『シーポフの冒険  あるいは今は昔のボードヴィル』

ブラート・オクジャワ著 『シーポフの冒険  あるいは今は昔のボードヴィル』






自由主義的な傾向を持つ退役将校レフ・トルストイ伯爵が自分の領地に農民に読み書きを教える学校を開いた。これだけなら目くじらをたてるほどのことではないかもしれない。しかし伯爵は大学を中退した若者たちを教師として招き寄せている。しかもその中には政治的に剣呑だとして当局からマークされている人物が含まれているようなのだ。ロシア帝国の秘密警察、第三官房にこのような報告が届く。

念のためにその内情を探る必要があるかもしれないが、「ただし、最終的に真相が究明されるまでは、決してトルストイ伯爵に面倒をおかけしないようにすべてを取り計らねばならない。蓋し、伯爵の事業に非難すべき点などなかった、ということもあり得るからである。ついでながら、私はほとんどそう確信しているのだが……」と、ドルゴルーコフ公爵はポターポフ少将に宛てて覚書を書いている。疑わしいところはあるかもしれないが、その可能性は低いので穏便に済ませなくてはならない。したがって「細心の注意を要するこの種の機密の任務を遂行し得るような密偵の参加と協力が得られる」ことが必要となる。そこで浮かんだのが、ドルゴルーコフ公爵の元使用人で、現在は「こそ泥の捜索にかけては達人」として知られる刑事シーポフであった。

シーポフは怪しげなアマデイ・ギーロスという警察の協力者を助手にトルストイ伯爵に近づくことを試みるが、この口八丁手八丁の「アマデイ太」、どうにも信用がおけず妙な具合になっていく。シーポフ自身も、こちらが命をかけてやっているというのにたった40ルーブルごときでこき使われるとは、いったい何のためにこんなことをやっているんだという気分になってくる。ついにトルストイ伯爵邸の地下に印刷機が持ち込まれ、大量の元学生が集結しているという報告書をでっちあげ、シーポフは工作費として6千ルーブルを手にするが……


捧腹絶倒奇想天外な物語が展開されるのであるが、驚くべきことにこれは実話を元にしているのである。もちろん虚構化されているところもあるとはいえ、作中に引用される報告書や書簡などの多くが実際のものをそのまま使っているという。もっとも、「信じがたいほど可笑しな事件だが、さりとて、これだけをとりあげてとやかく言うほど重要でもない――という訳で、いままでこの事件を本格的に扱った研究もほとんどなく、数あるトルストイの伝記のどれを取っても、この事件に関する詳しい記述は見当たらない」。

オクジャワは1932年に発表された「ほとんど唯一の信頼できる資料」を参考にこの小説を書いたようだ。本作は「歴史小説」であるが、それはトルストイの『戦争と平和』のような作品とも、司馬遼太郎的作品とも異なる。「オクジャワの歴史小説では常に、自分たちの進む方向さえ正確に知り得ない、平凡で「ちっぽけな」人間たちが主人公になっている。オクジャワ自身こう語っている。「私が興味をひかれるのは、ごく普通の人々であって、傑出した人物ではありません」。

本作のシーポフもまたそのような「平凡で「ちっぽけな」人間」だ。彼は農奴解放によって自由を得た「エマンパシオン」であるが、それによって蔑まれ、またかつての経験がトラウマのごとくこびりつき、同時に公爵への思慕の念も抱き続けてもいる。歴史に翻弄された人間であり、歴史の限界の中に生きる人間であり、当局によって踊らされてしまう人間であるのだが、思わぬ結末に象徴されるように、また強大なロシア帝国の警察機構を右往左往もさせるのである。

シーポフは警察国家への抵抗を試みたのではないし、彼の思考法や振る舞いはなんとも小市民的である。そして歴史の中で名もなく消えていく多くの人間がシーポフのような人間でもある。オクジャワは共感をこめて「平凡で「ちっぽけな」人間」を描き出しているが、それは埋もれた歴史を掘り起こすことにとどまらず、「現在」の世界を映しだすものであり、そして何よりも「私」について語ることでもある。


訳者の一人沼野充義の『永遠の一駅手前』で紹介されていたので手に取ってみたが、確かに「とにかく面白いことは保証いたします。翻訳をしている間、私たちは笑わされ通しでした」との言葉通りの作品であった。


『ギリシャ語の時間』

ハン・ガン著 『ギリシャ語の時間』





男は視力を失いつつある。かねてからの診断通り、四十歳前後での失明は避けられないようだ。彼は十代半ばで家族とともにドイツに渡り、ギリシャ哲学の学位を取った。人生の半分を韓国で、半分をドイツで過ごしてきた彼は、迫りくる失明を前に「母国語を話せる場所に戻りたい」と、家族の反対を押し切って単身帰国し、カルチャースクールで古典ギリシャ語を教えている。

