ヴァレリーと「ネトウヨ」

ドニ・ベルトレ著 『ポール・ヴァレリー』





こちらに書いたように、モーリス・ブランショの『問われる知識人』でポール・ヴァレリーとドレフュス事件との関わりが扱われていたので、この大部の伝記からそれと関連するところを中心に。


まず訂正からだが、ドレフュス事件後に陸軍省に勤務するようになるかのように書いてしまったのだが、これは時系列を取り違えていて、実際にはヴァレリーはドレフュス事件時にすでに陸軍省に勤務中であった。ベルトレによれば、当時陸軍省内では様々な陰謀論が出回っており、ヴァレリーが反ドレフュス側についたのにはその影響もあったようだ。

ヴァレリー家はもともと保守的であり、また陸軍省の仕事を紹介したユイスマンスも反ドレフュス派となったように、彼の周辺人物の多くも保守的であった。ヴァレリーはこのような政治的雰囲気に疑問を感じるどころか適応していたとしていいだろう。またベルトレが何度も強調するように、当時のフランスでは反ユダヤ主義も批判をされるどころか、むしろ当然のごとく受け入れる人が多かったという状況にあった。

ではヴァレリーはただこの雰囲気に流されただけだったのかといえば、やはりそうではない。友人のジッドはドレフュス派となるが、ヴァレリーはわざわざ「ドレフュス派と距離を取るようにジッドを説得」しようとしている。ただの惰性、受動的な反応であればこのような行動は取らないであろう。

ヴァレリーはこの時いったい何を考えていたのか。

「彼はこの事件のなかで、政治権力が脆弱なのにたいして、彼の目には非合法に見える反権力ないし圧力団体とも呼べそうなものたちが強力なのを嘆く。「共和国」によって導入された自由の体制は――「共和国」の本質に由来するにせよ、状況に由来するにせよ――真の権力のありかを変えてしまい、権力を富裕層や報道機関や群衆の手に引き渡した。彼にはそれが唾棄すべきことのように思われる。彼は怒りをこめつつ、「国家」がかつてなかったほどに弱体化し、「事件」を利用して寄生虫的な新勢力[出版系報道機関のこと]の急激な広がりは言うまでもなく、労働組合、反ユダヤならびにプロテスタントのグループ――が伸びてきていると指摘する。道を踏み外した自由による様々な退廃に反対して、彼は強力な政府を望む。そして彼の義務は組織された権力を支えることであると考える」。

反ドレフュス派であるヴァレリーが「反ユダヤ」が勢力を伸ばしていることを警戒しているのは妙に思えるかもしれないが、「ヴァレリーの反ユダヤ主義には、曖昧さがつきまとっている」。ヴァレリー自身は「感情的には反ユダヤ主義」であるのだが、攻撃的な反ユダヤ主義者の「虚偽や言葉の誤用」を耐えがたいとも感じており、「反ユダヤ主義が激しい高まりをみせるのを恐れて」もいた。

同時に、ヴァレリーはまたこう言ったという証言もある。ドレフュスを「銃殺して、もう彼の話はおしまいにしたらいい」。無実の罪で囚われ島流しにあっているドレフュスを、「洒落」のつもりなのか、さっさと殺してそれで終わりにしてしまえばいいではないかと軽口を叩いたこともあったようなのだ。

ヴァレリーは「フランスが混乱したさまを見るのが耐えられないのだ。しかも、こうした状況を引き起こしたのが一人のユダヤ人だということが、彼の先入観を強めるだけでなく、さらに激しくしてしまう」。

ヴァレリーは「反権力」が力を持ち、「国家」が弱体化していることを嘆いた。当時の彼は正義よりも「秩序」を重んじ、「国益」を優先させていたのである。「秩序」を脅かし「国益」を損なう富裕層(これは「伝統」を破壊する新興ブルジョワを指しているのだろう)や労働組合、報道機関、群衆を憎み、さらにはこれがユダヤ人によって引き起こされたものであることが耐えがたかった。

ヴァレリーのこの論法は今日の「ネトウヨ」とかなり重なるという印象がある。初期の2ちゃんねるに積極的に書き込みをしていたのは高学歴高収入の人物が多かったという調査もあるが、ヴァレリーが100年後の日本に生まれていたら2ちゃんねらーにでもなって、サヨク叩きに血道をあげレイシズム的言辞をまき散らし、おぞましい「洒落」の書き込みをしまくっていたのかもしれない。


ドレフュス事件では、アンリ中佐がドレフュスを糾弾するために偽文書を作っており、この事実が露見するとアンリは自殺をした。すると反ユダヤ主義者たちはアンリ未亡人のための醵金活動を始める。ヴァレリーは「熟慮の末」と弁解しつつも、これに三フランを拠出した。しかしこれもまた、実際には消極的なものではなかった。ヴァレリーは「戦闘員」にさえなったのである。「彼は身近な人たちに勧めて、醵金賛同の署名をするよう呼びかけるし、それが成功して喜んでもいる」。

ジッドに対してはさすがにこの話はしないほうがいいと判断したようではあるが、それでもジッドの考えを変えるのを諦めたわけではなかった。

ヴァレリーは陸軍省で飛び交う様々な陰謀論をパラノイア的だとは思わずに、「「不思議であると同時に正確な」細部に裏打ちされた厄介で重要な事実を自分が知っている」のだと思い込み、これをもってジッドを説得できるとさえ考えていたようだ。「そうした事実を知りさえすれば、ドレフュス事件で賭けられているものは、世間で広く信じられているものとは違うとジッドも納得するものと思っている。つまり、問題になっているのは、外国から指揮されたとてつもない工作活動であって、その張本人たちはすでに何度かフランス内政に介入してきた人物だというのである」。

ヴァレリーは以前のイギリス滞在の経験から、「フランスが相対的に脆弱」だという意識を抱き、その結果「愛国心をさらに堅固なものにした」。「彼は、虚偽に満ちたそうした外見の背後に、列強同士が交えている潜在的な戦争の恐るべきメカニズムが見えていると信じている。こうした文脈のなかでは、問題はもはやドレフュスが有罪か否かではない。再審など二次的な論点にすぎず、無限にずっと広大なドラマのちっぽけなエピソードにほかならない。この「事件」で賭けられているのが何なのか、誤ってはならない。一国家の将来と比較したら、一個人の運命など取るに足らない。再審に反対すること、それは「国益」が優先すると断言することなのだ。フランスの味方をすることなのだ」。

「役所での仕事は退屈極まりないものではあった。しかし、彼は自分の仕事や、その仕事のおかげで彼が情報通の人間の住む世界で広げることのできた関係を真面目に受け取っている」。

職を紹介された時の話とは異なり退屈な仕事に追われる毎日にうんざりしながらも、ヴァレリーは自分は国際政治の裏側に通じたリアリストであり、また隠された情報にアクセスできる人間でもあるとも信じていた。自分は外国勢力の仕掛けるおそるべき陰謀と工作の事実を知っているし、その事実を前にしている今、ドレフュスのような人間がどうなろうと知ったことではない、優先されるべきは「国益」であり、自分は祖国のためを思って行動しているだけなのだ……と、これもまた絵に描いたような「ネトウヨ」的な姿である。

これはユダヤ人ドレフュスと彼の側につく勢力が気にくわないという偏見と先入観による感情的反応から来るものであるのだが、当時のヴァレリーは自分は客観的事実から論理的にこの結論を導き出したかのように信じ切っていたのだろう。

