『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』

『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』


若干ネタバレ気味のところもありますので未見の方はご注意を。





ライアン・ジョンソン監督の『ルーパー』は割りと好きで、とりわけ大友克洋風の部分などは特に良かった。一方でこの作品に不満を感じる人が多かったというのもわかる。タイムパラドックスをはじめとする設定の詰めが甘く、「細かいことはいいんだよ」とばかりに強引に押し切っているのだが、とりわけSFファンにとっては「いや、どうでもいいところじゃないだろ」という感じであったろうし、そこがノイズになってしまうという弱点を持っていた。そして『最後のジェダイ』もその弱点を持ち越してしまっている。クレジット上は単独脚本だが、実際にはジョンソンが1人で仕上げたわけではないのだろうから、全体を俯瞰して交通整理ができる腕のある脚本家にきちんと参加してもらうべきだったろう。

ホルド中将はある作戦をほとんどのクルーにも秘密裡に進めるのだが、この不必要な秘密主義によって一部に疑念を招き、内紛を引き起こしかける。これなどレジスタンスに内通者がいる疑いがあるといったような描写を入れておけば簡単に処理できるのであるが、そのへんに気が回らないのがこの作品を象徴するかのようでもある。

多くの人がひっかかったであろう部分が、フィンと新キャラのローズのパートだろう。エンディングのあそこにつなげるためと、新たな三角関係を発生させたかったのだという狙いはわかるが、それにしたってもっとコンパクトなエピソードにできたはずだ。フィンが活躍する要素がなかったので無理やりねじ込んだという印象は否めないし、本編にスピンオフが紛れ込んだかのような収まりの悪さがあった。

しかし、そもそもが『スター・ウォーズ』はそんなにかっちりした作品ではないという反論もあるだろう。『最後のジェダイ』冒頭の見せ場が爆弾「投下」をめぐってなのであるが、重力や大気の問題を完全に無視するというのは第一作から一貫している。個人的には無重力シーンというのが大好物なもので「スター・ウォーズ」サーガについて常々感じている物足りなさなのであるが、このあたりはむしろ「スター・ウォーズ」らしさといえばそうと強弁できなくもない。

では、とりわけ熱心な「スター・ウォーズ」ファンが反発を感じたのはどこに対してであったのだろうか。本作でより前景化したのは、ジョンソンというよりもJ・J・エイブラムスとすべきかもしれないが、「続編」を作り続けるというよりは、あくまで「リブート」をやるのだという意志である。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』はいわばfarewell partyのようなものであって、これからは新しい流儀でさせてもらうよ、という宣言ともとれるのが、濫用とも思えるフォースの拡張だ。

カイロ・レンとレイがフォースを通して会話するというのは、どちらかといえばガンダムのニュータイプに近いように思えてしまった。カイロ・レンがいろいろとシャアっぽいと感じている人は少なくないようであるが、『最後のジェダイ』にはキシリアの「意外と兄上も甘いようで」とかシャアの「なら同志になれ」といった、ガンダムの有名なセリフをそのまま持ってきてしまいたくなるような場面がある(そもそもが「レイ」という名前も……という気にさせられてしまう)。

このような「濫用」は、「スター・ウォーズ」に特別なものを見出したいと願うファンにとっては、フォースがただの超能力になってしまったかのように思えたことだろう。ジェダイが神聖視されることによって生まれる傲慢さが宇宙を乱しているのではないかというルークの懸念を思うと、それこそが狙いであるとすることもできる。死ぬことが決定づけられた作戦を描く『ローグワン』が第一作であるエピソード4につながるのであるが、『最後のジェダイ』では生き延びることの重要さが説かれるように、意図的な切断が行われている。多くの人が今作でレイの出生の秘密が明らかになると想像したであろうし、(他ならぬレイ自身を含め)少なからぬ人が何らかの形でスカイウォーカー一族とのつながりがあることを期待しただろうが、あえてそうはしなかった。


「スター・ウォーズ」サーガはその神話性が何かと言われるのであるが、同時に「懐かしさ」、もっといえば保守性がその成功に寄与してもいた。『ジェダイの帰還』を例にとれば、イウォークは「インディアン」や南洋の孤島の「人喰い人種」を模していることは明らかだ。金色のC3POが神と崇められてしまうのは、南米の先住民が白い肌を持つスペイン人侵略者のことを伝承に基づいて神だと思い込んでしまいみすみす虐殺されたことを思い起こせば素直に笑えなくなる。チューバッカやR2の可愛さも彼らが「主人」への忠誠心が厚いところからも来ているが、『ロビンソー・クルーソー』のフライデー的とすることもできる。

