『戦う姫、働く少女』その1

河野真太郎著 『戦う姫、働く少女』






『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』の冒頭、スター・デストロイヤーの残骸で部品集めをしているレイの姿を見て、『風の谷のナウシカ』の「冒頭を想起したのは私だけではないはずだ」。「腐海という巨大な菌糸類で探検するナウシカ」とレイのマスク姿、「そしてナウシカのライフル銃とレイの棍棒」、図版にあるように類似は明らかであり、J・J・エイブラムスの宮崎駿をリスペクトしているという発言からしても、これは意識的なものであろう。

そして「二人の類似性はこの見た目にとどまらない。二人とも、主人公級の脇役男性キャラクターとの対照で、その戦闘力が強調される」。
「重要なのは、それではこの類似性はいかなる歴史性から、いかなる社会の変化から生じてきたのか、という問題である」。

スター・ウォーズ・サーガだけをとっても、社会の変化は強く反映されている。旧三部作のレイア姫は「おとなしく騎士に救出されるがままになる、か弱いお姫様ではない」。「男たちにダメ出しをし」、自ら先頭に立って囚われの場からの「退路を切り開く」。しかし同時に、独房で眠っているレイアは「女性的な曲線を強調するようなS字形の姿勢で横たわって」おり、ルークは「思わず見とれる」。「つまり、レイア姫は先ほど述べたような「男まさり」を発揮する前に、まずは女性として性別化されているのだ」。

『帝国の逆襲』において、奴隷にされたレイアは「露出度が非常に高い」衣装を着せられているが、これはレイアが着せられているという前に、言うまでもなくレイアを演じるキャリー・フィッシャーが着せられているということである。レイアはフェミニストであるフィッシャーを映しだすキャラクターであると同時に、その主張がいかに受け入れられていなかったのかを表すものでもある。

フィッシャーはレイ役のデイジー・リドリーとの対談で有名な言葉を残している。「あなたは衣装については闘いなさい。わたしのような奴隷になってはいけない。[……]あの奴隷の衣装と闘いつづけなさい」。
「奴隷」にされていたのはレイアばかりでなく、フィッシャー自身でもあった。

この対談に明らかなように、フィッシャーとリドリーとの間で「フェミニストとしての母娘関係とでも言えるものが結ばれている」。同時に「フィッシャー/レイア姫とリドリー/レイとのあいだには、フェミニストとしての世代間の差違が確実に存在する」。

レイアは前述のような「みずからを女性として物象化しようとする力とつねに闘って」おり、「彼女の時に過剰とも思える強気さは、むしろそこから生じているのではないかとさえ考えられる」。これに対しレイの「力の抜け方」は際立つ。レイは「彼女を女性として対象化/物象化しようとする力からは自由であるように見える」。「全体的な印象として、レイは非常に中性的に描かれており、母の世代のフェミニストたちの苦闘などどこ吹く風という風情であると言ってよさそうだ。その姿は、双子であるが故にルークと同様のフォースを持っているはずなのに、ジェダイになって活躍することはなかったレイア姫の夢を実現した姿なのだろうか」。

フィッシャー/レイアは「第二波フェミニズム」に属する。これに対しレイは「ポストフェミニズム的」である。そして本書で詳述されるように、ポストフェミニズムは「新自由主義」によって生まれ出たものでもある。『風の谷のナウシカ』が実は時代に先駆けて冷戦以後の「新自由主義」的世界を内に秘めているといえば驚く人もいるかもしれない。しかし、レイに象徴される闘う女性の姿はすでに1980年代に「提示されていた新たなヒロイン像」と「ひと脈通じているらしい」ことを思えば、突飛な発想とは思えなくなってくるだろう。

「本書の目的は、これらの、ほぼ支配的となったと言っていい、闘う女性像のあいだに一体何が起こったのか、という疑問を解きほぐすことである」。


「はじめに」で著者はこうことわっている。「本書は基本的にポピュラー・カルチャーにおける女性の表象を論じる」ものであるが、「ポピュラー・カルチャー論としては構想されていない」。ポピュラー・カルチャーを「範囲の定まった対象とみなしてそれを教科書的・網羅的に論じること」が目的なのではなく、「むしろここ三十~四十年間に起こったわたしたちの社会と労働と文化の変遷を色濃くし表現している文化的な制作物を、ある意味では分け隔てなく、ある意味では恣意的にあつかっていく」。

このようなアプローチの宿命として、ところによって少々強引かなと思える読み込みもなきにしもあらずであるが、またこういったアプローチによって「一見関係ないと思われるような作品のあいだに意外な結びつきが見出される」という、著者が読者と共有したいという、「知的興奮」を生み出すことにも成功しているだろう。


本書の縦軸となるのが「新自由主義」、「ポストフェミニズム」、そして「承認と再分配のジレンマ」である。

「わたしたちの時代は」、濫用される「革命」という言葉で溢れかえっている。「新自由主義は革命であった」。サッチャー、レーガンなどによる福祉国家への攻撃という形で現実政治・社会を覆い尽くした新自由主義は、「全体主義の暗い記憶をネガとして描き」、「市場の自由とその中での競争」を「ポジの基本原理」とする。国有企業は次々とprivatization(民営化/私有化)されていく。「このような政治経済から出てくる個人の倫理とは「競争」の倫理である」。

労働組合などは「個人の競争を阻害するもの」とされ、「個人を市場の荒波から守る中間的なものも取り去らなければならない」とされる。サッチャーの悪名高き「社会などというものは存在しません」という言葉は、まさにこの価値観を極限まで押し進めたものだ。

サッチャー/レーガン路線を改めることが期待されたブレア/クリントン政権であったが、ふたを開ければむしろ新自由主義の忠実な後継者であったことが明らかとなった。そして「現代において貧困が問題にされる場合、それは階級[クラス]ではなく「アンダークラス」の問題として論じられる」。

ワークフェア、あるいはウェルフェア・トゥ・ワークを、ただ福祉を受給するのではなく働いて賃金を得ることによって尊厳が得られるようにできる社会にすべきだと解釈すれば、それは悪いものではないように聞こえるかもしれない。しかしその実態としては、「貧困問題は階級問題ではなく、道徳の問題」とされたのであった。「貧しい人間は社会制度と階級のせいではなく、個人的な道徳・倫理(の堕落)のせいで貧しいのである。したがって、その解決は個人を道徳的に矯正することを通じて行われる」。
「現代のワークフェアは、再分配と承認を脱構築し、貧困と労働をあくまで個人のアイデンティティの問題に結びつける」。

貧困は社会の問題ではなく堕落した人間による自己責任であるとされ、倫理的な矯正を拒み、強制された労働を受け入れない者は懲罰の対象とされるようになった。
ジェイミー・ペックはワークフェアの本質をこう評する。「労働を強制し、その一方で福祉を残滓化することを目的として、福祉受給者にさまざまなプログラムや義務的な要件を押し付ける」。
その結果何が起こったのかといえば、「ワークフェア政策は、安定的な就労を提供するどころか、「臨時雇い化され、リスクから守られておらず、不安定で脱社会化された労働人口」を生み出」すことになった。


本書から脱線すると、「デフレ脱却」を掲げるはずの安倍政権が、合理的に考えるとそれに逆行する政策である生活保護受給者をはじめとする貧困層への攻撃を繰り返している理由は明らかだろう。一部にある「安倍政権の経済政策はむしろ左派的である」という主張は、ブレア-クリントン政権を「左派」だとした場合には当てはまるのかもしれない。安倍とその周辺がサッチャーの模倣をしていることは、そのスローガン(「この道しかない」をはじめサッチャー政権そのままのものも含まれている)からも明らかだが、さらにはポストサッチャー時代をも取り入れている。そして「臨時雇い化され、リスクから守られておらず、不安定で脱社会化された労働人口」が増加することは、労働者の権利を抑圧して低賃金化を促し、雇用の調整弁として派遣社員など有期雇用の増加を狙う企業経営者にとっては大変望ましいのである。


