ゼルダ、ドラマ化

「ニューヨーカー」のZELDA FITZGERALD LETS IT ALL HANG OUTという記事にあるように、アマゾンでゼルダ・フィッツジェラルドを描いた『Z: The Beginning of Everything』というドラマが製作された(パイロット版は2015年に作られていたそうだが知らなかった)。ゼルダ役はクリスティーナ・リッチであるが、ちょっとイメージ違うかなあという気もしなくもないが(というかどうしても昔のイメージが浮かんできてしまうもので)。





ゼルダという人はフェミニズム的観点からもいろいろと注目できることだろう。アラバマ、ジョージア二州に並ぶ者のいない美女と呼ばれ、貧しかったスコット・フィッツジェラルドは彼女と結ばれるために何としても成功しなくてはならなかった。スコットは『楽園のこちら側』で衝撃的なデビューを飾り、時代の寵児として富と名声を得て二人は放蕩生活に突入する(フィッツジェラルドは大恐慌で全財産を失ったのではなく、稼いだ莫大なカネは二人で使いきったのであった)。

しかしゼルダは満たされないものも感じており、一時はバレエに熱中する。常識的に考えて二十歳を過ぎてバレエを始めたところでバレリーナになれるはずもないが、ゼルダの異様とも思える執着は、後に考えれば狂気の兆候だったとされることもある。

ゼルダは自分も作家を目指したし、スコットも彼なりに支援したつもりだったのだろうが、共に私生活をネタにしようとしたことからネタがかぶるという問題が生じることになる。スコットはゼルダの個人的な体験を含めて、自分がそれを小説の題材にするのを当然の権利だと感じていた。
ゼルダの狂気はこういったフラストレーションが原因となったのかはともかく、これが彼女を悪化させたことは間違いないだろう。

このドラマがどういったものになっているのかはわからないが、個人的にはゼルダ目線、スコット目線、スコッティー(二人の娘)目線の三部構成の映像作品が作られればなあとずっと思っている。黒澤明の『羅生門』ではないが、同じ出来事でもそれぞれにはまるで違ったように映っていたことだろう。ゼルダにもスコットにもスコッティーにも、それぞれに感情移入できる要素があるだけに、どのように描き分けるのかというのは腕の見せ所になるのだろうが、『Z』に引き続いて製作してくれたりしたらうれしい。


『ムシェ  小さな英雄の物語』

キルメン・ウリベ著 『ムシェ  小さな英雄の物語』




ゲルニカ爆撃後の1937年5月から6月にかけて、バスク自治政府は子どもたち1万9千人をヨーロッパ各地に疎開させることを決める。ラモンとカルメンチュ兄妹はベルギーへと送り出された。兄と妹は割り振られた家族と引き合わされるために、さよならを言う間もなく離ればなれとなってしまった。カルメンチュのもとに眼鏡をかけた青年が近づいてくる。「やあ、僕はロベールだよ。ロベール・ムシェだ」と、彼は笑みを浮かべてスペイン語で話しかけてきた。

語り手の「僕」はこのロベールの生涯を追っていく。ロベールは労働者階級出身で、父が怪我をしたため家計を支えるために働かなくてはならず、成績優秀であったにも関わらず大学進学の夢は断たれる。裕福な家庭出身で後に作家となるヘルマンとの友情とやがて生じる齟齬。ロベールは筋金入りの反ファシズムで、新聞の特派員として短期間ながらスペイン内戦の取材も行い、ヘミングウェイやアンドレ・マルローなどとも面識があったようだ。フランコが勝利を収めると、子どもたちはスペインへと戻され、ロベールとカルメンチュも分かれることになるが、ロベールは彼女のことを忘れることなく、結婚して生まれた娘にカルメンという名をつける。そしてついに勃発した第二次世界大戦。ロベールはベルギー軍の一員として前線で戦い負傷するが、ベルギーはあっさりと降伏してしまう。ロベールはもちろん反ナチスでもあり、ヘルマンの誘いでレジスタンスに加わることになるが……


本作成立過程についてはその結末近く、及び訳者あとがきでも説明されている(ミステリーではないので先に知っていても問題ないが、「ネタバレ」が気になる人は訳者あとがきを読まずに本文にとりかかった方がいいだろう)。ロベール・ムシェは実在の人物であり、本書は「フィクション」とはいえ、おおむね事実に即しているようだ。ならばこの作品はあくまでノンフィクションであって小説とすべきではないのではないかという疑問を抱く人もいるかもしれない。しかし本作はやはり小説であり、それは資料の欠落を想像によって埋めただけの、ノンフィクションを名乗れないがゆえに「小説」と名乗っているような消極的なものではなく、歴史小説であるとともに小説を(再び)書くことをめぐる物語でもある。