「野蛮な原住民」や「人喰い人種」が登場するようなかつての娯楽活劇をそのまま現在に持ってくることはできないが、舞台を宇宙に移すことでこれを可能にしたのが『スター・ウォーズ』でもあった。アメリカが深く傷ついていた73年に、イノセンスがかろうじて保持されていた60年代前半を舞台にした『アメリカン・グラフィティ』を撮ったように、ジョージ・ルーカスは過去へと捉われる傾向もある。ルーカスは保守反動なのではなく、『アメリカン・グラフィティ』も来るべき暗い時代を見据え、『スター・ウォーズ』もまた単なる居直った反動ではない。しかしまた、同時代との対話を重ねてアップデートを重ねていった『スター・トレック』とは異なるテイストを持ったシリーズとなっていった。

「リブート」された『フォースの覚醒』以降の「スター・ウォーズ」は、どちらかといえば「スター・トレック」的要素を強めている(というかエイブラムスは実際に「スター・トレック」もやっているわけだし)。『最後のジェダイ』のローズは、遠回しに言うのも何なんではっきり書けば、とびっきりの美人ではない。その容姿を揶揄するような反応が多く見られたことは「スター・ウォーズ」ファンの保守性を表しているとすることもできるだろう。「英語で演技ができる無名のアジア系美女」など山のようにいるにも関わらずあえてこのキャスティングにしたのは、ルッキズムへの挑戦と考えられる。

個人的にはこの挑戦は好意的に受け止めているが、同時にまた困難な道に足を踏み入れたことをエイブラムスをはじめ製作陣がどれほど意識しているのかは少々心持たないところもある。ストームトルーパーも血を流す生身の人間であるとした『フォースの覚醒』以降、一度アップデートを始めたからには、これからは常にアップデートし続けていかなくてはならなくなる。かつてキャリー・フィッシャーを「奴隷」にしたようにして、もう一度女優にあのような衣装を着せることは大目に見られることはない。

スピンオフも含めればこれから毎年のように「スター・ウォーズ」シリーズが楽しめることだろう。しかしこれは毎年その場だけで消費されて終わってしまうことにもなりかねない。一度アップデートを開始してしまった以上、「そういうものだ」という言い訳は通用せず、その結果として作品が古びるのも早くなる危険性がある。40年後も特別な感情を持ってかつての作品を振り返ることができるようなものを生み出せるのかという重さを、エイブラムスらがどこまで意識しているのかはいささか怪しいように思えてしまう。

シネコン名物といえばそれまでだが、僕が見た回では本編開始後5分ほどたってからポップコーンを持ったカップルが入ってきた。ポップコーン買う暇があるクセに「スター・ウォーズ」のオープニングを見逃すとは何たることか! と思ってしまったのだが、その程度の温度感のシリーズになっていくのだということを表しているかのようでもあった。「スター・ウォーズ」特有のマジックは、これからどんどん薄れていくことになるのだろう。

といっても、だからといって「保守的」な世界にとどまるべきだったというのではない。ルーカスが「活劇」を蘇らせたもう一つのシリーズが「インディー・ジョーンズ」であり、地球を舞台にしているだけに危ういところは「スター・ウォーズ」よりもさらに多い。三部作はあくまで過去を舞台にしているという言い訳がきいたが、久々の続編である、「現在」にぐっと近づいた『クリスタル・スカルの王国』における核の描写には呆れはてた人も多かっただろう。「保守性」に固執することも、このようなリスクがある。

『スター・ウォーズ』を「リブート」させるにはこの一歩は必要であったとは思うが、個人的にはエイブラムスへの信頼感はかなり低いのでどうしても不安のほうが強くなる。


もう一つ不満を述べるなら、『フォースの覚醒』以降で物足りないのは「大人」の不足だろう。レイとフィンのみならず、カイロ・レンにしてもあまりに「幼い」。世慣れず青臭いルークと海千山千乗り越えてきたハン・ソロのコンビが良かったのだし、ランバ・ラルやスレッガーのいない『ガンダム』を想像してみてほしい。ダメロンはダメダメすぎるし(一応学習能力はあるし、このシリーズの新たな方向性を身をもって学んだのであるが、その分「大人」の魅力は醸し出せていない)、ベニチオ・デル・トロ演じるDJがソロ的役割を果たしていくのかと思ったら、なんですかあれは。今後の伏線になっていないのだとしたら凄まじい無駄遣いではないですか。