閑話休題。
宮崎駿の『魔女の宅急便』は「やりがい搾取とアイデンティティの労働をみごとに示した作品」として分析できる。
キキは親元を離れ修行に向かう際に母親から「大事なのは心」というアドバイスに加え、「笑顔を忘れずにね」という忠告を受ける。この忠告は原作にはなく、映画によって加えられたものだ。これは「忠告というよりは予言、またはキキを縛りつける呪いの言葉」となる。キキは「能力を磨いたり、見知らぬ町で無事に暮らしたり、職業を得てお金を稼いだりというよりもなによりも、「笑顔でいること」が成功の条件として課されるのである。笑顔が成功の秘訣という意味ではない。笑顔でいること自体が成功なのである」。

そしてキキは「健気」な印象を与える「営業スマイル」をうかべる。「この瞬間に、キキの笑顔は文字通りに感情管理から感情労働へと変換されている」。

キキはパン屋のおソノに出会って間もなく「あなたが気に入った」と言われる。そしてキキの仕事の成否は「宅急便の運び人としてのスキルよりも、いかなる人的コネクションをつくるかにかかっている」。「もっとも成功するのが、ニシンのパイの宅配を依頼する裕福な老女とのコネクションである」。

おソノや裕福な老女に気に入られるというのは、始終仏頂面を浮かべていたのでは、まずあり得ないであろう。キキは飛ぶ能力を失うと、猫のジジに向かって「素直で明るいキキはどこかに行っちゃったみたい」と言う。この「素直で明るい」という言葉は、「外国語への翻訳がかなり難しい概念」である。英語のhonestにはobedienceというニュアンスは含まれないが、日本語で「素直であること」は「従属的であること」と「魔法のように結合された日本独特のジェンダー概念」であり、ここでキキの労働が「ジェンダー化された感情労働であること」が物語られている。「キキの魔力、宅急便をするために必要な、飛ぶという能力と、「素直で明るい」ことは一体なのであり、能力の喪失とはすなわち感情管理、アイデンティティ管理の失敗のことなのだ」。

映画『魔女の宅急便』は、『僕だけがいない街』などと同様に「ひとりぼっちの人生は失敗である」という「コミュニケーション能力を強調」する「ポストフォーディズム」的な面を持ち、また常に笑顔でいることが求められるのは、働いて賃金を得ることによって尊厳を得ることを強調し(この作品においてキキの始める宅急便の仕事は、「クリエイティヴな自己実現をともなう職業として描かれる」)、社会の問題を個人の倫理にすり替える新自由主義ともリンクする。

宅急便を介護職に入れ換えて考えてみるとよりはっきりとするかもしれない。介護士の不足は明らかに劣悪な労働環境と低賃金が原因であるが、行政側は介護はやりがいのある仕事であるというイメージ戦略によって介護士不足に対処しようとする。行政が手掛ける啓発ポスターに、疲弊しきって暗く沈む介護士が登場して待遇の改善が訴えられることはまずないだろう。そこにいるのはフェイスブックで「いいね!」が押されるような、キラキラと輝かんばかりの笑顔を浮かべた、「素直で明るい」と評されるであろう人物だ。そしてこのような「素直で明るい」人物は、労働組合を結成したり、行政や政治に政策の歪みを改善するよう激しく迫ることのない、「従順」な人物でもあろう。


2014年に公開された『魔女の宅急便』の実写版は、「女性の活用、つまり男女共同参画社会のプロジェクト」とタイアップした。そればかりか、「余談」として付け加えられているように、「あのワタミともタイアップ」しているのである。

「働く女の子をフィーチャーした作品」である『魔女の宅急便』の原作が出版されたのは1985年、「つまり男女雇用機会均等法[……]が制定(翌年に施行)された年」であった。
均等法が「ポストフェミニズム状況のはじまりを印象付ける法律」であるというのはどういうことだろうか。

第一波フェミニズムは「参政権や財産権といった法的な面での女性の権利を獲得しようとする運動」であり、第二波フェミニズムにおいては「参政権といった法制度では覆いきれない女性の権利」が問題とされた。また第二波フェミニズムは「欧米の福祉国家下で生じた」というのも重要なポイントである。「福祉国家下で典型的な家族形態とは男性が働き、女性が主婦となる核家族であった。福祉国家はそのような性差別を制度化したものであり、第二波フェミニズムはそれに対する異議申し立てでもあった」。

三浦玲一はポストフェミニズムの特徴をこうまとめている。「それは、先鋭的にまた政治的に、社会制度の改革を求めた、集団的な社会・政治運動としての第二波フェミニズム、もしくはウーマン・リブの運動を批判・軽蔑しながら、社会的な連帯による政治活動という枠組みを捨て、個人が個別に市場化された文化に参入することで「女としての私」の目標は達成できると主張する」。

著者はこれを補足して、ポストフェミニズムとは第二波フェミニズムが訴えた教育の権利や働く権利の実現を経てのものであるとする。「もちろん、これらが本当の意味で実現されたとは(とりわけ日本では)いえないものの、そういった権利が実現されたことにされた状況、それがポストフェミニズムだと、とりあえずは定義できるだろう」。
そしてポストフェミニズムはまた、「八〇年代以降の新自由主義の成果でもあった」。
「第二波フェミニズムの政治目標から「集団的な社会変革」を取り除き、「個人の立身出世」を代入すれば、ポストフェミニズム状況ができあがるということだ」。

本書でたびたび言及されるのが「フェイスブック社の最高執行責任者」であり、「ディズニー社の社外取締役でもある」、シェリル・サンドバーグだ。サンドバーグがベストセラーになった著書『リーン・イン』で強調するのは「内なる革命」である。「つまり、女性をめぐる外側の制度の変革ではなく、内面、アイデンティティの革命だ」。
「内なる革命」を唱えるサンンドバーグに代表されるポストフェミニズムと、「革命」を連呼する新自由主義とのつながりは、言葉の面からも明らかだ。

サンドバーグを批判して『リーン・アウト』を書いたドーン・フォスターは、「サンドバーグが代表するような現代のフェミニズムを「企業[コーポレート]フェミニズム」と喝破する。それは、「国家の支給する有給育児休暇、より強力な福祉セーフティネットといった女性の集団的権利を求めたり、さらには女性が労働組合に加入することを推奨したり」はしない」。
「企業フェミニズムは女性の解放を集団的な政治行動によってではなく、個人の努力によって達成することを目指す」。

フォスターはこれを「トリクルダウン・フェミニズム」と批判する。一握りの富裕な女性が登場したところで、女性全体に富がしたたり落ちることはない。それどころか、「不況の影響をもっとも強く受けるのは女性」であり、「国会議員やCEOになる女性がひとにぎり増えたところで、その三倍の女性が二〇年前と比べて低賃金の職業から逃れられなくなっている」。

そしてこのような女性間の格差を肯定する「企業フェミニズム」は「資本主義にとって都合の良い」物語なのである。均等法以降の日本のみならず、世界的に女性の賃金は低いままである。にもかかわらず男女平等が実現したかのように振る舞うことによって、企業は女性という低賃金労働者を存分に「活用」できるのである(反動的父権主義が明らかな安倍政権がなぜ「女性活躍」を唱えるのかはこれでわかるだろう。当初は「活用」として批判を浴びたために「活躍」へと言い換えた)。

ガラスの天井を打ち破るなら、それは「同一賃金同一労働と同時に実現されねばならない」し、「労働の女性化、つまり労働力の流動化やダンピング(そしてそれが引き起こす女性内部での分断)への抵抗とともに実現されねばならない」はずだ。にもかかわらず、サンドバーグのような例外的な存在によって、「新自由主義的な競争の前提は保存したままに、ごく一部の女性が蜃気楼のごときグローバル・エリートとして、略奪による蓄積の隠蔽をしている」。

『セックス・アンド・ザ・シティー』と『ブリジット・ジョーンズの日記』を対比すると、前者が女性として「勝ち組」で後者が「負け組」を表しているかのように見える。しかし、ブリジット・ジョーンズは出版社からテレビ局へとやすやすと職を移れるように(それどころか労働そのものがあたかも存在していないかのようだ)、貧困とは全く無縁である。「負け組」女性の生態や恋愛劇を自虐的に描いているかのようであるが、「ブリジットは本当の負け組ではないことにも気づかなければならない」。