「ドレフュス事件の最中に見せた知的暴走の責任を、すべてそのイデオロギー上の体制順応主義や忠実さに帰することには無理があるだろう。というのも、そうした体制順応主義や忠実さといったものが、これほどまでの重要さと激しさを他の状況のなかで帯びたことはこれまでになかったからである。通常、ヴァレリーは、根拠がないものや不正確なものは決して断言しないという配慮をしているのに、今回は誘惑[シレーヌ]の歌に負けてしまった。彼の不用意さを説明しようとしたら、彼の反ユダヤ主義の圧力という原因以外は考えられないように思う」。

頭脳明晰、かつ慎重であったはずのヴァレリーであるが、反ユダヤ主義という「誘惑の歌」には簡単に屈してしまったのであった。

ベルトレは当時ヴァレリーがまだ二七歳であったことや、彼の反ユダヤ主義は「得たいの知れない混ぜ物風の反ユダヤ主義とは、いかなる点においても似ていない」と、幾分同情的に書いている。しかし近年の日本、さらには多くの国々で起こっていることを見れば、ヴァレリーほどの知性を持った人間ですら差別意識の前では無力かつ愚かになったということを、若き日のちょっとした誤ちだったと、幕間劇のように片づけて済ませるべきではないとも思える。

他ならぬ極右、反ユダヤ主義の論客であったという過去を持つからこそブランショはこのことに鋭敏であったのだろう。

ブランショは『問われる知識人』の中でピカール中佐という人物に注目している。ピカールも当時の多くの軍人と同様に反ユダヤ主義的偏見にとらわれており、事件当初は「粗野な言葉遣い」でドレフュスを評していたほどだった。しかしピカールはドレフュスにかけられた嫌疑がでっちあげであり、偽文書の存在のように軍ぐるみで陰謀に加担したうえに隠蔽工作までも行われていたことを発見すると、自らにふりかかる危険を省みずにこれを公にしようとした。ヴァレリーの妄想の中ではドレフュス事件は外国勢力の陰謀、工作であったのだが、実際にはフランス軍による陰謀、工作であった。ピカールは内に持っていた偏見にも、「国益」を、軍の名誉を毀損するつもりなのかという圧力や脅しにも屈しなかった。ピカールはヴァレリーと違い「国益」よりも正義を選んだのであり、ブランショはここに「知識人」の姿を見る。ヴァレリーとピカールを分けたものは何であったのだろうか。単にピカールは真相を知り、ヴァレリーはそうではなかったというだけのことであったのだろうか。


ヴァレリーは、「後年、彼は自らの明らかな判断ミスに立ち戻りながら、自らの判断を弁論する場面もあるが、そこに敵意があるわけではない」。
「敵意」がないとベルトレは書いているが、これはつまり、自らの過去と正面から向き合うことができず、深い反省にまでは至らなかったともとれる。

ヴァレリーが後々までもごもごと言い訳がましいことを控えめながらに書くことになるのは、やはり彼の中でこの一件はひっかかり続けたのであろう。それでは、なぜ彼は自らの過去と対決しなかったのであろうか。ヴァレリーは民主主義には懐疑的であり続け、政治的には右翼的でありつつも、第一次世界大戦後は汎ヨーロッパ的意識を持ち、偏狭な愛国主義を批判する立場をとる。またフランスがナチス・ドイツに降伏した後も対独協力者とはならず、かつて自分がアカデミーに迎えたペタンとも距離を置いた。ヴァレリーはフランスの知識人にあって精神的支柱ともいえる存在となっていき、フランス解放後はド・ゴールから歓待される。同時に、その最中にあっても、あの苦い記憶がよみがえりつつも、自らの過ちに正面から向き合うことはできなかったということなのだろうか。


「ネトウヨ」、alt-rightなどと呼ばれる世界各地の人々を見ると、その荒唐無稽かつ非論理的な思考の飛躍につい「愚か」の一言で片づけたくなってしまう。しかし、ヴァレリーほどの知性を持つ人物でさえ、「誘惑の歌」によってころっとあのような状態に陥ってしまったことを思うと、単にあれは愚かな連中だと切り捨てることも、あるいはこれは一時の病であってそのうちに憑き物が落ちて正気に立ち返るはずだといった楽観をすることもできず、多くの社会にとって相当に根の深い問題であるとすべきだろう。

当時のヴァレリーに何を言ったところで聞く耳をもたなかったであろうし、それどころか彼は自分は隠された真相を知っているのだと、陰謀論を真実だと思い込み、これによって友人を説得できるはずだとすら考えていた。そしてヴァレリーのこの過去は、時の経過とともに何となく不問に付されていくことになる。ブランショの場合、彼の過去の発言が「発見」されるというスキャンダルめいたものがあったためということもあるが、頬被りをするのではなく自らの過去と向き合うことを選んだ。

この「誘惑の歌」を、政治的、商業的に様々な思惑を持って、さらには面白半分で意図的に奏でる人々がいることを軽視してはならない。これを甘くみると何が起こりかねないのかは、ヨーロッパの歴史が告げている。ブランショを自らの過去と向き合わせたものは、もちろんこの歴史である。

ヴァレリーとピカールを分けたもの、それはいったい何であったのか。ここに決定的な答えがあるのではない。しかし、それは問うことに意味がないというのではない。むしろ決定的な答えがないからこそ問い続けなくてはならない。ブランショが投げかけたのはその問いかけであったし、この問いかけは今なお有効なものであろう。



ヴァレリー、死を書く


それにしても、死とは何たる誘惑であることか。
想像できず、しかし、欲求と恐怖のさまざまなかたちを交互にとりながら、精神のなかに入り込んでくるもの。 



引用はポール・ヴァレリーの『ムッシュー・テスト』の「ムッシュー・テストの最期」から。

思うところあって久しぶりに読み返してみたのだが、死についての文章はあまたあるが、やはりこれを越えるものにはまだ出会ったことがない。


『息子が殺人犯になった  コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』

スー・クレボルド著 『息子が殺人犯になった  コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』





「一九九九年四月二十日、エリック・ハリスとディラン・クレボルドは複数の銃と爆弾で武装し、コロンバイン高校に入っていった。二人は生徒十二人と教師一人を殺し、二十四人を負傷させたあと、自殺した。史上最悪の学校銃乱射事件だった。/ディラン・クレボルドは私の息子だ」。

こう書き出されるように、本書はコロンバイン高校銃乱射事件の実行者の一人の母が、事件の前後を振り返るとともに、あのような事件を繰り返さないためにできることを探っていくものとなっている。

「のちに、コロンバイン事件の報道はいろいろと批判された。特に、二人についての誤った情報がごく早い時期から流されて、それがいつの間にか事実として受け取られてしまったことについては」とあるように、この事件は現在でも当初の誤情報が信じられている傾向が強いだろう(二人が「トレンチコート・マフィア」であった等々)。これを強く批判し十年間取材を重ねた成果がデイヴ・カリンの『コロンバイン  銃乱射事件の真実』であるが、本書はまたカリンの本ともいくつか異なる点もあった。これはカリンの取材不足や著者が真実を語っていないというよりも、視点の置き方の違いという面が強いとすべきかもしれない。


多くの人があまり意識しなかったであろうことが、スーは大量殺人犯の母であるとともに、息子を自殺で失った母でもあるということだ。本書ではその心理が語られている。といっても、息子を被害者としてのみ記憶し、その罪から目をそむけようとしているのではない。この視点は学校での銃乱射事件を防ぐという点からも重要である。