僕は「スター・ウォーズ」の熱心なファンというわけではないので、まあこんなものかというところでもあったのだが、熱烈なファンが腹を立てる気持ちは(同意するかはともかく)わからないではない。もっともルーカス自身が手掛けた「新三部作」のグダグダっぷりを見てきているのだから(ミディ=クロリアン!)、この程度なら可愛いものではないかというところでもある。『最後のジェダイ』にぶーたれている旧三部作をリアルタイムで見た人には、こっちはあの新三部作だったんだよ! と言いたくもなってくる。

もう一度ガンダムを召喚すると、『Z』までは何とか許容するが『ZZ』は無理だという人がいるが(というか僕がそうなのである)、もし『ZZ』を作ったのが富野由悠季でなかったとしたら……というのを想像してみたらいいかもしれない。そういえば冒頭のダメロンの軽口とかルークとレイのしょうもないやりとりとか無意味に上半身裸になるカイロ・レンやらはちょっと『ZZ』っぽいノリといえるのかもしれない。全体の出来不出来以前に「そんなの求めてないんですけど……」というのがどうしても先行してしまう。

ボロクソに酷評している人は作品単体の質以外の要素が入っているので割り引くにしても、『最後のジェダイ』が欠点の相当に多い作品であることもまた間違いないので、絶賛している人のそれもまた作品単体の質以外のところに価値を見いだしている可能性が高いので割り引いた方がいいだろう。個人的には『ルーパー』の方が好きだし、ジョンソンの監督としての資質も超大作よりもややこじんまりとした方が向いているのではないかと思えるもので、ジョンソンに今後もまかせるというのはエイブラムスともども大丈夫かいなという気持ちにはなってしまった。

さて、次はソロの若き日であるが、監督はロン・ハワードか。うむ……



『ブレードランナー 2049』

『ブレードランナー 2049』


『ブレードランナー』を好きなのか? と改めて自分に問うてみると、いささか答えに窮してしまうところもある。僕は70年代後半生まれなので、意識的に映画を見るようになった時にはすでに『ブレードランナー』の評価は定まっていた。少々大袈裟にいうと(いや、大袈裟ではないのかもしれないが)、小説好きがドストエフスキーやカフカを、ロックファンがビートルズやストーンズを手に取るような感覚に近かったのかもしれない。ドストエフスキーやカフカが小説というジャンルを開拓したのではないし、ビートルズやストーンズが結成される前からロックン・ロールはかき鳴らされていた。でも、これらの存在がなければその世界は全く違ったものになっていただろう。小説好きやロックファンを自認しながらこれらを手に取らないというのは有り得ないし(手に取った結果どう評価するかは様々ではあれ)、そのようにして僕は『ブレードランナー』を見て、関連書もいくつか読んでいた。

『ブレードランナー』の続編が製作されると知った時は期待よりも不安のほうが大きかったが、それは「聖典」が汚されるといった恐れではなく、今ではすっかり「当たり前」のものとなった『ブレードランナー』におけるリドリー・スコット的世界をアップデートしようとしても、あまりに陳腐なものとなってしまうのではないかと思えたからだ。

しかしその不安は杞憂であった。『ブレードランナー 2049』はリドリー・スコット的世界をアップデートしようとしたものではなく、前作からの引用やオマージュをたっぷり込めながらも、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の個性がより強く出たものになっている。あれだけ強烈な作品を「続編」として成功させるには、前作の熱心なファンからは多少の不満はあるかもしれないが、これしかなかったであろう。

『ブレードランナー』以外にも、「スター・ウォーズ」サーガ、「ターミネーター」シリーズ、『A.I.』、『インセプション』や『her』などなど、『ブレードランナー』前後から近年までのSF映画をふまえつつ、タルコフスキーやアンゲロプロスといったあたりも射程に入れていることだろう。このようにリドリー・スコット的世界を含むここ4、50年のSFを中心とする映画をヴィルヌーヴ風にまとめあげたものとしていいだろう。


個人的な好みとしては、ヴィルヌーヴの作品というのは決して嫌いではないのだが、「もうひと押し」が足りないようにも感じてきた。そして『ブレードランナー 2049』もやはりそのような印象であった。

