『『諸君!』『正論』の研究  保守言論はどう変容してきたのか』

上丸洋一著 『『諸君!』『正論』の研究  保守言論はどう変容してきたのか』





著者は朝日新聞の編集員。2002年から05年にかけて雑誌『論座』の編集長を務めた経験から『諸君!』や『正論』に関心を持ち、「そもそも『諸君!』『正論』は、いかなる思想的土壌から生まれ出てきたのか。/米ソ冷戦期において、両誌は何をどう主張していたのか。/それは冷戦の終結によって変わったのか、変わらなかったのか。変わったとしたら、どう変わったのか」を研究することとなる。

序章は2010年2月11日の「建国記念の日奉祝中央式典」から始まる。神話上の人物である神武天皇の即位の地とされる橿原神宮への遥拝に始まり、『諸君!』『正論』にしばしば登場する小田村四郎によって当時の民主党政権や「左派リベラル」への批判決議が読み上げられ採択され、ゲストとして登壇した当時の自民党総裁、谷垣禎一に決議文が渡される。そしてこれまた『諸君!』や『正論』でお馴染みの渡部昇一の講演が行われた。


保守派や右派は敗戦後間もなくから70年代あたりまでを左派優勢の時代としているが、僕から見ればこれは被害妄想もいいところのように思えてしまう。確かにアカデミズムやジャーナリズムの世界では左派寄りが比較的優勢であったとすることができるかもしれないが、かといって、しばしば右寄りの人が恨み節をこめて語るほど左翼にあらずんば人にあらずといった状況であったかは疑わしく、実際に右派のアカデミシャンや論壇人も数多く存在していた。

何よりも、戦後ほぼ一貫して保守・右派によって権力は担われてきており、また歴史学者などから批判を浴びながらも紀元節の「復活」が大きな抵抗もなく実現してしまったように、多くの日本国民も保守的な感覚を持ち続けていたとすることができるだろう。
このように、戦後の日本社会というのは戦前・戦中との断絶のうえに成立したというよりも、連続性のうえ成り立っていると考えられる。しかし同時に、とりわけ近年の右派組織による、自民党を中心とする右派政治家への浸透を見ると、これまでとは違う現象が起きているのではないかという気にさせられてくるところもある。
本書はこういった政治や右派論壇の連続性と変質とを考えるうえで貴重なものとなっている。


結論から書くと、ある時期を境に『諸君!』や『正論』から多様性が完全に消えたのであった。もちろん両誌はその創刊時の意図からして反左翼であり、執筆者は保守・右派が中心を占めていた。しかし昭和天皇の戦争責任や靖国神社へのA級戦犯の合祀、「大東亜戦争」が侵略であったか否かをめぐって、90年代半ばまでは保守・右派の内部においても論戦が行われていた。

もっとも、かつての右派論壇誌が最低限の良識を持っていたとするのも早計だろう。

藤岡信勝は96年刊行の著書で「渡部〔昇一〕は日本がおこなった戦争のもつ侵略性を一度として認めたことはない」としているが、実際には渡部は『諸君!』82年10月号で「日本がアジアの大陸や諸島を侵略したことは確かである」、「日本が大陸に侵入し、侵略したことには一点の疑念もない」としていたことがあった。渡部はこのわずか数ヵ月後、『正論』83年2月号での小堀桂一郎との対談において、「極東裁判否定というのを公の場で出さなきゃいかんと思うんですがね」と今度は侵略であったことを否定する立場に「転向」している。このように右派論壇における知的不誠実さというのは、かつてから現在にいたるまでおなじみのものだとしていいだろう。

また87年5月3日に朝日新聞阪神支局が襲撃され、記者一人が死亡、一人が負傷した事件では、激烈な言葉で朝日批判を繰返していた『諸君!』誌上において、徳岡孝夫は匿名コラムで朝日を「自己への批判を許さない」、「権力の府」だとしたうえで、「朝日阪神支局の襲撃は宥すべからずものだが、それをもってファシズムがいよいよ暴力に訴え日本に暗い時代が来ると騒ぐが如きは、一人の娘の襲われたのを見て海千山千の女が女性全体の貞操の危機を叫ぶに似たものではないか」と、二重三重にひどい暴言を書き散らしている。
このように下劣極まりない文章が平然と掲載されていたのも昔からのことであった。

このように、現在と比較してかつての右派論壇誌が良識的なものであったとすることは躊躇われる。とはいえ、それでもかつての右派論壇誌は現在とは違う姿であったとすることもできる。

『諸君!』の創刊の中心的人物であった池島信平は東大教授の林健太郎と親しかった。林は68年、東大文学部長を務めており、学生から173時間に渡って「軟禁」されたものの、一切の妥協を拒み三島由紀夫などから称賛された保守派であった。『諸君!』においても常連の執筆者となったが、猪木正道などと並び先の戦争の侵略性を否定することはなく、植民地支配も含め加害責任を認める立場であり続けた。

むろん『諸君!』や『正論』には侵略性や加害責任を否定する論考が数多く掲載されていたが、同時にまた林のように保守の立場からそれらを率直に認める論考も掲載されてもいた。しかし徐々に前者の立場が強まっていき、89年にはベルリンの壁崩壊を言祝いでいたはずの林は、90年代に入ると侵略性や加害責任を否定する勢力との論争に入ることになる。つまり論敵が左から右へと移り変わったのである。

