『愛のメモリー』

『愛のメモリー』といっても松崎しげるの歌のほうではなくデ・パルマの監督作品のほう。歌のほうは1977年発売で映画の日本公開は78年のことなので、邦題はそれを意識したものなのだろうか。





原題はObsessionで、ここからも想像がつくようにヒッチコックへのオマ-ジュであり、とりわけ『めまい』を強く意識したものになっている。

アメリカでは『愛のメモリー』は1976年8月公開であり、同じ年の11月には『キャリー』も公開されている。つまり三か月ほどの間にデ・パルマ監督作が立て続けに公開されたのであった。
『愛のメモリー』と『キャリー』は撮影監督は別だが、映像の質感というのは非常によく似ている。これは「70年代っぽい」といえばそうかもしれないが、デ・パルマは『愛のメモリー』と『キャリー』で同じ演出まで行っている(抱き合う男女の周囲をカメラがぐるぐるまわる)。単にネタを使いまわしたということなのか、何か強いこだわりがあったのかはわからないが、『愛のメモリー』にしろ『キャリー』にしろデ・パルマ的個性によくあったものになっているだろう(それだけにリメイク版『キャリー』を観ると、デ・パルマってなんだかんだいってやっぱりすごいのだな、という印象も新たになる)。


なんでこの作品を観たのかというと、ある設定が『オールド・ボーイ』に影響を与えたのではないかというのを耳にしたからである。原作とスパイク・リー版は未読未見でパク・チャヌク版しか観ていないのだが、ミステリーでもあるので内容は書かないが、あの設定は『愛のメモリー』から影響を受けたといわれれば、確かにそうなのかもしれないと思えるものになっている。




『荊の城』映画化!

サラ・ウォーターズ著 『荊の城』



19世紀半ばのイギリス。母親が殺人犯として処刑されたスウは、サクスビー夫人に娘同然に育てられた。17歳の彼女はすりとなっていた。貧しいこの界隈では犯罪に手を染めずに生きていくことなどできない。そして<紳士>という綽名を持つ詐欺師がスウにある計画を持ちかける。<紳士>は変わり者の住む城で奇妙な仕事に就いていたが、彼の狙いはその姪、モードにあった。モードには結婚した時に相続できる莫大な財産があった。<紳士>は確実にモードを落とすために、スウを侍女としてブライア城に送り込もうというのだった。字を読み書きすることもできないスウは俄仕立ての侍女となって、モードと出会う。計画では、<紳士>はモードと駆け落ちして、そのまま彼女を精神病院に閉じ込めることになっている。純情可憐で、精神的に不安定なモードを前に、スウの心は揺れ始める。モードは結婚をしたらその初夜に何をすることになるのか教えてほしいとスウに頼む。スウはモードと唇を重ねてしまう……


ミステリーでもあるので具体的には書かないが、この後あっと驚く大どんでん返しが起こることになるのだが、これはまだ物語の三分の一ほど。この後さらなるどんでん返しが繰り広げられていくこととなる。「リアリズム」的にはいくらなんでも、という仕掛けかもしれないが、作中にディケンズが言及されているように、いささかご都合主義的な設定を含めて、19世紀を舞台に19世紀的物語を紡ごうとしたものである、とひとまずはすることができる。しかしセクシャリティをはじめとして、19世紀のイギリス小説ではまず正面から扱われることがない題材ともなっている。あるいはディケンズなどヴィクトリア朝の作家が21世紀に小説を書いたなら、このような物語になっていたのかもしれない。

とにかくページをめくるのももどかしく思える面白さであること請け合いなのであるが、しかしこの小説が映像化に向いているのか否かは意見が分かれるかもしれない。最初のどんでん返しくらいまでは、映画化にぴったりだと思えていたのだが、しかし次第に、テレビシリーズならともかく一本の映画にまとめるのはかなり難しいかも、とも思えてくる。腕のいい脚本家と演出家が組めば非常に魅力的になるのだろうが、しかし腕がない製作陣にかかるととんだ大惨事にもなりかねないような気もしてくる。