女は再び声を失った。また「あれ」がやって来たのだ。彼女は三歳でハングルの文字を一人で身につけ、四歳になると音韻をはじめとする構造の解析にのめりこむようになった。そのせいで、平凡な成績だったのに母はこの子は頭がいいと言い続けた。十六歳のとき、突然「あれ」がやって来た。彼女は声を発することができなくなった。彼女が声を取り戻すきっかけになったのが、韓国語でも英語でもなく、なじみの薄いフランス語の授業でのことだった。大学を卒業し、編集者となって詩集も出版した。結婚して子どもを産み、離婚をして裁判で養育権を奪われた。大学で教鞭をとっていたが、授業の最中突然話すことができなくなった。かつてフランス語によって声を取り戻したように、かすかな希望にすがってカルチャースクールで古典ギリシャの講座に通い始める。


古典ギリシャ語には中動態がある。「「買う」という意味を持つ動詞に中動態を用いると、何かを買って結局自分のものにしたという意味になります。「愛する」という動詞に中動態を当てはめると、何かを愛して、それが自分に影響を与えたという意味になります。英語にkill himselfという表現がありますね? ギリシャ語ではhimselfを使わず、この中動態を用い、単語一つでそれを表せるのです」。

ヨーロッパの言葉であっても、現在は中動態は失われた。中動態を用いた言語によって世界をとらえていた頃と、中動態のない言葉によって世界をとらえている今、世界は人間にとって同じものに映っているのだろうか。言葉は人間が生み出したものであると同時に、人間は言葉によって規定され、縛られる。泳いでいる最中に、自転車に乗っている最中に、自分はなぜ水に浮いているのか、なぜ自転車は倒れないのかと考え始めた途端に筋肉がこわばり、バランスを逸してしまうということがある。

「無意識」で行っていたことを改めて考えてみると、自分の行っていることがなんとも奇妙に感じられ始め、そう感じるようになるとなにもかもが耐えがたくグロテスクに思えるようにさえなる。言葉はその最たるものだろう。音と音の組み合わせが意味を持つとはどういうことか。線と線との組み合わせの連なりによって何かを伝え、何かを読み取ることができるとはどういうことなのか。「意味」というのはそもそもいったいどういうものなのか。言葉に、文字や音声に鋭敏な感覚を持っていた女が声を失ってしまう理由の一つがこれだろう。同時に、彼女には別にわかりやすい原因がある。子どもを奪われたことはショッキングな出来事であったが、彼女はその影響が心身に及んでいることを認めたがらない。

世界はありのままに、ただ世界として存在しているのだろうか。E・M・フォースターにならえば、目の前にいるあの牛は、自分の視界から外れてもまだ存在しているといえるのだろうか。この世界はいかに成り立っているのか。人間は世界をありのままに認識するのではなく、感覚を通して知覚し、それを解釈をすることで世界を作りあげているとしてもいいのかもしれない。視覚を失うということは、目の見える人間が目を閉じるのと違い、世界に対する認識の有様が一変することなのかもしれない。視覚を失ったとしてもこの世界が崩壊するのではない。しかし今まで認識してきた世界が大きくその形を変えることになるのかもしれない。

言葉の問題は哲学に行きつくし、身体性を抜きに哲学を語ることもできない。視力を奪われつつある男と声を失った女とが出会い、そのことでまたそれぞれの世界の有様が揺さぶられていく。もちろんそれは無から生じたものではなく、男も女も過去を回想し、とりわけ男は手紙などを通して他者に語り掛けるように、これまで積み重ねられてきた世界を抜きに新たな世界に到達するのではないし、また交わることのなかった二つの世界が一つに溶け合うのでもない。

過去は失われることもなければ過去を消すこともできない。未来は開かれているが、それは無限ではない。同時にそれは、そこには「奇跡」としか言いようのないような何かがある可能性を排除するものでもない。本作におけるその触れ合いは、回復の物語ではあるが、「癒しの物語」といった陳腐さとは異なる。また哲学的思弁小説であるのかといえば、それとも異質であろう。男は哲学ではなく文学に向いていると言われた。それは「丸い三角について語」ろうとしていたということなのかもしれない。ぱっくり開いた傷は、くっついたとしてもその傷跡が残り続ける。傷を負った身体を通して現れる世界は、傷のなかったかつてのその世界とは同じものではない。その傷跡を認識したところで、分析したところで、傷そのものが消えるのではない。「何か」とは傷跡を消してくれるものではない。目の前に立ち現れる世界は決定的に変化したし、その流れを押しとどめることはできない。その奔流の中で、人は「何か」を求めて手を伸ばし続ける。