こんな会話が交わされる。

「お前は英雄の物語を書くべきだよ」
「でも、僕にとって英雄は存在しないんだ。僕が魅かれるのは人間の弱い部分であって、偉業じゃない。英雄なんて恐ろしい気がするよ」
「そういう英雄のことを言っているんじゃない。ごくありふれた人たちのことだ。英雄はそこかしこにいる、昔も今も、ここにだって、世界中どこにでも。人のために身を捧げる小さな英雄が」

この会話がいつどこで、誰と誰との間で交わされたのかに辿り付くとき、読者は小説だからこそ達することのできる感慨にひたることになる。


ウリベがロベールという人物を取り上げたのは、もちろん何よりもロベールという人物が魅力溢れる存在であるからだろう。またそれだけでなく、その境遇についても並々ならぬ感情移入してしまう理由がいくつかある。

その中の一つに、ベルギーの言語をめぐる状況もあるだろう。「当時、ベルギーではフランス語が教養語で、フラマン語は労働者の言葉だった。そのため、労働組合の機関紙はフラマン語で書かれ、左派知識人の多くは、ナショナリストでなくともフラマン語を擁護する立場を取った」。
もちろん左派であるロベールもフラマン語を重視する。しかし彼は閉じられた思考をしているのではない。ロベールは大学に行くことはできなかったが、ベルギー人らしくというべきか、複数言語をマスターしたポリグロットであった。それを活かしてレジスタンスとして隠れ家に潜みながら、翻訳の仕事もしている。

「僕の言語はもっとも豊かな言語ではない」とロベールは考える。「オランダ語で、フランスとドイツの偉大な伝統の狭間にある言語で書く理由は何だろう?」と自問する。「僕を人間として、世界のなかに位置づけてくれるからだ」と呟くと、地面に当たって砕ける雨粒を見つめて歩きながら、拳を握りしめる。「ヘントのフェレル通りの労働者たちの言語なしに、僕は僕ではありえないだろう」

ウリベはバスク語で小説、詩を書いており、ロベールの自問自答は切実なものに感じられることだろう。ロベールもウリベも、もちろん偏狭な地域主義に陥っているのではない。しかし彼らはやはりこの言葉で書く理由がある。そしてそれは「ヨーロッパ」というものを否定するものではないはずだ。EUの本部はベルギーのブリュッセルに置かれている。もちろんEUが「ヨーロッパ」の理想を体現している(あるいはその可能性がある)かどうかはまた別問題であるが、現在の、そして未来のヨーロッパというものを考えるうえでも、読まれるべき小説であるだろう。

『優しい鬼』

レアード・ハント著 『優しい鬼』




この小説の主題をあえて一つあげるとすれば、それは暴力かもしれない。男性による女性への、白人による黒人への、そして黒人による白人への。何よりも、アメリカ合衆国という国家の歴史における、拭い去ることのできない奴隷制度という暴力。

しかし、血塗られた物語を連想すると少々異なるものかもしれない。主要な語り手であるジニーは、14歳で遠縁の男と結婚する。その男の家には、12歳と10歳の少女がいた。楽園〔パラダイス〕という土地での新しい生活は、悪夢的なものなのかもしれない。ひらがなが多く読点の少ない文章は舌足らずな幼さを感じさせるとともに、現実感を奪い去って、悪夢的というよりも夢幻的な印象の方が強くなる。

19世紀半ばのアメリカの田舎での生活。ジニーは夫の暴力による被害者であり、また白人による黒人への暴力の加害者でもあるが、被害者という意識も、加害者という意識も、どちらも希薄というよりは皆無だ。ジニーにとって世界はこういうものであり、こうして生きていくより他なく、かすかな分岐点の気配を感じようとも、積極的に道を切り開いていくことはできないかのようだ。

そして本作の語り手はジニー一人ではない。時代を越え、性別を越え、そして人種を越えた語り手たちがいる。ある部分はトニ・モリソンの作品を連想させるかのようでもあるが、白人男性作家であるハントが黒人女性の「声」で語るということに、危うさがないわけではないだろう。それでもハントは、多様な「声」で本作を語る。19世紀半ばから20世紀初頭というのは、アメリカにとってとてつもなく大きな変化が起こった時代でもある。ハントは時代史としてそこで翻弄されていく大きな物語を提示するのでもなく、また個人史、あるいは一族の栄枯盛衰を網羅的に描くのでもない。時代の変化によって、反省的に意識が変化していく模様というのとも、異なるものだろう。