すでに2005年にBBCでミニシリーズ化され、日本版のソフト化もされている。長さだけでなく手法の点でも、このあたりのフォーマットが一番向いているのかな。でもやはり一本の映画として見てみたいかも……なんてことを思っていたのだが、こちらにあるようになんとパク・チャヌクが1930年代、日本支配下の朝鮮半島に舞台を移して映画化とのこと(そんなこと全然知らずに、大分前に読んでいた)。邦題『お嬢さん』で日本も公開が決まったが、これはすごい作品になっていそう。




続『ER』再訪

再放送をしていた『ER』をなんだかんだで結構見てしまっていたのだが、ついにタランティーノが演出を務めた第24話、「母親」までたどりついた。タランティーノは第1話を録画し損ねたことを悔しがって、その縁でついに演出まで果たすことになるというのは当時から宣伝文句でよく使われていた。

前にこちらに書いたように、今になって『ER』を見ると演出面なんかは割りと「ドラマっぽい」というか古風というか、保守的なところも見受けられるのだが、さすがにタランティーノ演出回は一味違っている。キャロルとスーザンの日光浴からのくだりはちょっとセルフパロディっぽくもあるが、それもまたタランティーノらしいとしえばそうかもしれない。



シーズン1の数話を見て、スターバックスをはじめとするコーヒーチェーンでおなじみのあの容器(なんていうのか知らない)がまだ使われていないと書いたのだが、実はその後ちょろちょろと登場するようになり(ベントンが街中のコーヒースタンドで買った時もこれで飲んでいた)、この24話ではついにジョージ・クルーニー演じるダグが出勤時にあのコーヒー(?)を手に現れる。



放送開始時には普及していなかったがその後急速に広まったとは考えづらいので、撮影開始時にはすでにかなり普及して一般化していたのだが製作陣が小物として取り入れず、その後今じゃみんなあれで飲んでいるではないか、ということになったのかもしれない。スタバは90年代前半から積極的に拡大していったようなので、90年代半ばにはああいった形態はすでに広く認知されていたということなのだろうか。

さすがにテレ東では一気に再放送を続けるということはなかったが、さて、シーズン2以降はどうしますかね。現在進行形で面白そうだが見れていないドラマがたくさんある中でわざわざ見ることもないかとも思ってもしなうが、やっぱり懐かしくもあり……


『ER』再訪

テレビ東京で『ER』の再放送が始まっていて、特に熱心なファンというわけではなかったし見返そうと思っていたわけでもなかったのだが、つい録画して何話か見てしまった。

日本でも鳴り物入りという感じでNHKで放送が始まったように記憶しているが、当時は「ハゲかかったおっさんが主役ってすごいな!」と思ったものだし、イメージとしては四十歳前後のようにも感じられたのだが、 グリーン役のアンソニー・エドワーズもロス役のジョージ・クルーニーもまだ三十代前半であったのですね……

『ER』はジョージ・クルーニーの出世作としても有名だろうが、第一話なんかを見るとまだロスというキャラクターが固まっていなかったというせいもあるのだろうが、やたらとニタニタ笑ったり、これみよがしに憂い顔をしてみたりといった感じで、全体的に演技が硬いというかかなり下手な印象すら受けるのだが、数話で落ち着いてくる。まあ誰にもこういう時期はあるのだろうと考えるとなんだか微笑ましくも思える。

それにしても、グリーンとロスが仲良くしてるのを見ると「葬式くらい行ってやれよ」と思ってしまうことにもなる(エドワーズの降板希望によりグリーンは死亡という形で退場するが、すでにロス役を降板していたクルーニーは葬式シーンにも登場しなかった)。まだ幼いグリーンの娘のレイチェルも一話から登場していて、最後は医学生として顔を出すことになる。


このように今になってシーズン1を見ると、いろいろと時の流れを感じさせる要素も多い。
携帯電話で医療機器が誤作動するなんてエピソードもあったが、もちろん携帯はすでに商品化されていたとはいえ一般にはそれほど普及はしておらず、緊急呼び出しもまだポケベルという時代である。