といったあたりで長くなったのでその2に続く。



『コモリくん、ニホン語に出会う』

小森陽一著 『コモリくん、ニホン語に出会う』





『小森陽一、ニホン語に出会う』に加筆、修正して文庫化したもの。


コモリくんは小学一年のときにプラハに引っ越し、在プラハソヴィエト学校に入ることになった。これでピンときた人もいるだろうが、米原万里は同じ学校の先輩にあたり、「文庫版あとがき」にあるように小森少年は米原姉妹に助けられることになる(外交官や国際機関に勤務する人たちなどの子どもが通う在プラハソヴィエト学校は、ソ連が威信をかけて優秀な教師を集めたこともあってその教育の質が高かったことを米原はエッセイで繰り返し書いていたし、コモリくんも日本に帰ると教育の質の違いにとまどうことになる)。

コモリくんはロシア語の学校に通うことが決まっていたので、日本にいるうちからロシア語の勉強を始めていたが、ロシア語のアルファベットが識別でき、断片的な会話ができるくらいの状態でプラハに向かうことになる。モスクワまでの旅の途中で「ダーイッチェ・ムニュー・シタカーン・ヴァディ(一杯のお水を下さい)」というロシア語をうまく言えるとロシア人にほめてもらったが、これが役に立つことはなかった。

プラハに着いて学校に入ると、ロシア語を聞き分けることがまったくできなかった。こうしてほとんどことばがわからない状態で学校生活がスタートすることになる。


同級生たちは持ち物などをロシア語でなんというか一つ一つ丁寧に教えてくれた。また困ったことがあれば、手振り身振り、あるいは絵によって子ども同士最低限のコミュニケーションも成立した。しかしちょっとした言葉の行き違いでトラブルが起こることもあった。コモリ君は注意深く周囲を観察し、試行錯誤を繰り返すことでロシア語を獲得していく。これはちょうど赤ちゃんが初めての言葉を獲得していく過程を追体験するようなものに近かったのかもしれない。しかしまた、米原万里からアンデルセンの人魚姫など日本語で「既に読んだことのある有名なお話」をロシア語で読むことを勧められ、これが大いに役に立ったように、もちろんコモリくんがロシア語を獲得していく過程は赤ちゃんが言葉を身につける過程とイコールのものではない。しかしその分この過程に意識的になれ、また記憶にとどめることができたのであった。

また学校の外に出ると、家の近所ではチェコ語が話されている。長い夏休みになって学校から離れても、チェコ語ができないために近所の子どもたちの輪になかなか入ることができなかった。片言のロシア語ができる少年に引き入れられることになるのだが、チェコスロヴァキアではロシア語を覚えさせられることが屈辱として受け止められているのを知り、このような体験も深く刻まれることになる。


しかしプラハでのロシア語での学校生活よりも大変だった(そして他人事としてみると興味深い)のが、日本に帰国した後の体験である。帰国し小学校六年の三学期に公立学校に編入する。そのクラスでは、コモリくんがしゃべるたびにクスクス笑いが漏れてくるのであった。帰るときに備えて日本の教科書を取り寄せて勉強していたし、日本から訪ねてきた人に応対するとその日本語がきれいだと褒められていた。コモリくんは日本語を完璧に身につけているつもりだった。なのにこの仕打ちである。ついにがまんできなくなり、何がそんなにおかしいのかと怒りをぶつけた。すると「かえってきたのは教室全体をゆるがす大笑い」だった。

コモリ君はこう叫んだのだった。「ミナサン、ミナサンハイッタイ、ナニガオカシイノデショウカ」。
「完全な文章語」だった。「つまり私は、ずっと教科書に書かれているような、あるいはNHKのアナウンサーのような文章語としての日本語を話していたのであり、そのことを笑われていたわけです」。

コモリくんは再び周囲の言葉に注意深く耳を傾けることになる。そして「現代の日本語は「口語体」で、話ことばと書きことばが一致した「言文一致体」である、という教科書に記されたウソに、そのとき身をもって私は気づかされることになったのです」。

「最も奇妙に思えたのは、日本語の話しことばは、決してそれ自体として完結するような、主語と述語がはっきりしたような言い切り方の形をとらない、ということでした。言っていることの半分以上を相手にゆだねるような、微妙な曖昧さの中で言葉が交わされている、ということは一つの驚きでした」。そして、「誰も教えてくれない話しことばの言語使用の規則を、自分で見つけることほど難しいことはないのです」。

昔ある英文学者のエッセイを読んでいたら、初めてイギリスに行ったとき周りから「お前は新聞のような英語を話すんだな」と笑われたといったようなエピソードがあったが、音声教材も限られていた当時ではよほど特殊な環境にない限り、どの外国語であろうとこうならざるをえないだろう。ましてや日本語は英語などよりはるかに話しことばと書きことばとの距離がある。宇多田ヒカルがデビューしたときも確かこのようなことが言われたし、今にいたるまで帰国子女の人たちはこの点で苦労しなくてはならないのだが、コモリくんが日本に帰ってきた60年代の日本には「帰国子女」という言葉すらなかった時代であった。

自身もアメリカで教育を受けた経験を持つ水村美苗は「解説」で、『続明暗』に対する小森の書評を読んで「あっ、帰国子女だ、と思った」としている。夏目漱石に言及する際に「漱石」と書かれていてもほとんどの読者が違和感はないだろう。むしろ「夏目が」とあればそちらの方がひっかかるはずだ。「だが「漱石が……漱石が」という文章のあとに「美苗は……美苗は」と続いていたのは、まことに奇異であった」。

日本語を母語としている人に、漱石や鴎外と書くんだから美苗と書くことのどこがおかしいのかと質問しても、論理的に説明するのに窮することだろう。日本語を(あるいはその他のどの言語であろうが)「ふつう」に使いこなすのがいかに難しいかということが表れているエピソードである。

さらにはこれはことばの問題にとどまらない。中学校に入ると、ロシア風に握手を求めたり抱きついたり頬にキスをするなどの習慣が身についていたコモリくんは窮地に立たされる。男の友だちからは「オレもコモリに抱きつかれてキモチワルカッタよ」と告白されることになるが、これが女子相手であればなおさらである。当人としてはごく自然に抱きしめようとしたりキスしようとしたりするのだが、女の子から「エッチ」と言われてしまう。さらには辞書を調べても当時は「エッチ」なる語は載っておらず、人に訊いても曖昧な笑みを浮かべてごまかされるだけなのである。いったい自分は何を言われているのか? 

そんな苦しみを味わっているときに読書感想文の課題として読まされたのが夏目漱石の『吾輩は猫である』だった。コモリくんは「このネコはボクだ!」と思えて涙がこぼれてきた。「人間のことばはわかるが、こちらからは人間に何も伝えることができず、一度も食べたことのなかったモチを喉につまらせれ生き死にの境でもがいているのに、人間たちは「ネコジャの踊り」だと大笑いする。誰一人として自分のことをわかってくれない、そんな物語に読めてしまったのです」。

こうして漱石研究で有名なコモリ君の「国文学者」としての人生の幕があがった……のかといえばさにあらず。この読書感想文は受け入れられることはなく、むしろコモリ君のなかに読書感想文という存在への嫌悪感や「国語」という教科への苦手意識は残り続ける。そんなコモリ君がいかにして「国文学」を専攻することになり、大学教員にまでなるのかが綴られていく。


小森が読書感想文という教育方法に、そして「国語」という教科にずっと違和感を抱き続ける理由の一つが、単一の答え、あるいはそれを誘導することが「正解」とされてしまうことだ。小説を読む技術を教えることはできる。でもそれを使って何を引き出すのかは一人ひとり違ってもいいはずだ。『猫』を読んで「このネコはボクだ!」と涙を流してしまう学生は少数だろう。でもそれは読み方が間違っているということにはならない。

小森は大学院生時代に高校で非常勤講師を務め、そこで教科書の定番、漱石の『こころ』を(これも小森にとって因縁の作品である)しばしばとりあげなければならなくなる。そこで気づかされたのが、いわゆる「底辺校」とされるような高校の生徒の方がそれぞれ多様な解釈をするのに対し、進学校の生徒たちは単一的な解釈をしてしまう傾向にあることだ。これは受験勉強の過程において、「一つの正解」を身につけさせようとすることの弊害の現れとすべきだろう。