アメリカでは学校での銃乱射事件が数多く発生しているが、犯人はほとんどの場合自殺するか射殺されるか身柄を確保される。まんまと逃げおおせる可能性はほぼゼロであるといっていいだろう。つまり、とりわけコロンバイン事件のディランが顕著にそうであったように、犯人の多くは文字通りのの自殺として、あるいは「生命に無頓着な状態」に陥ることで、銃乱射事件を引き起こしている。コロンバイン事件を受けて三十七件の「学校襲撃事件[スクールシューティング]」を調査したところ、「犯人のほとんどが、過去に自殺未遂や自殺念慮、あるいは重度のうつ状態や絶望を経験している」ことがわかったという。

アメリカのみならず多くの国、社会で十代の自殺は深刻な問題となっているが、それを防ぐための決定的な「答え」はないかもしれないが、やれるべきことはまだあるはずだろう。そしてアメリカにおいては、自殺予防に取り組むことがそのまま銃乱射を防ぐ試みともなる。スーは自らの経験をふまえてそれを探っていく。


クレボルト家は理想の家族とまでは言えないかもしれないが、この事件の前まではおそらくは恵まれた家族だと映っていたことだろう。両親の学歴は共に高く、スーは教師と障害を持つ人の教育を支援する仕事に就いており、裕福とまではいえないが経済的にはミドルクラスとしての生活を送っていた。

次男であるディランは背が高く頭も良かったため学校に一年早く進学する。一歳年上の子どもと同じクラスで学んだことが彼にどう影響したのかはわからないが、スーは本書でそのことを重要視していないことから、これについては後悔はしていないようだ。

ディランはスポーツにも秀でており、とりわけ野球は見るだけでなくプレーするのも好きで、肘をケガするまではなかなかの選手であったそうだ。彼は確かに内気で引っ込み思案であったが、事件後に多くの人が想像したような、社会生活に困難をきたすようなものではなかった。孤独であるどころか友達はむしろ多い方であったほどだ。両親は息子に愛情を注いだし、息子もそれに応えてくれていた。長男は問題を抱えることも多かったが、次男のディランは手のかからない子であった。「ディランは典型的なよい子だった。育てやすく、一緒にいるのが楽しい、私たちの自慢の息子だった」。

高校に進んだディランには逸脱行動が見られるようになっていく。学校でトラブルをいくつも引き起こし、家でも不機嫌でつっけんどんな態度が目立つようになる。事件後になぜ息子の変化に気づかなかったのかと責められ、スー自身もそれを悔やむことになるのだが、当時は十代の少年には起こりがちなことであり、そう深刻なものだとは考えていなかった。

後に日記などから判明するのだが、実はディランは強い抑鬱状態にあり、おそらくは鬱病であったと思われる。しかし彼はそのことを親には気取られまいとしたし、少なからぬ少年がそうであるように、うまく隠しおおせた。

「子どもが学校のことをちゃんとやれなかったり、家事の手伝いのことで親に悪い態度で反攻したりするのは、批判し、しつけ直しさなければならないというサインではない。助けが必要なのだというサインなのだ。/いま振り返ると、私たちがディランを心配だと言うたびに、彼がうまく私たちをなだめていたことがわかる」。
ディランはSOSを発しつつも、救難信号を親に悟られないようにもしていたのである。


後に悔やむことのもう一つが交友関係だ。
事件直後は、スーはディランが強制的に加担させられたのではないか、エリックに「洗脳」されていたのではないかと疑った(あるいはそう思いたがった)。あのディランがこんな事件を起こすはずはない、支配され、コントロールされていたのだ、と。しかしその考えは「地下室テープ」の発見で完全に吹き飛ぶ。エリックの自宅地下室などで撮影されていたためそのように言われたビデオには、ディランが人種差別的な、攻撃的罵詈雑言をまき散らしていた様子などが収められていた。母が認識していたのとは違う息子の姿がそこにはあったし、それもまた、あの瞬間のディランの真実の姿であることを認めざるをえなかった。

スーはこのビデオを見てあることに気づく。ディランは他の友人たちにはぶっきらぼうに誘いを断るなどしていたのに、エリックに対しては気を使っているかのような態度であった。これはディランがエリックに支配されていたことを表すものではなく、むしろ二人が共依存関係にあったことを示すものだろう。

カリンもそう論じていたように、エリックとディランの二人が出会わなければあの事件は起きなかった可能性が高い。ディランは鬱状態に落ち込み、その刃を己に向けていた。日記などには女の子などへの恨み節も綴られていたが、それは他者への攻撃性という形を取っておらず、むしろ彼は自殺にとりつかれていた。エリックの方は同じ学校の生徒を中傷するホームページを開き、爆弾に関心を示すなどその攻撃性を高めており、彼は次第に大量殺人計画に魅入られていく。エリックは何人かの友人を計画に引き込もうとしたが失敗していた。しかしディランはそれに乗ったのである。エリックの計画は、自殺願望を抱いていたディランにとっては最後の一押しとなってくれるものに思えたのだろう。エリックがいなければディランは他者への攻撃に向かうことはなかった可能性があるし、ディランがいなければエリックは大量殺人計画を頭の中で弄ぶだけで終わっていた可能性があっただろう。

事件前にすでにディランとエリックは学校でトラブルを起こし、車上荒らしなどで警察沙汰にまでなっていた。スーはディランとエリックとの関係に不安を抱いてはいたが、強引に二人の中を引き裂くことまではしなかった。更生プログラムを受けることになったが、ディランは好印象を与えたようで、全体のわずか五パーセントほどしかいない早期終了となった。大学にも合格し、「ディランの人生も軌道に乗ってきた」と思えた。ハリス家の人びととも更生プログラム終了のお祝いの食事会を開くなど、二人の関係の危険性に両家は気づいていなかったのである。

もしもあの時に……とは思っても、あくまで結果論で、実際にはこれを見極めるのは至難の業だろう。SOSを発しているのか、単なる親離れなのか。貴重な友人なのか、暴走を誘発する存在なのか。これらを見極める決定的なマニュアルはない。だからこそ、親、学校、社会が多重的に子どもたちを見守り、支援する仕組みを構築しなければならないのだろうが、これもまた言うは易し行うは難しである。


カリンの本との大きな違いはいじめの存在についてだ。多くの人があの事件はいじめの結果起こったことだと考えているだろうが、カリンは必ずしも原因はそこにだけあったとは考えていないようにも読める。カリンも二人がジョックス(体育会系の、「スクールカースト」上位の学生)に恨みを抱き、学校でディランもエリックもいじめられていたことにも触れつつも、また二人はいじめの加害者でもあったことから、いじめが主要因だという見方には慎重であった。

これは母ゆえということもあるのかもしれないが、スーはやはりいじめの被害も重視する。ディランがすれ違いざまにジョックスから腹に肘打ちを食らわせられたという映像が残っているが、この時の周囲の反応から類推すると、このような暴力は日常的であったようだ。またディランは年下からも「fag(オカマ)」などとからかわれてもいた。

コロンバイン高校は学力が高く保守的な学校で、息苦しさを感じていた生徒も多かった。ここから想像がつくように、いじめはかなり広く蔓延していたのであるが、学校側はこれを軽視してほとんど何の手も打っていなかった。

またこれについても親としても悔やむところがあった。スーは息子が学校でこれほど人気がない存在であったとはまるで気づいていなかった。服をケチャップで汚して帰ってきたようなこともあったが、当人は自分は背が高いのでジョックスも手を出さないと言い、それを信じていた。しかし、「ディランは生涯、恥をかくのをものすごく嫌がっていたが、この傾向は思春期に入るとさらに強くな」り、両親は「もともと自嘲気味な性格なので、自分を笑い話のネタにすることが多かった」が、「ディランはなかなか自分の欠点を笑い飛ばせ」ず、「なにか失敗すると、自分を許せず、格好悪く見えることを嫌がっていた」のだから、もしいじめられていたとしてもそれを親に進んで相談することはないであろうことに思いを巡らせるべきだった。身体も大きく運動神経もまずまずで頭もよく友だちがたくさんいる息子が、まさかいじめの被害にあっているとは想像もしていなかったのである。