本作はボルヘスの引用から始まり、「男」の造形はボルヘスのそれをふまえている。訳者あとがきで斎藤真理子も指摘しているように、その結末は円環状になっていながら微妙にずらしているといったあたりもボルヘス的といえばそうである。しかし多くの読者は、この作品を読んでいる最中はこれをボルヘスへのオマージュとは受け取らないだろう。個人的にまず連想したのはレイモンド・カーヴァーの『大聖堂』である。カーヴァーのこの作品は「危機」を乗り越えた後に生み出されたものであるが、訳者あとがきによると、ハン・ガンは作家としてある種の危機にあり、『ギリシャ語の時間』はそれを乗り越えるために紡ぎ出された作品であるようだ。そのパセティックといってもいい手触りは作中に遍く響いているし、それはボルヘス的世界からは遠いようにも思える。しかし、ボルヘスもまた必ずしも思弁的世界に逃避し現実から遊離したのではなく、そこには光を失うことへの不安や、新たな世界が立ち現れることへの探求心(それをある種の希望とすることもできよう)も存在していたことを思えば、ハン・ガンが自身の置かれた環境を通してボルヘスを見つめなおしたものだとすることもできるのかもしれない。


『瀬川昌久自選著作集 1954~2014  チャーリー・パーカーとビッグ・バンドと私』

『瀬川昌久自選著作集 1954~2014  チャーリー・パーカーとビッグ・バンドと私』





1924年生まれの瀬川昌久が54年から2014年にかけて書いた、単行本未収録原稿をまとめたもの。

とりわけ注目すべきは、「解題」で大谷能生が「バードの生演奏をきいた」、「当時もおそらく、現在ではもちろん」、「唯一の日本人の記録」であるとしている「渡米音楽日記 にゅーよーく・あらべすく」だろう。当時銀行に勤務していた瀬川が業務のため1954年にニューヨークに滞在したときの記録で、貴重なライヴの数々はもちろん、50年代のニューヨークの雰囲気などに関心がある人なら、ジャズなどに通じていなくても興味深く読めるだろう(というか僕がまさにそうであった)


それにしても、本書を読んでいると「文化資本」というやつをまざまざと見せつけられるようでもある。

「私が初めて海を渡って外国に行ったのは、生まれて間もない二歳のとき、父母と一緒にロンドンで一年近く住んだ。父が東京市に勤め、市がフランスで発行した外債の償還問題をめぐってフランス政府と交渉するために、ロンドンに居を構えて、パリとの間を往復していた。一九二六年頃のロンドンやパリは、ミュージカルやレヴューがたいへんに盛んで、父母は私をマンションにおいて、よく見物に出たらしい」、と書き出される「旅の絵本」。

「再び海外に出たのはもちろん戦後のこと、銀行勤めをするようになって昭和二十八年、昭和三十一年と二度ニューヨークに滞在した。このとき忘れられないのは、三島由紀夫がやはり長期間来ていて、何度となく一緒に遊んだことである。彼とは浅からぬ因縁があって本名・平岡公威の学習院初等科時代からずっと大学まで一緒だった。公威という名は、彼のご両親が懇意だった私の親戚古市公威の名をとってつけられたときく。学校時代から色白の文学青年で体操や教練は大嫌い、というほうで、我々が昭和十九年に学と出陣したときも彼だけは兵役を逃れたので、私の新調したばかりの大学の制服を彼に着てもらうことにした」、とのことである。


「ジャズと私」にはこんな箇所がある。

「戦争を境とした日本ジャズ界の苦難期に、もう一つ是非記録に止めておきたいグループがある。それは本来ハワイアンとして出発した朝吹英一主宰のカルア・カマアイナス(後の南海楽友)の演奏活動である。純粋のジャズではないという理由で看過ごされがちだが、このグループは二つの意味で極めてユニークな業績を残した。一つは、そのメンバーが皆アマチュアでありしかも名門の出であったこと、メンバーは朝吹英一(Vib、SGt、父君が元三越社長)、東郷安正(b、元貴族院議員東郷男爵令息)、芝公路豊和(G、唄、靖国神社禰宜芝公路子爵令息)、原田敬策(Uke、西園寺元老秘書の原田熊雄男爵長男)。それにマネージャーを兼ねたギターの朝比奈愛之が現之村いずみの父君に当たるという変り種の集まりであった」。

「お坊ちゃんたちの素人芸くらいにしか思わぬ人も多いだろうがさに非ず」、ジャズが禁止された後「それに比肩し得る音楽的水準を有するほとんど唯一の代替物として非常に歓迎され、広く愛唱されたのであった」。

ジャズが禁止された後も活動できたというのは、お坊ちゃん揃いであったことの影響というのはあったのだろうか。80年代に日本でいち早くヒップホップにはまったうちの少なからぬ人がお坊ちゃんであったことを連想させなくもないとも思えてしまった。


