『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』
『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』
若干ネタバレ気味のところもありますので未見の方はご注意を。
ライアン・ジョンソン監督の『ルーパー』は割りと好きで、とりわけ大友克洋風の部分などは特に良かった。一方でこの作品に不満を感じる人が多かったというのもわかる。タイムパラドックスをはじめとする設定の詰めが甘く、「細かいことはいいんだよ」とばかりに強引に押し切っているのだが、とりわけSFファンにとっては「いや、どうでもいいところじゃないだろ」という感じであったろうし、そこがノイズになってしまうという弱点を持っていた。そして『最後のジェダイ』もその弱点を持ち越してしまっている。クレジット上は単独脚本だが、実際にはジョンソンが1人で仕上げたわけではないのだろうから、全体を俯瞰して交通整理ができる腕のある脚本家にきちんと参加してもらうべきだったろう。
ホルド中将はある作戦をほとんどのクルーにも秘密裡に進めるのだが、この不必要な秘密主義によって一部に疑念を招き、内紛を引き起こしかける。これなどレジスタンスに内通者がいる疑いがあるといったような描写を入れておけば簡単に処理できるのであるが、そのへんに気が回らないのがこの作品を象徴するかのようでもある。
多くの人がひっかかったであろう部分が、フィンと新キャラのローズのパートだろう。エンディングのあそこにつなげるためと、新たな三角関係を発生させたかったのだという狙いはわかるが、それにしたってもっとコンパクトなエピソードにできたはずだ。フィンが活躍する要素がなかったので無理やりねじ込んだという印象は否めないし、本編にスピンオフが紛れ込んだかのような収まりの悪さがあった。
しかし、そもそもが『スター・ウォーズ』はそんなにかっちりした作品ではないという反論もあるだろう。『最後のジェダイ』冒頭の見せ場が爆弾「投下」をめぐってなのであるが、重力や大気の問題を完全に無視するというのは第一作から一貫している。個人的には無重力シーンというのが大好物なもので「スター・ウォーズ」サーガについて常々感じている物足りなさなのであるが、このあたりはむしろ「スター・ウォーズ」らしさといえばそうと強弁できなくもない。
では、とりわけ熱心な「スター・ウォーズ」ファンが反発を感じたのはどこに対してであったのだろうか。本作でより前景化したのは、ジョンソンというよりもJ・J・エイブラムスとすべきかもしれないが、「続編」を作り続けるというよりは、あくまで「リブート」をやるのだという意志である。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』はいわばfarewell partyのようなものであって、これからは新しい流儀でさせてもらうよ、という宣言ともとれるのが、濫用とも思えるフォースの拡張だ。
カイロ・レンとレイがフォースを通して会話するというのは、どちらかといえばガンダムのニュータイプに近いように思えてしまった。カイロ・レンがいろいろとシャアっぽいと感じている人は少なくないようであるが、『最後のジェダイ』にはキシリアの「意外と兄上も甘いようで」とかシャアの「なら同志になれ」といった、ガンダムの有名なセリフをそのまま持ってきてしまいたくなるような場面がある(そもそもが「レイ」という名前も……という気にさせられてしまう)。
このような「濫用」は、「スター・ウォーズ」に特別なものを見出したいと願うファンにとっては、フォースがただの超能力になってしまったかのように思えたことだろう。ジェダイが神聖視されることによって生まれる傲慢さが宇宙を乱しているのではないかというルークの懸念を思うと、それこそが狙いであるとすることもできる。死ぬことが決定づけられた作戦を描く『ローグワン』が第一作であるエピソード4につながるのであるが、『最後のジェダイ』では生き延びることの重要さが説かれるように、意図的な切断が行われている。多くの人が今作でレイの出生の秘密が明らかになると想像したであろうし、(他ならぬレイ自身を含め)少なからぬ人が何らかの形でスカイウォーカー一族とのつながりがあることを期待しただろうが、あえてそうはしなかった。