ディランとエリックもその道をたどったように、いじめの被害にあった子どもは加害者の側にまわることも多い。たとえそうならなくとも、いじめの被害は学校時代にとどまらず後々まで後遺症を残すという研究があるように、学生特有の悪ふざけで済ますことはできないのであるが、事件当時のアメリカの学校現場ではそのような認識は薄かった。


本書の中で少なからず異論を呼ぶかもしれないのが、暴力的な映像作品やゲームの影響についてであろう。これについては日本でも子どもが暴力的な表現に触れることで実際に暴力を好むようになってしまうことを不安がる声が強い一方で、そのような主張は印象論にすぎず、それを実証するエビデンスはないとする意見も強い。

クレボルト家は教育方針については保守的で、アルコールやドラッグにも厳しかったし、無論暴力的な映画やゲームについても否定的であった。しかしディランがこれらに強く惹かれていたために、しぶしぶながらに家でタランティーノ作品などのビデオを見ることや、暴力的なテレビゲームをすることも許したのだが、スーはこれにもっと神経を尖らせていればという後悔もする。

といっても、スーも暴力表現に触れた子どもが必ず暴力的になると主張しているのではない。暴力的なゲームを好んで行う人のほとんどが現実には暴力行為を行わないことはわかっている。同時に「心理学と教育の分野で二百以上の論文を書いていて、未成年の殺人、学校の安全、いじめ、脅威の評価なども扱っている」、デューヴィー・コーネルのこんな言葉を引用している。「タバコを一本吸うだけで肺ガンになる人はいませんが、一生タバコを吸っても肺ガンにならない人もいます。それでも関連がないということにはなりません。エンターテイメント作品における暴力は凶暴な行動を引き起こすじゅうぶんな理由にはなりませんが、有害な要因ではあります。ごく少数のとても弱い人は、タバコを吸った場合、他の傾向などが作用すれば、肺ガンになります。これと同じことが暴力的エンターテイメント作品と暴力行為にも言えます。とても無防備な人は、特にリスクが高いのです」。

僕は基本的にはいわゆる「有害コンテンツ論」には否定的であるし、安易な規制にも慎重であるべきだとも思うが、またポルノ作品と性暴力の関係もそうだが、大抵の人にとって暴力を誘発しないというのは影響が完全にゼロだというのではないということも否定できないのではないかとも思う。個人的にはとりあえずはゾーニングあたりはある程度きっちりやってもいいのではといったあたりの考えだが、このあたりについては意見が分かれるであろうけど。


コロンバイン事件ではマリリン・マンソンがやり玉にあげられ、バッシングを受けることになる。そこでよく語られる逸話が、カリンの本にもあったように、マンソンのツアーが中止に追い込まれたにも関わらず全米ライフルの総会は事件現場のすぐ近くで予定通り開催され、しかもNRAは事件をむしろ銃規制反対論に利用さえしたことである。

本書でいささか奇妙に思えたのは、二人が入手した銃の一部は友人に買ってもらうなどして合法的に手にしたものであることに触れつつも、銃規制の問題には触れていないことである。スーは暴力映画を嫌ったことからもわかるように子どもたちを銃から遠ざけていたし、本書刊行前にワシントン・ポストに寄せたこちらの文章でも銃規制が厳しければこれほどの事件にはならなかったかもしれないとしている。同時にいささかもってまわった言い方もしていて、その置かれた立場もあって、激しく対立する論点であまり政治的イメージを全面に出したくないというところもあるのかもしれない。

ちなみに、事件後にはあることないこと書き立てられ山のような批判が押し寄せるが、多くは感情的なもので、その結果批判は矛盾に満ちたものとなる。子どもを甘やかしすぎたせいだとするものもあれば子どもに厳しくあたりすぎたせいだとするものもあったが、その中にはなんと、子どもを銃から遠ざけて育てたせいでかえって銃への執着が生じたのだとするものがあったという。本書で描かれる、事件後に犯人の親がメディアや「善良」なる人々に追い詰められていく状況はどの社会にでも当てはめることができるだろうが、さすがにこういった発想はアメリカ以外ではまず出てこないだろう。


このように、神についての言及も含めてアメリカ合衆国特有の文脈という部分も多々あるが、同時に、思春期の子どもが陥りがちな危機や、それに親や学校、社会がどう対応すればいいのかといった決定的な答えのない問題を考えるうえで、またメディアなどの問題をめぐって、彼女にどこまで同意するかはともかく一読の価値のあるものであるし、とりわけ子どものいる人はぜひとも手に取ってほしい。





『ジャズ・アンバサダーズ  「アメリカ」の音楽外交史』

斎藤嘉臣著 『ジャズ・アンバサダーズ  「アメリカ」の音楽外交史』





ジャズとはいったい何か、ジャズに疎い僕はそう問われても答えに窮してしまう。もっともこれはジャズファンにとっても同じかもしれない。長い歴史を持ち、スウィング、ビバップ、フリー・ジャズなど様々な変転を遂げてきたジャズを一言でどう定義するかは、困難な作業であろう。しかし、現在はともかく、数十年前までは、ジャズといえばあるイメージが付随したことだろう。それは「アメリカ」であり「自由」だ。これは現実のアメリカ合衆国への抗議や抵抗ともなれば、アメリカ以外に住む人々が自らの社会に対する抗議や抵抗ともなる。さらには、このイメージをアメリカ合衆国政府が利用することともなる。

本書はジャズの歴史でありアメリカをはじめとする複数の地域でのジャズの受容史であり、タイトルの通りアメリカ外交史の一断面となっている。


1930年代、アメリカで「スウィングのリズムに刺激され過激の踊るファンはジターバグと呼ばれた」。あるカトリック司教はジャズを「悪魔的」かつ「共産主義的」な音楽とし、「ジターバグは合理主義の衰退と捉えられ、「音楽的ヒトラー主義」と非難された」。
「スウィングは、個人を縛るあらゆる束縛からの解放願望、とくに親世代からの独立願望と重なった」ことを思えば、ジャズを毛嫌いする人たちのほうがよほどファシズムと親和性があるように見えてしまう。もちろんこのような極論はごく一部であったが、アメリカにおいてさえ、大衆的な人気を博したジャズにこのような見方があったのである。これが外国であればなおのこと、ジャズに対して、さらにはジャズを通してアメリカに対して、極端とも思えるほど様々な理解がなされることになる。

「スウィングは、躍動的リズムを全面に押し出すことでジャズの黒人的出自を訴えながら、人種を超えて演奏される。スウィングにおいて黒人文化と白人文化は同居する。その核心に黒人文化を置く音楽が、若者からエリート層まで幅広い層に聴かれる。ここに、人種統合的な「アメリカの音楽」誕生を祝う言説があらわれる」。

あるカトリック司祭がジャズを「共産主義的」としたのは、30年代のこうした状況をふまえてのことだったのだろう。実際、左翼とジャズが人民戦線的に手を取り合うという光景がよく見られた。「黒人への暴力を告発する<奇妙な果実>を作詞・作曲したのは、黒人リンチ事件の写真に衝撃を受けたアメリカ共産党員でユダヤ系高校教師、エイベル・ミーアポルである」というのはその象徴的なエピソードであろう(これについては『ビリー・ホリデイと『奇妙な果実』』に詳しくある)。ローズヴェルト政権によるニューディール政策のもとで、左翼はこれを支持し人民戦線による橋頭保を築こうとし、また未だ克服できずにはびこる黒人への差別、暴力と戦った。30年代において「アメリカ」の理想を肯定し、かつアメリカの現状変革を促す、その手段としてのジャズという面もあった。