そしてついに、渡部昇一は『諸君!』2002年11月号での岡崎久彦との対談で、林や猪木といった「『諸君!』『正論』の創刊以来、長く両誌を支えてきた保守言論のリーダーを」、「「おかしなことを言う人」と呼び、事実上「左翼」のレッテルをはった」のであった。

右派論壇誌の変質を示すのは「反日」という言葉にあるのかもしれない。著者の集計によると、『諸君!』と『正論』がタイトルに「反日」という言葉を使った記事は80年代まではごく稀であったが、90年代に入ると増え始め、とりわけ『正論』は2005年以降は爆発的に増えている。90年代後半以降は日本の加害性を認める論考はほぼ消え、かつてはそれを認めていたはずの論者も意見を修正していくのであった。

『諸君!』は2009年に休刊した。歴代の編集長にも取材してあるが、初代編集長で文藝春秋の社長も務めた田中健五はタイトルの付け方などを「これはいかがなものか」と感じていたとし、また77年から79年にかけて編集長を務めた竹内修司は文藝春秋は「アンチ左翼ではあっても右翼ではなかった」が、左翼が影響力を失うにつれ自家中毒になっていったのではとしている。

著者もそうであるように、『正論』が「ガチ」なのに対して『諸君!』はいわば「ネタ」的であるという印象を持っていた人は少なくないだろう。『諸君!』休刊の直前に極右化する右派論壇をたしなめるような論考が掲載されたのもそれを表しているとすることができるのかもしれない。しかし『諸君!』休刊以降『文藝春秋』が『諸君!』化していることを考えると、はたしてそうだったのかとも思ってしまう。

林や猪木のような立場は90年代後半以降の『諸君!』にはとうてい受け入れられなかったであろうし、田中や竹内が嘆くようにこの雑誌の性格が変質したとすることもできるのかもしれない。しかしすでに書いたように、80年代であっても目を疑うような異様とすら思えるような文章が平然と掲載されてもいた。個人的には『諸君!』や『正論』は日本社会全体がそうであるように、「変質」したというよりも連続性が強いように思える。結局は「保守」を名乗る人々は単に左に厳しく右に甘いだけで、左翼(あるいは朝日新聞や岩波書店、そして朝日岩波文化人)批判さえしてくれれば何でも有りという発想があったがゆえに、譲ってはならない一線というものを持ち合わせず、この事態を招いたとすることもできるだろう。

僕は世界各地の出版事情に通じているわけではないが、文芸春秋社に限らず、純文学や学術書や辞書も刊行する一流とされる出版社(新潮社や小学館などなど)が、学術的には全く話にならない歴史修正主義としか言いようのない本や、差別を煽動する出版物を公然と刊行するというのはかなり特異なことなのではないだろうか。そしてこういった現象が異様なものとして批判されるのではなく、それこそ左翼的とされる人を含めてなんとなく容認されてしまってきたことこそが、日本の現在の状況に繋がっているとも思える。こういった点も合わせて考えると、現状を単に「保守」の堕落のみに帰することもできないしすべきでもない。日本の独特の出版業界の有り方を含め、日本社会全体が、敗戦後から現在に至るまで極右的なものに対して一貫して異様なまでの「寛容」さを持っているということに、この社会の実相が表れているとすべきだ。その歪みを最もグロテスクな形で体現しているのが「保守言論」なのであろう。


『彼女のひたむきな12ヶ月』

アンヌ・ヴィアゼムスキー著 『彼女のひたむきな12ヶ月』




『少女』でロベール・ブレッソン監督の『バルタザールどこへ行く』の主演に抜擢された顛末を描いたアンヌ・ヴィアゼムスキーが、本作では『少女』においてちらっと顔をのぞかせていたジャン=リュック・ゴダールとの出会い、恋愛、そしてこれもヴィアゼムスキーが主演を務める『中国女』の撮影の模様を描き、二人の結婚と映画の完成までを語る。

「自伝的小説」ということになるのだろうが、読み始めた読者は本書をそうカテゴライズしていいものだろうかと迷ってしまうことだろう。というのも、『少女』に引き続いてヴィアゼムスキー当人はもちろん、ゴダール、ブレッソン、フランシス・ジャンセン、フランソワ・トリュフォー等々がいずれも実名で登場する。「小説」というよりも「回想」とすべきではないか、読み始めはそうとも感じられるかもしれないが、読み進むうちにやはりこの作品は「小説」とするのにふさわしいと思てくる。

ここに描かれるのは、後光が差した神話的存在としてのゴダールだろうか。むしろ彼は俗物然とした姿で描かれる。では本作は偶像破壊的な物語なのか。ゴダールについてある程度知識がある人なら、ここで描かれるゴダールに驚きひっくり返るようなことはないだろう。多くの人に知られている、あのゴダールがここにいる。

あるいはこれはありきたりの話なのだろうか。30代半ばの中年男が娘といっていいほど年の離れたハイティーンの少女に入れ揚げる。男は自分好みの女にしようと「教育」を始める。そして女にとっては、少女から女へと変わり始める時期、ここではないどこかへと連れて行ってくれる知識と財力を持つ男の存在はその実像以上に魅力的に写ることだろう。しかし、なにせゴダールとヴィアゼムスキーの関係を描くのであるから、この物語はありきたりのものにはならない。