巻末には大谷能生が司会を務めた瀬川昌久と蓮実重彦の対談、「アメリカから遠く離れて」が収録されている。

真珠湾攻撃の晩に瀬川がトミー・ドーシーのレコードを大きな音でかけていると、両親が「今晩だけはやめてくれ」と言ったというエピソードが語られる。蓮実は「今晩だけ」に注目し、「今晩以外」は「アメリカの音をきいておられたのですか」と質問している。
瀬川は隠れてなどではなく、「ずうっときいていましたね」としている。

また「政府がジャズや敵性レコードのリストを出してそれでみんなのレコードを供出させ」るというレコード供出令が出された後、瀬川が江戸川橋の親しくしているレコード屋に行くと、「そこのご主人が座ってるところにたくさんおレコードがあるんですよ。で見たら、ベニー・グッドマンなんかがあるんで、これはどうしたんだって訊いたら、供出レコードだって。それじゃあ俺が全部買うから安く譲ってくださいってまとめて買ったんですよ」というエピソードがある。
百枚か百五十枚ほどだったそうで、どうやって運んだのかはっきり憶えていないようだが、本来は溶かして資源にするためのもの、蓮実が「そうすると、まあ未成年ながらあえて犯罪を行った。反国家的な行動ですよね」と言うと、瀬川は「まったくそういう意識は無かったですね」としている。

瀬川を特権的階級とまでしていいかはともかく、普通の家庭で育ったとは言いかねるし、このあたりもお目こぼしがあったがゆえと感じられなくもないのは、こっちの僻み根性ゆえであろうか。


蓮実は「昭和十八年か十九年に本郷の法文系二十五番教室」で『風と共に去りぬ』が上映されたことを取り上げている。「これは記録が残っているんです。誰が主催して敵国の総天然色作品の上映会をやったという記録ではなく、たぶん学徒動員の雨の行進の前後だと思うんですが、ひそかに上映され、かなりの方がそれを観たという証言が残っているのです」としている。
まさにその時に東大に在学していた瀬川は「昭和十九年、東大のなかで? いやぁそれはちょっといままで知りません」と答えている。

はたしてこれがどういう経緯、形での上映であったのかはわからないが、ささやかなアジールとでもいえそうなこのエピソードも、東大であったがゆえに可能であったのかもしれない。


文化資本自慢合戦をしているわけではないだろうが、蓮実も負けずに(?)母から『巴里祭』の主題歌を戦前からよくきかされたことや、父がドイツ映画好き、母がフランス映画好きなのかと思っていたら、父から一番好きな俳優はジョージ・バンクロフトだといわれ、『駅馬車』でシェリフ役をしているとはいえきいたことのなかった名であったが、パリ留学中の大学院時代に『ニューヨーク波止場』(1928年)、『暗黒街』(1927年)などを観て、「なるほどこれは面白い役者だなあと思いましたが、父も結局はアメリカ映画好きだったようです」としているのだが、こういう環境で育つというのもなかなかあるものではないだろう。

蓮実がフランス留学中に、「父が美術史を教えておりました京都大学に研修で来ていたデンマーク国立美術館の東洋部長」である「「父のガールフレンドという変な女性」が、パリに滞在しているならコペンハーゲンに来てうちに泊まっていけと呼んでくれたことがあったそうだ。ベルイマン映画の現場を見られるのならと学生団体に登録し、スウェーデンやノルウェーを回った。 そこで偶然に見ることができたカウント・ベイシーは、「こんなにずんぐりむっくりのおじさんだったんだと思った」そうである。

『地下鉄道』

コルソン・ホワイトヘッド著 『地下鉄道』





アメリカ合衆国はかつて奴隷制度をめぐって、奴隷制度のない北部の自由州と奴隷制度のある南部の奴隷州とに分かれていた。では南部に住む白人が全員奴隷制度に賛成していたのかというと、もちろんそうではない。奴隷制度に反対している人や、奴隷の境遇に同情を寄せる人々は、逃亡奴隷を北部やカナダに逃すために地下組織を作っていった。その組織は地下鉄道と呼ばれた。

「地下鉄道」は現実に存在していたが、言うまでもなく「鉄道」というのは様々なネットワークを表す比喩だ。もし奴隷たちを逃がすための「鉄道」が文字通りにアメリカ南部の地下に張り巡らされていたら……この『地下鉄道』はそのような想像力によって紡がれた物語である。


「訳者あとがき」でも触れられているように、この小説の中には明らかに南北戦争以後、奴隷制度廃止以降のイメージが紛れ込ませてある。これは粗雑なリサーチのせいではなく作者の意図であることは明らかだが、この手法には危うさと可能性の両面があるだろう。