これはネタバレには当たらないと思うので書いてしまうが、今作では「ブレードランナー」であるKはレプリカントであり、本人もそのことを知っているという設定になっている。旧型レプリカントは共感能力に欠けているが新型はその欠点を補っており、そのために記憶の埋め込みが行われており、さらには新型レプリカント自体がそれを承知しているのである。

そのせいか、Kは冒頭から憂いを持っている。彼は問答無用で力づくでテストを行い(テストは簡素化されているので網膜をスキャンするだけで済む)、いきなり後ろから銃を撃つような真似はしない。まどろっこしいような手順を踏むし、それによって自らを危険にさらしてしまいさえする。もちろんこういったかけひきは前作へのオマージュであり、また本作のテーマとも絡んでいるのだが、これによってKの造形に矛盾が生じてしまっているように感じられた。彼は徹底して非情なわけではないし、それでいて人間の上司の命令には忠実であるが、しかしその部分に関しては葛藤を抱いていないかのようだ。

レプリカントでありブレードランナーであることによってKは二重の差別に直面しており、明らかに心に空虚さを感じており、さらにはそれを埋め合わせてくれるのは人間でもなければレプリカントでもない。同時に、精神が擦り切れていってはいるが、自らの存在への不安におののいているようには必ずしも映らない。

Kはある秘密と謎を探りあて、その真相が明らかになったと思うが、さらにそれが裏切られ別の真実が明らかとなっていく。Kはこれに翻弄されていくのであるが、しかしここにはディック的現実崩壊感覚というのは薄い。前作と比べてノワール的、ハードボイルド的な面が後退し実存への問いがより前景化されているようでいて、実はその部分に関しても後退しているのではないだろうか。

『ブレードランナー』は決してウェルメイドな作品ではない。展開はぎくしゃくし過ぎているし、隙や矛盾も多く、それらは意識的に行ったものではなく様々な事情で意図せずして生じてしまったものが多い。この副産物としてデッカード=レプリカント説をはじめとするいくつもの解釈が生まれ、スコット自身がそれに乗っかるようになるのだが、こういった偶然によって生じる奇跡もまた映画ならではのものだろう。

奇怪にすら見える行動を取るデッカードに素直に感情移入することは難しく、むしろ地獄のような光景を目にし、そこから逃れてきて死の不安に苛まれるレプリカントたちの方がはるかに「人間的」であるかのように見える。デッカードはレイチェルをはじめとするレプリカントと出会うことによって人間の「心」を取り戻す(あるいは彼がレプリカントだとすると、人間の「心」を得る)かのようでもある。これは意識的なものでもあるが、かの有名なロイの独白が入念に練られたものではなくアドリブであったように、意図を超えた「余剰」でもある。

『ブレードランナー 2049』は様々な目配せがされており、隙や矛盾は明らかに前作よりは抑えられている。映画としてのまとまりは『ブレードランナー 2049』の方が上であろうが、意図せざるものを含めた多様な解釈を誘発する深みでは前作に軍配が上がるかもしれない。そしてこのような幾分の物足りなさは脚本のみに由来するものではなく、僕がヴィルヌーヴ監督作品にかねがね感じている「もうひと押し」が足りないというところでもある。

前作ファンが怒りにかられたり失望させられることはないであろうし、単なる前作ファンへのサービスで終わらない新たな魅力も持っており、個人的にも好きな部類に入るのではあるが、「もうひと押し」あってくれればなあとも感じられたのだが、まあこれは映画に対する評価というより個人的相性のレベルでの話かもしれない。




『ダンケルク』

『ダンケルク』


近年のクリストファー・ノーラン作品について、個人的には「志しもやりたいこともわかるし期待したのだが……」というものが多かった。ではこの『ダンケルク』はどうだったかというと、ノーランがやりたかった事とやれた事とがしっかりと嚙み合ったとしていいのではないだろうか。

フランスのダンケルクからイギリスへの帰還を試みる若き兵士、イギリスからダンケルクへ援護に向かう戦闘機、ダンケルクへ英兵救出へ向かう民間の小型船と三つの視点が平行して進められるのだが、それぞれ時間の進み方が異なるというのはちょっと『インセプション』っぽくもある。本作の肝はこの三つの物語が徐々にシンクロしていき一つに重なるところであり、それが瑕疵なくきれいに一つに溶け込んでいるところは『インセプション』よりもはるかに洗練されている。ノーランよ、こういうウェルメイドな脚本を書けるのではないかと思ってしまったが、本作は単独クレジットで、かえって弟がいない方が……ということなのかどうかは知らんが(『インセプション』も単独脚本か)。