映画『17歳の肖像』などに代表されるように、この手の物語は、少女が現実に復讐される形で男に幻滅をし、この経験によって少女から女へと成長していくといったあたりになっていくのが常套である。しかし本作は、むしろ「信頼できない語り手」の系譜に連なるとしてもいいのかもしれない。少なからぬ読者は、ヴィアゼムスキーの語りをどこまで字義通りに捉えていいのか、いささか躊躇いを持つだろう。

ノーベル文学賞受賞者であるフランソワ・モーリヤックが祖父であること、ガリマール社の御曹司であるガストン・ガリマールが幼馴染であること、上流家庭での生活が当然のごとく内面化されていることなどがさらっと書いてある。そして冒頭近くで早くも、ジャンセンに哲学の個人教授を頼むと友人から「君は本当に年寄りにしか興味がないんだね!」とからかわれ、このからかいは反復される。

ゴダールと初めて結ばれると、彼から「そんな知識どこで憶えたんだ?」と「疑り深」い質問をされる。ゴダールはヴィアゼムスキーがブレッソンとは愛人関係にあったのではないかと疑い、ジャンセンに嫉妬する。中年男が少女に入れ揚げた際に、男は徐々に実は弄ばれているのは自分の方なのではないかという猜疑にかられることだろう。しかしこの物語では、ゴダールは初っ端から不安と猜疑に襲われることになる。

総革張りのシートのアルファ・ロメオを自慢げに見せつけるゴダール。しかしヴィアゼムスキーはきょとんとして「私、車のことは何も知らなくて」と言う。「少女らしい」無垢さともとれる一方で、上流階級育ちの女性に財力を見せつけようとするゴダールをせせら笑っているように見えなくもない。実際にはそのような描写はなく、ヴィアゼムスキーは本当に車に興味がなくいったい何を自慢しているのか理解できないとしてあるのだが、これをそのまま受け取っていいのだろうか。少なくとも、熱烈に彼女に迫るゴダールとの駆け引きであることは疑わせる。

このように、ある意味では読者に肩透かしをくらわせながら物語は進んでいく。嫉妬深く独占欲が強く自己中心的で横暴で時には粗暴にすらなるゴダールの姿は不吉な予感を与えるが、少なくともここで破局的な展開とはならない。ジャンセンやゴダールの「教育」によって成長していくヴィアゼムスキーであるが、中年男たちの手からするりと抜け出ていくか、あるいはその圧力に擦り切れていくといったことにもならない。中年男と少女の妄想のラインを外れることなく進んでいく。

もちろんこれは、ヴィアゼムスキーが話しをでっちあげているというのではない。ジャンセンが『中国女』に登場する顛末をはじめ、散々語られてきた有名なエピソードも多く、おそらく本書で描かれることのほとんどが実際にあったのだろう。

言葉は悪いが、ヴィアゼムスキーは「中間」の女性として扱われがちだ。ゴダールのミューズとして誰もがまず思い浮かべるのはなんといってもアンナ・カリーナであり、70年代半ば以降はアンヌ=マリー・ミエヴィルとパートナーとなり現在に至っている。

ゴダールにとっても、そしてヴィアゼムスキーにとっても、ちょうどこの1967年というのは過渡期であった。一つ間違えれば成金趣味とも映りかねないゴダールの金銭感覚(実際はゴダールもかなりいいとこのお坊ちゃんであるのだが)。ヴィアゼムスキーが「良家の子女」であることが、熱烈な恋心と無関係であっただろうか(後にゴダールは袂をわかったかつての親友トリュフォーが大手映画会社の経営者の娘と結婚したことにネチネチと粘着しまくることになるのだが、これは自分の体験があればこそだったのかもしれない)。一方でゴダールの左傾化はすでに始まっており、まさに『中国女』はそれを高らかに宣言したもので、この後には極左化していくことになる。ヴィアゼムスキーは祖父であるモーリヤックに否定されながらも大学で哲学を学ぶことを決め、ヴァカロレアのためにジャンセンに個人教授まで頼む。しかしゴダールと出会い、映画に魅了され、いくらかためらいがちながらも女優へと傾いていき、大学はあっさりと辞めてしまう。ゴダールの名を捨てたゴダール作品に付き合いつつ、パゾリーニなどの作品に出演をするが、女優からも離れていき作家となっていく。
本作はゴダールとヴィアゼムスキーの物語だけにありきたりのものとなるわけにはいかず、そしてこの時期の二人がいかなる状況であったのかが、作品を通して語られているかのようだ。


ペンディングされたかのようなこの物語には、当然ながら後日談が欠かせないことになる。ヴィアゼムスキーはUn an apresという続編を書いている。
そして本作は映画化され、なかなかの評判であるようだ。日本には来るのだろうか。





『パリ・レヴュー・インタビュー  作家はどうやって小説を書くのか、たっぷり聞いてみよう!』

『パリ・レヴュー・インタビュー  作家はどうやって小説を書くのか、たっぷり聞いてみよう!』





1953年春(正確には52年の冬とのこと)に創刊された「パリ・レヴュー」の名物企画である作家へのインタビュー集。

収録されているのはⅠがイサク・ディネセン、トルーマン・カポーティ、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、ジャック・ケルアック、ジョン・チーヴァー、ポール・ボウルズ、レイモンド・カーヴァー、ジェームズ・ボールドウィン、トニ・モリソン、アリス・マンロー、イアン・マキューアン、Ⅱにはドロシー・パーカー、アーネスト・ヘミングウェイ、アイザック・バシェヴィス・シンガー、ジョン・アップダイク、カート・ヴォネガット、ガブリエル・ガルシア=マルケス、フィリップ・ロス、エリザベス・ハードウィック、ジョン・アーヴィング、スーザン・ソンタグ、サルマン・ラシュディと、50年代から2000年代まで、錚々たる面子のインタビューが読める。