「現実」から切り離されたかのように見えなくもない物語世界であるが、しかし、ジニーの語りがそうであるように、これはやはり世界そのものを描いている。アメリカ合衆国の、そこに住む白人の、黒人の、男性の、女性の「声」で、それは年表のように具象的に掴めるものではないが、この世界が、そこに生き、死んでいく人々の姿が語られていくのであり、この「声」は、遠い場所で翻訳を通して物語に触れる読者の耳にも、ありありと響くことになる。


『ヘビー・ウォーター・ウォー』

『ヘビー・ウォーター・ウォー』

「ヘビー・ウォーター」とカタカナで書かれるとピンとこないが、重水のことである。ノルウェーで作られる重水は原子爆弾実現のために必要とされ、第二次世界大戦開戦前からドイツとフランスの間で鞘当が繰り広げられていた。第二次大戦が始まるとナチス・ドイツはノルウェーを占領する。ノーベル賞受賞者である天才物理学者ハイゼンベルクは亡命せずにドイツに残り、原爆開発に取り組むことになる。ドイツは大量の重水をノルウェーから輸入しようとするが、ノルウェーから脱出しイギリス軍に合流したレジスタンスたちはこれを阻止しようと、工場の破壊を試みる……





ノルウェー製作のテレビ・シリーズで、かなりの予算をかけたようでなかなかのスケール感のある作品に仕上がっている。『テレマークの要塞』をはじめとしてしばしば取り上げられてきた出来事であり、結果がわかっているとはいえ、はらはらとさせてくれる。

原爆開発に取り組むハイゼンベルク、ナチス・ドイツ占領下ノルウェーの化学工場、ノルウェーから脱出してイギリス軍と協力して破壊工作を試みるレジスタンスと、三つの視点から描かれる。
個人的に注目はハイゼンベルクがどう描かれるかであった。ナチ党に入党はしなかったものの、亡命は拒みドイツに残って原爆開発に取り組んだハイゼンベルクの「真意」がどこにあったのかは諸説ある。本気で実現しようとしたが失敗したのか、気乗りしなかったのか、サボタージュを行ったのか、本作でもそのあたりはおそらくは意図的に曖昧に描かれているが、やや同情的に解釈できるような雰囲気を漂わせている。

そういえば「帝国」に新兵器開発に自分は不可欠なのだと思わせておいてサボタージュするというのは『ローグ・ワン』に登場するゲイレン・アーソだが、ハイゼンベルクあたりからの影響もあったりするのだろうか。『スター・ウォーズ』といえば、僕は砂漠や雪原の光景というのにどうにも惹かれるのであるが(もっとも自分で行くのは御免だが)、この作品も『インセプション』もとい『女王陛下の007』など、雪原でのアクションが好きな人にとっても楽しめるだろう。

史実を基にしながらも主要キャラクターに虚構の人物がいるなどかなり脚色が施されているようだが、しかしわかりやすいエンターテイメントに落とし込んでいるだけではない。ノルウェーにとってはこの一連の出来事は英雄的レジスタンスの活躍として神話化するだけで済ますわけにはいかない苦いものでもあり、本作はそのあたりもふまえられているあたりには好感が持てた。



『ゼロヴィル』

スティーヴ・エリクソン著 『ゼロヴィル』




1969年夏、24歳の誕生日の2日後に、ヴィカーは長距離バスで6日間かけてロサンゼルスまでやって来た。「仏教徒でもないかぎり頭を剃ったりしないし、バイカーかサーカスの芸人でないかぎり刺青などしていない」時代に、ヴィカーは頭を剃り上げ、そこに『陽のあたる場所』のエリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフト――「映画史上、もっとも美しい二人の人間」――の極端なクロースアップの刺青を施していた。しかしなんということか、せっかくハリウッドにやって来たというのに、人々は『陽のあたる場所』と『理由なき反抗』とを混同し、モンゴメリー・クリフトとジェームズ・ディーンの違いもわからず、エリザベス・テイラーをナタリー・ウッドだと勘違いするのであった。こうして初っ端から腰を折られつつ、ヴィカーのハリウッドでの生活が始まる……。

1960年代後半から70年代にかけての文化状況を背景に、虚実入り混じった膨大な量の映画に言及しながら、物語は進んでいく。

柴田元幸氏が「訳者あとがき」で指摘しているように、短い断章を積み重ねた構成は、どこか映画の脚本を思わせる。そして『いなごの日』ミーツ『フォレスト・ガンプ』というか、フィッツジェラルド的でもあり、村上春樹の『1973年のピンボール』や『羊をめぐる冒険』を思わせるようなところもあるように、物語はどこか既視感を漂わせているが、これはむしろエリクソンの狙いであろう。