また近年のアメリカのドラマを見ると出勤時やちょっと話をする時などやたらとテイクアウトのコーヒーを持っていることが多いのだが、この当時スターバックスはすでにできていたとはいえあのスタイルのコーヒーチェーンが爆発的に普及するのはもう数年後のことなので、いかにもファストフードのといった感じの紙コップであって、あの手のコーヒーを持ち歩いている人はいない。


こういった面だけでなく、編集や演出といった点でも意外と古いというか、「ドラマっぽい」感じがする。アメリカのテレビドラマを数多く見ているわけではないので根拠のない印象論であるが、ここ十数年でシリアスなタッチのドラマの演出等の手法はかなり変化したのではないだろうか。製作陣が一部重なる、90年代後半に始まった『ザ・ホワイトハウス』なんかも、ストーリー展開はともかく演出などではかなり古いようにすら感じられてしまうので、2000年代に入ってから変化が生じはじめたのかもしれない。

もっとも一口に「アメリカのテレビドラマ」と言っても、地上波もあればケーブルもあり、さらにはネット配信なんてものすら始まるという時代になっており、当然視聴者層に演出も合わせることになるので、地上波である『ER』は当時としても多少「保守的」な面もあったのかもしれないが。『ER』も後半になると大分演出手法も変わっていったような気もするので、シーズンごとの演出や編集を比較検討してみても面白かったりするのかもしれない。

『ER』は狭いセットでの撮影になるためにステディカムを積極的に使い、これもあって「従来のドラマのイメージを塗り替えた」みたいな宣伝文句もあったような気がする。確かにストーリーにおいても、学生ローンの問題であったり終身在職権をめぐるゴタゴタなど、これまでの医療ドラマでは描かれなかったリアルな姿が描かれるのであるが、ならば『こち亀』の中川じゃあるまいし、カーターが大富豪であるという設定は必要か? とも思えてしまう。こういったあたりも含めてアメリカのテレビドラマにおいて過渡期的な位置にあったとも考えられる。

アメリカのドラマといえばケツの毛までむしるというか、とにかく数字が良くて予算が獲得できる限り無理やりにでも続けるというような印象もあるが、『ER』も主要キャストが次々と降板していき、ついいはシーズン1でのメインキャラクターが全員いなくなるということにまでなってしまう。90年代といえば『ビバリーヒルズ青春白書』なんてのもあったが、あれも後半など久しぶりに見た人は思わず「お前誰だよ!」と言いたくなるようなことになっていたが、やたらと狭い範囲で男女がくっついたり離れたりするのも共通している(あんなの気まずくって仕方ないと思うのだが)。
こいった悪癖は近年は大分マシになってきたようにも思うが、『glee』なんかを見るとまだやっぱりねえ、というところでもある。


……なんてことを思いながら見ていたのだが、『ER』のシーズン1が放送されていた90年代半ばの20年前といえばもちろん70年代半ばということで、当時の僕は70年代のドラマなど化石でも掘り起こしてきたかのように古く感じたことだろうが、今の高校生あたりにとってはまさに『ER』のシーズン1なんてそんな感じになるのか。
2016年の夏休みにたまたま見た高校生は、「今から20年以上前のドラマなのか、俺まだ生まれてねーし。っていうかあのピーピー鳴る機械なんだよ」なんてことを思ったりしているのだろうか。






『明日へ』

『明日へ』




大型スーパーの朝礼の場面から始まる。5年間減点がなかった契約社員のソニが正社員になるための研修を行うと発表された。ソニは息子に正社員になって給料が上ったら携帯を買い換えてあげると約束する。しかし会社はソニを正社員にする気などなかった。人件費削減のために契約社員を解雇して仕事を派遣業者に委託することを決める。突然の通告にこれは違法解雇だと憤り、レジ打ちや清掃を担当していた女性たちは労組を結成する。経営陣は労組の存在自体を認めようとせず、交渉の席にすらつかない。組合員たちはストを決意し、店を占拠するに至るが、警察によって強制排除されてしまう。

