『ガストン・ガリマール』

ピエール・アスリーヌ著 『ガストン・ガリマール』





こちらにあるように、プルーストが金を払って自著を絶賛する書評を書かせていたことが明らかとなったそうだが、この当時の雰囲気を知りたい人は本書を読んでみるといいだろう。



1919年、プルーストの『花咲く乙女のかげにて』が発売される。売上げも批評も「結構だが控え目なもの」であり、つまりこれは作者にとってもガリマールにとっても満足のいくものではなかったということだ。プルーストはこの作品がゴンクール賞にノミネートされると、「お得意の文学的策略をめぐらした」。昼食会や夕食会を何度も催し、「かれに最終的な勝利をもたらす戦場に親友、近親者を続々と投入したのである。そのかいあってか、『花咲く乙女のかげにて』は賞に輝くが、次席のローラン・ドルジュレスの『木の十字架』との票差はわずか二票だった。

ゴンクールはこの機を逃すまいと駆けずり回り、数日で売り切れた『花咲く乙女のかげにて』の重版をすぐに行い、受賞から十数日で小売店に届けることができた。そこには「ゴンクール賞」と刷られた帯がかけられていた。

またその頃、「負け際の悪いアルバン・ミッシェルの告訴が問題になった」。というのも、ドルジュレスの本にも「ゴンクール賞」と刷った帯がつけられ、「その下に小さな活字で一〇票中四票」と付け加えられたからである」。
結局アルバン・ミッシェルの広告と同じくらい野暮だということで告訴は見送られたそうだ。

文壇をめぐるあれこれや、客の錯覚を狙った帯など、まあいつの時代もどの国でも似たようなものよ、と思わず笑ってしまった。


ガリマール書店はあえて日本で例えると岩波書店のような存在ということになろうが、ガリマール書店のあり方は岩波のそれとは大分異なることがこのガストン・ガリマールの伝記を読むとわかる。雑誌や大衆的な出版物で資金を得て、純文学作品を刊行し作家を育てるというのは日本では岩波以外の大手出版社がやっていることだが、ガリマールはこの手法を取っていたのである。

ガストン・ガリマールの父は「金利生活者」で、絵画収集などでその名をはせていたが、彼は働いたことがなかった。要は大金持ちの息子であり、ガストンも頭脳明晰で成績優秀であったにも関わらず学業を途中で放棄している。彼も労働をするつもりなどなかった。しかしそんな生活に物憂いものを感じるようにもなっていた25歳の時、NRFの編集、経営に誘われ出版業界に入る。

ガストンの生い立ちを考えると浮世離れした経営方針を取りそうなものだが、実際には後に入社してくる弟ともども実務能力が高く、ガリマール書店を権威ある一流出版社へと育てていく。このあたりは以前こちらに書いた、やはり裕福な家庭に生まれ、自ら創設したフェルトリネッリ書店を一流出版社、書店チェーンへと育て上げたジャン・ジャコモ・フェルトリネッリのことも頭によぎる。フェルトリネッリは左翼思想にどっぷりつかりながら、経営者としての才覚もあり実務能力も高かった。ヨーロッパの大金持ちにはこういうタイプの人間が多かったのかといえばおそらくはそういうわけではなく、単に放蕩の限りをつくして財産を食い潰しただけの人物の伝記が書かれることはないということなのだろう。

フェルトリネッリは極左活動も継続して行い、最後は自らが仕掛けた爆弾の誤爆によって死亡することになるが、ガストンの生涯はこの点ではフェルトリネッリとは対照的である。

ガリマールは「享楽家」であった。第一次大戦が始まると病気を装って徴兵を逃れる。絶食し20キロ以上痩せて兵役を免除されると、意気揚々とレストランに食事に行くが胃が受けずにもどしてしまい、皮肉なことに本当に病気になってしまうのであった。ガリマールの行動には当然冷ややかな目も向けられたが、彼は意に介さなかった。といっても、絶対平和主義者による信念の行動とは少し違った。ガリマールはこの戦争をバカげたものだと思い、バカげた戦争で死ぬなどバカげたことだと考えたのであった。

皮肉なことにというべきが、「ミュンヘン会談」後にはNRFは好戦的であると批判をされることになる。フランスがあっさりと占領されると、作家も出版社も厳しい選択を迫られた。第二次大戦後にはガリマールも対独協力で訴追される危険もあったが、権謀術数を尽くしてこれを切り抜け、さらなる威信を獲得するのであった。ガストンは95歳の目前まで生き、息子が社長を引く継ぐことになる。


『『文藝春秋』の戦争  戦前記リベラリズムの帰趨』

鈴木貞美著 『『文藝春秋』の戦争  戦前記リベラリズムの帰趨』






菊池寛が「リベラルな立場から転じて、対英米戦争へ突き進んでゆく日本の知的大衆を牽引する役割を果たしたことは否めない」。

これについてある批評家は「日中戦争がはじまるとたちまち戦争協力に転じた」とし、「左翼ないし反権力の立場」から「中道主義というものは、そんなものでしょう」としている。また別の批評家は「九・一八以後、急速に右傾化を強めつつあった『文藝春秋』は、全面戦争と同時にファッショそのものになった」とし、「その第一歩が『JAPAN To-day』の発行であった」としている。
これに対し粕谷一希は菊池が、「少しでも日本の国策を理性的たらしめようとした」のだとした。

左派的な人は菊池や『文藝春秋』、そして彼の周辺の人物を「戦争協力者」の一言で片付けようとしがちかもしれない。確かにそれは間違っていない。しかしそれだけで済ませては「リベラリスト」を自認していた菊池がいかなるプロセスで戦争協力へと転じていったのかが見えてこず、歴史記述として不十分となってしまう。

一方で粕谷をはじめとする保守の側は、菊池などに過度に同情的であり、戦争協力、さらには戦争そのものをも相対化しようとする意図が見え隠れする。その結果として「非理性的」に戦前を全肯定する極右にまで接近してしまいがちだ。たとえ菊池が本当に「理性的たらしめようとした」のだとしても、それはあくまで主観的にであって、客観的に検証されなければならない。そして「当時の「日本人のつもり」をいくら明らかにしても、侵略を受けた側の人びとにとっては、さほど意味があるとは思えない」ということは、日本人がまず議論の前提としなくてはならないことだろう。

本書は菊池寛の生涯と彼が創刊した『文藝春秋』の歩みを追い、また『文学界』をはじめとする菊池や文藝春秋社とゆかりの深かった人びとが、戦前から戦中にどのような思考の軌跡をたどったのかを明らかにしていく。