受験において唯一の「正解」を導き出す訓練しか積まないことは、深く読み、考えるという作業から遠ざかることになってしまいかねない。アメリカの大学で教壇に立つと、小森は「ことばの辞書的な意味だけで「わかったつもり」にならないで、ひっかかることや、気になるところはなんでも質問をし、議論をしながらやっていこう」と学生と約束する。ところがこれを実際にやってみると実に大変なことになってしまい、泥縄式に図書館をはいずりまわって文献探しに追われるのであるが、これはつまり日本の教員と学生がいかに「わかったつもり」で授業を終わらせてしまっているかということでもあろう。

「国民的小説」である漱石の『坊ちゃん』の有名なエピソードに、生徒たちが宿直室の寝床に大量のイナゴを入れて嫌がらせをするというのがある。「坊ちゃん」は宿直室を抜け出して温泉に入りにいき、その帰りに校長に出会ってしまい問い詰められる。山嵐にも出くわし、校長や教頭に知られたら大変だと注意される。これを単に泊まり勤務をサボっているのがバレたら大変だとだけしか読み取らずに「わかったつもり」になっていては、このエピソードの含意はわからない。

「宿直室」とは単に職員が泊まるための部屋ではなく、「御真影」と「教育勅語」を「奉安」する場所なのであった。つまり「「宿直」教師の任務とは、「御真影」と「教育勅語」を命をかけて守るものだったのです」。

「坊ちゃん」はこの任務をおろそかにしたのだし、山嵐の警告には単にサボりがバレたらお目玉を食らうという以上のものがあった。「坊ちゃん」は不敬に問われる可能性があったし、またその宿直室にいたずらをする生徒たちも同様だ。「事実、「宿直室」が一階にあった学校では「御真影」と「教育勅語」の謄本の上を教師や生徒が歩きまわるのはおそれ多いことだとして「宿直室」を二階に移した例もあります」。学校が火事になった際に「御真影」と「教育勅語」を取りに二階に向かったために教師が焼死するという事件もあった。

今も読み継がれる「国民的小説」でありながら、この時代背景、そして漱石がなぜこんなエピソードを書き込んだのかまでを意識して読んだ人がどれだけいたことだろうか。「わかったつもり」をやめて一歩踏み込むことによって、さらなる多様な解釈の可能性が開けていくのである。


そんなコモリくんが成城大学の教員となり、「道場破り」として小中高に出張授業をした模様とその方法への忌憚ない意見も収録されている。小森が「体でわかる」ことを」伝えようとしたのに対し、これは「善意と熱意のうちに偏った思想を実感させてしまうおそれ」につながり、「ファシズム的」にすらなりうると、ある教師がこのやり方に反駁していることを水村は「解説」で「心強い」と評価している。さすがは成城中の教員とも思えるのだが、この「道場破り」が行われた1990年と比べると現在公立学校の教員に加えられている政治的プレッシャーは遥かに増しているであろうし、私学へ子どもを通わせる余裕のある層と日々の暮らしで手いっぱいである層との階級間の教育格差とその影響というのはますます広がっていくのだろうと想像してしまうと、複雑な気分にもさせられてしまった。



『犬の帝国  幕末ニッポンから現代まで』その2

アーロン・スキャブランド著 『犬の帝国  幕末ニッポンから現代まで』






その1の続き。


一九二三年に秋田で生まれた犬は、約二十時間かけて東京帝大教授の上野英三郎の元に贈られた。この日から十四か月間、ハチ公と名付けられた犬は朝は渋谷駅の近くまで、夕は家まで上野のお伴をした。上野が仕事中に倒れて死亡した後も、ハチ公は毎晩渋谷駅に現れて主人を待ち続けたとされる。「しかしあまり多くの人が理解していないのではないかと思われるのは、日本が経験したファシズムの文化のなかでハチ公が果たした重要な「役割だ」。

斎藤弘吉は庭園建築家として活躍し、「一九五二年閉館の東京近代美術館の庭園設計に中心的役割を果たした」。
斎藤は一九二七年に第八砲兵師団に入るが、「健康上の理由でほどなく除隊となり、医師から清浄な空気のもとでの療養」をすすめられる。除隊した斎藤は犬を飼うことにし、また「「耳の立った尾の巻いた昔の絵巻物に描かれているような」日本固有の犬の探索を開始する」。

斎藤は東京では基準に合う犬を見つけることができず、これを「西洋的退廃と外国の血が蔓延してしまっていたから」だと考えた。東京ばかりか、秋田犬で知られる秋田の山間部に行っても満足できる犬を見つけることができなかった。危機感を抱いた斎藤は一九二八年に「日本犬保存会」を創設する。「その後の五年間のほとんどを彼は日本列島の隅々まで純血種を探し歩いて、その保護運動を開始した」。
「一九三〇年代以前にも日本犬[にほんいぬ]という国民国家とよりはっきりと結びつく名称を使う人はいたが、斎藤の努力によってこの言い方が速やかに人口に膾炙した言い方となった。一九三〇年代初期にはほんの一〇年前には考えられなかったことだが、日本固有のイヌが国の誇りの象徴となる」。

斎藤は一九三七年のラジオ番組において、「「日本の」犬はこの国の人間たちと似た性質を持つようになった」とした。斎藤によれば、日本犬は「飼い主の家族以外になかなか馴れない性質や、利口でありますが感情の表現が洋犬のように派手でないところや、非社交的でガンコな一面や、また非常に勇敢な気性なぞ日本民族の長短いずれの特徴を身につけています」ということなのだそうだ。

斎藤は「「日本」犬を飼うことが国民たる条件であるとまで言い、「日本人なら日本犬を飼え!」というキャッチフレーズを考え出したとも言われる。斎藤のこの熱心さは官僚までもを動かし、一九三一年に「文部省は秋田犬を絶滅の危機にある国の財産として指定した」。ハチ公が賛美の的となるのは翌三二年のことである。
その後文部省は甲斐犬、紀州犬、越野犬、柴犬、四国犬、北海道犬を同じステータスに指定した。「指定された品種の売買、繁殖、移動には厳し規制が課されるが、そうした規定は今日まで継続している」。一九三六年に天然記念物に柴犬が指定された際の理由は、「柴犬は「日本人の性格を反映し、外国犬に比し質実剛健、和犬の特徴を備えている」のでこの栄誉に値する」というものだった。


斎藤は「日本犬の領域を拡大する方向へとすすんだ」。「日本犬とアジアの犬のあいだに古代において生物学的なつながりがあった」という発見がなされ、斎藤もこれを受け入れている。

斎藤は前述のシェパードを「ドイツの地を代表する犬」にしたシュテパニッツと文通をしていた。シュテパニッツはなんと「「日本」の犬と「ドイツの」シェパードが近しい関係にある兄弟で、どちらの血統も中央アジアの古代犬の子孫として緊密に結びついていると示唆した。東に向かった犬は「日本犬」となり、西に向かったものがドイツのシェパードになったというのだ。

シュテパニッツが「純血の日本犬の骨」を所望すると、「斎藤は当然のようにハチ公の頭蓋骨と他の部分の骨、数枚の写真」などを送った。
「斎藤もシュテパニッツもそれぞれの国の犬の源を中央アジアにたどったわけだが、理由はおそらく異なっていただろう。シュテパニッツにしてみればこの理論は、北欧人つまりゲルマン人が「アーリア人種のもっとも純粋な成員であって、かつては中央アジアに住んでいたというナチスの教義のイヌ版とも言えた。一方斎藤にとってはシュテパニッツの定説は、日本帝国のますます統合されるようとしているアジア大陸との歴史的絆をもたらしてくれたのである」。

斎藤は珍島で「耳が立ち、尾の巻いた「朝鮮育ちの日本犬」を発見する」。斎藤はこれを日本の内地かアジア大陸北部から来たのだろうと推測した。
そして朝鮮総督府は、「珍島犬と別の半島の血統犬・豊山犬(プサンゲ)に、一九三〇年代末に同様の「日本の」という地位を与えた。こうした官僚的公認は犬だけのために行われたものではもちろんなく、むろん朝鮮の人々の名誉を考えてのことでもなかった。むしろそれは産業化や初等教育の浸透といったほかの植民地近代の政策と同様、帝国権力の目的に合致したものであった。そうした文化的政策はたとえそれが犬を対象としたものであっても、日本の指導層が生活習慣や環境によって独立国としての朝鮮を同化し抹殺することで、朝鮮半島における植民地支配を強化するための戦略の一部だったのである」。