パート職員に同情的ではあっても何もできなかった正社員のカンは、経営陣の狙いが契約社員の解雇のみにあるのではなく、正社員も契約社員化して人件費を下げることで会社を高く売ることにあったことを知り、正社員にも組合に加わるよう呼びかける。こうして契約社員たちと正社員の一部が共闘を始めるが、経営陣の強硬姿勢に変化はなく、次第に組合員たちは経済的にも精神的にも追い詰められていく……


韓国で実際に起こった事件を基にした作品であるが、現在多くの国で、そしてもちろん日本でも、まるで自分たちの社会を見ているような気分にさせられることだろう。

冒頭の朝礼の場面で契約社員と正社員とが同僚として並んでいるのではなく、はっきりと上下関係があるかのごとく、あるいは敵対しあうかのごとく向き合っているのは象徴的である。
減点方式で従業員を縛り、減点対象者には食事の時間も削って反省文を書かせるといったあたりは日本の「ブラック企業」を思わせる。また客の理不尽なクレームに対しては従業員を守るのではなく、むしろ屈辱的な仕打ちを労働者に強いるといったあたりもまたそうであろう。

労組の存在自体を認めず、「解雇は会社の権利」などという意見はまさに現在の多くの経営者の脳内を代弁したかのようであり、ついにストが起こりその存在を無視できなくなると、正社員化をエサにしたり、店の占拠に対して高額の損害賠償を請求するなど、あの手この手で分断工作や揺さぶりをかけてくるのも、また少なからず見られる光景である。
団交に応じないのは違法行為であるにも関わらず警察は強制排除を行い、テレビは「中立的」であるかのようでその実企業の言い分を垂れ流しているにすぎない。

課長のチョーは組合活動を始めたカンに対して、独り身は気楽だなと言い放ち、クビを切られなければそれでいいと言う。さらには「クビになる奴には原因がある 仕事ができないとか 会社の迷惑になるとか」と、自身も労働者でありながら、労働者を抑圧する経営者の目線を完全に内面化してしまっている。これは自分は契約社員のあの連中とは違うんだと言い聞かせ、経営者目線にならなければ精神の安寧が保てないせいだとすべきなのかもしれない。そして自分もおびやかされているからこそ、より弱い立場の人間を攻撃し、強い存在にこびへつらうことへとなっていく。

スト潰しのために新たにバイトを雇うのみならず、会社がならず者を雇って直接暴力をふるって組合を攻撃するようになるのは、最早企業の利益に叶うことですらなく、自らに歯向かう人間を叩き潰したいという欲求だけであるようかのようだ。

経営者は契約社員を解雇し派遣業者に業務を委託し、正社員を契約社員化することで人件費削減を図る。これによって財務が好転したと見せかけ株価を釣り上げ、ストックオプションでボロ儲けするというのがアメリカで巨額の富を手にするCEOの手口であり、この作品における経営陣もそれをなぞっている。そして映画では描かれないその後に待っているのは無茶な人切りの結果会社の運営に支障がでるという事態であろうが、巨万の富を得た経営陣にとっては知ったことではない。

そしてこのような見せかけの財務好転によってボロ儲けをする人間はネットワークを作り、社外取締役などの立場を通して自らの同類を企業のCEOなどに招き、その見返りとして自らもそのポストを用意され、濡れ手で粟のごとく富を蓄積させていく。このようなアメリカ発の現象は韓国をはじめ世界の多くに伝播していってしまっている。

そしてまた、就職に失敗して正社員になれず、派遣社員としてスーパーでレジ打ちをしていて、羽振りがよさそうな大学の同窓生と会ってしまいきまりが悪い思いをするというのも、多くの国でおなじみの光景であろう。


カード認証で給食費の納入を確認、管理するというシステムが韓国の学校において一般的であるのかはわからないが、ソニの息子は学校の食堂でこれにひっかかってしまい、逃げるように食堂を後にする。母が残業(もちろんとすべきか、サービス残業であろう)に追われていたため振込みを忘れただけなのだが、同級生の女の子から、金持ちの子は給食費が未払いでも平気で食べている、あなたはバレるのが怖いんでしょ、と見透かされてしまう。給食費の支援申請を出せば、とまで言うこの同級生は、今時この学校でガラケーを使っている子なんてほとんどいないわよ、言う。「あなたと私くらい」。