ただこれを「インタビュー」としていいかどうかはいささか迷うところではある。青山南が「訳者解説」で「パリ・レヴュー」のインタビューの手法について触れている。創刊時はまだテープレコーダーも普及しておらず、また他の雑誌でも作家へのロングインタビューなどは行われていなかった。そのせいもあってか、一般的な意味でのインタビューとは異なる手法で行われている。一回のインタビューをそのまま記事にするということはまずなく、数回、時には数年に渡って行われ、さらには作家自身に思う存分に手を入れさせている。例えばヴォネガットのインタビューは十年間に渡って行われた四回のインタビューを合成し、「本人によって徹底的に書き直された」ものだという。

三代目編集長のゴーレイヴィッチは、「ジャーナリズムにおいては、レポーターの正確さは一にも二にも、取材対象からきびしく独立しているかどうかによる」とし、「パリ・レヴュー」のこのプロセスについて「ジャーナリズムではまず絶対にありえないことだ」としている。青山は「できあがったインタビューは、いわばインタビュアーと作家の共同作品のようなものになる」としているように、インタビューという形式を借りたエッセイとして受け止めた方がいいかもしれない。そのために、作家が訊かれたくないことを突っ込まれて険悪な雰囲気になったり、意外な素顔をのぞかせるといったものにはなっていないが、作家の考えや姿勢、その時に言いたかったことがより直接的に表れているとすることもできる。


まず第一に、それぞれの作家のファンは興味深い話の数々を読むことができる。

ボルヘスは「あなたの小説は冷たくて人間味がな」いと考える者もいるがそれは意図してのことかと訊かれるとこう答えている。「もしもそうなっているとしたら、たんにこっちの書き方が下手だからです。(中略)まあ、変なシンボルを使ってるので、それらの話がどれも多かれ少なかれ自伝的なものなんだってことがわかってもらえないのかもしれません。話はぜんぶわたしについてのもの、わたしの個人的な体験についてのものです」。
もちろんこれを額面通りに受け取るかどうかはまた別問題であるが、確かにボルヘスの作品はそのように読めるとすることもできるだろう。


カーヴァーはアルコール漬けだった頃を振り返り、チーヴァーがアルコール漬けの文章はすぐに識別できると言っていたことが、今ならわかるような気がするとしている。アイオワ・ライターズ・ワークショップで、カーヴァーとチーヴァーは共に教えていた時期があったが、「週に二回は私の車で酒屋にでかけていました」という状態だったそうだ。酒屋は午前十時にならないと開店しないため、ホテルのロビーで待ち合わせて向かうことにしたが、カーヴァーがタバコを買おうと早めに降りてくるとチーヴァーはすでにロビーに居てそわそわしていた。酒屋に着くとチーヴァーはちゃんと駐車する前に車から降りてしまい、カーヴァーが店の中に入るとチーヴァーはすでに半ガロンのスコッチを抱えてレジの前に立っていた。この後にチーヴァーは治療センターに行き、「しらふになり、ずっとしらふのままで死んだ」。

またカーヴァーといえば編集者のゴードン・リッシュが原稿に大幅に手を入れていたことが後にわかってちょっとしたスキャンダルとなるが、この頃はリッシュとの深いつながりは知られていたものの、そこまでしていたということまでは判明しておらず、それでいてすでにカーヴァーとリッシュが袂をわかった後のことという微妙な時期で、作風の変化やリッシュとの関係についての部分は、今読むとかえってカーヴァーの心理が見えてくることとなる。カーヴァーは「ミニマリスト」の作家と呼ばれたが、それは誉め言葉としてだとしても「わたしは気に入らなかった」としている。「「ミニマリスト」という言葉にはヴィジョンと出来の小ささを暗示するところがあって気に入らなかった。でも、今度の新しい本、『大聖堂』のなかの小説はぜんぶ、十八ヶ月のあいだに書いたもので、そのどれもいままでのとは違うという実感があります」と語っている。

リッシュは原稿を大幅にカットし、その結果としてカーヴァーの作品は謎めいた、ざらっとした暴力的雰囲気が強まり、その切り詰めた描写から「ミニマリスト」とされていたが、ここにあるようにカーヴァーにとってはこれは不本意な介入であった。

映画の脚本をもっと書きたいと思いますか、という質問には、「ちょうど終わったのがマイケル・チミノといっしょにやってたドストエフスキーの生涯についてのものですが、テーマがこんなようなおもしろいものだったら、もちろん、やりたい。そうでなければノー。でもドストエフスキーだからね! そういうんだったらやるよ」と語っているのだが、チミノ&カーヴァーのドストエフスキーの映画の企画は没とされてしまうのであった。残念。