アメリカの第一次世界大戦参戦後、フランスには二百万の米兵が駐留した。通称「ハーレム・ヘル・ファイターズ」こと第三六九歩兵連隊は黒人のみのミュージシャンから成り、連合国への慰問を行っていたが、あまりの人気ぶりに六週間のフランス国内ツアーが命じられた。このようにフランスでは早くにジャズが受容され、これはまたアメリカにおける人種差別への批判にもつながった。アメリカにとってジャズが、アメリカへの好意ともなればアメリカへの批判に結び付くという両義的存在となるのは、これ以降も続くことになる。一方で、フランスにおける人種差別には目をつむりつつ黒人を歓迎することでアメリカにおける人種差別を批判することは、「自由の国フランス」というイメージを高めることともなり、ジャズの受容に伴うこの両義性はフランスをはじめとする各国において続くことになる。

フランスの保守層にとってジャズは「「真にフランスの音楽」を侵食する反仏的音楽」と映った。同時にまた、白人ミュージシャンによる「商業的ジャズ」を批判し、「即興性が強められた躍動的なホット・ジャズを「真正のジャズ」と称揚」したのは、アクション・フランセーズに加わっていた批評家のユーグ・パナシエらであり、彼らはここに「「純化」された精神」を見出していたのだった。フランスでは単に政治的左右では切り分けることができないほど、広く親しまれたとすることができるだろうし、ここに自ら見たいものを投影したのであった。

これはナチス・ドイツによる占領後も変わらなかった。ナチスはジャズを退行的な音楽として取り締まりの対象としたが、しかし「不満のはけ口、気晴らしとしてのジャズが有用だったため、完全には禁止されなかった」。ジャンゴ・ラインハルトはロマという出自を持ち、「ロマ音楽とスウィングを融合させてスターダムにのしあがった」。しかも彼には左手には火傷による障害があり、ナチスからは二重の意味で差別される存在であった。しかし、「奇妙なことではあるが、占領期フランスでジャンゴの名声は戦前に増して高まった」。

フランス人による需要があっただけでなく、ドイツ軍への娯楽を提供する必要があり、劇場やナイトクラブは占領直後から営業を再開された。そこへ通い詰めた客の中には、ドイツ空軍中尉、ディートリヒ・シュルツ=コーンがいた。シュルツ=コーンは「ジャズ博士」の異名を持ち、彼が軍服姿で撮った記念写真には、ジャンゴとともにユダヤ人と黒人も含まれていた。


ではドイツでのジャズ受容はどのようなものであったのか。ワイマール期には、よくもわるくも「アメリカ的」なものとされた。保守層はドイツ的文化への脅威とし、これに対しクルト・ヴァイルは共産主義に傾倒していたブレヒトと組んだ『三文オペラ』にジャズを取り入れた。一方で「労働者の抵抗意欲を削ぐブルジョワ的音楽と糾弾する左派知識人」もいた。アドルノが「ジャズの即興性やシンコペーションの音楽的に否定しつづけたことはよく知られている」。

フランスではジャズが黒人音楽と理解されそれが人気に貢献したが、黒人への差別意識が強かったドイツでは逆にそれがマイナスイメージとなった。さらには「猥褻なイメージがつきまとうジャズは反ユダヤ主義とも結びついた」。「黒人に由来するジャズを搾取してユダヤ人が金儲けにいそしむイメージは、ドイツ文化を毒する「ニグロ・ユダヤ戦争」として語られた」。

ヒトラーが政権を取ると「退廃文化」との烙印を押され、弾圧を受けることになるが、ではこれでドイツのジャズが滅んだのかといえばそうではなかった。北欧からジャズのレコードを密輸するファンがおり、さらにはドイツ人ミュージシャンがタイトルだけ変えて演奏を続けた。

シュルツ=コーンのように「ジャズ・ファンでありながらナチス信奉者であることも矛盾なく捉えられ」、彼は「違法のニューズレターさえ発刊し、かぎられたジャズ・ファンに送っていた」。こうした状況にゲッベルスも、「ジャズを根絶させるよりも、ときに娯楽のための武器として利用した」。しかしこれは、「サックスやトランペットに代えてヴァイオリンを用いることで、リズムではなく旋律重視の「甘い」ジャズ」となった。公式には「軽音楽」であり、この「ドイツ的ジャズ」は「けっしてジャズと見なされなかった」。

もちろん気の抜けたような「ドイツ的ジャズ」は、ジャズファンにとっては満足できるものではなかった。そして、「大都市における中産階級出身者」の中から、「スウィング青年団」が現れる。彼らはホットなスウィングを求め、英語の歌詞を歌った。「彼らはエーデルヴァイス海賊団ほど政治的抵抗に従事したわけではない」。それでも、「ナチ党が掲げる国家観の核心部に明らかに挑戦するもの」であり、ヒムラーはハイドリヒに宛てた手紙に「スウィング青年団を支援する者は全員、強制収容所に入れなければならない」と書いている(スウィング青年団をモチーフにした作品として映画『スウィング・キッズ』があり、最近日本でも佐藤亜紀が『スウィングしなけりゃ意味がない』を書いている)。

占領下のフランスでも「髪を長く伸ばし、だぶだぶしたズボンや長いコートが特徴のズート・スーツで身を固めるザスー」が現れる。「スウィング青年団と同様、ザズーたちも政治的思惑を強く抱いていたわけではない」。レジスタンスにも参加せず、ド・ゴール率いる亡命政権とも距離を置いていた。それでも保守派からは「反仏的」と非難された。「当局にとっても「彼らは、姿の見えないレジスタンス運動より矛先を向けやすい敵であり、道徳的退廃、反仏、社会秩序を乱す存在として糾弾しやすかった」。

「スウィング青年団やザズーが示すのは、規律的な文化にたいしてであれ、あるいは政権にたいしてであれ、押しつけの権威に抗議する意思表示媒体としてのジャズの機能である」。

ゲッベルスがジャズを懐柔しようとしたのと同様、ヴィシー政権でも「弾圧が抵抗を再生産する」と認識されるとその脱政治化が試みられる。対独協力者からジャズフランス起源説が唱えられるなど、「ジャズのフランス化=脱アメリカ化を黙認し、ジャズを愛好することと愛国的であることを両立させた」。

このように、ジャズはプロパガンダとしても使われた。ドイツがプラハ郊外に設置したテレージエンシュタット収容所に国際赤十字の調査が入ることになると、「収容所は清掃され、超過人員はアウシュヴィッツに送られ、楽しい生活のようすを示す文化活動」が行われているとするために、「ゲットー・スウィンガーズ」というジャズ・バンドが結成された。ゲットー・スウィンガーズはナチスのプロパガンダ映画『ヒトラーがユダヤ人に町を与える』にも登場した。このメンバーの「多くはアウシュヴィッツにて死を迎えた」。


日本では東京や横浜でダンス音楽としてジャズが流行り始めていたが、「関東大震災を契機にジャズ文化は大阪で花開いた」。1923年には神戸で日本初のジャズ・バンド、「ラフィング・スターズ」が結成された。「モボ・モガらが新時代の空気を体現した時世、ジャズが受容された理由のひとつは、そのコスモポリタニズムが放つ魅力にあった」。