菊池寛はプロレタリア文学が勃興すると「ブルジョワ作家」と非難を浴びるが、これに対し「プロレタリア文学は政治に「仕える」文学、とやり返した」。
では菊池が徹底して反左翼であったのかといえばそうとも割り切れない。菊池は「一貫して無産者に同情的」であり、1930年代にも貧困地区の小学校に寄付をし、その卒業生を文藝春秋に使い走りとして雇ってまでいる。しかも菊池は、1928年には無産政党である社会大衆党から立候補すらしており(結果は落選)、続く30年の選挙でも、自身は出馬しなかったが鈴木文治や西尾末広、宮崎龍介らの応援に「東奔西走」した。「「プロレタリア文学」が盛んな時代で、ブルジョワ作家が無産階級の党から立候補するのか、と揶揄された」が、菊池のこの行動は「資本の横暴に苦しむ庶民の味方」という、政治信念に基づくものというより心情的なものだったのだろう。

菊池の言動は矛盾したものといえばそうだが、彼という人間をよく表したものだとも思える。芥川賞と直木賞を作ったのは菊池であり、彼は亡き友の名を残し顕彰したかった。また生活に困っている物書きには支援の手を差し伸べ、『文学界』のように雑誌ごと金銭的に支えまでする。同時に『文藝春秋』には後の『噂の真相』顔負けの、低俗を通り越して下劣とすらいっていいような文壇ゴシップネタも掲載されていた(主に直木三十五が書いていたようである)。

『文藝春秋』は右と左を切ることによってその間に広がる中道を読者層としたが、これは政治的傾向のみならず、知的傾向としても新たに誕生した新中間層がターゲットであり、これが見事に成功する。経営者としてはワンマン、あるいは封建的とすら映りかねなかったが、面倒見のよさもあって社員の信奉は篤く「親父」と呼ばれた。このように「リベラリスト」という自己規定とは相反するように、近代的というよりは人情には篤いが父権主義的という、良くも悪くも古いタイプの経営者であり、同時に利に敏い編集者でもあった。この中道志向はうまくいけば穏健となるのであろうが、一つ間違うと定見がないということにもなる。菊池と『文藝春秋』はこの陥穽にはまっていくことになる。

菊池をはじめとする『文藝春秋』一行は1930年10月に満鉄に招待される。このように文化人を招き日本から旅行客を呼ぼうというのは、夏目漱石の時代から満鉄が繰り返し行ってきたことである。

横光利一はこれですっかり「満洲」にまいってしまったようで、「満州国」の「建国」以降は礼賛を繰り返すようになり、「「満洲国」では、すべてに「知性」が貫いている、そう断定」したほどだった。また当時「三文文士など招いて何になる」という論調があったが、それへの反発からなのか、直木三十五は「満州事変ののち、「満洲国」にひとかたならぬ肩入れをしていく」。

横光や直木が夜郎自大的イデオロギーにあっさりと感化されたのに比べると、菊池の歩みはもう少し複雑だ。満州事変が起こると、『文藝春秋』のその直後の座談会では米田實がこれを日本人民の権益保護という「自衛権」だと擁護するが、長谷川如是閑は「帝国主義時代は第一次大戦で終わったとし、日中相互の関係で解決すべきだ」と説いた。座談会では「日本には領土的野心はなく、経済権益だけを守ると主張」される一方で、「「日本が手を突っこんではダメ」という意見で一致し、直木までこれに同調しているという。

長谷川は「戦前期『文藝春秋』に最も登場回数の多いひとり」で、「ここに戦前期『文藝春秋』のリベラリズムがはっきり示されている」。さらに30年代半ばには山川均も執筆者として積極的に起用されるようになるが、また軍人によるプロパガンダのような座談会も行われていた。

五・一五事件に対しては『文藝春秋』の誌面では「積極的に批判する記事が目立つ」のに対し、菊池は「被告達の心胸は、維新志士のそれに比して、更に純粋悲壮」と擁護したが、これは「世評の大方を代弁」したもので、「菊池寛の大衆感覚は鋭い」。京大滝川事件でも「誌面では「大学の自治」が脅かされたというトーンが強い」のに対し、菊池が書く「話の屑籠」では冷淡だ。

後にみればすでに軍の暴走が始まっていたのであり、誌面のトーンから考えると編集者らはそれを認識していたであろうことがわかるが、それに対し菊池はあまりに鈍感であったとしていいだろう。大衆の心情に寄り添うのは菊池の商売上の成功の秘訣であるが、同時に政治的理念として譲ってはならない一線を持ち得なかった菊池の弱点もすでに表れている。

二・二六事件には「菊池寛も大きなショックを受けた」。菊池はこの直後に「言論文章などがいよいよ自由を束縛されやしないかと云う不安が、一番嫌だった」と書き、その反応は「五・一五事件のときとはだいぶちがう」。『文藝春秋』には山川に加え片山哲、加藤勘十ら「非戦論、国際協調論」を展開する論者も登場し、「軍にも反ファッショ勢力にも誌面を開いていた」。

盧溝橋事件が起こると菊池の分裂状態はさらに深まるかのようだ。「菊池寛は、戦争の拡大に明確に反対した」とあるように、「早く和平を結べ、という意味」の文章を書いている。しかし同時に天皇主義も公然と掲げるようにもなり、また「臨時増刊「日支全面衝突」の売行きがいい、とも告げている」。このように、「菊池寛の心のなかで、和平を望む気持ちと天皇制の国体尊重と社主としての商売気が同居しているのがよくわかる」。

菊池の分裂を象徴するのが、近衛文麿への過度とも思える期待の大きさだろう。近衛はその学歴、学識から知識層の期待を集めた。同時に彼は天皇家とも縁の深い「名家」出身であり、そして彼を担ぎ支えたのは皇道派でもあった。近衛は当初不拡大方針をとりながら、既成事実の積み重ねにずるずる引きづられていき、日中全面戦争に突入させることになる。

『文藝春秋』には盧溝橋事件直後は批判的なトーンの記事が目立ったが、12月の南京大虐殺、そして人民戦線事件を経て完全に腰砕けとなる。菊池は「話の屑籠」で言論弾圧に抗議する一方で、「義」の基準を「尊皇かどうかに変」え、「「日本精神作興」のためなら、上古、南北朝、維新史だけを中心とすべきだともいう」。38年3月号の「話の屑籠」には「本社の営業いよいよ好調」と書き、「このところの急成長は「支那事変」臨時増刊号のヒットによるところが大きい」とした。そして菊池は同月号で「外国語の付録をつけることを予告」した。これが『Japan To-day』となる。

「『Japan To-day』は、全体として日本文化の国際性をアピールすることを基調」にしたもので、文学や映画、建築など「芸術関連の記事に力を注ぎ、日本軍によって大陸に平和が回復していることを訴えるものだった。これが「国家目的に協同」する菊池寛の対外戦略だった」。