謎めいた勝気な美少女が完全に「ツンデレ」というやつで、さらには堂々と明るく過ごしているが実は家庭には暗い影が差しており……というのはこの手の女性像のテンプレという感じもしてもしまうが、このあたりも世界共通とすべきなのか。まあ確かに僕もこういうのには弱いのであるが。

そのあたりはともあれ、給食費の支払いにも困り、経済的事情により修学旅行への参加さえ躊躇われるという子どもの貧困とそれを生み出す構造というのもまた、多くの国に見られるものである。
二人はコンビニでバイトをするが、この店主が因縁をつけてバイト代をきちんと支払わないあげくに逆ギレすら起こすというのは、日本の「ブラックバイト」の問題を見ているようでもある。

店主は強く出れば母親も下手に出ると考えていたのだろうが、労組でもまれたソニは不払いを非難し、バイト代を支払わせることに成功する。
ソニはサービス残業も嫌がらずにこなすなど会社への忠誠心も篤く、当初は労組への参加にはためらいがちであったが、労働者が声をあげないことには、見せかけのものを除けば経営者決して労働者に温情などかけはしないということを、嫌というほど学ばさせられることになる。

労組結成を強く訴えたヘミは、かつては別の企業で正社員として働いていた。そこでは妊娠をするとどんなに優秀な社員であっても低評価となり、その低評価は会社が正社員を解雇する口実として使われる。これもまた日本でいう「マタハラ」そのものであり、こういった経験があったからこそヘミはここで労組結成を呼びかけたのだった。

このように、同じ労働者といってもさらに弱い立場に置かれがちな女性たちが率先して立ち上がり、戦う物語でもある。そしてまた、女性であるがゆえの困難というのも描かれる。シングルマザーと夫から働けと圧力をかけられる既婚女性とでは、苦境といってもその表れ方が異なることになる。そして経営者は(あるいは男社会はとしてもいいだろう)そこにつけ込んでさらなる分断を図る。


労働問題を扱った『パレードへようこそ』や『サンドラの週末』と同じように、希望を感じさせつつも、この物語がハッピーエンドで終わることは許されない。そしてそうであるからこそ、ソニのこの言葉はより重く響くことになる。

「数ヶ月前までは あのレジで 黙々と働いていました その私が こうして叫んでいます 大それたことは望んでいません 私たちを見てほしいだけです 私たちの話を聞いてほしいんです 透明人間扱いしないで 私たちを人として扱ってほしいんです 人として扱って欲しい それだけなんです」


なお舞台挨拶の様子を見ると、黄色い歓声が飛び交っている。ソニの息子役はアイドルグループEXOのD.O.が演じているので、そのファンが多く詰掛けていたのだろうか。僕は韓流アイドルには詳しくないものでEXOがどういった存在なのかよくわからないが、「労働者、とりわけ女性労働者を不当に扱う不正義がはびこっているこの社会の現実を直視せよ、労働者は声をあげよう、労働組合頑張れ、労働者よ団結せよ!」とでも要約できる作品に、日本なら大物アイドルが出演することがあるのだろうかとも考えてしまう。

正社員になるために面接を受けまくっては落ちまくり、当初は労組に冷ややかであったが最初に実力行使をほのめかす役の人はどこかで見たことあったなあと思ったら『サニー』のあの子だったのね。社会にセクシズムが溢れ返っているという点では日本もひどいものだけれど、韓国も女性差別は非常に根強いとされている。しかしこういうテーマにも関わらず(あるいはそうだからなのかもしれないが)この他にも有名な女優もたくさん出演しており、さらにはこのテーマを女性監督が撮るという企画にそれなりの予算が出て、きちんとヒットもするというのは、こちらは残念ながら日本の現状ではなかなか見られそうもない光景なのかもしれない。




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佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
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