一九六四年に斎藤が死去すると、毎日新聞は追悼記事に「「忠犬ハチ公」産みの親」という見出しをつけた。
保存会の会報に、渋谷駅で出会ったハチ公のことを斎藤が載せたのは一九二九年のことだった。この数年後により広い関心をひきつけられる可能性があると知って朝日新聞の記者に話をしたのも斎藤だった。三二年十月に朝日にハチ公の記事が出ると、「雑種」としてあったことには腹は立てたが、「いとしや老犬物語 今は世になき主人の帰りを待ち兼ねる七年間」という記事には満足したことだろう。「この犬の変わることなき忠誠心を語り、犬同士の喧嘩の仲裁をする正義の味方にして小さな犬を守る親分である」というこの記事をきっかけに、「ハチ公の絶大な人気が作られていくのであり、あおれは斎藤自身をふくめて誰の予測をもはるかに超えたものだったろう」。

「斎藤のタイミングも絶妙だった。一九三二年にこの犬が有名になったのには当然ともいえる歴史的理由があった」。一八三一年の満州事変は「「非常時」体制の始まりを告げ、国中が大きな不安に包まれていた。三二年には五・一五事件が起こる。「かくして日本は長く暗い軍国主義とファシズムの谷間へと落ち込んでいった。ハチ公のわかりやすく感傷的な話を知った人々は一九三〇年代初頭の不安から解放される気持ちを味わったに違いなかったが、その魅力自体は、隠されたそのメッセージが日本独特の「国体」という美徳を賛美し、「皇道」への忠誠心を厳しく要請する愛国心の高揚を巧妙に補強しているという事実から来ていたのである」。

もちろんこれを商売に利用する人も次々に現れる。ハチ公は三五年三月八日の朝に渋谷駅近くで死んでいるのが発見されたが、その数日後の読売新聞の風刺画はハチ公にあやかった屋台が群れをなす姿を描き、「今にハチ公の命日はこんなことになるだろう」としたが、「現実は芸術を模倣した」。こうしてハチ公はすさまじい人気となるが、「保存会とそれに同調する文部省」は、「同時にこの犬の描かれ方をしっかりコントロールすることも忘れなかった」。

三二年に民間業者がハチ公の木造を建立計画を発表すると、斎藤たちはこの試みを阻止しようと、委員会を作って記念碑を作ることを計画するがこれは頓挫、しかし三四年には独自の像を立てる資金集めのキャンペーンを開始しこれには成功した。かくしてハチ公の銅像が建てられることになり、すでに前年にハチ公の石膏像を作って発表していた安藤照に彫刻が依頼された。ここで斎藤にとって悩ましい事態が生じる。安藤の石膏像は実物通りハチ公の左耳が垂れているのであるが、「斎藤たっての主張」により建設会はこれをピンと立てるように要求した。しかし時間がなかったことから安藤は石膏像をモデルにせざるを得ず、ハチ公の左耳は「片耳が疑わしく垂れ」ることになった。

実際のハチ公は左耳が垂れ、歩くときには尻尾も垂れ下がり、斎藤が「日本犬」の姿としたピンと立った耳とくるっと巻いた尾ではなかったのである。剥製にされたハチ公は、斎藤の願い通り耳が立てられ尾が巻かれている。

銅像の寄付金はアメリカを含む海外からも寄せられたことから、ハチ公を平和のシンボルとしようだとか、日米関係改善の印と受け止める知識人もいた。またハチ公には家がないという誤解も広がっており(実際にハチ公は数度犬狩りにつかまっている)、ブームが始まるとハチ公やその他の野良犬にミルクと温かい場所を与えてやってほしいという投書もあったほどで、この機会に「東京の悪名高き犬収容所の待遇改善に努めようとした」団体もあった。しかし「文部省の介入によってこの物語の焦点は、他の美徳ではなく、忠誠心であることが確かなものとなった」。

三四年からは二年生の修身教科書にハチ公は登場するが、そのタイトルは「オンヲ 忘レルナ」であった。そして「ハチ公を使って子どもたちに権威への服従を教え込むという方策は、どうやらその意図を達成したようだ」。

日本犬保存会の内部にすら、このような利用のされ方に反発を抱いた人たちもいた。イヌ科動物研究者の平岩米吉は、「人の動機を犬に投影することを厳しく戒めた」。平岩は彼が創刊した雑誌『子供の詩研究』の三五年四月号で、「彼はただ主人に対する深い愛情のためにその後を慕っていたので、犬の世界に「恩」と云うが如き堅苦しい観念は存在しないのである」とし、ハチ公を教育に利用しようとするのを批判した。

長谷川如是閑は『文藝春秋』三五年四月号で、大衆は「自己の感覚や感傷や理論を、余りにも簡単に、自己の直接の経験以外の、新聞記事や、人の噂だけで作り上げてそれを無暗と亢進させて、自己催眠的の、群衆心理的の昂奮に陥ることが問題なのである」とし、ジャーナリズムが安易な刺激に頼る商業主義に堕していることを批判している。「我国のジャーナリズムをしてアメリカのそれに似た煽情主義に走らしめたのも、この傾向に投ぜんとする商業主義の結果なのであるが、それがまた逆に人心に空疎な刺激を与えて、社会的興奮と感激的行動との性質を低下せしめているのである」というのは、現在にも通じるところであろう。

また渋谷育ちで実際にハチ公を見ている大岡昇平のような人は冷めたもので、「ハチ公はただ駅の周辺や店のあたりをうろついて人が食べ物をくれるのを待っていただけなのだ、と推測」した。ハチ公の「焼き鳥好き」は噂となっており、公式にはフィラリアと老衰で死んだことになっているが、解剖に同席した剥製師は胃袋から何本か鉄の焼き鳥の串が発見されたとしており、これが死期を早めたという説もあるという。

当初の『忠犬ハチ公物語』にありながら、その後言及されなくなったエピソードがある。「模範的な「日本」犬と見なされたこのイヌは実のところとても気が弱かったのだ。散歩のときハチ公は、代々木陸軍駐屯地近くであった軍事演習の鉄砲の音におびえ、子どもがおもちゃの鉄砲を撃つ音にもびっくりしたという」。

戦局が悪化し金属が不足し始めると、「政府当局は公共の銅像を溶かし、人々に家にある金属製品の拠出を呼びかけた」。斎藤の抗議も虚しく、四四年十月には「忠犬」も見逃すことはできないという決定が出された。別れの儀式ではハチ公の像には日の丸が巻かれ、式辞では「生きている間のハチ公の忠誠、主人とその保存を助けられた他の「日本」犬たちへの献身のゆえに称賛し、死しても「敵の飛行機をくわえ落として」弾丸となってくれることに感謝」が述べられた。
戦後に伝えられるところでは、ハチ公像は浜松で溶かされ列車の部品となったそうだが、おもちゃの鉄砲の音にもおびえていたハチ公にとっては弾丸になるよりはこちらのほうがはるかにマシだったことだろう。

供出させられたのは銅像だけではなかった。軍用犬にするため、あるいは兵士の防寒具や体液を機会油にするため、そして食用とするためとして、ペットの献納が求められた。どうしてもペットを手放したくなかった金持ちは家の中にかくまったり、田舎の土地持ちに疎開させたりしたが、何万、あるいは何百万という人が「御国のため」にペットを差し出した。しかし最早動物の死骸を衣服や食糧に加工することさえ不可能な状況になっており、実際にこれらの目的に使われたのはごく少数で、「多くの死骸が倉庫でただ腐っていくか、ひそかに遠いところに投げ捨てられた」。文字通りに「犬死」させられたのであった。


「日本犬」の表象がいかに変化したのかをよく表しているのが「桃太郎」にまつわるものだろう。「ジョン・ダワーが言うように、この御伽噺は「日本とそれより劣るアジアの盟邦が白人帝国主義者を追い出して自分たちの優越を築く」完璧な戦争中のシンボルとなったのである」。この見方は突飛なものでもなんでもなく、同時代にあっても芥川龍之介をはじめ幾人もがこれを喝破している。