「『文藝春秋』一九三七年九月号で、菊池寛は「東洋平和」を乱すものとして戦争の拡大に反対を表明したが、これは近衛文麿内閣の戦争不拡大方針にそうものだった。八月、第二次上海事変により日中全面戦争に突入したが、『文藝春秋』は不拡大の姿勢を保っていた。他方では、臨時増刊「現地報告」を刊行開始し、戦況を報告、これは社のドル箱になった。南京虐殺を機に、ソ連に次いで英米も蒋介石支援を拡大に強化していった。そして、人民戦線など戦争を忌避する態度が徹底的に弾圧されるなかで、菊池寛は、非常時には国家のために尽くすのが国民のつとめという考えを固め、「よりよい戦争」の方向を求めて、国際非難を回避するキャンペーンにつとめた。それが彼にとって言論の自由を守り、文藝家の社会的地位の向上をはかり、また文藝春秋社の利益をあげる道だった。それとともに彼のなかに育まれていた皇国史観がせりあがってきたことも明らかだった」(p.173)。


菊池は敗戦後の45年10月号で早くも「しなくってもすんだ戦争だと思う」と書いている。「強いて敗因を探れば、間接の原因は、満洲国の建設及び右傾団体の与論の圧迫」、「直接の原因はドイツの勝利を信じたことと米国の国力の誤算」としている。同時に「国民はよく戦った」、「負けた後で、責任を国民にも転嫁しようなどとは、無理を通り越して非道である」ともしている。これはまさに「一億総懺悔」と同類の発想である。「一億総懺悔」とは軍部、政治家、官僚の責任を免罪しようとするものであり、その中には菊池を含むメディアも加えられる。

戦後講演を再開した菊池に「戦争協力者」と野次が飛んだが、菊池がこれに「戦争に協力しない日本国民があるか、あればそれは非国民だ」とやり返すと会場には「嵐のような拍手」がわいたという。菊池は主観的には戦争に「理性」をもたらそうとしたのかもしれないし、言論の自由のために戦ったつもりだったのかもしれない。しかし結果としてであれ、時流に棹差したことへの反省的視点はなく、それは多くの日本人が自らを被害者と位置づけ、加害責任に目を向けたがらなかったことと歩調を合わせている。まさに「大衆」の心をつかむのに長けた菊池らしい反応であるといえよう。


では本書におけるもう一つの主人公である小林秀雄をはじめとする『文学界』グループの戦争はいかなるものだったのだろうか。1936年に経営に行き詰ると、菊池がポケットマネーで支援し、文藝春秋が抱えることとなった。この時期小林秀雄が転向左翼を同人に迎え、プロレタリア文学的作品も積極的に掲載したことから、フランスの『N・R・F』の影響を受けていたこともあって、著者は「一種の人民戦線に似た志向をとっていた」とする。

一方で小林は、38年春に火野葦兵に芥川賞を渡すためにはじめて中国に渡ると、「日本人の血というものは実に濃いものだという実感」を得たとしている。小林はまた、満洲を訪れた経験もふまえ、クリスティの「奉天三十年」の紹介という形で「日本人の「満州国」の統治の下で、中国人の憎悪が渦巻いていることを伝えている」。そして小林は、また多くの日本の知識層は、「「大東亜戦争」の開戦とともに、気分が晴れ晴れ」することになる。

中国との戦争には後ろ暗い思いを抱えていた知識層が、これで「アジア対西洋」、「アジア人対白人」という構図になったと「 気分が晴れ晴れ」するのであるが、しかしこれによって日本が中国から軍を引いたわけでもなく、中国との戦争はそのまま継続されている。要は現実から目をそらしただけなのであるが、逆にいえば日中戦争はそれだけ正当化できない戦争であったことを当時ですら多くの人が感じていたということでもあろう。

小林の言動は菊池と比べるとわかりにくい。彼は「文学の仕事は仕事、行動では「政策に協力」という、いわば二正面作戦をはっきり打ち出している」とあるように、表面上は積極的に協力していったかのようだ。しかし「独善的な理念」を非難してもおり、「その中身は口にしていないが、ファナティックな天皇主義や、軍国主義イデオロギーを含意していたという推測は成り立とう」と著者はしている。

著者は「戦争に深くコミットしたリベラリストたち、新中間層をリードした知識人たちをファシストとレッテルを貼って否定してみせても、何も生まれはしない。時々刻々変化する国際=国内情勢と、それに対する彼らの言動の内実に踏み入ってきたゆえんである」としており、確かに「ファシストとレッテルを貼って否定」しただけでは彼らの「内実」は見えてこない。しかしその「内実」に寄り添いすぎると、それはただのアポロジスト的弁明ともなりかねない。

川端康成が48年から65年まで日本ペンクラブ会長を務め、その国際大会を日本に招致したことについて、「「大東亜文学者大会」の拡大版のような意味を込めて、その実現のために働いた人びともいたことだろう」という部分はそれこそ「怪訝に感じ」ざるをえない。「おそらくは川上徹太郎の胸の内には、国際ペンクラブの理想の方が先にあり、精神の二元性を背負いつつ、それを戦争の時局にあわせて尽力したのが、第二回大東亜文学者大会だったのだろう」とするのだが、著者が書くように反ファシズムであった「ポール・ヴァレリーの向こうを張って「近代の超克」座談会」が行われたことを思えば、これは飛躍した擁護のように感じられてしまう。

本書でも触れられているように、「大東亜共栄圏」のイデオロギーにあえて忠実であるように装うことで言葉を奪われた朝鮮の人びとに同情を寄せた文学者がいたように、一見すると協力的でありつつその裏で消極的抵抗を試みた文学者がいたことは確かだろう。僕自身、戦争協力をした文学者を「ファシスト」の一言で片付けようとは思わない。ジェイ・ルービンの『風俗壊乱』にもあったように、作家たちは文学報国会に入らないことには仕事が得られない状況に追い込まれていた。永井荷風のような作家が超然とした姿勢を保てたのは、彼が戦前に稼いだ印税によって生活の不安がなかったからでもある。もしあの時代にいたら、命を賭して徹底した抵抗を試みたかといえば、僕にはとてもその自信はないし、びくつきながらの消極的抵抗ですらあやしいものだと思う。しかし同時に、だからといってその「内実」にあまりにも寄りかかってしまえば、単に彼らの言動を正当化するだけになってしまう。菊池への「大衆」の喝采にあるように、戦後に「嫌な時代になった」という菊池らの恨み節とは異なり、戦後の日本はむしろそういった正当化こそが幅を利かせることになる。

本書で違和感を持ったのは、戦後3年足らずで亡くなった菊池寛はともかく、35年ほど生きた小林秀雄の戦後の言動について検証がほとんどなされていないことだ。小林は戦後に戦争協力者と非難されても弁明も反省も行わなかった。あるいはこれは、戦時中の自らの行動に恥ずべき点などなかったという自負心から来るものかもしれない。そして小林のこのような態度は、「戦後民主主義」と、戦時中の自分の言動を棚に上げてそれを寿ぐ知識人・文化人の軽薄さを呪詛する人びとから称賛を集めた。しかしそのように小林を讃えた人の中には、戦争の侵略性を否定するばかりか全てを正当化し、戦前復古を目指す人びとも含まれているのだが、小林とその周辺はそれらと対決することはなかった。