映画といえば、ジョン・アーヴィングはアーヴィン・カーシュナーが企画していた『熊を放つ』の映画化にあたって脚本に取り組んでいたが、その経験をふまえて「うーん。映画ね、映画、映画――あれはわれわれの敵だ、小説に取って代わろうとしてるんだから」としている。カーシュナーとの作業からいろいろなことが学べ、今でもいい友だちだとしつつも、「脚本を書くのだけはぜったいいやだ」と拒否反応を示している。「『熊を放つ』の脚本をカーシュナーのために書いて学んだのは、脚本書きというのは書くというのとは違うということだ、あれは大工仕事だ。あそこに言葉はないんだよ、書き手はストーリーのペースも語りのトーンもコントロールできないんだから」。「貴重なことをやらせてもらったということになるんだろうな――若いときに、最初の小説が出てすぐに映画のために書くってことを試せたのは――だって、もう二度とやりたいとは思わないから」。

86年に掲載されたこのインタビュー時の最新作は『サイダーハウス・ルール』であるが、存知の通り、アーヴィングはこの作品の映画化にあたって自ら脚本を書き、アカデミー賞を獲得することになる。ここまで言っときながら前言撤回したものの、結果を出すのはさすがだ。

このインタビューでも、『ガープの世界』ではジョージ・ロイ・ヒルに協力し、『ホテル・ニューハンプシャー』でもトニー・リチャードソンのことを高く評価しており、自分が脚本を書くことはともかく自作が映画化されることには拒否反応は持っていなかったのだが、この当時構想中だった『オーウェン・ミーニーの祈り』になると……(実は僕も怒りにかられそうで映画は怖くて見ていない)。




さらに映画関連の話題となると、ドロシー・パーカーはフィッツジェラルドのこんなエピソードに触れている。ハリウッドの悪とはなんでしょう、と訊かれると、「ひとよ」と答えている。「たとえば、スコット・フィッツジェラルドの顔に指を突きつけて、おまえに払うのか、おまえがこっちに払うべきだろう、なんてぐだぐだ言う監督よ。スコットはひどい目に遇ってた、あの頃の彼の姿を見たら、あんただって気持ち悪くなったと思うね」。


また、まとめてインタビューを読むことで作家の個性というのも見えてくる。
カポーティは「句読点のつけかたなんかも要注意だな」と語っている。「ヘンリー・ジェームズはセミコロンの使い方の巨匠だよ。ヘミングウェイは第一級のパラグラフの作り手だ。耳への聞こえ方という点からみれば、ヴァージニア・ウルフはひどい文章はひとつも書いていない」。

一方ケルアックは「マルカム・カウリーは際限なく書き直し、要らないカンマを何千と入れてきた」として、「Cheyenne Wyoming」としていたのを「Cheyenne, Wyoming」に直されたことに「カンマなんて気にするな」と言っている。これは文体上の問題というよりも文法的正しさの問題であるが、練り直すことよりも勢いを重視するのがケルアックらしい。


また人称の問題も何人かの作家が取り上げている。
モラヴィアが「小説は一人称で書くべきである、なぜなら三人称はブルジョワの視点だから」と言っていることに賛成かと訊かれたボールドウィンはこう答えている。
「それについてはよく知らない。ただ、一人称はいちばん恐ろしい視点だ。どちらかというとぼくはヘンリー・ジェームズの意見に与するな、かれは一人称が大嫌いで、読者はそいつを信じてはいけない、と言っている――どうして「I」なんて必要なんだ、と。ページのうえでがなりたてるこんな棒一本の力でどうしてこの人称がリアルなものになるのか、とね」。

フィリップ・ロスは三人称の語りを一人称に変えるかどうかをどのくらい意識的にやっているのかと問われ、「意識的も無意識的もない――自然発生的にやってる」としている。三人称で書いているときのかんじについては、「顕微鏡を覗いているときってどんなかんじがする、ピントを合わせようとしているとき? 裸の対象を裸の目にどれだけ近づけたいと思っているか、すべてはそれ次第さ」。
自らの分身的キャラクターのザッカーマンを三人称にすることで自分を解放しようとしているのかと訊ねられると、「自分を解放するのは、ザッカーマンが自分について言いそうにないことをわたしが言うためだよ。一人称では、アイロニーは消えかねないし、コメディも消えかねないし。かれの真剣さのようなものは導入できるが、それは耳障りなものかもしれないしね。ひとつの話のなかでひとつの声から別の声への移動があると、読者も倫理的視野の決め方が変わってくる。われわれが日常会話でやっていることさ、つまり、自分のことを言っているのに「ひとは」というような曖昧な代名詞をつかうようなときね。「ひとは」をつかうと、自分の意見を、それを言っている自分とのゆるい関係のなかに置ける」。

『ゴースト・ライター』のアンネ・フランクのセクションでは、最初三人称で書いていたがうまくいかず、エイミー・ベレットの一人称として書き直し、そこでアンネが語っていないことを語っているかのようなトーンを除去できたため、再びこれを三人称に作り直したそうだ。




サルマン・ラシュディは『真夜中の子供たち』について、「三人称の語りでうまくいかなかったんで、一人称の語りでやってみることにした」としている。すると「まさに届いたというかんじだったね、サリームの声が。抜け目なさそうで、いかにも秘密がいっぱいというふうの、滑稽で、どこかバカげた声が。タイプライターから飛びだしてきたものにはギョッとしたよ。文章は自分からというよりは自分を通って出てくるんだということを信じた瞬間だった」





