ってるので、それらの話がどれも多かれ少なかれ自伝的なものなんだってことがわかってもらえないのかもしれません。話はぜんぶわたしについてのもの、わたしの個人的な体験についてのものです」。
もちろんこれを額面通りに受け取るかどうかはまた別問題であるが、確かにボルヘスの作品はそのように読めるとすることもできるだろう。


カーヴァーはアルコール漬けだった頃を振り返り、チーヴァーがアルコール漬けの文章はすぐに識別できると言っていたことが、今ならわかるような気がするとしている。アイオワ・ライターズ・ワークショップで、カーヴァーとチーヴァーは共に教えていた時期があったが、「週に二回は私の車で酒屋にでかけていました」という状態だったそうだ。酒屋は午前十時にならないと開店しないため、ホテルのロビーで待ち合わせて向かうことにしたが、カーヴァーがタバコを買おうと早めに降りてくるとチーヴァーはすでにロビーに居てそわそわしていた。酒屋に着くとチーヴァーはちゃんと駐車する前に車から降りてしまい、カーヴァーが店の中に入るとチーヴァーはすでに半ガロンのスコッチを抱えてレジの前に立っていた。この後にチーヴァーは治療センターに行き、「しらふになり、ずっとしらふのままで死んだ」。

またカーヴァーといえば編集者のゴードン・リッシュが原稿に大幅に手を入れていたことが後にわかってちょっとしたスキャンダルとなるが、この頃はリッシュとの深いつながりは知られていたものの、そこまでしていたということまでは判明しておらず、それでいてすでにカーヴァーとリッシュが袂をわかった後のことという微妙な時期で、作風の変化やリッシュとの関係についての部分は、今読むとかえってカーヴァーの心理が見えてくることとなる。カーヴァーは「ミニマリスト」の作家と呼ばれたが、それは誉め言葉としてだとしても「わたしは気に入らなかった」としている。「「ミニマリスト」という言葉にはヴィジョンと出来の小ささを暗示するところがあって気に入らなかった。でも、今度の新しい本、『大聖堂』のなかの小説はぜんぶ、十八ヶ月のあいだに書いたもので、そのどれもいままでのとは違うという実感があります」と語っている。

リッシュは原稿を大幅にカットし、その結果としてカーヴァーの作品は謎めいた、ざらっとした暴力的雰囲気が強まり、その切り詰めた描写から「ミニマリスト」とされていたが、ここにあるようにカーヴァーにとってはこれは不本意な介入であった。

映画の脚本をもっと書きたいと思いますか、という質問には、「ちょうど終わったのがマイケル・チミノといっしょにやってたドストエフスキーの生涯についてのものですが、テーマがこんなようなおもしろいものだったら、もちろん、やりたい。そうでなければノー。でもドストエフスキーだからね! そういうんだったらやるよ」と語っているのだが、チミノ&カーヴァーのドストエフスキーの映画の企画は没とされてしまうのであった。残念。





映画といえば、ジョン・アーヴィングはアーヴィン・カーシュナーが企画していた『熊を放つ』の映画化にあたって脚本に取り組んでいたが、その経験をふまえて「うーん。映画ね、映画、映画――あれはわれわれの敵だ、小説に取って代わろうとしてるんだから」としている。カーシュナーとの作業からいろいろなことが学べ、今でもいい友だちだとしつつも、「脚本を書くのだけはぜったいいやだ」と拒否反応を示している。「『熊を放つ』の脚本をカーシュナーのために書いて学んだのは、脚本書きというのは書くというのとは違うということだ、あれは大工仕事だ。あそこに言葉はないんだよ、書き手はストーリーのペースも語りのトーンもコントロールできないんだから」。「貴重なことをやらせてもらったということになるんだろうな――若いときに、最初の小説が出てすぐに映画のために書くってことを試せたのは――だって、もう二度とやりたいとは思わないから」。

86年に掲載されたこのインタビュー時の最新作は『サイダーハウス・ルール』であるが、存知の通り、アーヴィングはこの作品の映画化にあたって自ら脚本を書き、アカデミー賞を獲得することになる。ここまで言っときながら前言撤回したものの、結果を出すのはさすがだ。