しかし1924年に「排日移民法」が成立するなどしたことから大正末期には反米感情が高まり、お決まりのごとく保守層の中には「ジャズとモダニズムを野蛮と捉える層も少なからず存在」するようになる。

「日本人の美的感覚や精神性が例外的に秀でているとする考え方」が広まるという国粋主義の時代に、日本のジャズ・ミュージシャンたちは「時勢に呼応しようと「日本的ジャズ」を模索した」。服部良一が「山寺の和尚さん」や「お江戸日本橋」をスウィング風にアレンジするなど、民謡や童謡が様々なジャズのスタイルで演奏されるようになる。日米開戦の直前には渡辺良の指揮するコロムビア・オーケストラが「崑崙越えて」を「フレッチャー・ヘンダーソンふう」にアレンジし、「大東亜共栄圏の思想を発信した」。「ジャズと愛国が両立しえた点は同時期のドイツや占領期フランスと通じるものがある」。

1938年の国家総動員法によりジャズ管理は強化されており、41年に内閣情報局が出した「ジヤズ音楽取締上の見解」で当時の当局の認識を知ることができる。淫靡なものや退廃的な音楽の流行に「ジャズの悪影響」が見出されていると同時に、クラシック音楽などを引き合いにして、「ジヤズを全幅的に認めない迄もその幾分を認めて然るべきであるといふ理屈は成り立つ」と、「妥協的な姿勢も見てとれる」。ドイツと同じように、娯楽をただ奪うだけでは反発を招くだけだと判断されたのだろう。そして「ジャズの「適正化」が図られること」になり、「排除されるべきジャズ」と「容認されて然るべき」ジャズの指針が示された。

そして日米開戦により、サックスは「金属製先曲がり尺八」、「トロンボーンは「抜き差し曲がり金真鍮喇叭」とされ、ミュートの使用まで制限される。しかし同盟国であるドイツとイタリアの曲は許可されたことから、「双頭の鷲の旗の下に」や「オー・ソレ・ミオ」、さらには軍歌や流行歌までもがジャズ風にアレンジされて演奏されていたようである。というのも、「取り締まる側もジャズの知識を欠いており、デューク・エリントンとモーツァルトのちがいも曖昧だったため、クラシック風の即興演奏としてジャズをなかば堂々と演奏することもできた」ほどだったためだ。
それでも、戦局の悪化とともに圧力は強化されていくことになる。


フランス、ドイツ、そして日本の例を見てわかるように、ジャズを受容した人々の多くは「自由」への憧れを抱いていた。それは当人の意識としては必ずしも政治的な動機に基づくものでなくとも、結果として政治的なものともなる。もちろんこれをアメリカが見逃す手はなかった。グレン・ミラーは志願して入隊すると陸軍航空隊軍楽隊を結成し、慰問演奏などを行う。対独プロパガンダラジオ放送では「イン・ザ・ムード」などが流され、その合間にドイツ語で「アメリカが保障する「四つの自由」が宣伝された」。一方「ホーホー卿」や「東京ローズ」などで知られるドイツや日本からのプロパガンダ放送でも、アメリカを中心とする連合国の戦意を挫くためにやはりジャズ使われた。

ジャズがアメリカの国策に合致するものだとすんなり受け入れられたのかといえば、必ずしもそうではなかった。
1944年、ロサンゼルス東部で死体が発見されると、メキシコ系の若者約300人が十分な証拠もなく逮捕、訴追される「スリーピー・ラングーン事件」が起こる。被告を支援する資金調達コンサートに関わった人物の中に、ノーマン・グランツがいた。これを機にグランツは「ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック」(JATP)を始める。44年から57年にかけて、「数百回にわたりアメリカ国内外で催されたコンサートおよびレーベルの名称である」。
「JATPの関連冊子に掲載された宣言からは、自由と民主主義に基礎づけられたジャズの理念、アメリカニズムを見て取ることができる」。

「グランツの特徴は、いま風にいえば社会起業家だった点にある」。彼は「すばらしいジャズを社会に提供すること」、「人種隔離をなくすこと」、「ビジネスを成功させること」の三つを目的とした。

「グランツはツアーに際して結ばれる様々な契約に人種条項を挿入し、チケット販売から観客席にいたるまで人種差別を禁じ、違反した場合にはコンサートを実施せず違約金を要求した」。また一流ホテルを予約して、当日に人種混成バンドで表れ、宿泊を拒否するなら訴訟をちらつかせることも辞さなかった。他のバンドリーダーにも「人種隔離措置をとる会場では演奏しないとする規定を契約条項に挿入するよう積極的に訴えた」。

ディジー・ガレスピーがビバップを「抵抗の顕現」と表現したように、パーカーなど社会問題に関心の高いミュージシャンの意識とも呼応するものだった。ビバップは「商業主義的で表現上の制約も多いスウィングに飽き、仕事後のジャム・セッションで思うままの自己表現を高度なテクニックと速いテンポで追及する実験的空間から生まれた。踊るためのジャズではなく、ミュージシャンのためのジャズだった点で、ビバップはグランツのジャズ哲学と合致していた」。

「偏見は経済問題である。それを儲からないようにする」というのがグランツの信条であった。つまり、差別をしなければ経済的に得をし、差別をする者は損をするような状況を作り出そうとしたのである。全てが成功したわけではなく、多額の損失をだしたこともあったが、彼は屈することはなかった。

こうした「抵抗のジャズ」は、ジャズと共産主義を結びつけるFBIによる監視を呼び、非米活動委員会への召喚へとつながっていく。「人種差別を告発しつづけ、ジャズはアメリカニズムを体現すると考えたグランツだったが、一九五〇年代アメリカは彼を非米(un-american)の人とした」。

1955年には二部講演の幕間にガレスピーらが少額の賭けダイス・ゲームを行っていると、私服警官が突入し、その場に居合わせたグランツやエラ・フィッツジェラルドなども賭博罪で一緒に逮捕されるという事件が起こる。「人種統合を訴えるJATPの方針への反発」によるものだった。50ドルを支払ってすぐ釈放されたものの、グランツはこれに納得せず2千ドルを費やして訴訟を起こし、勝訴する。「採算を度外視してでも人種問題と戦うグランツの真骨頂である」。

翌年には非米活動委員会にグランツも召喚される予定であったが、情報を事前に入手していたため国外に逃れた。国務省は在外公館にグランツが現れたら共産党との関係を否定する宣誓供述書の提出を求めるよう指令を出したが、57年にパスポートの更新のためにチューリッヒのアメリカ領事館に現れたグランツは「共産党員であることを示す項目にチェックをしたため、パスポートの更新は拒否」される。ここでもやはり、著名な弁護士を雇ってパスポートの発行を認めさせる。しかしこの前年の56年にすでのグランツは、自らFBIとの面会を設定し、「あらゆる「馬鹿らしい」質問に答え」ていた。人種問題への関心から共産党に入党したことや、「ハリウッド・テン」の一人である映画監督のエドワード・ドミトリクとの関係などについて説明し、「FBI側も国家的脅威との評価を下すことはなかったようである」。

グランツは57年秋のツアーを最後にJATPのツアーを終了し、以降「アメリカ、ヨーロッパ、日本で散発的なツアーは実施されるが、もはた定期ツアーはやめ、スイスに居を構えて余生をすごした」。

50年代にはすでにアメリカでの共産党員の数は激減しており、冷戦の高まりによってソ連ではジャズは「アメリカの音楽」として弾圧を受けていた。皮肉なことに、このような状況下にジャズは再び国家的プロパガンダとして、アメリカ政府に見出されることになるのであった。