「スター・ウォーズ」サーガはその神話性が何かと言われるのであるが、同時に「懐かしさ」、もっといえば保守性がその成功に寄与してもいた。『ジェダイの帰還』を例にとれば、イウォークは「インディアン」や南洋の孤島の「人喰い人種」を模していることは明らかだ。金色のC3POが神と崇められてしまうのは、南米の先住民が白い肌を持つスペイン人侵略者のことを伝承に基づいて神だと思い込んでしまいみすみす虐殺されたことを思い起こせば素直に笑えなくなる。チューバッカやR2の可愛さも彼らが「主人」への忠誠心が厚いところからも来ているが、『ロビンソー・クルーソー』のフライデー的とすることもできる。
「野蛮な原住民」や「人喰い人種」が登場するようなかつての娯楽活劇をそのまま現在に持ってくることはできないが、舞台を宇宙に移すことでこれを可能にしたのが『スター・ウォーズ』でもあった。アメリカが深く傷ついていた73年に、イノセンスがかろうじて保持されていた60年代前半を舞台にした『アメリカン・グラフィティ』を撮ったように、ジョージ・ルーカスは過去へと捉われる傾向もある。ルーカスは保守反動なのではなく、『アメリカン・グラフィティ』も来るべき暗い時代を見据え、『スター・ウォーズ』もまた単なる居直った反動ではない。しかしまた、同時代との対話を重ねてアップデートを重ねていった『スター・トレック』とは異なるテイストを持ったシリーズとなっていった。
「リブート」された『フォースの覚醒』以降の「スター・ウォーズ」は、どちらかといえば「スター・トレック」的要素を強めている(というかエイブラムスは実際に「スター・トレック」もやっているわけだし)。『最後のジェダイ』のローズは、遠回しに言うのも何なんではっきり書けば、とびっきりの美人ではない。その容姿を揶揄するような反応が多く見られたことは「スター・ウォーズ」ファンの保守性を表しているとすることもできるだろう。「英語で演技ができる無名のアジア系美女」など山のようにいるにも関わらずあえてこのキャスティングにしたのは、ルッキズムへの挑戦と考えられる。
個人的にはこの挑戦は好意的に受け止めているが、同時にまた困難な道に足を踏み入れたことをエイブラムスをはじめ製作陣がどれほど意識しているのかは少々心持たないところもある。ストームトルーパーも血を流す生身の人間であるとした『フォースの覚醒』以降、一度アップデートを始めたからには、これからは常にアップデートし続けていかなくてはならなくなる。かつてキャリー・フィッシャーを「奴隷」にしたようにして、もう一度女優にあのような衣装を着せることは大目に見られることはない。
スピンオフも含めればこれから毎年のように「スター・ウォーズ」シリーズが楽しめることだろう。しかしこれは毎年その場だけで消費されて終わってしまうことにもなりかねない。一度アップデートを開始してしまった以上、「そういうものだ」という言い訳は通用せず、その結果として作品が古びるのも早くなる危険性がある。40年後も特別な感情を持ってかつての作品を振り返ることができるようなものを生み出せるのかという重さを、エイブラムスらがどこまで意識しているのかはいささか怪しいように思えてしまう。
シネコン名物といえばそれまでだが、僕が見た回では本編開始後5分ほどたってからポップコーンを持ったカップルが入ってきた。ポップコーン買う暇があるクセに「スター・ウォーズ」のオープニングを見逃すとは何たることか! と思ってしまったのだが、その程度の温度感のシリーズになっていくのだということを表しているかのようでもあった。「スター・ウォーズ」特有のマジックは、これからどんどん薄れていくことになるのだろう。
といっても、だからといって「保守的」な世界にとどまるべきだったというのではない。ルーカスが「活劇」を蘇らせたもう一つのシリーズが「インディー・ジョーンズ」であり、地球を舞台にしているだけに危ういところは「スター・ウォーズ」よりもさらに多い。三部作はあくまで過去を舞台にしているという言い訳がきいたが、久々の続編である、「現在」にぐっと近づいた『クリスタル・スカルの王国』における核の描写には呆れはてた人も多かっただろう。「保守性」に固執することも、このようなリスクがある。
『スター・ウォーズ』を「リブート」させるにはこの一歩は必要であったとは思うが、個人的にはエイブラムスへの信頼感はかなり低いのでどうしても不安のほうが強くなる。