このインタビューでも、『ガープの世界』ではジョージ・ロイ・ヒルに協力し、『ホテル・ニューハンプシャー』でもトニー・リチャードソンのことを高く評価しており、自分が脚本を書くことはともかく自作が映画化されることには拒否反応は持っていなかったのだが、この当時構想中だった『オーウェン・ミーニーの祈り』になると……(実は僕も怒りにかられそうで映画は怖くて見ていない)。




さらに映画関連の話題となると、ドロシー・パーカーはフィッツジェラルドのこんなエピソードに触れている。ハリウッドの悪とはなんでしょう、と訊かれると、「ひとよ」と答えている。「たとえば、スコット・フィッツジェラルドの顔に指を突きつけて、おまえに払うのか、おまえがこっちに払うべきだろう、なんてぐだぐだ言う監督よ。スコットはひどい目に遇ってた、あの頃の彼の姿を見たら、あんただって気持ち悪くなったと思うね」。


また、まとめてインタビューを読むことで作家の個性というのも見えてくる。
カポーティは「句読点のつけかたなんかも要注意だな」と語っている。「ヘンリー・ジェームズはセミコロンの使い方の巨匠だよ。ヘミングウェイは第一級のパラグラフの作り手だ。耳への聞こえ方という点からみれば、ヴァージニア・ウルフはひどい文章はひとつも書いていない」。

一方ケルアックは「マルカム・カウリーは際限なく書き直し、要らないカンマを何千と入れてきた」として、「Cheyenne Wyoming」としていたのを「Cheyenne, Wyoming」に直されたことに「カンマなんて気にするな」と言っている。これは文体上の問題というよりも文法的正しさの問題であるが、練り直すことよりも勢いを重視するのがケルアックらしい。


また人称の問題も何人かの作家が取り上げている。
モラヴィアが「小説は一人称で書くべきである、なぜなら三人称はブルジョワの視点だから」と言っていることに賛成かと訊かれたボールドウィンはこう答えている。
「それについてはよく知らない。ただ、一人称はいちばん恐ろしい視点だ。どちらかというとぼくはヘンリー・ジェームズの意見に与するな、かれは一人称が大嫌いで、読者はそいつを信じてはいけない、と言っている――どうして「I」なんて必要なんだ、と。ページのうえでがなりたてるこんな棒一本の力でどうしてこの人称がリアルなものになるのか、とね」。

フィリップ・ロスは三人称の語りを一人称に変えるかどうかをどのくらい意識的にやっているのかと問われ、「意識的も無意識的もない――自然発生的にやってる」としている。三人称で書いているときのかんじについては、「顕微鏡を覗いているときってどんなかんじがする、ピントを合わせようとしているとき? 裸の対象を裸の目にどれだけ近づけたいと思っているか、すべてはそれ次第さ」。
自らの分身的キャラクターのザッカーマンを三人称にすることで自分を解放しようとしているのかと訊ねられると、「自分を解放するのは、ザッカーマンが自分について言いそうにないことをわたしが言うためだよ。一人称では、アイロニーは消えかねないし、コメディも消えかねないし。かれの真剣さのようなものは導入できるが、それは耳障りなものかもしれないしね。ひとつの話のなかでひとつの声から別の声への移動があると、読者も倫理的視野の決め方が変わってくる。われわれが日常会話でやっていることさ、つまり、自分のことを言っているのに「ひとは」というような曖昧な代名詞をつかうようなときね。「ひとは」をつかうと、自分の意見を、それを言っている自分とのゆるい関係のなかに置ける」。

『ゴースト・ライター』のアンネ・フランクのセクションでは、最初三人称で書いていたがうまくいかず、エイミー・ベレットの一人称として書き直し、そこでアンネが語っていないことを語っているかのようなトーンを除去できたため、再びこれを三人称に作り直したそうだ。




サルマン・ラシュディは『真夜中の子供たち』について、「三人称の語りでうまくいかなかったんで、一人称の語りでやってみることにした」としている。すると「まさに届いたというかんじだったね、サリームの声が。抜け目なさそうで、いかにも秘密がいっぱいというふうの、滑稽で、どこかバカげた声が。タイプライターから飛びだしてきたものにはギョッとしたよ。文章は自分からというよりは自分を通って出てくるんだということを信じた瞬間だった」