「桃太郎」において、「この犬は絶対的忠誠と猛烈な勇敢さで外国の悪鬼を叩き潰して礼賛され、主人公ほどではないにしろ、お供の動物三者のなかで一番目立っている」。
実はこの犬、「十九世紀には教科書や大衆本で西洋犬であったものが、一九三〇年代にはほぼつねに「日本」の犬ということになった」のであった。

「修辞上も実際にも、「日本の」犬は「日本」人同様、優秀と見なされていた。帝国じゅうのイヌ科動物は共通の祖先を持っているという学説にもかかわらず、想定場の血縁関係は日本本土の犬は独自の血統であるという前提のもとに築かれていた。こういった言説は日本の公式非公式の帝国の人々が等しく「調和」すべきだという汎アジア主義のイヌ版だといえるが、そこで日本はつねに「年上の兄」であり、より年の若い、それゆえ劣るアジアの弟たちに勝るされていた」。

まんが『のらくろ』では、「一九三〇年代を通じ、のらくろは戦争に行ってゴリラ、山猿、豚といった日本の敵を蔑んで表したものとすぐにわかる動物たちと戦う」。「中国人はつねに豚として表象された」。それに対し「犬たちは失敗をくりかえすいろいろな犬種の集合ではあっても、日本の軍事力、勇敢さ、優越を例証しており、それに比べて他の動物は進歩が遅れ、弱く、頭が悪いとさえ描かれている」。
否定的な存在を豚として描くというのはオーウェルの『動物農場』も同様であるが、こういった表象は単純素朴であるだけに強いともいえる。


一九四八年にハチ公像は再建されるが、除幕式に出席する予定だったハチ公の弟「鉄」は姿を現さなかった。食糧難のこの時代、どうやら「鉄」は人間の胃袋の中に消えてしまったようだ。

犬食といえば四一年にはある厚生省の役人が、犬の肉を食べることを奨励し、「今までの習慣として一寸食べかねると思われる」伝統を捨てるよう新聞に投稿した。「どうやら彼は気づいていないことに、こうした犬を食べない「習慣」は比較的最近になって発明されたもので、歴史家や考古学者によれば、日本列島では侍のようなエリート層も含めて徳川時代にいたるまでごく当たり前に犬を食していた」。
「鉄」を盗み出して胃袋に収めた犯人は不明だが、役人が創られた伝統を再否定するまでもなく、人間追い詰められれば胃袋に入りそうなものはなんだって食糧になるのである。

この食糧難の時代にハチ公像が再建されたというのは驚くべきことだという見方もできるだろう。本書に描かれている臆病であったはずのハチ公が「忠犬」として偶像化されていく過程を考えると、それだけハチ公が愛されていたのだと無邪気に信じることはできない。実際日本社会を象徴するように、戦後日本が戦前・戦中との断絶の上に作られたのではなく、連続性のうえに成り立っていることを強くうかがわせるような形での再建なのであった。

『犬の帝国  幕末ニッポンから現代まで』その1

アーロン・スキャブランド著 『犬の帝国  幕末ニッポンから現代まで』





「本書が探るのは、近代日本の歴史における主要な出来事や人々の意識を変えてきたイデオロギーの形成をうながす媒体として、またそのような事件や思想の隠喩として、犬が果たしてきた役割である」。

本書の原題はEMPIRE(S) OF DOGSである。「帝国」が括弧に入れられつつ複数形になっているように、日本を中心としつつ、その他の帝国を含む犬との関係が追われる。

なぜ帝国と犬なのかと思われるかもしれないが、人間と犬との関係の変遷を考えると、これほどふさわしい動物はないと感じられるようになってくる。
十九世紀、帝国主義が世界を覆いつくさんとすると、人間と犬との関係も変化する。「ヴィクトリア朝の英国人が帝国の動物を故郷に持ち帰って、動物園で展示したり狩猟記念品としたりすると同時に、彼らは帝国のほうにもペットに対する情熱、とくに純血種の犬への熱狂を持ち込んでいったのであり、ヨーロッパ大陸の列強諸国やアメリカ合州国もこうした習慣を自分たちの領土に植え付けていった」。

言葉を変えれば、現在にも残る「血統書」に代表されるような「純血種」という発想はこの時期に生じたものにすぎないということだ。冷静に考えてみると、犬を語る際に用いられる「血統」、「純血種」、「雑種」といった表現はなんとも不気味なものであり、そしてこれは帝国主義とそれに付随する人種主義と無縁のものではなかったのである。

十九世紀に「ある犬の品種を特定の国民国家と同定する発想」が生まれた。例えばブルドックの心身の粘っこい頑強さはイギリス人気質を表すものとされる。さらには「植民宗主国に発する血統により大きな価値を置き、帝国主義の野望の対象となった地域に結びつけられたイヌは下位に置くという階層秩序」が構築された。

「純血」とされた犬は「規定された範疇にふさわしい外見と健康に恵まれた犬、それらが純粋な血を所有していると想像された。このような恣意的で不安定、そして時に変化する人種的血統基準にそぐわない犬や人は、雑種、混血、ハーフの血統、育ち、血の持主とされる。生殖や子どもの間引きなどを通した厳密な管理によって動物の身体を人工的に形成することができるようになり、純血の品種を記録することで、このような人種的幻想はますます強化されていく」。

人類学者のジョン・ボーマンはこう述べている。
「品種とは人種同様、遺伝や生物学の問題と混同されるだけでなく、しばしばその専売特許と考えられて、文化の問題ではないとされる。そして生物学が自然現象にかかわる最終的な知とみなされているために、こうして人為的に作られた社会秩序が自然本来のものである、という考えに疑いが向けられることはまずないのだ」。

このように犬に対する価値観が大きく転換した十九世紀半ばに「開国」を行い、西洋諸国と新たな関係を作らねばならなくなった日本において、犬とはどのような存在であったのだろうか。


一八五四年に来航したペリーに徳川将軍は米や干し魚などを贈答したが、この中に四匹のチンが含まれていた。現在に至るまで権力者同士が犬を贈り合うというのはよく見られる光景であるが(プーチンは世界各国からいったい何匹の犬をもらいうけているのだろうか)、徳川側にその意識があったのかは微妙だ。というのも、イギリスの日本学者バジル・ホール・チェンバレンは一八九〇年に出した『日本事物誌』において、日本には「犬やチン」という言いまわしがあると記しているように、武家や商家の室内で飼われるチンと、外をうろつく犬とはあたかも別の動物であるかのように捉えていた節がある。

ペリーは四匹のチンのうち二匹をイギリスのスターリング海将を通じてヴィクトリア女王に贈ったが、この二匹の消息はその後不明であり、途中で死んでしまったのかもしれない。残る二匹は水夫たちからマスター・サム・スプーナーとマダム・イェドと名付けられたが、やはり合州国に到着する前に死んでしまうことになる。この名前であるが、「西洋人の男性と日本の女性との取り合わせは、当時のオリエンタリズム――中東、近東、極東の西洋人によるステレオタイプでエキゾチックな表象――がここにも反映されていると想定できる」。
「ラップドッグ」と言われる小型愛玩犬として飼われるようになったチャイニーズ・ペキニーズやジャパニーズ・スパニエルなどについて、「宗主国や植民地の西洋人はラップドッグを女性的でエキゾチックと記述」するようになるのも、まさにこのオリエンタリズムの表れであろう。


一八七八年に北日本を旅したイザベラ・バードは日本の犬について憎々し気にこう書いている。「原始的な日本の犬――クリーム色のオオカミのような外見をした動物で、大きさはコリーぐらい、とても騒がしくて攻撃的、でも空威張りするやつと同じで臆病だ――が藤原にはたくさんいて、これら役に立たない駄犬どもの吠え声やうなり声、けんかする声が間歇的に朝まで続いていた。こいつらは喧嘩をしていないときは遠吠えをするのだ」。

このような反応はバードに限ったものではなかったようだ。「西洋からの訪問者にとって、日本列島で出会う他の犬はとても好きになれる代物ではなかった。小型愛玩犬や山間部の猟師たちが飼っていた犬を別にすれば、一九世紀なかばの日本にいた犬の大多数は集団で暮らし、町の一角や村々を縄張りとしていた、いわば半野生化した犬だった」。