大岡昇平は小林とは師弟であり兄弟分でもあり、戦後も行動をともにしたが、次第に距離を取るようになっていく。徴兵され壮絶な戦争体験をした大岡にとって、小林らの戦後の戦争に対する認識や姿勢は受け容れ難かったのだろう。

まさに文藝春秋社が、保守を通り越して、歴史学的にまったく話にもならない極右歴史修正主義の刊行物を平然と出している現状を考えれば、小林や再スタートをきった文藝春秋が戦後に自らの戦前・戦中の言動をいかに正当化したのかについて、もっと批判的検証がなされるべきではなかったか。


このように本書の内容や著者の姿勢については幾分疑念を覚えるものの、1930年代以降日本のインテリ、メディア企業がいかに振る舞ったのかについては、得られるものも多いだろう。


レミングは集団自殺しないが

政治部とワイドショーがある限り日本の政治はどうにもならないと感じてきたが、そのグロテスクさをこれ以上なく見せつけられている。

両者に共通するのが、内輪の論理こそが絶対であるということだ。政治家が極右であることは内輪の禁忌には触れないのでスルーされる。それどころか、人種主義や歴史修正主義を正面から批判することは逆にタブー化されてしまっている。飛ぶ鳥を落とす勢いの政治家の過去の言動と現在の主張との間の整合性を問おうとすれば、空気の読めないイタい人扱いされるのがオチだろう。

近年このような内輪の論理は、問い直されるどころかむしろさらに幅を利かせるようになり、その結果日本は、厚顔無恥な極右にとっては天国のような状況となった。

2012年に石原慎太郎が都知事を辞職し衆議院議員への出馬表明記者会見を行うと、HNKは延々とこれを生中継し、記者会見では厳しい質問は一切なされず、スタジオに登場した政治部の記者はひたすら今後の政局の話をしていた。これはNHKに限ったことではなく、ほとんどのテレビ、新聞が、石原都政のまともな検証作業を行うことはなかった。オリンピック招致(「黒シール事件」の実行犯が鹿島の社員であったように、石原はゼネコンとはズブズブの関係にある)、築地市場の豊洲移転といった問題はこのときすでに出ていたわけで、ここでまともな検証作業がなされていれば、それは違った形になっていたことだろう。

石原は山のように差別発言を繰り返すのみでなく、「余人をもって代えがたい」道楽息子を税金で食わせようとしたように都政の私物化は甚だしく、さらには新銀行東京をはじめ都に直接の損害を与える(つまり税金を溶かす)失政も繰り返した。しかしこれらについて、正面から石原に切り込んだ記者はいなかった。

小池百合子が極右陰謀論を垂れ流していたことなど1分もかからずに調べられるし、政治部の記者やワイドショーのスタッフが知らないはずはないが(仮に知らなかったとすれば、それはそれで論外である)、「過去のあのツイートはあなた本人がしたものなのか」といった程度の質問をぶつけるのすら禁忌にされるのが、政治部とワイドショーの内輪の論理なのであろう。

そしてこれは、日本社会に遍く広まっていっている。ワイドショーを見て小池に期待している人の相当数は小池が極右であることを知らないであろうが、仮にそれを知ったところで、やはり相当数が支持をやめることなく引き続き期待し続けるであろう。石原慎太郎がいかなる人物か知らない都民はほとんどいなかっただろうが、左うちわで再選を重ねた。強いものにはひたすら平身低頭し、叩いても安心な相手は居丈高に踏みつける。小池が石原を叩けば、あれだけ沈黙していたワイドショーも石原を揶揄するようになる。それを嬉々として消費するのが、日本人のマジョリティなのである。


ネットが政治に与える影響は無視できないが、「無視できない」という程度だとすることもできる。地上波とそれに準ずる影響力を持つテレビさえまともであれば、極右はそれほど伸長しないし、逆にこれらが極右に親和的であれば、極右は瞬く間に広がると思っている。ドイツでAfDがあそこまで伸びたのは衝撃といえば衝撃であるが、一方で周辺諸国と比べるとあの程度で済んでいるといってもいい。もちろんこれはドイツ一人勝という経済状況の反映でもあるが、同時に、ドイツの地上波のテレビが極右によるデマを垂れ流しているという話は聞かないし、その影響もあろう。

先のアメリカ大統領選挙共和党予備選の序盤、CNNは狂ったようにトランプの一挙手一投足を無批判に垂れ流し続けた。報道に強いとされていた(と過去形にしてしまう)CBSの社長は、トランプ現象はアメリカにとっては悪いことだがCBSにとってはいいことだという趣旨の発言をする始末だ。

先日ふとテレビをつけたら、NHKの『ニュースウォッチ9』がやっていたのだが、スポーツコーナーとはいえ、VTR中に「ワイプ」で女性アナウンサーが必死の「顔芸」を披露しているのに出くわし、ついにここまできたかと嘆息してしまった。これは安倍や籾井などとは関係なく、「ワイドショー的論理」が浸透していることの表れだろう。ワイドショーといえば四六時中ワイプであり、平日夕方の自称ニュース番組もワイプであふれかえっている。ワイプは同調圧力による「踏み絵」だ。ワイプにケチをつけるようなスタッフはいらないし、ワイプで顔芸を披露できないような人間はスタジオに置いておけないし、ワイプという演出を受け付けない視聴者など相手にしない、そういうことなのだろう。

日本のテレビはといえば、NHKを含めて最早FOXニュースレベル(あるいはそれ以下)の番組がほとんどという暗澹たる惨状であり、大阪にいたっては地上波ですら極右トークラジオ並みのテレビ番組が平然と流されている。

トランプが大統領に当選すると、ニューヨーク・タイムズ等の新聞が腰砕けになるのは時間の問題だと考える人は少なくなかった。しかし、地上波のテレビ報道がほとんど存在感がない中、新聞や雑誌は気を吐き続けている。これはトランプ政権が想像を絶するほどひどすぎるということもあろうが、9・11後にNYTを含めほぼすべての大手メディアがブッシュ政権の提灯持ちと化し、アフガン侵攻、イラク戦争へ駆り立てたるのに大きな役割を果たしたという過去への反省もあろう。一方テレビは、とりわけ2004年にダン・ラザーと『60ミニッツ』が右派から袋叩きに合った後遺症からまだ抜けられていないし、それを克服しようとすらしていないかのようにも見えてしまう。

日本のメディアがこれを他山の石としているのかといえば、極めて疑わしい。アメリカなら、共和党でもかなり右寄りであるポール・ライアンあたりでも全力で批判するようなレベルの人間が、日本では新聞やニュース番組で「識者」や「コメンテーター」として登場してしまっている。その是非を議論することさえ社内で行われている形跡はない。