アーヴィングはとくに重要な「テクニカル」なことは、という問いに「声」だね、としている。
「こっちの登場人物に近いところにいよう、あっちの登場人物からは離れていよう、といった選択――こっちの視点か、あの視点か、というような。こういうことは学べるんだよ。自分のいい癖、悪い癖がわかるようになることはできる。どうすれば一人称の語りはうまくいくか、どうすると行き過ぎになるか、といったようなことはね。それから、三人称の語りの危険なところと便利なところ、三人称は歴史的な距離をもてるってことにいちおうはされてるけど(たとえば伝記作家の声みたいな)。じつにたくさんスタンスのとりかたはあるんだ、話をしていくときの態度のとりかたはすごくいっぱいある。そしてそれは作家の思いのひとつなのね、作家がいくらでもコントロールできるんだ、アマチュアが考えている以上に。読者はもちろんまずほとんど気がつかないけど。たとえば、グラスの『ブリキの太鼓』、主人公のオスカル・マツェラートを「かれ」とか「オスカル」にしていたかと思うと、つぎに――ときにはおなじセンテンスのなかで――子どもの頃のオスカルを「ぼく」にしている、あれはみごとだ。オスカルが一人称の語り手であり、三人称の語り手なので、おなじセンテンスのなかで。しかもさりげなくおこなわれる、気がついてなんて素振りもない、ぼくは大嫌いなのよ、気がついてくれと言わんばかりの形式やスタイルって」。

言うまでもなく、一人称や三人称の使い方に唯一無二の正解があるわけではなく、作家によっていかに考えているかは人それぞれということだ。


こういったテクニカルな話もそうだが、ぎょっとするようなものが透けて見えるものもある。作家志望者に最上の知的トレーニングは、という問いにヘミングウェイは「首を吊ってみるのはどうだい」と答えている。
「たとえば、うまく書くのがどうしようもなくむずかしいとわかったら、首を吊ってみるのはどうだい。そうすれば、無慈悲にも縄が切れたら、その後の人生は精一杯うまく書こうと頑張っていくしかなくなる。首を吊った話は少なくともネタになるし」。
このインタビューの三年後にヘミングウェイは猟銃自殺をすることになる。



「訳者解説」では「パリ・レヴュー」創刊の経緯についても触れている。2007年のドキュメンタリー映画『ドック』のなかで、創刊メンバーの一人ピーター・マシーセンが当時CIAの雇われており、パリで諜報活動するのに雑誌編集は隠れ蓑になると考えていたことを明かした。赤狩りが強まるとさすがに嫌気がさして二年で縁を切った、後悔している、と語っていたそうだ。

マキューアンのインタビューが掲載されたのは2002年で、当時はこのことを知らなかったのかもしれないが、その後マキューアンは「エンカウンター」をめぐって起こっていた似たような事実をモチーフにして『甘美なる作戦』を書くことになる。




『ヒトラー 上 1989-1036 傲慢』,『ヒトラー 下 1936-1945 天罰』

イアン・カーショー著 『ヒトラー 上 1989-1036 傲慢』『ヒトラー 下 1936-1945 天罰』





1998年から2000年にかけて発表されたイアン・カーショーによる巷間なヒトラーの伝記。上巻ではヒトラーの生い立ちから政権獲得をし絶頂に上り詰めるまでが、下巻では権力の絶頂からその死までが描かれる。

決定版といっていいであろうヒトラーの伝記の待望の邦訳で、僕も待ち望んでいた一人であるが、さすがに上下巻合わせて本文だけで二段組1500ページに迫ろうかという大部なもので、おいそれと手を出せずにいたがようやく。白水社はこれを出してくれただけで有難いのだが、あえて言わせていただくと、とりわけ下巻は注、参考文献などを含めると千ページ越えで、持ち歩いて電車の中で読むわけにはいかないどころか、家で寝っ転がって読むことすらおぼつかないほどであったもので、できれば四分冊くらいにしてほしかった。