「野良犬とでも呼ぶのがふさわしい」かのような日本の犬たちは特定の誰かに飼われていたわけではなく、人間と親密な関係を築くこともなかったが、よそ者が来訪した際には吠え立てるなどするためにそれなりに価値を見出されてもいたようだ。

またバードの記述で興味深いのは、「原始的、オオカミのようで、攻撃的、臆病、野良犬」といった語彙で、これは「当時の科学的人種主義と文明のレトリックに特徴的なもので、帝国主義下の世界の多くの非西洋犬を描写するのに使われたものだ」。日本に来た西洋人は日本の犬を「パリア犬」や「土着犬」と、「最大限の侮蔑」をもって書いていた。

ヒトラーがジャーマン・シェパードのブロンディを溺愛していたことは有名である。シェパードは実はマックス・フォン・シュテパニッツという「プロシアの元騎兵隊長が一八八九年にドイツ・シェパード協会を設立するまでは、この品種はほとんど認知もされず価値も認められていなかった」のであったが、シュテパニッツの熱心さで驚くべきスピードで「ドイツの地を代表する犬であると見なされ」るようになった。

戦間期に、「オオカミやその他の大型捕食動物への新たな尊敬の機運が世界的に高まり、とくにそれはこうした動物が絶滅してしまい、現実の、あるいは想像上の脅威さえもが消え去った地域で顕著となった」。一九世紀後半にバードは日本の犬を「オオカミのよう」と蔑んだのであるが、第一次世界大戦後はむしろオオカミのようであることは誇るべきこととされるようになる。「オオカミ的な外見や行動がより魅力あるものとされ、とくにファシズムが浸透した国ではそうであった。こうした変化がもっとも顕著だったのがドイツである。ヒトラーを始めとするナチス指導者たちはしばしばオオカミを表象として用い、自らをオオカミになぞらえて司令部をオオカミの巣と名づけた」。

「多くの著名なナチス指導者がシェパード犬をその野性的でオオカミに近いと考えられた性質ゆえに賛美したが、シュテパニッツもその初期の著作においてナチスの人種的信条を予期させるようなレトリックで、「ドイツの」シェパード犬だけが完全に古代の中型のオオカミの子孫であり、それに対して他の犬はジャッカルの血が多かれ少なかれ流れていると主張している」。

これは一九三〇年代に日本にも伝播し、柳田國男は「オオカミは完全に列島から消滅してしまったわけではなく、仮にそうだとしても犬と交雑しているので、オオカミの血は日本の犬のなかに見出すことができるのだと推測した」。さすがに柳田のこの見解が広く受け入れられることはなかったが、それでも「「日本」犬のオオカミらしい資質については讃嘆を惜しまず、それが日本固有の犬の種類を外国のものより自然で純粋で勇猛にしているのだと考え」る人はいた。


新たに「開国」された国日本で出会った「野良犬」の姿は西洋人にとって衝撃的で蔑むべきものと映ったが、日本人の側でも、よく訓練され主人に付き従う西洋犬の姿は衝撃的であった。なお当時の日本人は西洋犬を「カメ」と呼んでいたが、これは英語で「come here」と犬を呼ぶところからきたようだ。モースは西洋人の中には日本語で犬のことを「カメ」というのだと思っている人がいるがそうではなく、dogはイヌであると注意している。

優れた西洋と遅れた日本という対比はそのまま優れた西洋犬と野蛮な日本犬となる。
「一八七〇年代以降、明治政府は「狂犬病の脅威と、家畜および狩猟スポーツへの有害性と、日本に昔からいる犬とオオカミへの文化的忌避感の高まりを捉えて、政府の方針に利用した」。「育ちの悪い「駄犬」」は最大の脅威と見なされ、日本から狂犬病を根絶し、田舎からいわゆる害虫を除去し、街を文明化するという半世紀あまりにわたるキャンペーンの矛先が向けられたのは、日本に昔からいるイヌ科動物だったのである」。

千葉県の例を見ると、牧場近くに住む犬を根絶するのに協力する人に報償が与えられえる制度ができ、十年間で一万二千匹以上のイヌ科動物が殺されたが、「それらの犬のなかには西洋の血を引く犬はほとんどいなかった」。この政策を推進するのに貢献したアメリカ人顧問、D・W・アップ・ジョーンズは外務卿寺島宗則に「東京のすべての外国領事に手紙を送らせて、「野犬」根絶の努力について知らせ、千葉では自分の犬をつないでおくように警告させている」。ジョーンズは自らが導入した西洋の牧羊犬の安全を確保せねばならなかったし、また「しばしば小さい獲物を狩猟していた西洋人と地元エリート階級の犬を間違って殺してしまうことを避けるためでもあった」。


「十九世紀半ばの日本人は野良犬を相矛盾した感情で見ており、親切心とは言えないまでもそれなりの寛容をもって遇していたのではないだろうか」。
「十九世紀と二〇世紀のいくつかの社会では、犬狩りの姿が近代国家のきわめて不気味な性格を象徴するものとな」ったが、上記のように日本も例外ではない。政府の政策に対して表立った反発は出ず、この「駄犬」の大量殺害を受けて矛先を別の人びとへと向けたのであった。警官は「犬狩り」を「何百年も差別の対象となってきた〝部落民〟に行わせた」。このため「一八七一年に明治政府によって法的平等を保障された部落民は、「イヌ殺し屋」というイメージを強く帯びるようになり、犬や他の動物の殺戮や畜殺、それに消費者がこの「見えざる人種」に対する抜きがたい偏見の温床となったのである」。

差別といえば同時期にこんなことも起こっている。やはりアメリカ人顧問であったエドウィン・ダンは「北海道開拓使によって雇われ、四つの拡大実験農場の監督を任された」。彼から西洋の牧羊技術を学びにきた日本人と共に写った写真が収録されているが、ダンの足元には「コリーのような牧羊犬が伏せている」。

ダンは「島全体の生き物すべてを毒殺するのに十分な量」のストリキニーネを持っていることを自慢していた。根絶の目標とされたのはオオカミだけのはずであったが、「実際ターゲットとされて殺されたイヌ科動物の大半はオオカミだけではなく、島の先住民族アイヌが飼っていた犬であった」。アイヌが飼っていた犬に「オオカミ、野犬、悪犬、狂犬」とラベルを貼り、虐殺したのであった。

アイヌが飼っていた犬は見知らぬ和人が近づくと吠えかかった。このため和人の役人や西洋人たちは犬が目障りであり、「アイヌ犬排斥の決意を強めた」のだろう。これはちょうど日本に初めてやってきた西洋人たちが日本の「駄犬」を蛇蝎のごとく嫌ったのと重なるように、差別の表れでもあった。

重要なのは、和人がアイヌの犬を殺すようになったのは西洋人の影響ではないということだ。「飼い犬の殺害というやりかたでアイヌの人々に対して行われた実際の暴力や言説による脅しそのものは新しい現象ではなかった。日本の植民者は、アイヌが可愛がる犬の足を縛って川に放り込んで溺死させるといったことを一八世紀から繰り返していたといわれる」。

アイヌの人々は「イヌを猟犬として、またおそらく自らの祖先を犬やオオカミと結びつける創造神話の影響もあって重用していた。多くの日本人入植者や役人がこの神話を使ってアイヌを非人間化し、アイヌ人の父親は「駄犬」で母親が人間の女であると主張し、それによってアイヌの人々に対する抑圧と搾取を正当化しようとしたのだった」。
先住民を非人間化し収奪と暴力を正当化するのはアメリカ大陸をはじめ各地で行われてきたことであり、また帝国主義の本質を表すものでもある。


このように日本と帝国主義との関係は多層的である。かねてよりその萌芽があったが、維新後に本格的に日本が帝国化を試みそれに成功すると、犬の表象も変化を始める。

一八九八年末、明治維新三十周年を記念して西郷隆盛の銅像が立てられる。「西郷の銅像を立てることで政府当局は、西郷を明治政府に対する反乱軍の首領から維新の英雄として政治的立場を回復し、位置づけなおすことを目論んでいた」。
ここで問題となったのが犬であった。「明治政府のエリートの一員であった西郷はその常として犬を連れた猟を愛好していたが、その猟犬のほとんどは西洋の血統犬であった。彼はとくに虎という名の大型の勇敢な耳の垂れた洋犬を好んだ」。