ソ連にジャズが最初に入ってきたのは1922年のこととされている。ヨーロッパ経由で入ってきて、ちょうど新経済政策(NEP)の時期には「投資で蓄財したネップマン、都市中間層、一部の政府高官などに広く聴かれた」。ジャズは「人民の芸術」であった。

しかしジャズは「道徳的退廃を招き反革命的とする批判も少なからず存在」しており、「作家マクシム・ゴーリキーはジャズを同性愛や好色と結びつけて糾弾した」。
それでもジャズがソ連で生き残ったのは、すでにダンス音楽として社会に広く浸透しており、また「黒人やユダヤ系のようにアメリカで差別を受ける人びとの文化としてジャズが位置づけられ」、「「真正の」「よい」ジャズが「悪いジャズ」から区分されることで、ジャズ・シーンの維持が図られたためである」。
ちょうどコミンテルンはアメリカの黒人を重視した時期でもあり、「抑圧されたもの同士の連帯を叫ぶ共産主義のイデオロギーと両立したことで、ソ連には「ジャズの赤い時代」が到来した」。

38年には「国立ジャズ・オーケストラ」が結成されたが、当時のジャズ界のスターだったオデッサ生まれのレオニード・ウチョーソフは、ジャズのオデッサ起源説を唱えたり、はたまた「喜劇との融合を図」るなど、「音楽的な意味ではアメリカのジャズとは似つかな」い「ソヴィエト・ジャズ」が形成された。

ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」に突入すると、ドイツでジャズが弾圧されていたこと、そしてアメリカと同盟関係に入ったことで、「戦時国民統合の武器としてジャズに大きな焦点が向けられ」ることになる。
ミュージシャンによる前線での慰問活動や、愛国的歌詞による士気高揚が行われた。赤軍内にはあまたのジャズ小師団が編成されるなど、映画の影響もあってソ連でのジャズ人気は高まった。

しかし戦後、冷戦の開始によって「ジャズは公式文化から追放される身となった。ジャズは性的放逸、野蛮、ブルジョワ的退廃の象徴」となり、サックスは没収され、演奏法も制約を受けることとなる。

「今日ジャズを演奏するものは明日国家を裏切る」、「サックスからナイフまでほんの一歩」といった言説が流布されたが、ソ連のジャズファンがこれによって消滅されたのではなかった。東ドイツ駐在の赤軍将校が西ベルリンからジャズのレコードをもちかえったり、反米的な歌詞を利用して公然とジャズが演奏されたりもした。ジャズに代わる大衆的音楽は存在せず、「ジャズ禁止の公式文化圏と併存する第二の文化圏が生まれた」。

スターリンの死去後、ソ連国内では文化統制が弱まるとともに、対外的には「文化攻勢」が仕掛けられる。ボリショイ・バレエ団やクラシック楽団が世界各地に派遣された。アメリカでも「冷戦を戦うための手段」として「文化交流」が位置づけられるようになる。こうして米ソ両国は威信をかけて文化的プロパガンダ合戦を繰り広げることになる。アメリカにとって大きな弱みが、人種問題であった。

その点ジャズは、「人種差別国家」という批判を交わすのにうってつけの音楽として目をつけられる。VOAでは55年から「ミュージックUSA」というジャズ番組が放送されるようになる。企画し司会を務めたのはウィリス・コノヴァーで、番組は彼の死去する96年まで週6日放送され続けた。東側だけで三千万人、最大で世界中で一億人が視聴したとされる。VOAの番組はアメリカ国内では放送できなかったのでコノヴァーはアメリカでは無名であったが、彼の存在は「ジャズ界に多大な影響を与えた」。

そして56年にはついに「ジャズ大使」が任命され、世界各地に派遣されるようになる。かつては左翼との関係から弾圧され、またミュージシャンの麻薬の使用などから退廃的と批判されてきたジャズが、アメリカの理想を宣伝するために公式に使われるようになったのである。

もちろんこれは万人から受け入れられたのではない。「黒人文化に起源を持つジャズを「アメリカの音楽」として発信することには国内に強い異論があった。まして、政府も財政支援を与えることへの風当たりは強かった」。後に共和党の大統領候補となり、その後の共和党の路線に強い影響を与えたゴールドウォーター上院議員は反対の急先鋒であった。

ジャズ・ミュージシャンたちもジレンマに直面する。多くの地域に人種混成バンドが送り込まれた。これはアメリカには人種差別はないというのを宣伝するためであるが、言うまでもなく現実には凄まじい差別が存在しているのである……

と、「ジャズ大使」たちの波乱に満ちた活動や、東側、そして日本などの各地でジャズがいかに受容されたのかが描かれていく。


戦前のジャズ受容にはどの国にも似たようなパターンがあった。何よりも踊れる、大衆的な音楽であり、さらには人種問題をはじめ抵抗の音楽でもあった。この両者をつなぐ言葉が「自由」だろう。ジャズは自由をもたらすもの、自由を感じさせてくれるものとして受け入れられた。また反発の形も似たようなものである。退廃的であり、独自の文化を根絶やしにしてしまう侵略的なものであり、野蛮なアメリカ文化を象徴するものがジャズであるとされた。いわば「アメリカ」への憧れであり、また「アメリカ」への反発、それがジャズへの態度に表れている。

規制を試みるが効果がないどころか逆効果となり、それならばとこれを飼い馴らすことによってプロパガンダに利用しようとするのも、どの国にも共通している。これによって飼い馴らされたミュージシャンやリスナーがいたと同時に、様々な抜け穴を見つけ「自由」を追い求めた人々もいた。ではこの両者の間にはっきり線を引けるかといえば、それは難しい。ジャズと政治の関係は両義的なものであった。

そして「アメリカ」はもまた両義的なものだ。理想を追求できる輝ける場所であり、貪欲で暴力的で差別的な場所でもある。そしてアメリカへの両義的な視線は、自らの社会を映し出すものでもある。

戦中にザズーであったボリス・ヴィアンは、サルトルにパーカーやマイルスを紹介した。ヴィアンにとって、ジャズは「弱者の所有物」であった。人種統合を象徴する「アメリカの音楽」ではなく、「あくまで抑圧された人びとのための武器」であり、小説『墓に唾をかけろ』は「ジャズへの慈愛に満ちた文章を通して人種隔離の実態を糾弾している」。

フランスで反米左翼にジャズが愛好されたのは、抑圧され、虐げられた人々への連帯としてのジャズであり、ジャズがもたらす自由とはそういう意味であった。同時に、ここには「コカコーラ植民地化」への反発も含まれていると考えることもできよう。アメリカによる画一化された世界への反発とともに、「帝国的ノスタルジア」が見え隠れする。

「アメリカで周辺的な位置に留め置かれてきた黒人の文化から生まれたジャズが、抵抗の象徴として受容されたことは重要である。黒人の境遇を戦後フランスのそれになぞらえることを可能とするからである。/換言すれば、黒人への共感は戦後国際政治におけるフランスの地位とも無関係ではない。いまや西欧防衛の要として、あるいはヨーロッパ復興の保証人として、アメリカは多大な影響力をふるう存在となったが、同じ戦勝国でありながらフランスはアルジェリア独立問題を抱え、植民地帝国からの撤退とあいまって、国際政治上の影響力を著しく低下させた」。

このような両義性、矛盾はフランスに限られたことではない。イギリスではホブズボームがフrンシス・ニュートン名義で『抗議としてのジャズ』という本まで書いているように、左翼や、怒れる若者にジャズは受け入れられた。敗戦国であり、アメリカの庇護のもとに復興への道を歩み出した西ドイツではやはりジャズに対して複雑な反応が見られたが、これはアメリカへの視線と絡み合う反応だろう。本書ではもちろん日本の戦後のジャズ(とされたもの)の受容についても触れられている。