フェイクニュースが云々とされるが、「日本も他人事ではない」どころか、むしろ世界が日本化しているというほうが適切であろう。日本の主要メディアはフェイクニュースの話題を扱う際に日本の事例に触れないことがほとんどであるが、これと面と向き合えば、右翼政治家・文化人等を批判せねばならなくなるし、この連中の言動を垂れ流した自分たちと向き合わねばならなくなるが、そのようなことをする気概も意欲もない。


とりわけ満州事変以降、日本の新聞雑誌が戦争を煽り続けたのは、軍部の圧力もさることながら、経済的動機が大きかった。国連けしからん! 蔣介石を懲らしめろ! ニッポンスゴイ! ニッポン強い!とやれば、わんさかと売れたのである。

「潮目」が変わったら? 政治部やワイドショーの連中は、相変わらずしたり顔で政局解説を行い、薄ら笑いを浮かべて叩きやすいものだけを叩き続けるのだろう。


新聞やテレビにも、まともで優れた記者がいることはわかってはいるが、今の状況を前にしては、レミングは集団自殺をしないが、日本人は何度でも集団自殺をするのだろうという気分になってくる。

腹立ちまぎれに書いたのでとっちらかってしまったが、ほんとにこれどうすんのよと思うが、あいつらは責任取る気なんて一切ないんでしょうよ。

『ダンケルク』

『ダンケルク』


近年のクリストファー・ノーラン作品について、個人的には「志しもやりたいこともわかるし期待したのだが……」というものが多かった。ではこの『ダンケルク』はどうだったかというと、ノーランがやりたかった事とやれた事とがしっかりと嚙み合ったとしていいのではないだろうか。

フランスのダンケルクからイギリスへの帰還を試みる若き兵士、イギリスからダンケルクへ援護に向かう戦闘機、ダンケルクへ英兵救出へ向かう民間の小型船と三つの視点が平行して進められるのだが、それぞれ時間の進み方が異なるというのはちょっと『インセプション』っぽくもある。本作の肝はこの三つの物語が徐々にシンクロしていき一つに重なるところであり、それが瑕疵なくきれいに一つに溶け込んでいるところは『インセプション』よりもはるかに洗練されている。ノーランよ、こういうウェルメイドな脚本を書けるのではないかと思ってしまったが、本作は単独クレジットで、かえって弟がいない方が……ということなのかどうかは知らんが(『インセプション』も単独脚本か)。


ヒトラーはもちろんのこと生身のドイツ兵はほぼ登場しないし、方やイギリス側でもチャーチルは会話の中で言及されるだけでその姿は描かれない。このように、本作は大局的視点を意図的に回避している。

我が身可愛さで醜悪な行動を取る兵士や、守護天使のごとく救いの手を差し伸べる兵士が実は……といったあたりは危機に直面した人間の多様な姿が炙り出されている。しかし、「人間の本質とは何かが極限状態の中で抉りだされる」といった「壮大」な試みがなされているのではない。哲学を比喩に使えば、形而上学的ではなくプラグマティズム的作品となっている。根源を問うのではなく、限られたリソースの中でいかに生き延びるか、あるいは限られたチャンスを最大化するにはどのような選択をなすべきか、それが時間的にもタイトに描かれている。

『ダークナイト』前後の「バットマン」に典型的なように、ノーラン作品は志しは高くとも、脚本が甘く、またスペクタクル的視覚表現もそれについていけていない印象が強かった。そう考えると、このようにプラグマティズム的作品の方が彼の資質に合っているのではないだろうか。ノーランの「壮大」な作品も楽しみではあるが、こういう方向に進むほうが監督と観客双方にとって幸福なのかもしれない。


あと、お腹が弱い人間としては用を足そうとしながらそれが果たせないトミーの姿は他人事ではなかった。災害時を考えても、トイレ問題は笑いごとではないのですよね。とりわけ下しがちな人間にとっては。




『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』その2

田原洋著 『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』




その1の続き。


王希天殺害の前日、遠藤三郎は久しぶりに国府台の連隊本部に戻り、配下の下士・兵と交歓していた。「部下たちは一週間ぶりに会う遠藤中隊長を大歓迎してくれたので、遠藤はいい気持ちになり、夜遅くまで国府台で過ごした」。

明け方近くに馬で亀戸に戻ると、遠藤は当番将校から王希天殺害を知らされ、「とび上がらんばかりに驚いた」。
「遠藤はどんなに疲れていても、その日のうちに日誌をつける習慣だった」。保存されている日誌を見ると、9月11日の日誌にはスミで消されている部分があり、その横に赤インクで「王奇天」と書き込みがしてある。
遠藤はスミを入れたのは10月3日だったろうと振り返っている。消された部分に「王希天と佐々木、垣内らのことを書いたのは間違いない」としている。北京政府に凶行が露見し、憲兵が連隊に捜索に来るのを警戒してのことだった。インクの文字は遠藤が戦後になって著作のために日誌を読み返したさいに備忘として書き入れたものだった。

明け方近くに王希天殺害を知ると、遠藤は「一眠りしただけで、とび起きて事情聴取と、善後策協議、戒厳司令部への報告づくりに追われた。自慢顔で「王希天成敗」を報告する佐々木、垣内らを、思わず遠藤は怒鳴りつけた」。

旅団の幹部会報では、遠藤は命令違反を血相を変えて追及した。しかし金子は「やれとは言ったが、殺せとは言っていない」と逃げをうち、佐々木、垣内らは金子、中岡ら上官の命令でやったと主張。中岡は第七連隊長である自分が所属する隊の違う「佐々木、垣内に命令する立場にないとシラを切った」。

「客観的、法理論的にいえば、これは立派な国際刑事事件であった。刑事事件の犯人を軍がかくまうわけにはいかない」。
しかし組織の理論ではそうはいかなかった。「幹部将校たちは、旅団の若い将校・下士・兵卒がとてつもない多数の朝鮮人・中国人を殺したことを知っていた」。しかも、やったのはウチだけではないという意識もあった。騎兵には「足」があったので「思う存分暴れたはずだ」。王を殺害した佐々木と垣内を自首させて他を不問にするのは不公平だ。さらに佐々木らを裁こうとすれば上に類が及ぶことになるかもしれない。「ほおかむりするのが最上策だ」という流れができあがった。

苦力と違って王の殺害は必ず国際問題になるだろう、徹底した緘口令をしかなければならない、隠蔽はかえって問題を大きくするかもしれない、それでも、「当旅団の意見は、すべての事件について徹底的に隠蔽する、どういう事態があっても部内から刑事犯人は出させない」、それでいいのですねと遠藤は念を押した。

二日前に命を救おうとした中国人が殺されると、遠藤は今度はその殺害犯を救うために奔走することになる。司令部に行くと参謀たちは遠藤を冷ややかに迎えた。処罰論に傾いたが、遠藤に同情的だったのが参謀長阿部に続く高級参謀武田額三だった。「貴様の策を述べてみよ。大切な陛下の赤子を犯罪人にしないですむ方法があるなら、それでいこうじゃないか」。