ヒトラーはもちろんのこと生身のドイツ兵はほぼ登場しないし、方やイギリス側でもチャーチルは会話の中で言及されるだけでその姿は描かれない。このように、本作は大局的視点を意図的に回避している。

我が身可愛さで醜悪な行動を取る兵士や、守護天使のごとく救いの手を差し伸べる兵士が実は……といったあたりは危機に直面した人間の多様な姿が炙り出されている。しかし、「人間の本質とは何かが極限状態の中で抉りだされる」といった「壮大」な試みがなされているのではない。哲学を比喩に使えば、形而上学的ではなくプラグマティズム的作品となっている。根源を問うのではなく、限られたリソースの中でいかに生き延びるか、あるいは限られたチャンスを最大化するにはどのような選択をなすべきか、それが時間的にもタイトに描かれている。

『ダークナイト』前後の「バットマン」に典型的なように、ノーラン作品は志しは高くとも、脚本が甘く、またスペクタクル的視覚表現もそれについていけていない印象が強かった。そう考えると、このようにプラグマティズム的作品の方が彼の資質に合っているのではないだろうか。ノーランの「壮大」な作品も楽しみではあるが、こういう方向に進むほうが監督と観客双方にとって幸福なのかもしれない。


あと、お腹が弱い人間としては用を足そうとしながらそれが果たせないトミーの姿は他人事ではなかった。災害時を考えても、トイレ問題は笑いごとではないのですよね。とりわけ下しがちな人間にとっては。




『刑事フォイル』

『刑事フォイル』をちょろちょろと見始めた。





邦題が「刑事フォイル」というくらいなのでミステリーではあるのだが、事件の謎解きという点ではやや弱めかもしれない。犯人に「証拠隠滅くらいちゃんとやれよ!」と思わず言いたくなってしまうし(現実の事件というのも往々にしてこういうものかもしれないが)、偶然に頼りすぎという感じもなきにしもあらずである。ただ、原題は「フォイルの戦争」だけに、この作品の本質はそこではなく第二次大戦下イギリスの暗部を抉り出すところにあるだろうし、このあたりは非常に秀逸な設定となっている。

戦争を利用し私腹を肥やす人物、親ナチのファシストなどが登場するが、フォイルが「刑事」としてしばしば直面するのは、イギリスにとって戦争遂行に有用な人物が罪を犯した場合に、それをどうするのかという問題だ。フォイルは軍務に就くことを希望するように愛国的な人物であるし、戦争の大義を疑っているのでもない。それでも彼は、やはり刑事としてなすべきことを為さねばならない。もちろんナチス・ドイツが悪であることは疑いようもないのであるが、では悪に勝つために悪を見逃すことが許されるべきなのだろうか。

探偵小説における探偵は、法と秩序の側に立ち、乱された秩序を回復するという役割を与えられているのであるが、では法と秩序が両立しなかったとき、探偵はどちらを向くのであろうか。正統派ミステリーという形式でありつつ、アンチ・ミステリーとまではいかないが、ハードボイルド的感性の作品でもあろう。

ミステリーというのは何よりも探偵やその周辺のキャラの魅力というのが謎解きそのものよりも大事とすらいってもいいのかもしれないが、本作でもサムやミルナーとチームになっていく様は魅力的で、「普通」のミステリーとしてももちろん楽しむことができる。

なお第一話には若き日のジェームズ・マカヴォイやロザムンド・パイクも出演している。マカヴォイは一目でそれとわかるが、パイクはそうと言われないと気がつかないかも。これから十年以上たって大きな役を射止めることになるのであった。

第二話ではダンケルクの戦いが扱われており、これもこのドラマならではの視点となっている。




『ワンダーウーマン』

『ワンダーウーマン』





『バットマンvsスーパーマン』は暗い、話が雑、アクションも地味でフレッシュさがないと、近年のDC作品の駄目なところを煮詰めたような作品であったが、そんな中唯一救いとなったのがワンダーウーマンの存在であった。そして待望の『ワンダーウーマン』であるが、期待にたがわぬ快作といっていいだろう。