製作チームの一員であった後藤貞行は洋犬の研究を行い、薩摩まで虎の血を引く犬を見に行ったばかりか、「耳の垂れた大きな洋犬の実物模型まで作成したのだが、結局それは放棄して、今日西郷さんの隣にいる犬を作ったという」。薩摩の郷党や九鬼隆一らが説得して薩摩犬のイメージにすることになったのだが、「完成した犬の像はとくに特徴のない雑種犬のように見えて、皆の不興を買ったらしい」。犬が西郷と不釣り合いに小さいこともさることながら、極端なまでにピンと立ったその耳も批判や揶揄にさらされた。

「一見無害そうな犬の銅像の耳をめぐる論争が、日清戦争における日本の勝利と台湾の獲得、遼東半島の放棄といった最近の地政学的な成功と後退にすぐ続いたことが注目に値するだろう。犬の外見への関心は、不安とない交ぜになった高まりつつある国民的誇りから来たものだろうし、それが犬へと向けられたものと考えられる」。

これは「日本産の犬への自尊心の表明としてはもっとも初期のものであり、それはまた他国の血統との交配に対する反発を少なくとも芸術作品上で初めて表現したものでもあったのである」。
西洋と比して遅れた野蛮な日本を表象しているかのように受け取られていた日本の犬は、この頃から誇るべきものとして扱われるようになる。

内田魯庵は1901年に短篇「犬物語」を出版する。「その語り手は「太郎どんの犬」、自称「雑っけない純粋の日本犬」で、日本人たちの洋犬に対する熱中と日本犬の軽視を非難する」。」「太郎どんの犬にとってもっとも理解し難く許せないのは、日本人が「あいのこ」の人間を見下しながら「西洋臭い顔をした雑種犬」を珍重することだ。太郎どんの犬は自分を含めた日本犬をもっと大事にするようにと結び、「先ず日本犬を大切にしろ。第一、俺を大切にしろ。之から少とロース肉の一片づつも時々持つて来い」と主張する」。

この小説は未読なので内田がベタにこのように主張しているのか時代の雰囲気を揶揄したものなのかはわからないが、少なくとも国粋主義と歩調を合わせ「純血」の日本犬を賛美する風潮この頃にすでにあったことは間違いないだろう。



といったあたりで長くなったのでその2に続く。

『パタゴニアの野兎  ランズマン回想録』

クロード・ランズマン著 『パタゴニアの野兎  ランズマン回想録』





回想録に一風変わったタイトルをつけたことについて、ランズマンはこう書いている。
「本書執筆のあいだじゅう私の頭にあったのは野ウサギだった。ビルケナウ絶滅収容所で、人間には破ることのできない鉄条網の下をくぐり抜けていった野ウサギ。セルビアの大森林の夜道で、彼らを轢かないよう用心しながら運転する私の視野を跳梁した野ウサギ。そしてパタゴニアで、エル・カラファテの村を過ぎたところでライトの光芒のなかに現れた神秘的な動物、パタゴニアの野ウサギを見た時、自分は今パタゴニアにいるのだという自明のことが私の心を文字通りわしづかみにし、この時、パタゴニアと私は本当の一体化を果たしたのだった」。

ランズマンは本書を口述筆記という形で執筆した。基本的には時系列順で描かれながらも、口述らしく奔放に話が前後しながら、『ショアー』の完成、公開までが綴られている。

ランズマンといえばなんといっても『ショアー』の監督として真っ先に浮かぶだろうし、本書でもこの製作過程が詳述されている。あの独特の手法を編み出したのはなぜなのか、あの撮影はいかにして行われたのかといったメイキングとしても、この作品に関心のある人にとっては必読だろう。試行錯誤を繰り返し、当初はドタバタの連続でもあり、よくぞまあ完成させたものだと思えてくる。

ランズマンの主張に関しては様々な立場から賛否あるだろうし、本書においてもとりわけ国家としてのイスラエルとの関係やその評価については、複雑な思いにかられることも少なくなかった。もちろん自伝というものそのものが、手放しに信頼を置いていいものではなく、とりわけ口述というスタイルのせいもあろう話しの流れは、あくまでランズマンの主観、彼の立場からはこう見えているのだということをより強く印象づけるものともなっている。


またランズマンの個人史であるとともに、ユダヤ系フランス人として第二次大戦とナチスドイツの占領下での生活、レジスタンスとしての活動、そして知的サークルの一員であり、ジャーナリスト、編集者としてなど、フランス現代史、哲学史の一断面としても興味深い。

なかでもとりわけ、妹エヴリーヌをめぐる傷ましい挿話が目を引く。
ランズマンはルイ=ル=グラン校の準備級でドゥルーズと出会う。そしてエヴリーヌは兄の友人と恋におちるのだが、二人の関係はうまくいかず、周囲は傷心のエヴリーヌが自殺するのではないかと恐れた。

その後、ランズマンはボーヴォワールと同棲をしつつ、サルトルとも緊密なパートナーとなっていく。これだけでも常人には複雑すぎる人間関係に映るのだが、さらに女優となったエヴリーヌもサルトルと特別な関係となっていく。「ドゥルーズが開いた傷を癒すのには、サルトルほどのスケールに思想化が必要だった」。サルトルの『アルトナの幽閉者』は、「彼がエヴリーヌのために構想した唯一の作品であるが、当時すでに二人のあいだに恋愛感情は存在しなかった」。

エヴリーヌは国営テレビでの仕事を多数持っていたが、アルジェリアへに従軍を拒否するよう呼びかける「121人宣言」に署名したことから、数年に渡って仕事を干されることになる。「政治は妹の仕事と生活に過酷な結果をもたらした」。最後の決定打となったのは詩人、小説家、ジャーナリストのクロード・ロイとの恋愛だった。入院していたエヴリーヌをランズマンが見舞いにいくと、よくロイと鉢合わせた。すっかり彼女に惚れていたロイは毎日、日によっては一日に数度も見舞いにくるほどだった。二人は一緒に暮らすことを考え、「病気が治ったら、一緒に海辺で夏を過ごすこと」とエヴリーヌは自分に言い聞かせ、ロイもそれを約束していた。しかしカリスマ的魅力を持つ女優の妻、ロレー・ベロンから二者択一の最後通牒を突きつけられると、ロイは「手ひどい乱暴さで関係を打ち切った」。妻と二人立ち去ったロイに対し、残されたエヴリーヌは「呪ってやる」と言った。その数ヵ月後、「明晰な意思」のもと、「すべての段取り」を「死んだ状態でしか彼女を発見できないように整え」、エヴリーヌはバルビツール酸剤などを飲み自ら命を断った。

「妹とドゥルーズの関係の破綻は、私と彼の関係の終焉でもあった」。この後二人はすれちがうことはあっても会うことはなかった。「彼への称賛は変わらないどころかいや増したが、友情は消えていた。その復活は彼自身の暴力的な自殺の日まで待たなければならなかった」。


第一章は「ギロチン」という言葉から語られ始める。「死刑および多様な死の処方箋は私の人生の重大な関心事であった」。最初は映画で触れ、そしてあの時代を生きたユダヤ人であることと必然的に結びつく、「せいぜい五歳か六歳」では始まった「この凄まじいまでの悪夢は、思春期にも、いや大人になってからも、歴史の教科書や本、新聞などでギロチンが出てくるたびにあの悪夢が再来するのではないかと、思わず顔をそむけ、眼を閉じてしまうほどであった。今日でも、そうならないという確信が持てずにいる」。

この回想録の通奏低音といってもいいであろうし、この「凄まじいまでの悪夢」こそが、ランズマンを突き動かしているのだろう。



なおランズマンがボーヴォワールからの手紙を大学に寄付したというニュースが入ってきた。こちらにあるようにボーヴォワールはサルトルとの性生活などについても赤裸々に書いているようであるが、本書にはさすがにそこまでは触れられていないものの、ボーヴォワールとサルトルについて関心がある人も興味深く読めるだろう。



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