この長さというのはもちろん第一に、詳細な伝記であるということからくるものだが、それ以外にも理由がある。カーショーは上巻の序文において、「私は伝記という形式にはいささか批判的だった」としている。「政治外交史よりも社会史に魅力を感じており、ましてや一人の人物に焦点をあてるなどとは考えたこともなかった」。第三帝国について研究をはじめるようになって、「私が関心をひかれたのは、かの異様な時代に普通のドイツ人がとった行動や態度であって、ヒトラーやその側近のことではなかった」。

しかし「「誤った」経路」によってついにヒトラーの伝記を書くことになったのだが、これは以前の考えを改めたということではない。本書がこれほど大部になった理由の一つが、ヒトラーの伝記であるとともに、カーショーのもともとの関心であった「普通のドイツ人」の反応等にも目配りされた、19世紀後半から20世紀半ばまでのドイツの社会史的記述を積極的に取り入れているためである。

また「訳者」・監修者あとがき」に、「研究史から見れば、本書は意図派と構造派(機能派)の架橋という問題意識に立脚して書かれている」とある。「すなわち、ナチズム研究では、ヒトラー個人がはやした役割を強調する意図派と、ナチ体制が多頭支配であることを重視してヒトラーを相対的に「弱い独裁者」と見る構造派のあいだで長く見解の相違があった。ナチズム研究は、体制の権力構造とそこにおけるヒトラーの位置づけをめぐって展開してきた。カーショーは、カリスマ支配の概念を導入し、「総統のために」自ら働こうとするドイツ社会の構造に光を当てることで、ナチズム研究のこの中核的な課題に独自のアプローチで迫ろうとしている」。
こういったヒトラー個人への関心にとどまらない視野の広さも、この長さの理由である。


カーショーはヒトラーを無能な異常者とするのでもなく、また戦略に長け、すべてを計算しきっていた恐るべき能力を持っていた人間とするのでもない。ヒトラーはあくまでピースの一つであったが、ではヒトラーというピースが欠けていたとしたらナチスは権力を奪取し、長期間に渡って維持し、一時的にとはいえあれほど支配地域を広げることができたであろうか。ゲーリングやヒムラーやゲッベルスがナチ党のトップであったらと仮定してみれば、その答えは明らかだろう。


カーショーはナチスの勢力拡大や政権獲得にあたっては、反ユダヤ主義よりも反ボリシェビズムの方が効果を発揮したと見ている。カーショーが何度も強調するように、ナチスを、ヒトラーを権力から遠ざけることは十分に可能であったはずだが、この点を共有していた保守派は、保身と権威主義からくる民主主義への嫌悪感、そして何よりもヒトラーを見くびっていたことでこの男を権力の座につけてしまった。ヨーロッパの多くに広がっていた反ユダヤ主義、社会ダーウィニズムへの信奉、ボリシェビズムへの恐怖心はナチスを生み出す下地になり、とりわけドイツでは、第一次世界大戦での敗戦を受け入れられず、その結果であるベルサイユ条約によって不当な迫害を受けているという被害者意識がナチスの養分となったが、それでもヒトラーが権力の頂点に上り詰める階段へのドアは必ずしも大きく開いていたとはいえない。それをこじ開けることを可能にしたのはヒトラーその人であるが、また保守派をはじめとする勢力がそれに手を貸したのであった。


本書で繰り返されるのが、「既成事実」である。これを前にした時、人間はどれほど無力になれることか。政権発足時、ヒトラーを積極的に支持したのはせいぜい三分の一強であった。しかし権力を握ったヒトラーが強引に「安定」を作り出すと、多くの暴力が繰り広げられ、迫害の模様は目の前にあったにも関わらず、これを支持する人はむしろ増えていった。ベルサイユ条約を挑発的に打ち破ると、ヒトラーに批判的であった人々でさえ喝采を送った。多くのドイツ人が「不当に奪われた」と考える権益や領土を「回復」していくことを強く支持したが、同時に戦争に対しては忌避感も強かった。それでも既成事実を重ねていくと、戦争への懸念は広まらず、むしろヒトラーが明らかに戦争の準備に入ってもこれを直視しなかった。領土の「回復」のみならず、中・東欧に広がる民族ドイツ人が迫害されているというプロパガンダを繰り広げ、ヒトラーは触手を伸ばし続けた(侵略戦争を開始すると宣言して始められた戦争などあろうはずもなく、ヒトラーもまた正当な領土の回復やドイツ人の保護を旗印にした)。