当然ながら、アクション作品で女性が主人公を務めたからといってそれが即フェミニズム的作品になるのではない。シガニー・ウィーバー主演の『エイリアン』はむしろミソジニー的作品であるという分析もなされる。

本作と何かと比較されるであろう『マッドマックス 怒りのデスロード』を撮るにあたってジョージ・ミラーはフェミニズム的知見を積極的に取り入れ、そのかいあって『怒りのデスロード』はほぼ満額回答といってもいいほどの出来栄えであった。一方『ワンダーウーマン』は、フェミニズム以外の点でも両義性が滲み出る作品にもなっている。そしてこれは、必ずしも作品の欠点であるのではない。


マッドサイエンティストであるマル博士は、若かりし日はおそらくは女性であること、そしてさらには美人であることによってその能力よりも軽んじられたことだろう。彼女は立場上男性の軍人に引き上げてもらわねば「活躍」できないが、また顔に大きな傷を負っていてそれをマスクによって隠しながら生活しなくてはならない。スティーブのやろうとしたことは「色仕掛け」ともとれ、二重の意味でいささか残酷なものとも映る。ダイアナが彼女に鉄槌を下すのか否かというのは、フェミニズム的観点から論じることができるだろう。

ロンドンにやって来たダイアナが露出の激しい格好で平気で歩きまわろうとすると、生唾を飲んで見つめるのも男性なら、慌てふためいてこれを隠そうとするのも男性である。
フェミニズムはおしゃれをすることや露出の多い服装を拒むのではない。男性の視線や欲望に従属するのではない、自己解放のためのファッションを肯定する。男性は自らが「所有」する女性が他の男性の余計な視線を集めないようコンサバな格好を望むが、女性にとってそれは象徴的にも文字通りにも動きにくい、抑圧を生じさせる服装ともなる。


そのロンドンで、ダイアナが無邪気にも初めて見たアイスクリーム屋を褒めたたえる姿は、誰もが微笑まずにはいられないだろう。俗世間から隔絶されたような世界からやって来た「お姫様」のこうした姿は映画において繰り返し登場するものでもあるが、階級という観点から見るとどうだろうか。

ダイアナは「セクレタリー(秘書)」の仕事内容を聞いて、それは「スレイヴリー(奴隷)」ではないかと言う。それにしても、ダイアナはどこで奴隷の存在を知ったのだろうか。ダイアナは男を見たことがなかったが本で性愛について学んでいた。奴隷についても同じなのだろうか。しかし彼女は「姫」である。彼女の「母」である女王は選挙や籤引きで選ばれた存在であるようには見えない。女王の「娘」であるダイアナの「血筋」は「選ばれた者」であると認識されていたのだろうが、これはつまり「選ばれなかった者」も存在しているということにもなる。ダイアナが一騎打ちの際に出身と名前を名乗るのは「騎士道精神」からくるのだろうが、大量殺戮の時代にあってこれはなんとも滑稽に響く。しかし同時にまた、そんな時代錯誤的行動によって彼女の「高貴」さがより強調されているともとれるし、ダイアナ自身、自分の「出自」に誇りを持っているがゆえにこのような行動に出ているのだろう。


その分だけ「選民」による戦いという面が浮かび上がる。ダイアナは平和を守るためには力が必要であると考えている。素朴な善悪二元論に基づき、「悪」を倒せば平和が訪れると考えていたのだが、言葉を変えれば「悪」を倒さない限りは平和は訪れないということになる。休戦交渉を否定し主戦論を唱えるダイアナは、傍からは好戦的なタカ派に見えてしまう。そして、ダイアナを演じるガル・ガドットがイスラエルの占領政策の熱烈な支持者であることを思うと、このあたりはなんとも居心地の悪い思いをさせられる。言うまでもなく俳優の政治的意見と作品のキャラクターは別物であるが、しかし観客はまたメタ的な視線から逃れることもできない。

ダイアナの「母」である女王は、彼女を「力」から遠ざけておきたかった。力を得ればその分だけ「悪」に見つけられる可能性が高まると考えたからだ。これはまた、平和のために力が必要なのではなく、平和のためと称する力こそが悪を生み出し引き寄せるとも読むことができる。

制作側はこれらを意識してイスラエル出身のガドットをキャスティングしたわけではないのだろうが、むしろこのあたりは観客は積極的に居心地の悪さを感じるべきであろうし、その居心地の悪さを感じた観客ほど、後半でのダイアナに突き付けられる事実、そして彼女の価値観の揺らぎを多角的に見ることができるようになる。