遠藤は日誌に武田を「流石ニ武士的ナリ」と書いている。不法行為に裁きを加えよという意見に対し、隠蔽工作がうまくいくのならそちらでいいではないかと人物を「武士的」だと感じたのが、この当時の遠藤であった。
60年後にこの日のことを振り返り、遠藤は同僚や後輩が罪に問われ、自分の属した部隊が汚名にまみれるのを防ぎたかった、社会主義者や中国人を蔑む意識があり、同僚を救うほうが正しい選択だと錯覚した、それができるのは自分だという自負があり、国際問題に発展するかもしれない火中の栗を拾うのには覚悟がいったとする。
「だが、非を認めるときに認めない、謝罪すべきときにそうしない(とくに中国をはじめとするアジア諸民族とその主権侵害に関して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になったといえるだろう。軍隊の独善の論理に、すっかり染まっていたんだなあ」と述懐している。

9月18日に「大杉夫妻行方不明、憲兵が連行」という特ダネが報知新聞に掲載される。16日にすでに大杉栄、伊藤野枝、大杉の甥っ子の橘宗一は殺害されていた。メディアは軍法会議で初公判が行われた10月8日以降、判決の出るまで2か月に渡ってセンセーショナルに報じるが、全体として甘粕に同情的であった。この一件が話題を集めることは当局にとって望むところでもあった。亀戸事件の報道解禁が10月10日、朝鮮人虐殺報道の解禁は同月20日であったが、このインパクトは弱められた。王希天の「行方不明」も17日から20日にかけて報道されたが、殺害をにおわすような記述は厳重にチェックされ排除されたので、関係者以外にはすぐに忘れられた。

著者は、有名人であった大杉らの殺害は隠蔽が不可能であったため、これを先手を打って発表し、「陸軍は「非は非」と厳正さを保持していると宣伝」し、それによって虐殺事件から目をそらせようとしたのではないかと推測している。本書では触れられていないが、甘粕らに対して形ばかりとは言え「迅速」な裁判が行われた背景には、橘宗一がアメリカ生まれでアメリカ国籍を持っていたことから、これを隠蔽しようとして外交問題に発展することをおそれたというのも要因として考えられよう。

隠蔽を図った王希天事件は遠藤の予想通り外交問題に発展する。「日韓併合」により韓国を植民地化したことで、朝鮮人虐殺は日本の「国内問題」だと突っぱねることができた。それに対し、王は中国籍を持った外国人であった。中国では21か条要求以降、王も呼応した五・四運動が起こるなど排日気運が高まっていた。しかし大震災発生の報を受けると、同情が広がり、中国各地では募金が行われていた。

9月15日に、日本政府は罹災した中国人の無料送還を開始していた。旅費を無料にしたうえに、見舞金まで支給した。日本政府は中国人から同胞が殺されたのではないかという問い合わせが殺到したことに音を上げており、虐殺を恐れる中国人にとっても渡りに船であった。日本政府のこの対応は中国国内でも好意的に受け止められてた。排日運動は中休みとなり、「日災救済」が合言葉となるが、これも日本から帰国した人々から虐殺の事実が語られるまでのことであった。

王兆澄は王希天を探し続けていた。しかし大島町にも習志野にも王希天はいない。警察も知らぬ存ぜぬを通す。9月下旬には自分に尾行がついていることに気付いた。身の危険も感じるようになり、中国に帰国して世論に訴えるために帰国を決める。官憲の目をかいくぐり帰国した王兆澄は、日本で吹き荒れた虐殺の実態を明らかにした。

前述したように、10月3日に遠藤は日誌にスミをいれている。この日遠藤は武田から呼び出された。警察から証拠がそろいすぎている王希天殺しを放置するわけにはいかない、中国が問題にする前に処理すべきだと言われたというのだった。遠藤が佐々木と垣内を差し出すのかと問うと、今さらそうするわけにもいかない、これを認めるとこの一件のみならず責任追及がどこまで広がるかわからないと武田は言った。「熱心にかぎまわっていた支那人留学生(王兆澄)の尾行に失敗して、行方をくらまされたらしい。そいつに帰国されたら、相当のことは暴かれると見なければならん。それに先手を打とうというんだ。それにしても警察の失敗はまずかったな」。

遠藤は警視庁に向かい、ある男と対面する。正力松太郎だった。正力は佐々木が書いた受領証や王の自転車をすでに押さえてあると言った。王の自転車を「戦利品」と称して使っているなど、軍の犯行は杜撰であちこちに証拠を残しまくっていた。しかし正力は、「あなた(軍)のほうで行方不明と主張されるかぎり、こちらがどうこうするつもりはありません」と、「予想外に〝話のわかる〟態度であった」。
「朝鮮人暴動」のデマを拡散した張本人の一人である正力は、王希天事件の真相を知りながら隠蔽に加担した人物でもあった。

警視庁の行った隠蔽工作にはこんなものがある。「目撃者が多すぎるというなら、彼らを黙らせる方法がある」。警視庁は刑事を派遣し、中国人殺しの捜査を開始する。知っていることは何でも教えてくれと聞き込みを開始した。すると「オレは何人殺った」「いや、オレのほうがたくさん殺った」と自慢しあっていた人々が、途端に口をつぐみはじめた。自分や知人が訴追されるのをおそれ、「聞き込みが真剣味をおびればいびるほど人々はしゃべらなくなった」。

10月5日には陸軍は王希天事件について最終態度を決めるため、佐々木を法務部に呼び出した。しかし金子は佐々木ではボロがでかねないと、遠藤に付き添いをさせ、事件の調査をした遠藤が細部を答えるという作戦をとった。事情聴取の前には、参謀長阿部が直々に二人に念を押した。
戦争末期に航空兵器総局長として遠藤がラジオに登場すると、佐々木は「遠藤さんにはお世話になった。生命の恩人だよ」と語っていたと、佐々木の子どもは記憶している。それはこのときのことを指すのだろう。

10月中旬には中国の世論は沸騰していた。日本の警察が証拠がありすぎるとしたように、北京政府も早い段階で佐々木の名をつかんでいた。しかし北京政府は様々な弱みを抱えていた。公使館と留学生たちは反目しあっており、留学生のリーダー的存在であった王希天は駐日公使から憎しみを買っていた。また北京政府は中央政権という体をなしておらず、財政難に苦しんでもいた。日本語と英語に堪能な外交官、政治家の王正延を団長とする調査団を派遣するが、随員は経済実務者が多かった。王正延には様々な借款や資金誘致の申し入れという裏の目的があった。「王正延は、虐殺真相追求より、各種借金交渉でペコペコ頭を下げるつもりだった」。