ついに戦争が始まったが、緒戦の勝利によって戦争への懸念は一層された。反体制派が壊滅した後、ヒトラーを排除できる可能性があったのは国防軍をはじめとする体制内の不満分子だけであったが、戦局が悪化するまで暗殺の実行に踏み切れなかったのは、ドイツ国民の多くがヒトラーを支持し続けたからであった。恐るべき悪運でヒトラーは暗殺の網を逃れ続けた。破滅が目の前に突き付けられ、ついに自殺することになるが、あの状況に至ってもなお暗殺もされずに反乱も起こらなかったのは、一度積み重ねられた既成事実というものの強力さを何よりも物語っている。

言うまでもなく現在との安易なアナロジーには慎重であるべきだが、それはナチスの歴史から学ぶものがないということにはならない。一つ違えば愚かなデマゴーグで終わっていたかもしれない男が、強大な権力を手にし、それを長期間保ち、あれだけの破局を引き起こせたのはなぜなのか、この浩瀚なヒトラーの伝記から学ぶべきことは、むしろ現在のような時代であるからこそ数多くある。そして「なぜ、ドイツ人はヒトラーに心酔しえたのか、抵抗しなかったのか、最後まで付き従ったのか、という本質的な問題は(……)まだすべてが解明されたものとはみなされていない」ことの重みは、現在の日本だからこそ噛みしめるべきことでもある。


『完全版 1★9★3★7』

辺見庸著 『完全版 1★9★3★7』






一九三七年、盧溝橋事件があり南京大虐殺があった年であり、翌三八年には「国家総動員法」が、「国会では法案に多少の批判的質疑はあったものの、なんのことはない、全会一致で採択」されることになる。

辺見は二〇一六年末に刊行された「過去のなかの未来――角川文庫の「序」にかえて」でこう書いている。

「戦争と侵略の遂行に不可欠なこの基本法には、もともと市民への強制や罰則条項を(治安維持法があったからとはいえ)ふくまなかったのである。それはなにを意味したか? 戦争と「侵略へのコクミンの自発的協力が前提され、期待され、非協力や反戦運動の可能性など、はなから想定もうたがわれもしなかったのだ。その時代に、わたしの祖父母が生き、両親たちもニッポン・コクミンとして生活し、父は、他の人びとと同様に、まったく無抵抗に応招し、中国に征った。そのなりゆきまかせと没主体性について、死ぬまでにいちどはほじくっておきたいとわたしはおもっていた」。

「二〇一六年現在のナゾをとくヒントは過去にこそあるとおもいいたった。すなわち、人間の想像力をこえる、酸鼻をきわめる風景の祖型は一九三七年に、つとにあったのである」。


盧溝橋事件以前から日本は中国への侵略を開始していた。では「1★9★3★1」や、あるいは「1★9★4★1」ではいけないのか。「べつにいけないということはない」としつつ、辺見はこう書く。「こう言うのが許されるならば、わたしは一九三七年に正直惹かれつづけ、そうこうするうちに一九三七年はわたしのなかで他からぬきんでた「1★9★3★7」(「イクミナ」または「征くみな」)という謎めく表象となり、わたしを悩ませ、苦しめつづけた。それはたんに「一九三七年」と事務的に記すだけではもったいないほどに、ニッポンとニッポンジンの出自、来歴、属性、深層心理を考えるうえでどうしても欠かすことのできないできごとが目まぐるしく撞着しあいながらあいついだ年であったのだ」。