シリアスさと陰気さとを取り違えたかのような作品が目立ったDCであるが、青空が登場する『ワンダーウーマン』は、アメコミというジャンルを超えた「深遠」な世界を築きたいという『ダークナイト』以来の呪いを打ち破っているように見える。近年のDCは、「深遠」さとは程遠い陰気なだけ絵の具でモノトーンに作品世界を塗りたくっていたにすぎない。『ワンダーウーマン』はむしろ、アメコミというジャンルを積極的に引き受けることで、その多様な世界を取り戻したといえよう。

よく論じられるように『スーパーマン』をはじめアメコミの作者にはユダヤ系が多く、第二次大戦中にスーパーヒーローたちがナチスと全面対決に入るのは必然の流れであった。一方でこれはマッチョな愛国主義にも容易に転じることになるし、そのせいもあってしばらく時代から取り残されることになる。

アメコミ原作者たちの動機はシリアスにして切実なものであったが、同時に、マスクを被ったりマントを纏ったり赤パンを履くといったヒーローたちは滑稽な存在でもあり、それだけで真剣に受け止めることができない人もいる。両義性、軋轢、矛盾、過剰な解釈、過小評価といったものはアメコミというジャンルに避け難く不随するものでもあろう。

ついに誕生した女性の「ヒーロー」に胸躍らせた女性読者がいたと同時に、露出の多いコスチュームのワンダーウーマンは男性からは別の視線を送られていたことだろう。『THE HERO アメリカン・コミック史』によれば、原作ではワンダーウーマンは毎回のように緊縛され、悶え苦しむという描写が登場するのだという。どういう読者に「サービス」していたのかは言うまでもない(そもそも原作者の趣味が……ということでもあるらしい)。今回ももちろん(?)ダイアナは拘束され悶え苦しむことになる。

「異形」のスーパーヒーローたちはマイノリティの隠喩でもあるが、「異形」のヴィランたちもまたマイノリティの隠喩であるのかもしれない。法を踏み越えてでも「正義」を追求しようとするスーパーヒーローは、独善的自警団主義にも陥りかねない。ワンダーウーマンは女性をエンパワーする存在であったとともに、男性読者からの性的な視線に晒され、男性ヒーローの従属的存在でもあった。このような往還を続けてきたのがアメコミの歴史でもあったが、その土台としてあるのが、あくまでこのジャンルがエンターテイメント作品であるということだ。どれだけ高い志を抱こうが、エンターテイメントとしての魅力がなければそのジャンルは衰退していく。

絶対的な悪を絶対的な他者だと思い込んでいたのがそうではなかった、闘うべき相手である「悪」に逆に誘惑されるといった展開は定型的なもので、これまでいくらでも繰り返されてきた。ダイアナが最後に達する境地も凡庸なものといえばそうである。では定型的な物語はイコール見飽きたものになるのかといえばそうとは限らない。むしろ「型」によって観客は安心して物語に没頭できることになる。その「安心」を揺さぶろうとするのに捉われ過ぎて、予防線を張ることにばかり懸命になって、エンターテイメントとしての本丸がおろそかになってしまっていたのが近年のDC作品であろう。

『ワンダーウーマン』はステレオタイプから逃れようとするのではなく、むしろエンターテイメント作品における「型」を積極的に引き受けている。そしてまた、アメコミというジャンルを、そこに孕まれる矛盾や両義性、居心地の悪さ等を含めて、受け止めている。

『ワンダーウーマン』は様々な投影の対象ともなる。男どもをぶちのめすダイアナの腕力に見惚れる女性がいると同時に、ダイアナの力強い生足にうっとりとする男性もいることだろう。男性に従属するのではないダイアナの行動力に憧れる人もいれば、美男美女のロマンスに憧れる人もいるだろう。物語の「定型」をふまえたことによる心地よさにもひたれるし、そこからはみ出る余剰部分も存在している。万人向けの爽快なアクションエンターテイメント作品として論じることも可能なら、肯定的にも否定的にも見る者が問われる作品であるという切り口から論じることもできる。アメリカでは女性客が押し寄せたのに対し、日本での宣伝、イメージ戦略がああなってしまうというのは日本社会の今を反映したものであり、作品受容の比較という点からも論じることができよう。これらを力強くごそっとかき集めてなお観客を魅了できたことが、『ワンダーウーマン』の勝利を示している。



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