奴隷制度の廃止によって、アメリカの黒人たちの置かれた立場は根本的に変わったのだろうか。KKKの創設や繰り返されるリンチ、「奇妙な果実」のイメージに象徴されるように、黒人に対する暴力と収奪は収まることはなかった。

自由州と奴隷州とを分けるのは「メイスン=ディクスン線」であった。ピンチョンはこの境界線を図らずも引くことになってしまった二人の測量士を主人公に『メイスン&ディクスン』という作品を書いている。ピンチョンはここで建国の父たちを胡乱な存在として描き出している。初代大統領ワシントンは奴隷所有者であり(付け加えるとワシントンは遺言で奴隷を解放しているが)、格調高く理想主義に貫かれた独立宣言の中心的起草者であるジェファーソンに至っては所有する女性奴隷に自らの子どもを産ませている。アメリカ合衆国建国のその端緒からして、アメリカは暴力と収奪に汚染された場所であった。ホワイトヘッドもこの感覚を引き継いでいるとしていいだろう。黒人奴隷たちが耕す土地は先住民から収奪した土地である。「白人」扱いされずに差別をされていたアイルランド系などの非WASPの移民が「白人」となることで黒人を差別する(あるいは「白人」になるために差別する)ようになる歴史は、ヒスパニック系への差別といった形で現在でも繰り返されている。

「コーラは考えた。いつかあらたな移民の波がアイルランド人に取って代わるだろうと。べつの、さらに惨めな国からひとびとが逃げてくる。そしておなじことを一から繰り返す。綿花の機関は蒸気を吐き出し、唸りを上げて走り続ける。ピストンを動かす燃料が移り変わっていくだけだ」。

主人公である逃亡奴隷のコーラがこう考えるように、『地下鉄道』はアメリカ合衆国が、アメリカという土地が、現在に至るまで克服できない負の歴史を俯瞰した物語でもある。

しかしこの手法には危うさも感じられなくもない。普遍化することは抽象化にもつながりかねず、コーラをはじめとする人々の、一人の人間としての「ヴォイス」が弱められかねない。適切な例えかはわからないが、こう考えてみよう。日本における60年安保と70年安保は運動の当事者たちからすれば全く別物だ。それを後の人間が両者のイメージをあえて混同させることによって抽象化し、日本社会のある種の面を描き出そうとしたなら、それは普遍化された日本社会の姿をあぶり出すことには成功するかもしれないが、当事者にとっては受け入れがたいものであろう。

もちろん、ホワイトヘッドは詳細なリサーチによって奴隷が受けた陰惨な暴力の数々を描き出しており、登場人物を書割化しているのではない。危うさを感じさせなくもない手法でありながら広く称賛を集めたのは、登場人物たちがのっぺりとした操り人形といったイメージは与えていないからだろう。とはいえ、「あえて」のこととはいえ、時代を越えたイメージをそれとなく紛れ込ませることにはやはり注意は必要であろうとも思う。


一方で、もしも19世紀アメリカの地下に鉄道網が張り巡らされていたらという奔放な想像力は、なんといっても「面白い」物語へとつながる。母を捜しながら鉄道に揺られ、奴隷狩りに追われながら様々な土地を経めぐる逃亡奴隷コーラの物語は、鉄道つながりでいうと『銀河鉄道999』あたりもつい想起してしまう。また、南部奴隷州といえども一様ではない。差別の濃淡や社会の有様も州ごと、地域ごとに大きくことなる。またこれは自由州において、あるいは地下鉄道に参加する人々にしてもそうだ。俯瞰的な視点によって描かれることによってこれらがより浮かび上がってくることになる。

全体としてはやはりホワイトヘッドの試みは成功しているだろう。「副作用」として一人の奴隷の個の「ヴォイス」は少々弱められたとしても、物語の持つ力、「地下鉄道」の喚起するイメージは強力なものである。

「アメリカこそが、もっとも大きな幻想である。白人種たちは信じている――この土地を手に入れることが彼らの権利だと、心の底から信じているのだ。インディアンを殺すことが。戦争を起こすことが。その兄弟を奴隷とすることが。この国は存在すべきではなかった。もしこの世に正義というものがひとかけらなりとあるならば。なぜならこの国の土台は殺人、強奪、残虐さでできているから。それでもなお、われらはここにいる」。

「ここにいいる」、「われら」は、ただ無力に流されていくだけなのだろうか。そうではないはずだ。そうではないからこそ、「それでもなお」、アメリカ合衆国は生きながらえているとしてもいいのかもしれない。

「地下鉄道はその運営者たちよりおおきい――それはきみたちすべてなんだよ。ちいさな支線も、おおきな本線も。ぼくたちには最新の蒸気機関もあれば、旧式の動力もある。あんなふうなトロッコも。それはどこにでも行く。知っている場所へも、知らない場所へも。ここにトンネルがあって、ぼくたちの真下を通っているけど、どこへ続いているか誰も知らない。地下鉄道を走らせ続けても、ぼくたちにはわからないんだ。でも、きみならわかるかもしれない」。