「ニッポンジン」はもちろん一九三七年の前から「ニッポンジン」であり、二〇一七年もいまだ同じ「ニッポンジン」であり続けている。それが煮詰めた形で露出したのが一九三七年であった。辺見は南京大虐殺を中国人の目を借りて描いた堀田善衛の『時間』や、中国での日本兵の残虐行為を、おそらくは自身の実体験をふまえて書かれた武田泰淳の『汝の母を!』を中心に、小津安二郎、丸山眞男のような従軍経験者の回想などの、「その細部[ディテール]についてぶつぶつかた」っていくのが本書である。

何よりも辺見がこだわるのが、自身の父についてだ。中国に兵士として赴いた父は、おそらくは中国人を殺したことがあると辺見は考えていた。殺したことがあるどころか、さらなる残虐行為にすら手を染めたのではないかという疑いも持っていた。癌に冒され、余命いくばくもなくなった父に、これについて質問しようと準備までしていたが、結局訊くことはできなかった。何を行ったのかを語ることがなかった父。何があったのかを訊くことができなかった息子。これこそが、「ニッポンジン」が八〇年前と変わることなく「ニッポンジン」であり続けさせているものかもしれない。

「墓をあばくことで結果するかもしれない驚愕と狼狽を、いまさらみたくもないという気持ちもあった。いや、わたしじしんいまさら絶句したり、うろたえたりしたくはないという、これはいかにも奇妙なことばだが、<じぶんじしんへの忖度>によって墓穴をのぞきこみることを避けてきたのである。うらをかえせば、いったん墓あらしをすればこの湿土の暗がりからなにかがあらわれてくるのかについて、一九四四年生まれのわたしには、幼年期から小耳にはさんでいたことも少なからずあるので、うすうす見当がついていたともいえる。それは陽の光に晒されるべきではないと権力者たちだけではなく世間のみなに配慮されて、じっさい大っぴらに晒されてこなかった、目も耳もうたがうほどのグロテスクであり、それとうらはらの秩序と統制、そして、細かい網の目状の管理と「おもいやり」と自己規制と相互監視と無関心にうらうちされた、壮大な沈黙と忘却である。それらは敗戦とともにかんぜんに清算され消失したニッポンの心的機制なのではなく、敗戦後もほとんど無傷で生きのこり、表面はじんじょうをよそおいながらも、まったくじんじょうならざるげんざいと未来を形づくっている古くからのメカニズムでもある。である以上、いまといまの行く末を知るために記憶の墓があばかれなければならない」(上 pp.26-27)。


辺見が行うのは「墓あばき」だけではない。「じぶんじしんへの忖度」とは問いかけることを忌避することであり、自分にも刃を向けなければならない。一九三七年の日本にいたら、中国との戦争を侵略と認識したのだろうか。そうできたとしたら、召集令状がきたときにどう対応すべきだったのか、何ができたのだろうか。中国で捕虜の殺害を度胸試しとして命じられたら、周囲の兵士が中国人女性たちを漁り、強姦を繰り返していたら、いったい何ができたのだろうか。
父(の世代)に対して問わなかったことと、「じぶんじしんへの忖度」として己への問いかけを行わなかったことはコインの表裏だろう。殺された中国人たちは集合的な数字としてあったのではなく、一人一人の人間であった。そして凶行に及んだ日本兵もまた、一人一人の人間であった。


辺見の父は敗戦後、放心したかのように玉の出ないパチンコを延々とやったり、妻や子どもたちに暴力を加えた。典型的なPTSDの症状のようにも思えるが、一方でかつての上官が訪ねてきたときの異様な敬礼の光景や、酔って朝鮮人への差別を口にするなど、「戦争の被害者」としてのみで済ませることはできない部分も息子は見ていた。父は戦後も天皇誕生日には、日の丸を掲げ続けたのである。

地方紙の記者となった父は、勤務先でペンネームを使って当時の回想を連載したことがあった。ようやくこれと向き合うことができた辺見は、この連載の文章の奇妙さに気づかされる。自分の小隊が拷問を行った記述には、「文法的におかしなところがある」。「受動態と能動態が不自然にいりまじり、明示すべき主語がはぶかれたりする」。「だれの意志でもなく、自然発生的にぜんたいがそういうことになったとでもいうのか」。