虎ノ門事件で山本内閣が倒れるなど、日本側の政治も混乱していた。23年5月10日の選挙では「護憲三派」の勝利によって政権交代が確実になったが、「死に体」となった清浦内閣は退陣を10日後に控えた27日に、「支那人傷害事件慰謝金支出」を閣議決定する。前内閣からの引き継ぎを4か月以上放置したあげくなぜこのタイミングであったのは不明である。23年6月には「日本商船の荷役仕事などに従事しようとしていた中国人労働者を、日貨ボイコット・旅大回収のスローガンを掲げたデモ隊が阻止したことに端を発する」、「長沙事件」が起こった。日本は強硬な姿勢を譲らず、北京政府もデモを苦々しく思いつつも主権侵害に抗議を続けた。日本側には「日災」と「長沙」との「相殺」論が唱えられ、北京政府も「コブシのおろしどき」を考えた。しかし、中国の政情はさらに不安定化していき、北京政府の正当性が急速に失われていく。クーデターを敢行した直隷派が日本の支援を仰ぐなど混迷が続くなかで、「長沙事件も震災被害賠償問題もうやむやのうちに、歴史の袋小路に入ってしまった」。
こうして王は「行方不明」とされたまま、王希天事件は闇へと葬られてしまった。


これだけ証拠や目撃証言が残っているのだから、もちろん軍や警察関係者以外にも王希天事件の真相に近づいていた人はいた。23年11月7日の読売新聞朝刊は、鉛版を削り取るという荒っぽい方法で一部が白紙になっていた。この部分は小村俊三郎が、「期するところあって、ある〝過激な〟記事を書こうとした。検閲にかけたのでは通りっこないから、何らかの策を使って「鉛版」をとり、ともかく早版を刷り出すところまでは行った。が、いよいよ近郊版を刷ろうとしたところで誰かにストップをかけられてしまった」ということだったのではないかと著者は推測している。しかしかすかに、「王希天」という文字が読み取れる。小村は記事は削除されてもその内容が読者に見当がつくように、「ここだけ削り残してくれ」と耳打ちしたのかもしれない。この7日には、ついに王希天事件隠蔽が閣議決定されるが、これは少部数ながら小村の記事が流通してしまったことが影響したようだ。

小村は北京留学経験もあり、外務省で一等通訳官まで務めた後に退官、ジャーナリズムの世界に入っていた。当時の読売は「硬派路線」であったが部数は低迷、年が明けて24年となると経営危機が表面化した。財界や後藤新平から70万円の軍資金を託されそこに乗り込んできたのが、前年12月の虎の門事件によって警視庁を懲戒免職になっていた正力であった。「反政府的な『読売』の論調を支えてきた名物記者の何人かが、「この前まで検閲の元締めだった男の下では働けないといって辞表を出した。小村俊三郎がその中にいたのは、いうまでもない」。

同時に小村には限界もあった。記事を削除された直後の11月半ば、中国から事件の調査も兼ねた民間使節団が、外務省職員や亀戸署員同行のもと大島町で調査を行い、そこに小村も参加した。ここで小村は真相に接近するある証言を得ていた可能性があるが、それを中国人調査団に伝えることなく、また表にしたり書き残すこともなかった。外務省出身である小村にはやはり「国益優先」の発想が身についていたためだったのかもしれない。

陸奥宗光の息子陸奥広吉は駐英公使も務めた外交官だった。彼は無宗教であったが救世軍に好意的で、寄付や援助を行っており、その縁で王のアメリカ留学の相談にも乗っていた。12月20日に救世軍によって行われた王の追悼式に出席、英語でつけていた日記に「the funeral service of O-Ki-Ten alleged to be killed on sept. 12th last.」とある。

第二次大戦敗戦後、軍や官僚は「戦争犯罪摘発の資料となる文書や、国益を損なう恐れのある文書」を大量に焼却したが、それを逃れ、アメリカが回収し保存していた資料に「大島町事件其ノ外支那人殺傷事件」がある。著者は、これは事件当時亜細亜一課長であった守島伍郎の個人用ファイルであったのではないかと推測している。守島は「事件の性格から見て、「真相」そのものを書き残すことはできなかった。しかし、何かに備えて個人的なファイルをまとめていたのではないだろうか」。守島は戦後自由党の国会議員を務めたが、「オレは社会党から出てもおかしくない」とも言っていたそうだ。晩年は東南アジアからの留学生用に建てられた善隣学生会館理事長を務めた。

このように王希天事件に心を痛めたり、あるいは関心を持っていた日本人は官僚を含めていたし、その人たちは王が行方不明になったのではなく殺されたのだとわかっていたのだろう。しかし、戦後になっても王希天事件が長く忘却されたままであったというのは、そのような当時としては比較的良識的であった人々の限界を示すようでもある。

一高で王と同級生だった、最高裁判事も務めることになる横田正俊は1971年に同窓会誌に寄せた文章の中で、王が「朝鮮人と間違えられて殺されるという悲運にまであわれた」としてる。まだ王希天事件の真相が明らかとなる前だが、横田は王が行方不明になったのではなく殺されたのだと考えていた。しかし「朝鮮人と間違えられ」たせいだというのは誤りであり、横田のような立場にいた人ですら、真相からは遠かったのでもある。

著者が王の八高時代の同級生に取材を試みると、「中国人留学生が殺されたことを、いまごろ暴きたてて、いったい何になる。キミはどんな利益を得るのか」と言い放った「元秀才」もいたそうだ。

亀戸署の跡地には雑居ビルが建ち、「この地区を管轄する城東署幹部」は、「亀戸署跡を即答できなかった」。虐殺が行われた現場は高層住宅群になっているが、ここの住民で、この場所で惨劇が繰り広げられたことをどれだけの人が知っていたのだろうか。戦後日本社会が忘却の上に築かれたことは、ここにも表れている。


王希点事件隠蔽の「実質責任者」であった阿部信行はその後大将に昇進、36年に予備役に入る。39年に首相になるがわずか5カ月で退陣。「陸軍内人事争いの〝リング外〟にいる無色透明派だったためで」、首相の「器ではな」かった。

亀戸署長・古森繁高はその後も複数の警察署で署長を務める。「たたき上げでは異例の出世」だった。32年に退官後の消息は不明。

遠藤に助け舟を出す形で隠蔽を決定づけた武田額三は参謀本部欧米課長を経て仏大使館付き武官となるが28年にパリで客死、死後に少将に任ぜられる。

その武田の後任の仏大使館付武官となったのが中岡弥高だった。中岡は32年に中将になり、砲工学校長などを務め、35年に予備役に入る。

武田の客死から中岡着任までの空白期間を埋めたのが、フランス陸軍大学に留学中だった遠藤三郎であった。ちょうどこの時期、甘粕正彦は刑期を大幅に短縮され出所し、軍の金で夫婦でフランスに滞在していた。「遠藤は、フランス語のできない甘粕のために国内やスペイン旅行のお伴をしたという」。