「地下鉄道」はまた、アメリカそのものでもあるのだ。


『ロベスピエール』

ピーター・マクフィー著 『ロベスピエール』





訳者あとがきによると、「ロベスピエールについて日本語で読める書籍は意外に限られている」のだそうだ。その知名度からすると、意外なほど伝記も研究書も数は多くはない。一方フランスや英語圏では今でも盛んにロベスピエールの研究が行われており、本書もその成果である。

では日本とフランスでロベスピエールへの評価が大きく異なるのかというと、必ずしもそうとばかりはいえないようだ。「一九八九年のフランス革命二百周年の際に行われたフランス人の世論調査によれば、彼こそ最も否定的な感情を呼び起こす人物であり、好感度ではルイ一六世やマリ=アントワネットにすらはるかに先行を許していることが明らかになった」。

ロベスピエールの名はギロチンによる大量処刑(実際にはイメージされるほど多数の人命を奪ったわけではない)に結び付けられ、忌避感が強いというのは日本とフランスにおいて共通しているとしていいだろう。しかし違いもある。やはり「一九八九年の一連の記念事業をアカデミックな立場から組織する責務を担っていた」、ソルボンヌ大学教授のミシェル・ヴォヴェルは「なぜ私たちは依然としてロベスピエールを支持するのか」というタイトルの講演を行っている。ロベスピエールの名を冠した高校が誕生するなど、彼の理想を評価する立場も左翼を中心にある。

「ロベスピエールは近代最初の冷酷で狂信的で尊大な独裁者、スパルタ風の「徳」の国という、妥協を許さない自身の理想を押しつけようとその政治権力を行使した妄想狂だったのだろうか。それとも、信念を持ち、自己犠牲もいとわない先見性のある人物、圧倒的な軍事的困難にもかかわらず革命と共和国を導き、その危機を救うことに成功した革命の偉大な殉教者だったのか。個人の自由の制限、共和歴二年(一九七三~九四年)の「恐怖政治」による大量の逮捕と処刑、これらは革命を救うために払われるべき必要な代償だったのだろうか。あるいはこの年は恐怖と不必要な死、投獄と困難の時代だったのか。ロベスピエールは常にこの二つのイメージに分裂した人物」であり、すでに書いたようにフランスでも「そのネガティブなイメージの方がはるかに強い」。

誹謗者も護教論者も、ロベスピエールを「革命の権化」のように見る。「彼らにとっては、革命へのスタンスとロベスピエールへのスタンスとはほぼ常につながっているのである」。ロベスピエールへの評価はフランス革命への評価と切り離すことができず、そのためどちらの立場に立つにせよそこに縛られたものとなる。著者自身も例外ではないし、それを自覚してもいる。その限界をふまえつつ、ロベスピエールとはいったいいかなる人物、政治家であったのかに迫ろうとするのがこの伝記である。


マクシミリアン=マリ=イジドール・ドロベスピエールは一七五八年にフランスのアラスに生まれた。「彼はのちに単にマクシミリアン・ロベスピエールとして知られるようになる」。ドロベスピエール家は貴族ではなかったが、貴族を表す「ド」を名乗ることを許されていたように、この地方の法曹界の名門一族であった。しかしマクシミリアンの人生は、彼が誕生する前から不穏な空気に包まれていた。マクシミリアンの両親が結婚式を挙げたとき、母となるジャクリーヌはすでに妊娠五カ月だった。「カトリック教会の影響力の強い敬虔な町にあって」、このような形での結婚はスキャンダルであったし、父となるフランソワの両親は結婚式に出席しなかった。一方でフランソワの父はその後孫の代父になっていることを考えると、深刻な不和が一族にもたらされたというわけでもなかったようだ。

フランソワとジャクリーンの間にはマクシミリアンの後に二人の女の子と一人の男の子が生まれたが、五番目の子どもの出産時にジャクリーンは亡くなる。マクシミリアン六歳の時だった。父フランソワはといえば、妻の葬儀に出席すらしなかった。彼は別の場所で法務官の仕事についており、また折を見て帰郷した際にも子どもたちに会ったり、養育しようとしたこともなかったようだ。兄弟たちはばらばらに親戚に育てられることになる。多くの伝記作者が、この幼少期の体験がマクシミリアンのその後に大きな影を投げかけたとしている。しかし著者は「マクシミリアンは、人生最初のきわめて重要な六年間に、母親との間に愛情深い関係を持ち、そのあとは温かい親戚によって支えてもらった」という解釈も可能であるとしている。ロベスピエールが三十一歳で政治の表舞台に登場するまでの資料は極めて限られており、とりわけその内面においては多くを推測するしかない。そのために結果から演繹する形で、俗流心理学めいたもので彼の幼少期を描こうとする試みが強かった。