アーヴィングはとくに重要な「テクニカル」なことは、という問いに「声」だね、としている。
「こっちの登場人物に近いところにいよう、あっちの登場人物からは離れていよう、といった選択――こっちの視点か、あの視点か、というような。こういうことは学べるんだよ。自分のいい癖、悪い癖がわかるようになることはできる。どうすれば一人称の語りはうまくいくか、どうすると行き過ぎになるか、といったようなことはね。それから、三人称の語りの危険なところと便利なところ、三人称は歴史的な距離をもてるってことにいちおうはされてるけど(たとえば伝記作家の声みたいな)。じつにたくさんスタンスのとりかたはあるんだ、話をしていくときの態度のとりかたはすごくいっぱいある。そしてそれは作家の思いのひとつなのね、作家がいくらでもコントロールできるんだ、アマチュアが考えている以上に。読者はもちろんまずほとんど気がつかないけど。たとえば、グラスの『ブリキの太鼓』、主人公のオスカル・マツェラートを「かれ」とか「オスカル」にしていたかと思うと、つぎに――ときにはおなじセンテンスのなかで――子どもの頃のオスカルを「ぼく」にしている、あれはみごとだ。オスカルが一人称の語り手であり、三人称の語り手なので、おなじセンテンスのなかで。しかもさりげなくおこなわれる、気がついてなんて素振りもない、ぼくは大嫌いなのよ、気がついてくれと言わんばかりの形式やスタイルって」。

言うまでもなく、一人称や三人称の使い方に唯一無二の正解があるわけではなく、作家によっていかに考えているかは人それぞれということだ。


こういったテクニカルな話もそうだが、ぎょっとするようなものが透けて見えるものもある。作家志望者に最上の知的トレーニングは、という問いにヘミングウェイは「首を吊ってみるのはどうだい」と答えている。
「たとえば、うまく書くのがどうしようもなくむずかしいとわかったら、首を吊ってみるのはどうだい。そうすれば、無慈悲にも縄が切れたら、その後の人生は精一杯うまく書こうと頑張っていくしかなくなる。首を吊った話は少なくともネタになるし」。
このインタビューの三年後にヘミングウェイは猟銃自殺をすることになる。



「訳者解説」では「パリ・レヴュー」創刊の経緯についても触れている。2007年のドキュメンタリー映画『ドック』のなかで、創刊メンバーの一人ピーター・マシーセンが当時CIAの雇われており、パリで諜報活動するのに雑誌編集は隠れ蓑になると考えていたことを明かした。赤狩りが強まるとさすがに嫌気がさして二年で縁を切った、後悔している、と語っていたそうだ。

マキューアンのインタビューが掲載されたのは2002年で、当時はこのことを知らなかったのかもしれないが、その後マキューアンは「エンカウンター」をめぐって起こっていた似たような事実をモチーフにして『甘美なる作戦』を書くことになる。




『ヒトラー 上 1989-1036 傲慢』,『ヒトラー 下 1936-1945 天罰』

イアン・カーショー著 『ヒトラー 上 1989-1036 傲慢』『ヒトラー 下 1936-1945 天罰』





1998年から2000年にかけて発表されたイアン・カーショーによる巷間なヒトラーの伝記。上巻ではヒトラーの生い立ちから政権獲得をし絶頂に上り詰めるまでが、下巻では権力の絶頂からその死までが描かれる。

決定版といっていいであろうヒトラーの伝記の待望の邦訳で、僕も待ち望んでいた一人であるが、さすがに上下巻合わせて本文だけで二段組1500ページに迫ろうかという大部なもので、おいそれと手を出せずにいたがようやく。白水社はこれを出してくれただけで有難いのだが、あえて言わせていただくと、とりわけ下巻は注、参考文献などを含めると千ページ越えで、持ち歩いて電車の中で読むわけにはいかないどころか、家で寝っ転がって読むことすらおぼつかないほどであったもので、できれば四分冊くらいにしてほしかった。


この長さというのはもちろん第一に、詳細な伝記であるということからくるものだが、それ以外にも理由がある。カーショーは上巻の序文において、「私は伝記という形式にはいささか批判的だった」としている。「政治外交史よりも社会史に魅力を感じており、ましてや一人の人物に焦点をあてるなどとは考えたこともなかった」。第三帝国について研究をはじめるようになって、「私が関心をひかれたのは、かの異様な時代に普通のドイツ人がとった行動や態度であって、ヒトラーやその側近のことではなかった」。

しかし「「誤った」経路」によってついにヒトラーの伝記を書くことになったのだが、これは以前の考えを改めたということではない。本書がこれほど大部になった理由の一つが、ヒトラーの伝記であるとともに、カーショーのもともとの関心であった「普通のドイツ人」の反応等にも目配りされた、19世紀後半から20世紀半ばまでのドイツの社会史的記述を積極的に取り入れているためである。

また「訳者」・監修者あとがき」に、「研究史から見れば、本書は意図派と構造派(機能派)の架橋という問題意識に立脚して書かれている」とある。「すなわち、ナチズム研究では、ヒトラー個人がはやした役割を強調する意図派と、ナチ体制が多頭支配であることを重視してヒトラーを相対的に「弱い独裁者」と見る構造派のあいだで長く見解の相違があった。ナチズム研究は、体制の権力構造とそこにおけるヒトラーの位置づけをめぐって展開してきた。カーショーは、カリスマ支配の概念を導入し、「総統のために」自ら働こうとするドイツ社会の構造に光を当てることで、ナチズム研究のこの中核的な課題に独自のアプローチで迫ろうとしている」。
こういったヒトラー個人への関心にとどまらない視野の広さも、この長さの理由である。