もう一つ不満を述べるなら、『フォースの覚醒』以降で物足りないのは「大人」の不足だろう。レイとフィンのみならず、カイロ・レンにしてもあまりに「幼い」。世慣れず青臭いルークと海千山千乗り越えてきたハン・ソロのコンビが良かったのだし、ランバ・ラルやスレッガーのいない『ガンダム』を想像してみてほしい。ダメロンはダメダメすぎるし(一応学習能力はあるし、このシリーズの新たな方向性を身をもって学んだのであるが、その分「大人」の魅力は醸し出せていない)、ベニチオ・デル・トロ演じるDJがソロ的役割を果たしていくのかと思ったら、なんですかあれは。今後の伏線になっていないのだとしたら凄まじい無駄遣いではないですか。
僕は「スター・ウォーズ」の熱心なファンというわけではないので、まあこんなものかというところでもあったのだが、熱烈なファンが腹を立てる気持ちは(同意するかはともかく)わからないではない。もっともルーカス自身が手掛けた「新三部作」のグダグダっぷりを見てきているのだから(ミディ=クロリアン!)、この程度なら可愛いものではないかというところでもある。『最後のジェダイ』にぶーたれている旧三部作をリアルタイムで見た人には、こっちはあの新三部作だったんだよ! と言いたくもなってくる。
もう一度ガンダムを召喚すると、『Z』までは何とか許容するが『ZZ』は無理だという人がいるが(というか僕がそうなのである)、もし『ZZ』を作ったのが富野由悠季でなかったとしたら……というのを想像してみたらいいかもしれない。そういえば冒頭のダメロンの軽口とかルークとレイのしょうもないやりとりとか無意味に上半身裸になるカイロ・レンやらはちょっと『ZZ』っぽいノリといえるのかもしれない。全体の出来不出来以前に「そんなの求めてないんですけど……」というのがどうしても先行してしまう。
ボロクソに酷評している人は作品単体の質以外の要素が入っているので割り引くにしても、『最後のジェダイ』が欠点の相当に多い作品であることもまた間違いないので、絶賛している人のそれもまた作品単体の質以外のところに価値を見いだしている可能性が高いので割り引いた方がいいだろう。個人的には『ルーパー』の方が好きだし、ジョンソンの監督としての資質も超大作よりもややこじんまりとした方が向いているのではないかと思えるもので、ジョンソンに今後もまかせるというのはエイブラムスともども大丈夫かいなという気持ちにはなってしまった。
さて、次はソロの若き日であるが、監督はロン・ハワードか。うむ……
若干ネタバレ気味のところもありますので未見の方はご注意を。
ライアン・ジョンソン監督の『ルーパー』は割りと好きで、とりわけ大友克洋風の部分などは特に良かった。一方でこの作品に不満を感じる人が多かったというのもわかる。タイムパラドックスをはじめとする設定の詰めが甘く、「細かいことはいいんだよ」とばかりに強引に押し切っているのだが、とりわけSFファンにとっては「いや、どうでもいいところじゃないだろ」という感じであったろうし、そこがノイズになってしまうという弱点を持っていた。そして『最後のジェダイ』もその弱点を持ち越してしまっている。クレジット上は単独脚本だが、実際にはジョンソンが1人で仕上げたわけではないのだろうから、全体を俯瞰して交通整理ができる腕のある脚本家にきちんと参加してもらうべきだったろう。
ホルド中将はある作戦をほとんどのクルーにも秘密裡に進めるのだが、この不必要な秘密主義によって一部に疑念を招き、内紛を引き起こしかける。これなどレジスタンスに内通者がいる疑いがあるといったような描写を入れておけば簡単に処理できるのであるが、そのへんに気が回らないのがこの作品を象徴するかのようでもある。
多くの人がひっかかったであろう部分が、フィンと新キャラのローズのパートだろう。エンディングのあそこにつなげるためと、新たな三角関係を発生させたかったのだという狙いはわかるが、それにしたってもっとコンパクトなエピソードにできたはずだ。フィンが活躍する要素がなかったので無理やりねじ込んだという印象は否めないし、本編にスピンオフが紛れ込んだかのような収まりの悪さがあった。
しかし、そもそもが『スター・ウォーズ』はそんなにかっちりした作品ではないという反論もあるだろう。『最後のジェダイ』冒頭の見せ場が爆弾「投下」をめぐってなのであるが、重力や大気の問題を完全に無視するというのは第一作から一貫している。個人的には無重力シーンというのが大好物なもので「スター・ウォーズ」サーガについて常々感じている物足りなさなのであるが、このあたりはむしろ「スター・ウォーズ」らしさといえばそうと強弁できなくもない。