しかし著者が指摘する通り、確かに冷静に見ればマクシミリアンの辿った歩みは当時としてはそう不幸なものではない。学校に通い始めるとその優秀さが認められ、教会から奨学金を得てパリで学び、有能な弁護士として故郷に戻って来るのである。

ロベスピエールの人生を大きく変えたもの、それは幼少期の環境というよりも時代の状況であったのだろう。フランスの財政は火の車となっており、王は貴族の免税特権の廃止を模索し、貴族はこれに専制だと反発を強める。両者は自身の主張に正当性を持たせようと三部会に期待した。一方新興著しいブルジョワジーは貴族への不満を募らせており、「彼らの期待とは逆に、一七八九年の全国三部会招集によって、アルトワを含むフランス社会のあらゆるレベルで、社会不安が一気に噴出することになるのである」。

「全国三部会の招集によって、ロベスピエールは、自身の中でくすぶっていた不満をはっきりと表明し、自身根本的に不正であると結論づけていた社会システムを下支えする役割を果たしていた諸法院に対してではなく、むしろ「世論」の法廷に向けて、主張を展開していくチャンスを獲得する」。

といってもロベスピエールはすぐに頭角を表したわけではない。彼はカリスマ性に欠ける人物であり、演説もうまいとはいえなかった。彼を期待の星の押し上げたのは、その理想主義とともに、現実を見抜く目であり一貫した姿勢だった。革命の進展にともない外国との戦争になだれ込んでいこうとする人々がいたが、ロベスピエールはこの軽挙妄動を批判した。ロベスピエールは平和主義だったのではない。彼は革命と共和国を守るためなら断固たる措置を取るのを躊躇しない。無茶な戦争を仕掛けたところで益はないばかりか、かえって革命を危機に陥らせるとして反対したのであり、ロベスピエールの警告通り、オーストリアに戦争をしかけたあげくみじめな撤退を強いられると、彼に期待する声が高まった。

ロベスピエールは革命勢力の中ではとりたてて過激であったわけではない。ロベスピエールは「共和政の諸制度には、市民的徳の涵養、再生された社会がどうしても必要」だということがわかっていたが、一七九二年の時点で、まだそれには早いと、「共和政創設の要求に躊躇していた」。「人民は本来的に善であると彼は考えていた。しかし彼はまた、数世紀もの間の貧困と無知とによって、人民が堕落させられてきたことも認めていた」。
ロベスピエールは、当人の主観としても周囲の評価としても、空理空論を弄ぶ理想主義者というよりも、理想を掲げつつ現実的状況も視野にいれることのできる人物だと見られていたのだろう。


ではロベスピエールの理想とはどういったものだったのだろうか。

「「共通の幸福」とは単に個人の幸福の総体ではない。それはむしろ社会全体の健全さと調和である。ロベスピエールは繰り返し主張する。これは、非常に裕福な人と非常に貧しい人が存在する社会では達成しえないのだと。だからこそ、すべての権利の中で最も重要なものは、生存の権利」なのである。

ロベスピエールは「巨富を持つ人間ととりわけ金融資本を嫌悪」する。「国家、あるいは「社会」の役割とは、教育、社会福祉、社会参加の諸権利を通じて、みなが「公正な分配」を保証されている状態を確保することである。もし「人の所有物のうち最も重要な、人が自然から与えられら最も神聖な権利である自由」、これが他者の自由を尊重する必要性によって制限を受けるのが必然であるというのであれば、所有もまた、累進課税によって制限を受けなければなければならないだろう」。

このあたりは、著者が現代に引き寄せていることを括弧に入れたとしても、二一世紀の今日でもそのまま通用するかのようである。これはロベスピエールの先見の明を表すものであると同時に、彼はルソーから多くを受け取っているように、その時代の反映でもある。

ではその彼がなぜ「恐怖政治」へと足を踏み入れていったのだろうか。「彼の政治や社会に関する見方、そしてこれを達成するために必要な推進力は、やはりスパルタの理想にも多くを負っている。最高存在というアイディア、公的な恥辱ではなく死刑の限定的な適用、そして偉業達成への名誉以外の報酬の否認。スパルタを称賛する彼は、こうしたものをスパルタから借用するまでになる」。

ルソーとスパルタ、なんとも妙な取り合わせのようだが、ロベスピエールにとってこれは矛盾するものではなかった。

ロベスピエールは「人間の権利は「すべての国家に共通する普遍的な法典」であり、「どこの国の人間であってもお互いに助け合わなければならない兄弟である」とする。しかし、他者を隷属させようと戦争を起こす輩(ヨーロッパ同盟軍)は「悪党で殺人者」として扱われるべきだと警告している」。