「独裁者はスウィングしない」。西ドイツでジャズ批判を克服することは、東側との差異を強調することであり、かつてジャズを否定したナチスとの切断という意味では「道徳的義務」ともなる。同時に教科書に取り入れられるなど「制度化」がうながされ、暴力的なイメージ、さらには起源としての黒人文化をも切断し、クラシック音楽との近さが語られるようになるなどして、「アデナウアー期の保守的な社会に根づきはじめ」ることになる。

1975年にチャールズ・ミンガスは東欧、そして独裁体制が崩壊したものの民主化の途上にあったポルトガルなどでツアーを行う。ミンガスはアメリカでいまだに蔓延る人種差別に怒りをつのらせ、「アッティカ刑務所でのロックフェラーを忘れるな」を演奏したり、ウォーターゲート事件やニクソン前大統領を公然と批判した。アメリカの保守派からすればミンガスの行動はアメリカの恥部を喧伝する利敵行為に感じられたことだろう。しかし観客は、「アメリカ政府の支援によってフェスティバルに参加したミュージシャンが自国の政治指導者を自由に批判している事実に衝撃を受けた」のであった。このあたりはジャズと政治の関係の両義性をなにより表すエピソードだろう。


長くなってしまったが、この他にもまだまだ言及したいエピソードが満載で、ジャズはもちろんのこと、アメリカ論、文化史、冷戦期外交史といったものに関心がある人にとっても面白く読めることだろう。


また'The Jazz Ambassadors'というドキュメンタリーが作られた。こちらの'The Jazz Ambassadors': Cold War Diplomacy And Civil Rights In Conflictで監督のインタビューを聞くことができる。





『ビリー・リンの永遠の一日』

ベン・ファウンテン著 『ビリー・リンの永遠の一日』





2004年11月、ブラボー分隊の生き残りの8人はダラス・カウボーイズ対シカゴ・ベアーズの試合に招かれていた。ハーフタイムにはデスティニー・チャイルドによる派手なショーが予定されており、8人はそこに参加する予定だ。ブラボー分隊はイラクで凄惨な戦闘を経験していた。そこにフォックスニュースが同行取材をしており、その臨場感溢れる映像が繰り返し放送されたことで彼らはヒーローとなっていた。一時帰国を命じられ、アメリカ中をツアーして回ることになり、その仕上げがこのNFLの試合である。19歳の兵士ビリーは、この現実離れした奇妙なイベントを待ちながら、これまでの人生やイラクで戦争について思いをめぐらせていく。


兵士たちが図らずも英雄に祭り上げられ、愛国心を煽るためのプロパガンダに利用されるという点では『父親たちの星条旗』がまず思い浮かぶだろうし、マッチョイズムと商業主義の究極の結合であるかのようなアメフトにアメリカの病理を重ね合わせ、それをパロディ化するという点では『MASH』も連想させる。

しかし『父親たちの星条旗』と比べると本作はスラップスティック調といっていいほどのコメディタッチになっているところもあるし、また一方でベトナム戦争を明らかに意識しながら舞台は朝鮮戦争であった『MASH』と比べると、本作はより直接的にアメリカ合衆国の「現在」を描き出している。本作は「イラク戦争版『キャッチ=22』」という評され方もあるそうだが、『キャッチ=22』もやはりベトナムを意識しつつ舞台は第二次世界大戦であった。『MASH』や『キャッチ=22』が舞台を「現在」にしていないのは、陰惨かつ不条理な戦争をブラックコメディとして描くためであったろう。本作は捧腹絶倒といっていいような場面も含みつつ、全体としては「現在」を舞台とすることでアメリカの切実な課題というのがより強く浮かび上がるような構造になっている。


2004年11月25日に行われた実際の試合をテレビで見て、ファウンテンは本作のインスピレーションを得たそうだ。




「軍国主義、ポップカルチャー、アメリカの勝利主義、ソフトコア・ポルノのシュールな、そして明らかにクレイジーなごたまぜ」を目にして、こんな中に放り込まれたら「どうやって気が狂わずにいられるのだろう?」と思えたのだそうだ。この実際にあった出来事を基に、ここに架空のブラボー分隊を放り込んだのが本作である。

この時期はまだイラク戦争への支持が高かったが、疑念が広まり始めている時期でもあった。イラク戦争の正当性をアピールし、ナショナリズムを奮い立たせるのに、マッチョなアメフト、アイドルであった時代のビヨンセを含むデスティニー・チャイルドによる「ソフトコア・ポルノ」、そして「普通」の、愛国心溢れる兵士が英雄となる物語は何よりも有効であろう。

そもそも「ブラボー分隊」という呼称自体が正確なものではないのである。しかしフォックスの従軍記者がそのように名付けたために、後戻りできなくなった。正確さよりもプロパガンダ色の濃い「報道」機関が強い影響力を持ってしまっているのがアメリカであり、病によって障害を得たビリーの父も保守メディアの強い影響下にあり、自分で自分の首を絞めるかのような政治観を抱いてしまっている。スタジアムでの一コマとして彼らを映画化するための交渉も描かれている。金のなる木の匂いを嗅ぎつけた連中による生き馬の目を抜くかのようなやり取りは、当事者たちからすればたまったものではない。ビリーはある事件を起こし訴追から逃れるために軍に入った。軍隊はこういった行き場のない若者のたまり場となっている。ビリーは入隊後に次第にこの世界の仕組みに気づいていく。一時帰還した彼らを利用しようとする人々は、戦争の実態になど何の関心もない。大統領自らをはじめとして、ベトナム戦争時に様々なコネを駆使して兵役逃れをした連中がブッシュ政権の幹部におさまっている。

荒廃した家庭や嵩む医療費といった現実を「癒し」てくれるのは、「ポルノ」としてのナショナリズムであり、戦争は最高の麻薬となる。それを餌にして肥え太るのが保守メディアであり、保守メディアによって右翼政権が生まれ、右翼政権が保守メディアに肥しを与える。陰鬱な現実を前にしてそこからいかに利益をむしり取るのかを考えるのが「賢い」連中のやることで、人の死でさえも利用価値があるかないかで測られる。この悪夢的世界の中でビリーは気怠い長い一日を過ごし、また戦場へ送り返されるのだろうという予感に包まれていく。

本作の「肝」はやはりこの戦争を直近のイラク戦争にしたことだろう。ブッシュ政権を生み出し、イラク戦争にまでなだれ込ませたアメリカの病が消えることなく続いているのはトランプ大統領の誕生によって証明されてしまった。戦争を通してアメリカの「今」を描くには、やはりイラク戦争である必要があったのである。


この作品はアン・リー監督によって映画化もされたのでそちらについても。日本ではDVDスルーとなってしまったが、残念ながらそれも致し方ないかという出来であった。

映画ではブラックコメディー要素が希釈されているのであるが、これによって不条理感も薄くなってしまっている。最も問題なのは、父親の政治観をはじめとする社会的文脈が大幅に削られていることだ。これによりビリー個人の内面に寄りそう面が強く出され、とりわけ後半は観客に「感動」さえさせてしまおうという意図がありありと出ている。後味のの悪いブラックコメディーではヒットしないということだったのだろうが、観客に日和った結果として観客からも見捨てられてしまった。映像化するならアルトマンのように、辛辣かつ批評性の高いものを目指すべきであったはずだが、志しがあまりに低いように映ってしまった。映画界もブラックジョークの対象とされていたことを、いったいどう思っていたのだろうか。






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佐藤太郎(仮)

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