では、とりわけ熱心な「スター・ウォーズ」ファンが反発を感じたのはどこに対してであったのだろうか。本作でより前景化したのは、ジョンソンというよりもJ・J・エイブラムスとすべきかもしれないが、「続編」を作り続けるというよりは、あくまで「リブート」をやるのだという意志である。『フォースの覚醒』と『最後のジェダイ』はいわばfarewell partyのようなものであって、これからは新しい流儀でさせてもらうよ、という宣言ともとれるのが、濫用とも思えるフォースの拡張だ。
カイロ・レンとレイがフォースを通して会話するというのは、どちらかといえばガンダムのニュータイプに近いように思えてしまった。カイロ・レンがいろいろとシャアっぽいと感じている人は少なくないようであるが、『最後のジェダイ』にはキシリアの「意外と兄上も甘いようで」とかシャアの「なら同志になれ」といった、ガンダムの有名なセリフをそのまま持ってきてしまいたくなるような場面がある(そもそもが「レイ」という名前も……という気にさせられてしまう)。
このような「濫用」は、「スター・ウォーズ」に特別なものを見出したいと願うファンにとっては、フォースがただの超能力になってしまったかのように思えたことだろう。ジェダイが神聖視されることによって生まれる傲慢さが宇宙を乱しているのではないかというルークの懸念を思うと、それこそが狙いであるとすることもできる。死ぬことが決定づけられた作戦を描く『ローグワン』が第一作であるエピソード4につながるのであるが、『最後のジェダイ』では生き延びることの重要さが説かれるように、意図的な切断が行われている。多くの人が今作でレイの出生の秘密が明らかになると想像したであろうし、(他ならぬレイ自身を含め)少なからぬ人が何らかの形でスカイウォーカー一族とのつながりがあることを期待しただろうが、あえてそうはしなかった。
「スター・ウォーズ」サーガはその神話性が何かと言われるのであるが、同時に「懐かしさ」、もっといえば保守性がその成功に寄与してもいた。『ジェダイの帰還』を例にとれば、イウォークは「インディアン」や南洋の孤島の「人喰い人種」を模していることは明らかだ。金色のC3POが神と崇められてしまうのは、南米の先住民が白い肌を持つスペイン人侵略者のことを伝承に基づいて神だと思い込んでしまいみすみす虐殺されたことを思い起こせば素直に笑えなくなる。チューバッカやR2の可愛さも彼らが「主人」への忠誠心が厚いところからも来ているが、『ロビンソー・クルーソー』のフライデー的とすることもできる。
「野蛮な原住民」や「人喰い人種」が登場するようなかつての娯楽活劇をそのまま現在に持ってくることはできないが、舞台を宇宙に移すことでこれを可能にしたのが『スター・ウォーズ』でもあった。アメリカが深く傷ついていた73年に、イノセンスがかろうじて保持されていた60年代前半を舞台にした『アメリカン・グラフィティ』を撮ったように、ジョージ・ルーカスは過去へと捉われる傾向もある。ルーカスは保守反動なのではなく、『アメリカン・グラフィティ』も来るべき暗い時代を見据え、『スター・ウォーズ』もまた単なる居直った反動ではない。しかしまた、同時代との対話を重ねてアップデートを重ねていった『スター・トレック』とは異なるテイストを持ったシリーズとなっていった。
「リブート」された『フォースの覚醒』以降の「スター・ウォーズ」は、どちらかといえば「スター・トレック」的要素を強めている(というかエイブラムスは実際に「スター・トレック」もやっているわけだし)。『最後のジェダイ』のローズは、遠回しに言うのも何なんではっきり書けば、とびっきりの美人ではない。その容姿を揶揄するような反応が多く見られたことは「スター・ウォーズ」ファンの保守性を表しているとすることもできるだろう。「英語で演技ができる無名のアジア系美女」など山のようにいるにも関わらずあえてこのキャスティングにしたのは、ルッキズムへの挑戦と考えられる。
個人的にはこの挑戦は好意的に受け止めているが、同時にまた困難な道に足を踏み入れたことをエイブラムスをはじめ製作陣がどれほど意識しているのかは少々心持たないところもある。ストームトルーパーも血を流す生身の人間であるとした『フォースの覚醒』以降、一度アップデートを始めたからには、これからは常にアップデートし続けていかなくてはならなくなる。かつてキャリー・フィッシャーを「奴隷」にしたようにして、もう一度女優にあのような衣装を着せることは大目に見られることはない。