このあたりは、今日における「リベラルな帝国主義」をも先取りしているかのようにも見えるが、当時の状況を考えると、フランスそのものがが反革命勢力と手を結んだ外国の「悪党で殺人者」によって蹂躙させられそうになっているのであるから、革命と共和国を守ることを最優先に考えるロベスピエールがこれに強く反撃するのは当然のことであったろう。

様々な陰謀がはりめぐらされていたのは事実だ。これは外国勢力のみによるのではない。古典教育を受けていたロベスピエールは、スパルタを理想としたように、もともと強い影響を古代ギリシャやローマから受けていたが、この状況の中さらにそれに傾倒し、そこから教訓を引き出そうとした。ロベスピエールはキケロに倣う。「いくら勝利を愛国心によって達成したところで、これをわれわれのすべての危機の終結と考えることが、いかに浅薄な考えであるか」と彼は強調した。「一七九三年終わりの軍事的勝利は、危機の終焉を意味しなかった。最も深刻な危機は今や国内にある」。

ロベスピエールにとって、世界は「共和主義者とその敵しか存在しない」ものとなった。「共和国にいる市民は共和主義者だけ」であり、「共和主義の敵は、まさに「国民の正義による復讐の刃」を感じることだろう」と考えた。

一七九四年二月には、ロベスピエールはこう演説する。「このような状況にあって、諸君の政治の第一の行動原理は、人民を理性によって導き、人民の敵を恐怖によって制することである。平時における人民の政府の主要な動力は徳である。革命の渦中にあっては、それは徳と同時に恐怖である。徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である。恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義のことである」。

ロベスピエールを肯定的に評価する人がいうように、ここで断固たる姿勢を見せないことには革命が頓挫していたことは確かだろう。一方で、「徳のない恐怖は忌まわしい」、つまり言葉を換えれば、自分たちが与える恐怖は徳のあるものであるというのだが、その徳の有無を判断するのはいったい誰であろうか。正しい目的のためならあらゆる手段は正当化されるという、その罠にロベスピエールは嵌まり込んでいった。

ロベスピエールは様々な陰謀を前に猜疑心をつのらせていくと同時に、健康状態がひどく衰え始めていた。この両者があいまって、ロベスピエールは正常な判断能力を失っていった。そしてロベスピエールの威信が低下すると、今度はあらゆる罪を彼になすりつけようとする人々が現れる(「これはみなロベスピエールの仕業だ!」とされていることに、ロベスピエールが言及している)。こうしてロベスピエールは、革命の負の部分の象徴とされてしまうのであった。

ロベスピエールが逮捕された時、彼は「「靴を脱がされ、靴下もふくらはぎのところまで下ろされていた。」野次馬は、すでに集まり始めていた。「彼の間近に寄った者のうち幾人かが、彼の右手を持ち上げ、顔をのぞき込んだ。ある者は「死んでないぞ。まだ温かいもの」といい、ある者は「立派な顔の王様じゃないか」ともいい、また他の者は「仮にこれがカエサルの身体でも、なぜゴミ捨て場に投げ込まれないんだ」と言っている」。

死刑判決が出ると、ロベスピエールは苦痛にうめきながらペンと紙を要求する仕草をしたが、この願いは退けられた。荷車によって処刑場に運ばれる長い行程で、彼は「取り囲む群衆からの嘲りを浴び続け」た。「なかなか愛くるしい王様じゃないか」「陛下、お苦しいですか」と嘲笑された。彼は十七時間も苦痛にあえぎ、ようやく処刑の時を迎える。ロベスピエール、三十六歳だった。


この最期はキリストを連想せずにはいられないし、また彼の掲げた理想を思えば、彼を「聖人」のごとく思いたくなる気持ちもわからなくはない。一九世紀のフランスは政治的に次々と混乱状況に陥るが、そのままではないにしろ、革命の理想の原理へと立ち返ろうとし続けたし、少なからぬ部分が現在にまで引き継がれている。ロベスピエールが断固として革命と共和国とを守ろうとしなければいったいどうなっていたであろうかという問いは、決して牽強付会ではない。同時に、「平和の時までは恐怖」という彼が陥った隘路は二〇世紀に起こった革命のそれでもあったのも事実であり、そのことから目を反らしてもならない。

この伝記を読めば、著者の見方に同意するかはともかく、フランスや英語圏でロベスピエールという人物、政治家に強い関心が寄せられ続けているその理由がよくわかる。日本ではとかく表象的イメージで片づけられがちなこの人物のその可能性と限界を今また問い直すことは、決して無駄なことではないだろう。


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佐藤太郎(仮)

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