エリクソンはアメリカ合衆国というものを問い直すような作品が多い。父親から厳しい教育を受け、神学校で建築を学んでいたヴィカーは二十歳にして初めて映画を観て、これに魅了されて人生を大きく変える。宗教と映画というのはまた極めてアメリカ的事象である。しかし本作は、こういったアメリカを問い直すものというよりは、エリクソンの映画への思い入れが溢れたもので、当人も書いていてさぞ楽しかったのではないかと読者が感じてしまうかのような作品になっている。

おそらく、エリクソンが最も意識していたのはジャン=リュック・ゴダールではないだろうか。映画の断片を寄せ集めて作品に仕立てるというのもゴダール的であるし、何より本作のタイトルが『アルファヴィル』の探偵エディ・コンスタンティーヌの「ここはアルファヴィルじゃない、ゼロヴィルだ!」というセリフからとられている。映画の断片をかき集めてくるといえばゴダールの『映画史』がその極北であるだろう。そして『ゼロヴィル』において、ある人物がこんなことを言う。「『陽のあたる場所』を作る前、ジョージ・スティーブンスは戦争から帰ってきて、それまでに自分がやったことはみんな……取るに足らないことだと思うようになっていたんだ。監督をやめて戦争で戦って、そうして……収容所にいち早く入って……何もかも見た。ダッハウ。ベルゲン=ベルゼン。そのあと、映画は世界を変えるべきだとあの男は考えた……じゃなけりゃ何の意味がある?と」。

ディディ=ユベルマンが『イエージ、それでもなお』で詳しく述べているように、まさにゴダールの『映画史』はジョージ・スティーブンスがナチスの強制収容所を目撃した体験とその後に撮られた『陽のあたる場所』というのが、重要な要素となっている。

しかし『ゼロヴィル』は、シネフィルが眉間に皺を寄せながら小難しい顔をして読む小説ではないだろう。トマス・ピンチョンの作品では登場人物がパラノイア的に世界に過剰な意味を読み込んだり、痕跡を見出してしまうことになるが、本作のヴィカーは映画にそれを見出す。そしてピンチョンとの比較でいえば、『ゼロヴィル』と対比すべきは『ヴァインランド』ということになるだろう。ヴィカーは『裁かるゝジャンヌ』(もちろんこれもゴダールが引用したことで有名であり、そのことは本作でも直接言及され、重要なモチーフとなる)やハリウッドの古典から、同時代の作品まで膨大な数の映画を観まくるが、読者はあくまでヴィカーというフィルターを通して映画に触れることになる。

なにせスコット・フィッツジェラルドのことをジョーン・クロフォード主演の『ザ・ウィメン』にクレジットされてないが脚本に参加した人物としか認識していない「映画自閉症」であるヴィカーのこと、独特の審美眼を発揮する。ヴィカーが初めて観た映画は二本立てで、一本目は「ロンドンの写真家が、一見静かな公園に見える場を映した写真から殺人事件を発見する」作品で、これはもちろんアントニオーニの『欲望』である。そしてもう一本は、「雪山に住む歌う妖怪の家族が、警察に追われ悪意ある音楽の跡を残していく話」であるが、これは何かというと『サウンド・オブ・ミュージック』のことなのである。このように大いに笑わせてくれる部分も多い。

映画とは夢のメタファーのようでもあるが、本作はまた夢をめぐる物語でもある。ヴィカーは『エレファントマン』のことを高く評価する。『ゼロヴィル』はゴダールの『映画史』をもとに『ヴァインランド』のテイストでピンチョンが脚本を書いたデヴィッド・リンチの監督した作品のように思えなくもない。本作と同じくハリウッドを描いた『マルホランド・ドライヴ』をはじめとするリンチの作品を意識していることも間違いないだろう。


このように、読者はあくまでヴィカーの目を通しての映画に耽溺すればいいのであって、言及される作品を観ていなければ読み進めるのが困難になるようなことはない。とはいえ、「訳者あとがき」に言及されている作品のリストが挙げられているが(鈴木清順の『殺しの烙印』や増村保造の『盲獣』、大島渚の『愛のコリーダ』などの日本映画も含まれている)、僕が未見の作品も多数含まれており、もし観ていたらこの『ゼロヴィル』をもっと楽しめたのではないかなあという悔しさもちょっと湧いてくる。

またティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』は60年代の世相や文化について訳者の村上春樹が脱線気味にエッセイ風の膨大な訳注を付けていてそれだけでも楽しめるが、『ゼロヴィル』ではシネフィルや6、70年代ハリウッドの内幕に通じている人が「副音声」(ちょっと変な言い方になるが)で解説を付けてくれたら、それもまた楽しそうである。


プロフィール

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

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