スピンオフも含めればこれから毎年のように「スター・ウォーズ」シリーズが楽しめることだろう。しかしこれは毎年その場だけで消費されて終わってしまうことにもなりかねない。一度アップデートを開始してしまった以上、「そういうものだ」という言い訳は通用せず、その結果として作品が古びるのも早くなる危険性がある。40年後も特別な感情を持ってかつての作品を振り返ることができるようなものを生み出せるのかという重さを、エイブラムスらがどこまで意識しているのかはいささか怪しいように思えてしまう。
シネコン名物といえばそれまでだが、僕が見た回では本編開始後5分ほどたってからポップコーンを持ったカップルが入ってきた。ポップコーン買う暇があるクセに「スター・ウォーズ」のオープニングを見逃すとは何たることか! と思ってしまったのだが、その程度の温度感のシリーズになっていくのだということを表しているかのようでもあった。「スター・ウォーズ」特有のマジックは、これからどんどん薄れていくことになるのだろう。
といっても、だからといって「保守的」な世界にとどまるべきだったというのではない。ルーカスが「活劇」を蘇らせたもう一つのシリーズが「インディー・ジョーンズ」であり、地球を舞台にしているだけに危ういところは「スター・ウォーズ」よりもさらに多い。三部作はあくまで過去を舞台にしているという言い訳がきいたが、久々の続編である、「現在」にぐっと近づいた『クリスタル・スカルの王国』における核の描写には呆れはてた人も多かっただろう。「保守性」に固執することも、このようなリスクがある。
『スター・ウォーズ』を「リブート」させるにはこの一歩は必要であったとは思うが、個人的にはエイブラムスへの信頼感はかなり低いのでどうしても不安のほうが強くなる。
もう一つ不満を述べるなら、『フォースの覚醒』以降で物足りないのは「大人」の不足だろう。レイとフィンのみならず、カイロ・レンにしてもあまりに「幼い」。世慣れず青臭いルークと海千山千乗り越えてきたハン・ソロのコンビが良かったのだし、ランバ・ラルやスレッガーのいない『ガンダム』を想像してみてほしい。ダメロンはダメダメすぎるし(一応学習能力はあるし、このシリーズの新たな方向性を身をもって学んだのであるが、その分「大人」の魅力は醸し出せていない)、ベニチオ・デル・トロ演じるDJがソロ的役割を果たしていくのかと思ったら、なんですかあれは。今後の伏線になっていないのだとしたら凄まじい無駄遣いではないですか。
僕は「スター・ウォーズ」の熱心なファンというわけではないので、まあこんなものかというところでもあったのだが、熱烈なファンが腹を立てる気持ちは(同意するかはともかく)わからないではない。もっともルーカス自身が手掛けた「新三部作」のグダグダっぷりを見てきているのだから(ミディ=クロリアン!)、この程度なら可愛いものではないかというところでもある。『最後のジェダイ』にぶーたれている旧三部作をリアルタイムで見た人には、こっちはあの新三部作だったんだよ! と言いたくもなってくる。
もう一度ガンダムを召喚すると、『Z』までは何とか許容するが『ZZ』は無理だという人がいるが(というか僕がそうなのである)、もし『ZZ』を作ったのが富野由悠季でなかったとしたら……というのを想像してみたらいいかもしれない。そういえば冒頭のダメロンの軽口とかルークとレイのしょうもないやりとりとか無意味に上半身裸になるカイロ・レンやらはちょっと『ZZ』っぽいノリといえるのかもしれない。全体の出来不出来以前に「そんなの求めてないんですけど……」というのがどうしても先行してしまう。
ボロクソに酷評している人は作品単体の質以外の要素が入っているので割り引くにしても、『最後のジェダイ』が欠点の相当に多い作品であることもまた間違いないので、絶賛している人のそれもまた作品単体の質以外のところに価値を見いだしている可能性が高いので割り引いた方がいいだろう。個人的には『ルーパー』の方が好きだし、ジョンソンの監督としての資質も超大作よりもややこじんまりとした方が向いているのではないかと思えるもので、ジョンソンに今後もまかせるというのはエイブラムスともども大丈夫かいなという気持ちにはなってしまった。
さて、次はソロの若き日であるが、監督はロン・ハワードか。うむ……