カーショーはヒトラーを無能な異常者とするのでもなく、また戦略に長け、すべてを計算しきっていた恐るべき能力を持っていた人間とするのでもない。ヒトラーはあくまでピースの一つであったが、ではヒトラーというピースが欠けていたとしたらナチスは権力を奪取し、長期間に渡って維持し、一時的にとはいえあれほど支配地域を広げることができたであろうか。ゲーリングやヒムラーやゲッベルスがナチ党のトップであったらと仮定してみれば、その答えは明らかだろう。


カーショーはナチスの勢力拡大や政権獲得にあたっては、反ユダヤ主義よりも反ボリシェビズムの方が効果を発揮したと見ている。カーショーが何度も強調するように、ナチスを、ヒトラーを権力から遠ざけることは十分に可能であったはずだが、この点を共有していた保守派は、保身と権威主義からくる民主主義への嫌悪感、そして何よりもヒトラーを見くびっていたことでこの男を権力の座につけてしまった。ヨーロッパの多くに広がっていた反ユダヤ主義、社会ダーウィニズムへの信奉、ボリシェビズムへの恐怖心はナチスを生み出す下地になり、とりわけドイツでは、第一次世界大戦での敗戦を受け入れられず、その結果であるベルサイユ条約によって不当な迫害を受けているという被害者意識がナチスの養分となったが、それでもヒトラーが権力の頂点に上り詰める階段へのドアは必ずしも大きく開いていたとはいえない。それをこじ開けることを可能にしたのはヒトラーその人であるが、また保守派をはじめとする勢力がそれに手を貸したのであった。


本書で繰り返されるのが、「既成事実」である。これを前にした時、人間はどれほど無力になれることか。政権発足時、ヒトラーを積極的に支持したのはせいぜい三分の一強であった。しかし権力を握ったヒトラーが強引に「安定」を作り出すと、多くの暴力が繰り広げられ、迫害の模様は目の前にあったにも関わらず、これを支持する人はむしろ増えていった。ベルサイユ条約を挑発的に打ち破ると、ヒトラーに批判的であった人々でさえ喝采を送った。多くのドイツ人が「不当に奪われた」と考える権益や領土を「回復」していくことを強く支持したが、同時に戦争に対しては忌避感も強かった。それでも既成事実を重ねていくと、戦争への懸念は広まらず、むしろヒトラーが明らかに戦争の準備に入ってもこれを直視しなかった。領土の「回復」のみならず、中・東欧に広がる民族ドイツ人が迫害されているというプロパガンダを繰り広げ、ヒトラーは触手を伸ばし続けた(侵略戦争を開始すると宣言して始められた戦争などあろうはずもなく、ヒトラーもまた正当な領土の回復やドイツ人の保護を旗印にした)。

ついに戦争が始まったが、緒戦の勝利によって戦争への懸念は一層された。反体制派が壊滅した後、ヒトラーを排除できる可能性があったのは国防軍をはじめとする体制内の不満分子だけであったが、戦局が悪化するまで暗殺の実行に踏み切れなかったのは、ドイツ国民の多くがヒトラーを支持し続けたからであった。恐るべき悪運でヒトラーは暗殺の網を逃れ続けた。破滅が目の前に突き付けられ、ついに自殺することになるが、あの状況に至ってもなお暗殺もされずに反乱も起こらなかったのは、一度積み重ねられた既成事実というものの強力さを何よりも物語っている。

言うまでもなく現在との安易なアナロジーには慎重であるべきだが、それはナチスの歴史から学ぶものがないということにはならない。一つ違えば愚かなデマゴーグで終わっていたかもしれない男が、強大な権力を手にし、それを長期間保ち、あれだけの破局を引き起こせたのはなぜなのか、この浩瀚なヒトラーの伝記から学ぶべきことは、むしろ現在のような時代であるからこそ数多くある。そして「なぜ、ドイツ人はヒトラーに心酔しえたのか、抵抗しなかったのか、最後まで付き従ったのか、という本質的な問題は(……)まだすべてが解明されたものとはみなされていない」ことの重みは、現在の日本だからこそ噛みしめるべきことでもある。


ヘレロ族の虐殺とその後

トマス・ピンチョンは『V.』、『重力の虹』の中で、1904年に起こったドイツによるヘレロ族虐殺を取り上げている。ナチスによる蛮行に先立つこと約30年、すでにドイツはある民族を絶滅させるという意図をもって大虐殺を行っていた。しかしドイツは当時激しい国際的な批判にさらされることはなかった。これがアフリカで起こったことで、被害者がアフリカ人であったためだろう。このことからわかるのは、ユダヤ人やロマ(ジプシー)、障害者、同性愛者などの大虐殺をナチスのせいにだけ帰することはできないし、またドイツ人のせいにだけすることもできないということだ。もしこの時ドイツがその行いによって国際社会から強く批判され、ジェノサイドを防ぐための国際法や条約が作られていたなら、その後の世界史は違ったものになっていたかもしれない。ピンチョンがこの虐殺に注目した理由は明らかだ。


EconomistにSalt in old wounds What Germany owes Namibiaという記事があり、ピンチョンのファンとしてもなかなか興味深かったので、その内容をざっと紹介する。