辺見の父は分遣隊の隊長だった。つまり、「拷問の責任は、形式的にもじっしつ的にも、分遣隊の隊長だった父にあったはずである。じぶんが命じておきながら、あるいは拷問を承認しながら、「哀れ」だの「残虐極まる」だのと老人に同情していたかのように記述し、非道の責任を明記せず、悪のせいを「拷問には慣れているらしい上等兵」に、さりげなく負わせている。卑怯ではないか」。
父の文章からは、「コノオドロクベキジタイハナニヲイミスルカ?」という問いがすっぽり抜けていた。

元日本兵による中国での残虐行為の証言は多いが、自身がそれに加担したことを認めた例はそう多くない。辺見が例外的存在としてあげるのが武田泰淳であるが、日本兵による残虐行為を正面から見据えた武田の『汝の母を!』への反応が今一つであったように、この作品は兵役につかなかった人間にとってすら居心地の悪いもので、戦後もこれから目をそらし続けたのは日本社会全体の「じぶんじしんへの忖度」とすべきであろう。

「責任主体をはっきりさせるのではなく、ぎゃくに、責任をかぎりなくかくさんさせ、ついには無化していく無意識」は、辺見が書くように父に特有のものではなく、「ニッポンジン」全体に見られたものであり、現在も見られるものである。

堀田善衛は『方丈記私記』に、東京大空襲の八日後、「小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車の中から、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た」のに出くわしたことを書いている。ここで堀田は「廃墟での奇怪な儀式のようなものが開始された」のを目にする。「まばらな人影がこそこそというふうに集まってきて」、かなりの人数が集まると、「涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申し訳ない次第であります」といったことを小声で呟いて、土下座をしたのである。

戦争を開始し、敗色濃厚になってもなお戦争をやめようとしない天皇への批判の言葉はいっさい出なかった。堀田はこう書く。「私は本当におどろいてしまった。私にはピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちら眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまり焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあるということになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こり得るのか!」。

真に恐るべきは、この光景を冷ややかに、さらには憤りをもって見ていたはずの堀田が続けてこう書いていることだろう。「とはいうものの、実は私自身の内部においても、天皇に生命のすべてをささげて生きる、その頃のことばでいわゆる大義に生きることの、戦慄を伴った、ある種のさわやかさというのもまた、同じく私自身の肉体のなかにあったのであって、この二つのものが私自身のなかで戦っていた、せめぎ合っていたのである」。

辺見の父が「明示すべき主語」をはぶき、「受動態と能動態が不自然にいりまじ」った文章を書いて責任の所在をぼかしたことと、戦後に天皇の責任が問われることがなかったのは、相互に支え合った結果だ。責任を問われたくないから責任を問わないし、責任を問わないことで責任から逃れようとした。またこれは、父の世代に対して「じぶんじしんへの忖度」から、問いかけを行わなかった子どもの世代、さらにその下の世代にも関わるものである。

一九三三年に小林多喜二は特高に虐殺された。自白を引き出すための拷問ではなく、はじめから殺すことが目的の、あまりに凄惨な暴力であった。新聞各紙は「決して拷問したことはない。あまり丈夫でない身体で必死で逃げまわるうち、心臓に急変をきたしたもの」という「警視庁特高課のコメントをうのみにした」記事を掲載したが、「これを信じた読者は少なかっただろう」。

さらに「一九六七年一月に国会で虐殺のじじつかくにんをもとめられた当時の稲葉修法相は、「答弁いたしたくない」とつっぱねている。公知のじじつなのに答弁したくないという「答弁」が公的にまかりとおり、メディアもとくにさわぎはしなかった。

一九三六年には「共産党潰滅の功労者に恩遇」が与えられ、「叙勲・賜杯」が行われたが、その中に多喜二虐殺に関わった特高が含まれていたにも関わらず、「わたしの知るかぎり、この「栄典」は戦後も公式に撤回されていない。撤回し反省すべきだというマスコミの論調も寡聞にして知らない」。