遠藤は「旧陸軍有数のエリート軍人」であったが、戦後は「軍備亡国論者・世界連邦主義者」となった。自ら口を開いたということは王希天事件にひっかかりを持ち続けてはいたのだろうが、同時にその遠藤ですら戦後も真相を打ちあけようとも究明しようともしなかったことに、この事件を日本人がどう受け止めたのかが見えてくるようでもある。

佐々木平吉は35年に自らの意志で軍を辞した。「「中国に勝てるわけがない。日本人はバカだ」「イバッったやつは嫌い」といい、太平洋戦争中に家族の前で作戦批判もした。内向的平和主義者になっていた形跡がある」。
佐々木は40年に応召、中佐として兵器行政部に勤務した。43年に、首相東条英機とともに読売新聞社長正力松太郎が、読売新聞主催の「昭和軍刀展」に現れた。この展示会の担当者は佐々木で、東条、正力と一枚の写真におさまっている。この時いったい何を考えていたのだろうか。佐々木は48年に病死。「病床ではなぜか、ラジオの中国語・英語講座を聴いていたという」。

垣内八洲夫は30年には台湾・基隆重砲大隊で「霧社事件」討伐隊に加わっている。「日中戦争では満州・阿城に出陣、四三年八月から敗戦まで津島要塞司令官(大佐)であった。冬の寒さがこたえるくらいで、敵が攻めてくる心配はまずなかった。戦後は、農地解放で多くを献上したといっても、残された農地や山林からの収入があり、生活に困ったことはない」。

「垣内の本家筋は一四世紀まで祖先をたどり得る名門であり、この姻戚に連なる有吉佐和子が書いた小説『助左衛門四代記』は、垣内八洲夫にとっても共通の先祖物語である。/地方豪族家に生まれ、疑問を持たず軍人となり、明朗で剣術好きな青年将校がどうして、命令もされないのに王を斬る〝役〟を引き受けたのであろうか」。


要約というにはあまりに長くダラダラと書いてしまったが、それは王希天事件から学ぶべきことが、今だからこそたくさんあるように思えてしまったからだ。まず第一に、近年日本では、日本人の手によって行われた過去の蛮行の忘却への欲求が高まっているというのがある。そして、王希天殺害前後の状況を見ると、現在に生きるわれわれとこれは無縁の出来事なのであろうかという問いを避けることはできなくなる。

人手不足の折には安価に使い倒せる労働力として外国人労働者に頼りながら、景気が後退するとあの手この手で追い出そうとするばかりか、それを正当化するために差別感情を煽るというのは、現在でも世界の多くで見られることであり、無論日本も例外ではない。

当時の中国人労働者が飲酒や賭博等によってトラブルを起こしがちであったことは確かであり、王はその点でも啓発事業を行おうとしていた。しかし考えてみれば、言葉も通じず文化も違う異国の地で低賃金で働かされていて、たまの休みにいったい何ができるだろうか。そのような想像力も持たずに、中国語で会話を交わし集団生活を送る中国人労働者を「不気味」な存在だと見なしていたのだが、その裏に人夫差配人が自らに類が及ばないよう差別心を煽ることで労働者同士を反目させていたことも重要だ。

アメリカ西海岸では、中国人労働者を排斥したもののやはり安価な労働力が欲しいということで日本人労働者を受けれたが、日本人移民は英語を覚えようとせず日本人同士で固まり、日本での生活習慣に固執しているとして非難されていた。それでいて、二世三世が同化しようとしたで、アジア人がアメリカ人になることはできないとされてしまう。そして長年に渡ってふりまかれた偏見によって、日米戦が始まると日系人強制収容所がつくられることとなる。

ストロベリー・デイズ』(デヴィッド・A・ナイワート著)にあるように、日本人移民、日系人への批判は利害関係者から意図的に広められていたものもある。日本やアメリカに限らずどの社会においても、移民労働者への偏見の蔓延は「自然発生的」なものでもあるが、また私欲に眼がくらんだり、自己保身から人為的に広められるということもおさえておかなくてはならない。

「普通」のドイツ人が虐殺の実行者となったメカニズムを描いたのが『普通の人びと』(クリストファー・ブラウニング著)である。ここで少数ながら存在していた、虐殺を命じられながらそれを拒否した人の特徴として、「出世への関心の欠如」があげられていた。つまり、言葉を変えると、人は出世欲によって残虐行為を行い、それを正当化するということだ。

垣内は震災時に休暇をとっていたことから出遅れたとあせりを感じていた。これを取り返すにはどうしたらいいのかを考え、自らが「討伐隊」を率いれるようアピールをしていた。垣内のとった行動は、彼の中にあった朝鮮人、中国人への蔑視もさることながら、出世欲なくしては考えられないだろう。

自らの命令が守られれず王が殺害されたことを知って泡を食った遠藤は、これが国際問題に発展することを正しく見抜き、激怒した。しかしその遠藤も、隠蔽の方針が決まるとこれに抗することなく、渋々どころか「自負心」を持って積極的に加担した。これもやはり出世欲のなせる業であろうし、垣内も遠藤もその後順調に出世していった。

では参謀からすでに了承を得ていた命令を破った中岡はどうだったのだろうか。彼は出世など眼中になかったのか。『複合戦争と総力戦の断層』(山室信一著)を読むと、違法行為や上官の命令を無視してでも既成事実を作り上げればあとはどうにでもなるし、それはむしろ後に評価されるはずだという日本軍の体質はすでに第一次大戦時に見られたという。張作霖殺害事件、柳条湖事件などはまさにこの軍内部の「下剋上」の空気なくしては起こりえなかったし、日本はこれにより泥沼の日中戦争に進んでいく。

中岡の取った行動はまさにこの軍の体質を表すものであった。陸大卒のエリートである中岡にはこれが軍の命令違反であり、法的にも問題になるということくらい重々わかっていただろう。それでも「大物」である王を殺せば、後に評価されると考えたのだろう。そして金子を抑え込む決定打として使ったのが、警察から弱腰と見られていいのかという恫喝であった。中岡は王を殺害するために、おそらくは虚偽の調書を古森から出させた。古森の側では当然軍が王を殺す気だというのがわかっただろう。今さら引き返せるかと金子に迫ったのであった。

このように日本以外の国で起こった蛮行との類似点も多数あるが、また日本独特のメカニズムも働いていた。
日本軍には、一方で出世欲から適法であるか否かよりも上の決定に従うことが重視され、他方でこれと矛盾するようだが、やはり出世欲とセクト主義から違法であろうが国際問題を引き起こそうが結果としてうまくいくのなら上官の命令に背いても構わないという体質にも染まっていた。東条英機は軍人というより官僚的人間であったと評されるが、官僚全般にもこのような空気は存在していたのだろう。そして現在も日本の官僚がこのような体質と無縁であるとは思えないし、官僚のみならず日本社会全体が同様であるとしていいだろう。
100年近く前にこの蛮行を引き起こした日本社会は果たしてその後変わったのだろうか、改めてそう問いかけざるをえないのが、日本社会の現状なのである。


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