ドイツの政治家の中には罪を認め、とりわけ虐殺から100年目にあたる2004年には反省の気運も高まり、これを「ジェノサイド」だったとした政治家もいたほどだった。しかしドイツとナミビアとの間で謝罪と補償の交渉が始まると、複雑な展開を見せることになった。

ヘレロ族と、同じく虐殺・迫害の被害にあったナマ族の有力者の一部が、国を超えてジャノサイドなどの国際法違反を審理できるニューヨークのAlien Tort Statuteに、補償はヘレロ族とナマ族へ直接行うよう訴えたのだった。というのも、現在のナミビアで中心的存在となっているオヴァンボ族はこの蛮行の被害とは無縁であったためだ。ナミビアの友好的な交渉役であった人物はヘレロ族出身であったが、彼は裏切り者という批判を浴びることになった。こうした動きにナミビアの財務大臣は「部族主義が醜い首をもたげた」と非難するのであるが、彼はといえばドイツ系なのであった。

ドイツの官僚側では、補償交渉中に「G-word(ジェノサイド)」を避けようとする動きが支配的となった。ある高官は国連のジェノサイド条約が締結されたのは1948年のことで、それ以前に起こったことなのだからこれはジェノサイドにはあたらないとし、「倫理的には不満を感じる人がいるかもしれないが、法的にはそのような立場をとる」と語っていた。これに対しジェノサイドだという告発を支援するドイツ人歴史家は「たわごとだ」と憤る。「まるで弁護士のような言い草で、倫理や政治的責任について考えていないではないか」。

なおTelegraphのこちらの記事には、2016年にドイツはこれまでの方針を変え公式に「ジェノサイド」であったと認め、謝罪したとある。Economistのこの記事はどこまでが過去で、どこからが現在進行形なのか時系列がわかりづらい。


ナミビアではかつてほどではないとはいえ、依然としてドイツ系がビジネス、農業で優位な立場にある。ナミビアのドイツ系住民は、ジンバブエであったように、農場が補償という名目で没収されるのではないかと戦々恐々としているという。

ナミビアのドイツ語メディアにおいて「ジェノサイド」という表現は禁句であった。そしてナミビアのドイツ系住民の多くは、引退した農民で第二の人生として虐殺を否定する著述に手を染めるようになったある人物の意見に共鳴しているようだ。その人物によれば、ドイツ人もヘレロ族に襲われて被害に合っておりヘレロ族への殺害は一方的なものではなく、また絶滅指令はすぐにベルリンから取り消されたにもかかわらずヘレロ族の被害は実数以上に過大に見積もられており、そしてナミ族が収容所や砂漠へ追い立てられたのも意図的なものではないため、これらをジェノサイドとは呼べないというのだ。
ドイツの歴史家はこのような主張を「否認論者」によるものだと一刀両断切り捨てている。

ドイツ系住民が通うナミビアのルター派の監督は、ドイツ人に負うべき罪があることは認めるものの、「ホロコースト」と同一視されるべきではないと言い、過去を引きずりだしてこれを歴史的連関に架橋しようとする人に我々は非常にフラストレーションを感じている、とまでしている。

ある農夫は祖父のことを思い起こしている。プロイセンの男爵だった祖父は1913年にこの地にやってきて、1915年、第一次世界大戦中にイギリスに牛を没収されていた。「私もイギリスに補償を要求すべきなのかもな」とこの農夫は「冗談」を口にした、というところで記事は締めくくられている。


なるほど、確かにこの男爵は虐殺後の移住したのであって、直接手を下したわけではない。しかし彼がアフリカで農園を営むことができたのはドイツがここを植民地にしたからで、その植民地を維持するためにこの大虐殺は行われた。そして孫の世代が依然としてナミビアで特権的地位にあるのは、それだけ植民地時代の残滓が色濃いからである。こういった事実への反省的視線を一切欠き、相対化してはならない過去を相対化しようとする「冗談」が口にされるというのは、なんともグロテスクだ。植民地支配からの多大な「恩恵」を散々享受しながら、むしろ被害者意識にかられているというのは、あまりに身勝手な論理であろう。

そしてナミビアのドイツ系住民にはびこる否認論を見ると、史料の恣意的なつまみ食いという歴史修正主義者の手口はどこにおいても同じものだと嘆息してしまう。

歴史問題において日本は、とりわけ60年代以降の(西)ドイツにおける取組から学ぶべき点が多々ある。しかしまた、いたずらにドイツを理想化するのにも危ういところがあるのも事実だ。ドイツの官僚が交渉を優位に進めるために「ジェノサイド」という表現を避けようとしというのはその一端であろう。もしこれがヨーロッパの白人相手であれば同じ手法をとったのだろうかと考えると、ピンチョンがこの問題を取り上げたことの慧眼を改めて評価したくなる。

同時に「ドイツだって一皮むけばこうなのだから……」と日本に蔓延る歴史修正主義を相対化し、正当化するような動きには警戒しなければならない。むしろあのドイツですらこのような対応なのだから、日本の右派政治家や、とりわけ官僚(とりわけ外務官僚の右傾化は極めて深刻な状態にまで至っているが、主要メディアはこの問題にほぼ沈黙してしまっているためにそのことが多くの日本人には不可視化されてしまっている)が、国連をはじめとする国際社会でいかなる振る舞いに及んでいるのかを、一層注視しなければならないとすべきだろう。



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