小林多喜二が殺されたということは皆わかっていたが、これは「スルー」された。そして戦後になってもなお続ける居直った答弁もまた「スルー」された。
「解説」で徐京植は、二〇一三年にオリンピック招致のため安倍晋三が原発を「アンダーコントロール」であると「厚顔無恥な虚言」をしたにもかかわらずこれを「歓迎し喝采」した人々を見て、「日清、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争当時から、おそらく人々はこうであったのだろう」と思ったとしている。、戦中の日本人は政府や軍部に「ダマされていた」のではない。「ダマされたのではなく、それをみずから望んだのだ。自己の利害や保身のために、多かれ少なかれ国家や軍部と共犯関係(辺見庸のいう「黙契」)を結んだのである」。

辺見はこう書く。
「ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて「自由なる主体となった」か。ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符が打たれたのか。超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されてしまったのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ)」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者やつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、いま、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言をひかえ、知らずにはすまされないはずのものを知らずにすませ、けっきょく、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか」(下 p.222)。


辺見庸と村上春樹。早稲田出身という以外にはさして共通点のなさそうな二人であるが、二人の父はともに兵士として中国に赴き、そして息子たちはそこで何があったのか、何を見聞きしたのかを、父に最後まで問うことができなかった。

村上のデビュー作『風の歌を聴け』には中国とそこでの戦争のイメージがすでに存在している。そして南京虐殺が登場する最新作の『騎士団長殺し』にいたるまで、この関心は繰り返し作品に表れている。

一九四四年生まれの辺見と四九年生まれの村上を同世代としてもいいのかもしれないが、一方で戦後生まれの村上と、まだ見ぬ息子の写真を中国から所望する父の手紙が残っている辺見とでは世代的に隔絶があるとも考えられる。

この二人の類似と差異はこの『1★9★3★7』と川上未映子による村上へのインタビューである『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中からもうかがえる。

村上はこう言っている。
「日本人は自分たちだって戦争の被害者だという意識が強いから、自分たちが加害者であるという認識がどうしても後回しになってしまう。そして細部の事実がどうこうというところに逃げ込んでしまう。そういうのも「悪しき物語」の一つの、なんというのかな、後遺症じゃないかと僕は思います。結局、自分たちも騙されたんだというところで話が終わっちゃうところがある。天皇も悪くない、国民も悪くない、悪いのは軍部だ、みたいなところで。それが集合無意識の怖いところです」(p.97)。

『ねじまき鳥クロニクル』の中の「動物園襲撃」については、村上はこう語っている。
「虐殺の話。日本兵が動物園の動物を殺したり、脱走兵を殺したりする。あれ、たしかバットで殴るんですよね。その行為自体はもちろん「悪」ではあるんだけど、その個人レベルの「悪」を引き出しているのは軍隊というシステムです。国家というシステムが、軍隊という下部システムを作り、そういう個人レベルの「悪」を抽出しているわけです。じゃあ、そのシステムは何かというと、結局のところわれわれが築き上げたものじゃないですか。そのシステムの連鎖の中では、誰が加害者で誰が被害者か定かにはわからなくなってしまう。そういう二重三重性みたいなのは、常に感じています」(p.89)。

「悪」を抽出システムは「結局のところわれわれが築き上げた」というのは、「わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべき」という辺見の問題意識と重なっているだろう。

辺見の父も、村上の父も、志願して好き好んで戦地に赴いたのではない。そういう点では戦争の被害者であるが、その被害者が国家というシステム、軍部という下部システムに飲み込まれて加害者となるし、そのシステム自体はそもそもが「われわれが築き上げた」という点ではやはりその加害者性を見逃してはならない。村上の視点はそこが強いだろう。一方で辺見は、父が何をしたのか、そして父がなぜそれを戦後も語らなかったのか、自分はなぜそれを訊けなかったのかにこだわる。それこそが天皇をはじめとする支配層の戦争責任を問えなかったことにもつながっているのではないかとする点では、辺見と村上の意識は微妙に異なっているようにも考えられる。

いずれにせよ、兵士の息子の世代によるこの問いかけが孫の世代(これは僕がまさにそうである)にまで受け継がれているかといえば悲観的にならざるをえず、だからこそ今このタイミングで辺見や村上の世代がこのように語っているのだろう。問われているのは「「わたし(たち)」の世代でもあり、それは問い続けることができるのか、という問いである。



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